2019年8月夏休み、フランス中部の旅、その92(ロワール)
サン・ブノワ・シュル・ロワールSaint-Benoit-sur-Loireのフルーリー修道院Abbaye-de-Fleury 、続きです。
歴史ばかり見ていると退屈してくるので、今回はポーチの柱頭を見ていきたいと思います。
まず、ポーチの概要から。
12本の柱があり、そのどれも似、堂々とした柱頭が載っけられていて、おろおろ必至の場所となります、笑。もうね、目移りしちゃって、何も考えずに撮影しちゃうから、わけが分からなくなるやつね、おなじみのやつ。
退屈だけど、一応解説をば。
「イントロダクション:
大聖堂の図像は、2 人の偉大な信仰の証人によって支配されています。ポーチの塔にいるガリア人の使徒聖マルティンと、聖域にいる修道院生活の立法者聖ベネディクトです。このように、塔の柱頭は、外側では教会とその福音宣教の働きの神秘を呼び起こし、内側では聖域の柱頭が神の家での生き方を教えています。これら 2 つの図像プログラムでは、キリストにおける救いの歴史が顕著に示されています。
これら 2 つのセットは、建物の歴史的柱頭全体を構成します。このように、彫刻と建築は相互に補完し合い、工事が始まる前から構想されていた計画を証明しています。読み取りの鍵となるのは、聖父主義の伝統に従って解釈され、ロマネスク彫刻の象徴に従って描かれた聖書です。それは私たちが建物の神学を発見することを可能にし、信仰の神秘について教育的で遊び心のある教えを提供します。
これらの歴史的な柱頭は、同じ時代の装飾写本で動物や花が物語を説明するイメージと混ざり合っているのと同じように、この教えをかき回し、飾り、強調する機能を持つ、豊富な植物や動物の彫刻の一部です。」
ポーチの中央部に、上述の点から、最も注目すべき二つの柱頭があります。その一つがこちら。
サン・マルタンの柱頭です。図では、37の位置なので、本堂への入り口近くとなります。
「ローマ軍団員であり、まだ教育実習生だったマルティンは、ある非常に厳しい冬の日、駐屯地にいたアミアンで、助けを乞う貧しい男に出会った。すぐに、彼は自分が持っていた唯一の衣類である短いマントを彼に分け与えました。
次の夜、主が彼に現れました。その哀れな男は他ならぬイエスご自身でした。その後、マルティンはリグージュで隠者となり、その後トゥールの司教に選出され、ガリアの偉大な伝道者となりました。」
「左側には、彫刻家が貧しい男にクラミスを分け与える場面を表現しています。
中央のマルティンは、トゥールのグレゴリウスが報告したケルン司教聖セヴェランの幻視によると、死の際に天使たちによって栄光のマンドルラの中で天に上げられる。天使たちは悪魔のような人物を足の下で押しつぶします。マーティンが着ている典礼衣装は、彼の司教職を思い出させます。」
「右側では、ドラゴンが繁栄した天使の足元で地面の塵をなめています。これは、ガリアの使徒の祈りと説教を前にして異教と邪悪な力が無力であることを示しています。」
押しつぶしている様子を、クローズアップしてみました、笑。いwれなけりゃ、ちょっと分かりませんよねぇ。いや、言われても分からないな。本当にこれかな。
考えたら、仏教でも、鬼が押しつぶされてたりしますよね。押しつぶすっていうか踏みにじるみたいのって、悪をやっつける象徴的行為ということなんですね、きっと。正義が上に立つとかそういうシンボリックなことなのかしら。
サン・マルタンの向かい39にあるのが、エジプトへの逃避の場面です。
幼子が、やけに馬面だなぁ、笑。
「マギたちがベツレヘムを訪れた後、主の天使が夢の中でヨセフに現れて告げました。”起きなさい。子供と母親を連れてエジプトへ逃亡するのです。私が警告するまでそこにいてください。ヘロデが自分を殺す子供を探すつもりだからです”。ジョセフは立ち上がった。 その夜、彼は子供と母親を連れてエジプトに撤退し、ヘロデが死ぬまでエジプトに留まりました。
実際、中央にはエジプトへ向かう山上のマリアと子供が見えます。
ジョセフは渦巻きの下で手綱をつかんで動物を導き、もう片方の手でヤシの葉を高く掲げます。」
「一番右では、王の笏を肩に担ぎ、剣を振り上げたヘロデが、子供の死を命じています。
したがって、福音派の場面ではすべてが表現されていますが、それでも奇妙なものだけです
伝説のロバの代わりに立派な馬が登場しています。
マリアは、逃走中で苦しみながらも、王座に座るかのように、直立して威厳を持って玉座に座っています。
彼の足はスツールの上に置かれており、これも主権の象徴ですが、これは乗馬の間固定されています。
その子は、天上の後光、伸ばした右手、もう片方の手の地球儀、状況に見合わない豪華な衣服など、天界の王族のあらゆる外見を備えています。彼は立って、父親(構図の上部)に手を伸ばしており、母親の膝の上には座っていません。
伸ばした右手で彼は東を指し、馬は西に向かっています。
ジョセフは逃走中に勝利の象徴であるヤシの木を立てます。
柱頭の端に追いやられたヘロデの犯罪的な王権は悲惨に見えます。」
「左側では、聖ミカエルが馬のお尻に肘をつき、柱に固定されたキリストの十字架を両手で怪物の口に突き刺してドラゴンを倒しています。十字架の根元は炎、つまり天の火の形をしています。それは滅びの言葉の剣です。」
この柱頭に関しては、背景にある意図が、大変細かく解説されていて、なかなか面白いのですが、それは美術ではなくて宗教的な内容となるので、ここでは割愛します。しかしそういったものを読むと、なるほど、聖書というのは奥深いものなのだろうなぁとしみじみと感じさせられます。
今は、図像の内容を理解するために、斜め読みするだけの聖書ではありますが、いつかじっくり読んでみたいものだとは思うのですよ。いつか…。
ここでは、解説の中から、神の手の部分だけ、あげておきます。現場ではなかなかそんな細かいところまで見ることはできないですからねぇ。
「右上の神の手 - 3 本の指が伸び、他の 2 本の指が折りたたまれている - は、天と地の創造者である神の最も一般的な表現です。
誰も彼を見たことがないですが、手が形を作り命令するので、彼は手によって表されます。
同様に、中央では、マリアの腕に抱かれた子供が父の手を平行に伸ばしています。この対称性は、最初の創造と、キリストによって達成された堕落した人類の再創造との関係を思い出させます。」
ちなみに馬面の幼子については、ちゃんと解説がありました、笑。
「彼は子供の大きさを持っていますが、大人の顔をしています。彼はすでに祝福のキリストです。」
とまぁ、柱頭一個でも、すごいボリュームの解説があったりして、これでは先へ進めませんので、あとはさらりと行きましょう。
「中央部は恵みと神の加護の側面です。
30に置かれた、共有された魂。
塔の外側の右側では、天使と悪魔が小さな人物を腕に抱えています。彼は天使に左腕を委ね、天使は頭に手を置いて彼の保護を示します。 反対側では、曲がった右腕は悪魔の誘惑に抵抗していることを示しています。
厳粛な顔を持つ天使の美しさは天上の完璧さを呼び起こしますが、悪魔の裸体、荒々しい外観、羽や炎で覆われた顔と腰は、堕落した生き物としての彼の状態を強調しています。中世の彫刻家は、人間の魂を小さな子供の形で表現することがよくありました。したがって、私たちはここに霊的な戦い、つまり天使によって表される善と悪魔によって表される悪とに分かれた魂の完璧な例証を持っているように思えます。」
「内側の左側では同じシーンが繰り返されますが、戦いの結果がわかります。魂は神の天使の方を向き、意図的に良いものを選びます。左腕だけが悪魔の手に残っており、この世界では霊的な戦いが絶えないことを示しています。」
子供が出てくると、幼児虐殺しか思い浮かばない私は、この、「魂を子供で表す」という技術を覚えておくとよさそうに思いました。なるほどね。
北側の柱頭は、「塔の中心がイエス・キリストにおける救いとそこへのアクセスを与える善行を呼び起こすとすれば、周縁部は逆に世界との妥協、さらには悪との妥協を表します。このようにして、建物の北側、つまり寒さ、暗闇、サタンの北側で、ケルト風の柱頭に象徴的に表されたプライド、貪欲、怒り、嘘、そして西側、判断、占星術、占い、仕立て屋、怠惰、曲芸師などによってあらわされる。」
首がぐるぐるしているのは、魅惑的な蛇(嘘)と怒り。右端尾角には、貪欲を表す守銭奴。
誇らしげなスピーチ。えらそうな、とかそういうことかな?
サン・マルタンのある同じ柱頭の別の面にある、別の図像。
「明らかに子羊の結婚式を表しています。
このシーンは、その完璧な対称性が印象的です。高域と中央で、重層的に、ペアが絡み合っています。花嫁は王冠をかぶり、花婿はひげを生やし、短い髪をしています。上では、アカンサスの 7 枚の葉のうちの 1 枚が二人の愛を証明しています。新郎新婦の横を他の2組のカップルが取り囲んでいます。腕を組んで踊っているようです。彼らは結婚式のゲストであり、小羊の証人です。これらの輝かしい結婚式は、最終的に食事、婚宴、つまり聖体を示唆しており、向かい合った鳥の柱頭で象徴的に表現されています。「小羊の婚礼の晩餐」は、神とその民との間の古くて新しい永遠の契約を最終的に完全に実現するものです。ダンスは救われる喜び、この繁栄に参加する喜びを表現します。」
「低域では、角のある人物の周りで 4 頭のライオンが 2 つの対向するグループに分かれています。両腕を広げ、右手に短剣を持ち、左手でライオンの前足を掴んでいます。その光景は、襲いかかる邪悪な動物と格闘する殺人犯の男を彷彿とさせる。」
「したがって、この構図は、キリストとその教会が愛によって達成され、実現された勝利によって高音域で支配される悪の勢力を象徴的に呼び起こすことになります。」
自分の撮影した写真と、解説を読み込んでまとめてみましたが、ちょっとこれ以上は無理なんで、ポーチはこの辺で。ここは、有名なだけあって、訪ねる価値大ですし、ロマネスクやっている人は、行くに決まっていますので、どうぞ行って、実際に見てくださいね。現場では、なかなか冷静に一つ一つを丹念に見たり撮影したり、なんてことができにくいほどの迫力だって、きっと分かります。
後ね、覚えてないけど、解説も色々あったと思うんです。もっと、写真掲載も多くて、柱頭の説明に特化した本を買えばよかった、とか後悔も…。かなり吟味して選んだと思うんですけれど、歴史とか、図像の細かい話が多すぎて、読むのが苦しいです。でも、すごく面白そうな話が載っているので、読まずには…。辛い…、笑。家でも修行かよって。語学も勉強も苦手なのにねぇ…。
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2023/11/21(火) 22:19:23 |
サントル・ロマネスク 18-36-37-41-45
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2019年8月夏休み、フランス中部の旅、その91(ロワール)
いよいよ、この地域の真打登場です、笑。とか言って、サン・ブノワがサン・ベネデット(サン・ベネディクト)であることを知ったばかりのわたくしは、苦笑いな気持ちも大いにあるんですけどね。
サン・ブノワ・シュル・ロワールSaint-Benoit-sur-Loireのフルーリー修道院Abbaye-de-Fleuryです( 毎日6時から22時)。
前回のGermignyから小雨が続いていて、確かここに着いた時は、傘をささざるを得ないほどの結構な降りになっていて、夏だというのにブルブル震えるほど寒かった記憶があります。その上、到着したと同時にミサが始まってしまいました…。
余談ですが、ミサが始まった時、中にいたわけですが、すっごくおしゃべりがうるさいおばちゃんがいたんですよ、そういえば。あまりにうるさいので注意しようとしたら、カメラを持っている私に向かって、「ミサなんだから写真撮るな」みたいなことを、そのおばちゃんに先にされちまったです。かなりむっとしつつ、正論ではあったので、きまりが悪くて、とりあえず外に出ましたとさ。あんたのおしゃべりの方が、よほど周りには迷惑だったけどね、と思いながらもね。
毎度驚くけど、そういうどうでもいいことは、結構記憶に残るもんですよねぇ。
外に出たものの、雨が激しくなってきたからナルテックスの柱頭見学も辛く、併設のショップに入り、ミサの時間を尋ねると半時間はかかると。うろうろして20分くらいたった時点で、待ちきれずに本堂をのぞいたら、すでに教会はもぬけの殻でした。ミサ、短かっ!
備忘として書いておくけど、ここは観光地化してます。ショップで本を買ったんですが、20ユーロって安くはない本なのに、袋代50セントしっかり取られて、ちょっとがっかりしたり。
いや、レジ袋有料、いいんですよ。その時に限って、エコバックを持ってなかった自分が悪いし、激しい雨が悪いんだけど、でもなんか接客にも判然とせず、納得しがたい雰囲気っていうか。ま、いつものおフランス全開、ということにすぎないっちゃ過ぎないのですけども。
当時は、宗教的な重要度とか分かってなくて、ただ、美術史的な重要度だけだったから、なんでそれほど観光地化しているのか、まったく分かってなかったんですよねぇ。ベネデットの遺構があれば、そりゃ巡礼地だよねぇ。黙ってても来るし、ショップの売り上げもホクホク状態なんでしょうよね。
とか何とか、どうでもいい前振りが相変わらず長くてすいませんが、こうやって記憶を紐解いていく、みたいな部分もあるし、あくまで備忘だしね、自分ファースト、笑。
それに、そのショップで買った本を読むのに、すごく時間がかかっちゃって、なかなか先に進めないという事情もあります。
大きな建築です。最も特筆すべきは、トップの写真でも見えますが、西側のファサード前に突き出した、塔と一体化したポーチですよね。すでに、その部分だけで、独立した建物みたいになっていて、本来のロマネスク様式的な美しさとは別物になっています。一段ならともかく、二段構えだもんね、ファサードになっちゃってますね。
上の平面図、色分けがちょっと分かりにくいですが、そのポーチは、左端の黒い部分で、11世紀前半となっています。そして、本堂の大きな部分は12世紀。
ということで、まずは教会の由来や、建築の歴史などを、せっかく読んでみたので、かいつまんでいきます。
「サント・マリー・ド・フルーリー大聖堂についての最初の言及は、レオデボーデの『遺言』として知られる文書にあります。これらは故人の最終的な処分ではなく、単なる寄付行為です。レオデボーデは 7 世紀の裕福な人物で、サン=テニャン ドルレアンの修道院長であり、その『遺言』には、オルレアンの3 つの大聖堂に寄付したことが明記されています。 うち2 つは Fleury の教会です。」
「サン=テニャン・ドルレアン教会は、オルレアン教会の守護者である聖司教の墓がある教会です。ドムニ・ペトリ大聖堂は、レオデボーデが”聖ペテロに敬意を表してフルーリーに建設することを決めた”修道院の教会です。ドムナエ・マリアエ大聖堂は、現在もフルーリーにある別の大聖堂です。この文書によると、サント・マリー大聖堂は再建されたばかりであるため、私たちが知らない、これより前の時代があったことが注目されますが、洪水の可能性のある谷の真ん中の小さな丘の上に位置していることを考えると、おそらく、それは既存の異教の聖域に取って代わることを目的とした教会であったと思われます。
したがって、サン ピエール大聖堂とサント マリー大聖堂の 2 つの大聖堂は、どちらもフルーリーにあります。ロワール川の洪水の際に沈まなかった塚の南東と北西に 2 つの教会が建てられ、その上に現在の修道院が建てられたとしか考えられないようです。サン・ピエトロ大聖堂の痕跡は今日では残っていませんが、17世紀の古い図面により、現在溝になっている部分に隣接する小さな梅園の敷地に特定できています。サント マリー大聖堂に関しては、現在の大聖堂のトランセプトの位置にあり、1959 年の発掘中に、元の舗装の痕跡が未使用の砂の上に直接発見されました。」
かなり細かい記述も多く、なるべく端折っていますが、これらは7世紀のお話となります。
今回、サン・ブノワ=サン・ベネディクトを認識したこと、今更かよ、と思われそうですけど、私にとっては非常に重要な認識でして、本をきちんと読んでみた甲斐があったというものです。
そういえば、国境を超えることがはばかられたコロナの間、夏休みは南イタリアを攻めており、サン・ベネデットの本拠地の近くを通ったのですが、ロマネスク的に見るべきものはほとんどないということで、立ち寄りはしなかったんですよね。でも、まさかこんなところで、ご本人の一部にお目にかかるってね、びっくり。
「聖ベネディクトの聖遺物の到着-伝説によれば、モンテ・カッシーノの廃墟に遺棄されたいたという聖ベネディクトの遺物を捜索するために、修道士のグループを派遣したのは修道院長マンモルス(632-663)の主導によるものとされています。最も可能性の高い説によれば、移送は 660 年ごろとすることが出来るようです。」
「フルーリーに到着すると、聖ベネディクトの遺物は 2 つの教会のうち、より重要なサン ピエトロ大聖堂に安置されました。『Historia Translationis』によれば、マンモルスは、ある幻に従って彼らを聖マリア大聖堂に移送することを決め、幻に示されたまさにその場所で、できる限り最善を尽くして大聖堂を装飾することに細心の注意を払ったとされています。」
「その際、聖堂は、拡張された様子があります。1958 年から 1959 年の発掘調査により、7 世紀以降、重要人物がサント マリー大聖堂に埋葬されていたことが明らかになりました。現在の聖域の下で 24 個の石棺が発見され、そのうちの 1 個はメロヴィング朝時代のものと考えられます(VI終わりからVIII世紀)。ただし、その正確な場所を特定することはできませんでした。」
「聖遺物の到着から約一世紀後(749-750)、ピピン王の弟カルロマンが修道士となっていたカッシーノの修道士らによる、聖ベネディクトの遺物の返還を求める試みがありました。」ということですが、奇跡が起こって、遺物は聖マリア聖堂に残されたようです。
「9 世紀以降、聖遺物のあるサント マリー大聖堂はサン ピエール大聖堂を上回り、修道院の修道院教会となりました。しかしながら、構造は、サン・ブノワ・シュル・ロワールの田園地帯で今でも見ることができるような、簡素な木骨造りの建物であり、7月11日に起きた火災の記述から判断すると、おそらく茅葺で覆われていると考えられるのです。」
「カロリング時代には、ノルマン人の侵略によって大きな被害を受けました。それは、3回ほど連続し、ノルマン人は修道院を略奪し、火を放ちました。865年の大侵攻の際、修道士たちは遺物を持って逃亡し、田舎をさまよい、その後オルレアンに避難し、数年後まで戻らなかったとか。彼らが帰還すると、唯一残っていたのは寮の建物だけだったようです。しかし、多額の寄付をえるなどして、比較的早くに再建がなされました。」
「9世紀終わりごろに、再びノルマン人に略奪されたものの、その後一年ほどで、聖マリア聖堂は再建され、その工事中、聖ベネディクトの遺体はサンピエール大聖堂に安置され、聖堂が完成次第、聖人の遺体はサント・マリー大聖堂内の彼の霊廟に安置されました。」
「一時オルレアンに保管されていた遺物は、最終的にフルーリーに返還されたのですが、その際、オルレアンの修道士たちは、本心は聖遺物を手放したくなかったはずで、そのため、聖ベネディクト自身の仲裁に頼ることが決定されました。したがって、遺物は結ばれていないボートに乗せられ、どの方向に進むべきかの決定は聖人に委ねられました。船はサン・ブノワ・シュル・ロワールまで遡行し、その途中、聖人が通過するにつれて真冬の果樹が花を咲かせたのです。12月4日、サン・ブノワ・シュル・ロワールに聖遺物が到着した日が、聖ブノワの日として、祝われることとなりました。」
どうやら、田舎の簡易な建造物であったために、10世紀ごろまでには、何度も火災に見舞われていたようです。そして略奪。聖遺物の他に、略奪するだけの資産を持っていたのでしょうかね?修道院として、それなりの豊かさを築いていたんでしょうかね。
現在ある姿のおおもとを作ったのは、1004-1030の修道院長ガウズリンGauzlinさん。1005年に起こった火災で、修道院全体が消失したものの、嵐により鎮火し、聖マリア聖堂は消失を免れました。
そこから、ガウズリンによる再建が精力的に始まったようです。
「彼は、ニヴェルネから船で運んだ切り石を使って、修道院の西に塔を建てることに決めました...ガリア全土の模範となるような作品でした。この一辺 17 メートルの大きな四角い山塊は、各辺に 3 つの大きな扉があり、教会への入り口としてではなく、修道院自体の輝かしい信号として立つことを意図していました。13 世紀初頭になって初めて、東面を変えるという犠牲を払って、新しい身廊が結合され、その身廊がポーチになりました。ガウズリン自身は、1020 年頃に始まったこの美しい建築を完成させることができませんでした。1026 年にひどい火災によって修道院の囲い全体が焼失し、再建する必要があったからです。
「彼はイタリアから持ってきた非常に美しい大理石の装飾で修道士の内陣を飾りました。このセクティーレ・オプスの大理石舗装の痕跡は、1957 年の発掘中に 11 世紀の教会の床で発見されました。現在の大聖堂の建設者は、1108 年に奉献された祭壇の周囲に新しい建物を再建し、今日でもその姿を鑑賞することができます。」
その他、内部のアイテムも含めて、装飾的な工事も多く実施して、教会を飾り立てていったようです。でも、火災はやはり度々起こったようで、ガウズリンさんって、焼失、再建の繰り返し人生だった様子です。でも、毎度再建ができるということは、強力なスポンサーなしではありえないし、そこにはベネデットの御威光がやはり大きかったのであろうと想像します。
せっかく読んだから、ちょっと書いておきたかったけれども、ちょっと退屈な記事になっちゃいましたね。
続きます。写真も大量にありますから、お楽しみに。
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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術
2023/11/19(日) 12:45:43 |
サントル・ロマネスク 18-36-37-41-45
| コメント:1
2019年8月夏休み、フランス中部の旅、その90(ロワール)
地味続きの後、キターーーーーーってヤツです、笑。
ジェルミニー・デ・プレGermigny-des-Presの王宮礼拝堂Ancienne Chapelle Palatine です(9時半から18時、カフェ、トイレあり)。
あ、外観の見た目は、超地味ですけどね、ここ、知らずに行くと、かなりたまげるお宝があるんです。お宝は有名だから、もちろん事前に知っていたけど、それでも、想像の上を行くレベルなんで、やっぱりびっくりしました。
入場しますと、こんな感じ。
例によって、白くて新しさプンプンで、冷静にふーん、なんだよ、これかよ、とか思うんですが、奥の方になんか見えるじゃないですか。
あれ?もしかして、あれ?
と確信なく近づくじゃないですか。
そしたらさ。
これですもん。どひゃぁ、となりますわ。
現地にあった解説をざっくり読みますと、以下のようになっていました。
「ロワール川近く、黄金の谷に、この礼拝堂は、立っている。
806年、オルレアンの司教かつサン・ブノワ修道院長、さらにカール大帝の個人的なコンサルタントを務めていたテオドルフが、この地に住まいを建てたが、現在では、その礼拝堂だけが残っているのだ。
テオドルフは、当時では大変自由なマインドを持つ人間であった。博学な詩人であり、芸術を愛した。そして、当時開かれていたすべての知識に対して興味を持った。そういったことにより、皇帝の最も重要なスタッフの一人となったのだろうが、最後は、寵愛を失い、820年、牢獄で死亡する。」
おお、ロマンを掻き立てられる解説です。
と、それは置いといても、押さえるべき事実は、これが、カロリング時代の遺構というところなんですね。そして、フランスでは唯一とされるモザイクであるということなんです。
例によって、せっかく読んだので、解説をずらずらと行ってみます。
「互いに 5 キロメートル未満の距離に 2 つの教会、Saint-Benoit-sur-Loireと、Germigny-des-Presのカロリング時代の礼拝堂があり、ロワール流域の最も美しい地域の価値を高めることに貢献しています。
このつながりは地理的なものだけではなく、建物の強い象徴的な関係は偶然の結果ではありません。歴史的かつ精神的な絆が彼らを結びつけます。彼らは両方とも、西洋修道士の父サン・ブノワの学校で「神のより大きな栄光」を求めるという人々がなした選択によって生まれました。」
まずここで、不勉強ながら、サン・ブノワSaint-Benoitがサン・ベネディクトであるという事実を初めて認識したという情けなさを露呈いたしましたよ。前にも、サンテティエンヌ=サント・ステファノとか、そういう変換やめて…、とフランス語には翻弄されまくりなんですけども、分かりにくいですよねぇ。
今回は久しぶりに中世辞典が大活躍。
個別にネットで検索するよりも、全体のつながりをなんとなくつかもうとする際は、やはり辞典って便利ですよ。という発想が、アナログ世代なんでしょうけれども。
聖ベネデットは、イタリアはのるちゃ出身の、西洋修道院界の大立役者ですが、その生きた時代は480年から560年ごろとされています。今更調べて、オッと思いますが、長生きをされた方なのですね。長生きしたからこそ、時代の立役者となった部分もあるかもしれないですよねぇ。
そして、カロリング・ルネッサンスと言われる時代を築いたカール大帝、シャルルマーニュは、742年から814年ごろに生きたフランクの王様ですね。
その宮廷で活躍したテオドルフは、750/760年から821年ごろに生きた方とされているようです。
キリスト教が公認されて、かなり早い時期にベネデットさんがその派を確立されて、そして、その後、ローマを凌駕したロンゴバルドや、このカロリングが、競ってキリスト教を採用したことで、キリスト教が破竹の勢いで西洋社会に浸透していったという時代のことなのですよねぇ。
ここでは、そういった歴史の横糸みたいなものを、強く感じます。
では、解説です。
「オルレアン司教テオドルフは修道士であり、フルーリー修道院(現在のサン・ブノワ・シュル・ロワール)の修道院長でもありました。彼はキリスト教の神秘を理解し、ジェルミニーに建てた礼拝堂に足跡を残しました。彼は専門家の意見を参考にしてこのビジョンを著書の中で発展させましたが、Germignyではそれが「開かれたモザイク」で誰でも読めるようになりました。」
「ジェルミニーの小さな教会がロワレ県で最も訪問者の多いモニュメントの 1 つであるとすれば、それは確かにその初期の部分の建築にもよるものですが、何よりもこの教会を有名にしたのはそのモザイクです。
このモザイクはいくつかの理由で有名です。実際、このモザイクは、その時代、その主題、その謎によってユニークです。
ジェルミニー・デ・プレは、フランスでカロリング朝時代の唯一のモザイクがあることを誇りに思っており、その時代は、ほぼ間違いなく806 年です。アーヘンのカール大帝シャルルマーニュの宮殿も美しいモザイクで飾られていましたが、どれも現存していません。」
ここでまた、うっとりとロマンを感じます。
ドイツのロマネスクは、興味を持てないスタイルなので、ほとんど訪ねたことはないのですが、カロリングの遺構というものはそれなりにあるのでしょうね。ただ、モザイクがあったという事実は、想像もしていませんでした。
「ジェルミニー・デ・プレのモザイクが保存されたのは、技術的によく作られており、フルーリーの修道士によってよく維持されていたからに違いありません。
しかし、モザイクを内蔵する教会そのものと同様に、モザイクも、私たちには詳しく伝わっていない激動の歴史を持っています。しかし、その古さはモザイク自体の碑文と、その発注者の名前が現れる場所によって証明されています。オルレアン司教であるテオドルフ、カール大帝の友人で偉大な知識人です。
この碑文はモザイクの基部のフリーズに見られ、青色の背景に銀色の文字でトレースされた2行に配置された4つのラテン語の詩で構成されています。
(ラテン語を翻訳すると)ケルビムを備えたこの至聖所を見て熟考し、ここに神の契約の箱を見てください。この光景に直面して、あなたの祈りで雷鳴の主に触れてみてください。そしてぜひ、テオドルフをあなたの祈りと結び付けてください。」
「テオドルフはオルレアンの司教であるだけでなく、有名なベネディクト派修道院であるフルーリー(現在のサン・ブノワ・シュル・ロワール)の修道院長でもありました。彼はそこから数キロ離れたジェルミニー・デ・プレにある、この修道院に隣接する別荘を司教の住居として選びました。テオドルフが自分の宮殿に併設され、祈りと瞑想を目的とした小さな個人的な礼拝堂を建設することを決めたのもそこでした。したがって、元々は公の礼拝の場ではありませんでした。
この礼拝堂の内部は美しいモザイクで飾られていましたが、残念ながら現在は 1 つだけが残っていますが、最も権威のあるものは、主後陣の端、祭壇の上に立っています。」
「テオドゥルフスの礼拝堂全体がモザイクで覆われていたのか、それともこの装飾が内陣に限定されていたのか、正確には分からないのが残念です。
今日、私たちは内陣のブラインドアーケードにモザイクの痕跡をまだ見ることができ、研究者リッシュは教会の修復中に他の2つの不完全なモザイクを発見しました。1 つは後陣 (勝利のアーチ) に先行する丸天井にあり、(ソロモン神殿のように) 2 つの翼を持つケルビムの下部を表し、もう 1 つは東の壁、後陣の入り口上部の窓の周囲にあり、植物の装飾を表します。しかし、残念ながらこれらのモザイクは保存されていません。これらの証拠によれば、ロゼット、ヤシの木、パルメットなどの花や植物をモチーフにした、東洋とイスラム風の豪華な装飾が施されていることがわかります。
これらの要素を考慮すると、礼拝堂の装飾のテーマは天上のエルサレム、楽園の庭園、または理想的な神殿を表すものであっただろうと、しばしば議論されてきました。」
「モザイクは、メイン(東)後陣の四隅、祭壇の上の一等地に置かれています。これは重要なモザイクで、9 平方メートル以上の面積に 130,000 個のテッセラが配置されています。ガラスペースト(6mm2から1cm2)またはさまざまな色のエナメル(スマルト)で作られた小さな立方体。緑、赤、青、白、黒、深緑、グレー、金、銀…。
私たちは金色の背景を持つ豊かなモザイクの存在にいます。ガラスペーストのテッセラは金箔で覆われており、それ自体が透明なエナメルで保護されています。奥行きや傾きを不規則に配置することで、照明効果を生み出しています。」
「ジェルミニー・デ・プレのモザイクはしばしばビザンチンのモザイクと比較され、まずラヴェンナのモザイクと比較されます。その理由は、それらが金色の背景の先駆者であり、テッセラに使用されるガラスペーストがボトルと同じ緑色であるためです。
しかし、R.ルイによれば、ジェルミニーのモザイクは技術的にはラヴェンナのものに似ておらず、むしろ赤い陶器の破片とロワールの小石(白と灰色のもの)、大きな断片の真珠貝(opus sectile)を使用することでロマネスク時代のものであるとしています。したがって、一部の人が言っているように、ジェルミニーのテッセラがカール大帝の宮殿の建設現場でテオドルフによってアーヘンに持ち帰られた、あるいは盗まれたという考えを私たちは否定しなければなりません。
後者は実際に宮殿を建設するためにラヴェンナから資材を持ち込んでおり、教皇は彼の州に宮殿を再建するための軍事作戦に感謝してこれらの特権を彼に与えました。
モザイクの材料は地元産である可能性が高いですが (これは修道院長とルネ・ルイの意見です)、モザイクの制作を担当した芸術家は不明です。
ただし、外国出身であることは認められており、聖像破壊者の迫害から逃れてきたビザンチン難民、あるいはローマから来たイタリア人のモザイク画家である可能性が高いとされています。彼はモザイク技術を習得していない地元の職人のチームを編成し、側面図の歪みを説明する曲率が大きすぎる表面で作業する必要がありました。」
「モザイクのメインシーンでは、4人の天使が契約の箱を指差している様子が描かれています。二人の大きな天使の間で、星空から手が出てきて、同じく箱を指しています。この場面はまったく異例であり、教会のメインの後陣にある契約の箱のこのテーマは他には見当たりません。通常、この特権的な場所では、私たちは物体ではなく、キリスト、福音書家、または聖母マリアなどの人物を見つけます。
この選択の理由は、モザイクの発注者の希望の一部であったと、長い間知られていました。
実際、テオドゥルフは、信者が偶像崇拝に陥ることを恐れて、教会で人間の像を表現することに反対しており、偶像恐怖症でした。
しかし、この説明は、この構図の深くて壮大な意味を解読するには十分ではなく、このモザイクについて、すでに多くの解釈がしるされてきたなら、残念ながら、部分的には研究者から逃れて来たこととなります。」
「カロリング書からの新しい読み込み
今日、二人のアメリカ人, Ann FreemanとPaul Meyvaertが、モザイクの象徴性について、新しく、適切で、より完成度の高い解釈を提供しています。
この二人の研究者がモザイクを直接研究することによって解読の鍵を見つけたのではありませんが、アン・フリーマンはカロリング書に取り組んでおり、すでに 1957 年に(ハーバード大学の博士論文で)テオドルフが、カール大帝の依頼で書かれたカロリング書の唯一の著者であることを見事に証明していました。1998 年に『Opus Caroli regis contra synodum』というタイトルで新しい批評版を出版することにより、フリーマンとメイヴァルトは、そこにジェルミニーのモザイクのすべての要素とその象徴的な説明が見出されることを認識しました。
カロリング書は、ビザンチン世界のイメージをめぐる争いの文脈に直接当てはまります。 これは、ユダヤ人の結婚を承認したばかりのニケア公会議(787年)に対するカール大帝の返答です(後光には十字架の痕跡がない)。二人の天使の翼が触れ合うという事実は、旧約聖書と新約聖書の間の一致と連続性を示しています。終末には、ユダヤ人とチェレチア人はキリストにおいて団結して救われるでしょう。」
カロリング書、というのも、初めて出会ったのですが、これまた中世辞典で素早く調べてみました。
それによれば、「カール大帝の宮廷の文学や理論について、まとめられた書で、おそらくテオドルフによるもの。ニケア公会議で採用された決議に反する立場が取られている」等々と解説されており、どうやら偶像崇拝が当時の大きな議論であった様子がうかがえます。
「契約の箱は、シナイ山でヤハウェが命じた律法の表を保管するためにモーセによって建てられたアカシア材の箱で、さらに、アロンの杖(力の笏と霊的強さを象徴する)とマナ(奇跡の食物、聖書によれば、砂漠でヘブライ人を養うために天から落ちた)も保管していた。
ジェルミニーのモザイクに描かれた契約の箱の表現は、デザインと比率の点で聖書のテキストに忠実に従っており、特にそれを運ぶための担架が見られます。出エジプトの際、選ばれた民の先頭に立って歩く祭司たちによって運ばれました(砂漠の中、ヨルダン川の渡河中、エリコ攻撃中…)。したがって、このチェストは旧約聖書の第一契約を思い出させますが、テオドルフにとって、それはここではキリストの予形であり(カロリング書1.15)、それは私たちの「主であり救い主」を表しています。その元の内容もキリストを告げています。アロン(モーセの兄弟)の花の咲く杖は、主が王であり祭司であることを意味し、律法の表は2つの聖書とマナ、聖体を表しています。この角度から見ると、旧約聖書のイメージである箱舟は、新約聖書がもたらすものを予感させます。」
「箱舟とその周囲を表すモザイクの一部は大幅に修復されました。元々、アーチは正方形とハートで装飾されていましたが、修復中にほとんど消えてしまいました。また、元のデザインは何だったのか、私たちは長い間疑問に思っていました。メイヴァルトは、箱舟は空であると考えており、それはクレティンの最初の調査によって確認されています。なぜ空なのでしょうか?ここでもカロリング書が答えを提供してくれます。テオドルフは、契約の箱は人間が作った物とは異なるという事実を常に強調しています。それは、契約の箱が神の明示的な命令に基づいてモーセによって建てられたものであり、過去の記念としてではなく、来るべき神秘の神聖な予兆としてであったからです。中身のない箱舟を提示することは、神の介入を強調しているように見えます。その内容(特にマナ)に象徴される「未来の謎」が現実となったのだ。テオドルフは空の箱舟を差し出すことで、約束が守られたことを示しました。」
「周囲の自然要素を特定します。そこには宇宙の象徴が見られ、金色の背景(海の砂)は地上の世界と昼を、星空は天上の世界と夜を表しています。これは、「増えて増えよ」という聖書のメッセージをもたらす可能性があります。「あなたの子らは岸辺の砂粒のように、また空の星のように多くなるでしょう」(創世記15章)。創世記によれば、手が現れる虹は同盟のしるしであり、創造主である主と全人類との普遍的な恵みのしるしです。モザイクの上端には、三博士の星と同じように 8 本の枝を持つ 12 個の八角形の星が使徒を象徴的に表しています。」
「これまで、契約の箱が何の上に置かれているかを正確に特定できた人は誰もいませんでした。私たちは山のこと、雲のことを話していました。1916 年のポール・クレメンと 1954 年のアンドレ・グラバールは液体元素について話しました。 水、川、小川。空を金色の背景から区切る濃い青の線については、1943 年のデル メディコ閣下は、「曲がりくねった帯は…風景のシルエットを表しています。私たちは右側に、一連の山並みのシルエットが認識できると信じています」と述べています。1998年、アンヌ・オレンジ・ポワプレ:「青い空間の輪郭は後陣の曲率に従っている。これは、アーチの両側に 3 つの小さなウェーブレットからなる 2 つのグループを形成する濃い青色の帯でマークされています。」
といった内容となります。
描かれたテーマについては、宗教的解釈となり、私はあまり踏み込みたくない領域ですが、一応読んでみました、というところです。
いずれにしても、天使もかわいらしいし、修復がされたとはいえ、保存状態は良好で、他の部分にもモザイクがあった可能性が高いので、それらが失われてしまったことは残念ですけれど、よくぞこれだけでも残りました、という遺構ですよね。
建物や建物付属アイテムについては、オリジナルもあるのでしょうが、全体に修復やお掃除が行き届きすぎて、ちょっと本来の味が失われている感があります。
勿論、それで教会の魅力がなくなるものではございませんが、なんとなく、味がねぇ。
カロリング時代の礼拝堂は、現在の内陣部分だけという様子で、本堂になっている部分は、後代の付け足しではないかと想像します。いずれにしても、ここを訪ねたら、集中すべきはモザイクとなりますので、記事でもモザイクだけを見ることとしました。
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2023/11/12(日) 15:58:46 |
サントル・ロマネスク 18-36-37-41-45
| コメント:1
2019年8月夏休み、フランス中部の旅、その89(ロワール)
次は、通り道だし、と立ち寄った小さな村です。
シャトーヌフ・シュル・ロワールChateauneuf-sur-Loireのノートル・ダム・ド・エピノワ礼拝堂Chapelle Notre-Dame-de-l'Epinoyです。 ごめんなさいね、でもね、間違いでした。
「ごめんなさい」は、礼拝堂に行ってます、笑。礼拝堂が悪いわけじゃないしさ、私が勝手に行っといて、間違いとか言っちゃってるしさ、笑。
通り道だからって、いちいち立ち寄っていたら、やはり時間は使うわけなんですよね。ここだって、礼拝堂の割には、そして事前に住所とかも控えてなかった割には、すぐに場所は特定できたんですけど、駐車場探して駐車して、ちょっと歩いてアクセスして、なんてやってたら、どうしたって30分とかかかっちゃうんですよね。そういうことは分かっていて、最近、例えば夏休みの修行旅でも、心を鬼にして、行こうと決めた教会だけを突っ走ったんですよね。途中で、ロマネスクの教会とか看板出てると、思わず寄り道したくなる気持ちを抑えて。結局そうやってストイックにやっていかないと、最終的に見るべきものを見られなくなったりするわけで…。
というわけで、この小さな、ちょっと見はかわいらしい礼拝堂は、完全に割愛対象でございましたというやつ。あ、もしかして、中にすごいお宝がある可能性はあるけども、おそらく開いていることはなさそうだから、結局同じことだよね、多分ね。
唯一認められた装飾は、ファサードの扉周りだけども、これでもか状態の地味さです。
すっごく地味ですっごくプリミティブな彫りものでも、やけに琴線に触れるものってあるんだけどもね。トスカーナのサンジミジャーノの近くの田舎にある教会のファサードとかそういうやつ。あれはなんというところだったか。二回行って二回ともフラれたけど、なんか扉脇のとてもプリミティブな彫り物が好きで、来てよかったって思えたんだけど、そういうやつね。
ここはちょっとなぁ。もうちょっとだけ保存状態が良ければ、もしかして上のやつはフィギュア系かもしれないし、ちょっと面白いのかもしれないけど、でも、どうしようもないよね。
ちなみに、町はかなり立派でしたね。
よくぞ、すぐに見つかったものだ。幸いにも、失った時間は最低限で済んだと思います。そして、無駄は避ける!!という現実を思い出すこととなったのも、無駄ではなかったかもね。
もしも、もしもどなたか行かれて、「何言ってんの、あそこはすごいんだよ」ということがあったら、是非ご一報くださいね。さらに謝らなければいけなくなるよね、笑。
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2023/11/06(月) 20:44:40 |
サントル・ロマネスク 18-36-37-41-45
| コメント:0
2019年8月夏休み、フランス中部の旅、その88(ロワール)
10月後半の二週間、約四年ぶりに一時帰国で東京におりました。久しぶりに家族、友人と対面で会うことが出来、とても充実の日々でした。お時間くださった皆様には厚く御礼申し上げます。
日本滞在記は、備忘録という形で、下記リンクしている別ブログにおいおいアップしていきます。
中断からの再開は、毎度時間がかかるものですが、中断前の良いリズムに、早めに戻したいと思っています。
では、続きから。
ベルガルド・デュ・ロワールBellgarde du Loiretのノートル・ダム教会Eglise Notre-Dameです。 見所は、ファサードのみと言ってよい教会ですが、そして、到着したのは、お昼過ぎだったのですが、皮肉なことに扉は開いていました。もちろん、入れた方が、将来に禍根を残さずすむので、良いに違いないのですが、どうせなら、他の教会に開いててもらいたかった、という気持ちになるのは、同じように回っている方ならきっと分かってくださることと思います。
現地にあった案内板によれば、以下となります。
「12 世紀にセンスのアウグスティヌス修道士達によって建てられ、それ以来祈りの場所でしたが、何世紀にもわたって繁栄してきました。」
「ファサードとポーチ:1124 年 8 月に建てられ、ロワレ地方のロマネスク建築の最も美しい見本であるサン・ブノワ・シュル・ロワール修道院にちなんでいます。このファサードは、そのバランスと装飾において、ベリー低地やポワトゥーのロマネスク様式の教会に似ています。」
確かに、このファサードのスタイルは、ポワトゥー地域、サントンジュ様式を彷彿とします。その地域は、フランス・ロマネスクを始めようと思って、最初に訪ねたものですから、印象が強くて、また地域性も明確にあることもあります。ベリー地域全般も同じようなスタイルが普及していたのでしょうが、ベースの様式の上の装飾性を考えると、ベリーというよりは、そっち側という印象かな。
あの時は、最初だったこともあり、かなり駆け足でまわったので、改めて再訪したいものですねぇ。あれは、サン・サヴァンの素晴らしい天井画に惹かれて、矢も楯もたまらず行った旅でしたが、ベリー地域での数多くのフレスコ画に接した後では、また違う見方ができるかもしれないなどと強く思うのです。
そして、スペインから始まった私のロマネスク病がとうとうフランスにたどり着いたものの、スペインやイタリアとは何か勝手が違うようなフランスのロマネスクに、ただ表面的に取り付くしかなかったなかった当時から思うと、多くの地域を訪ねて、一面だけだった視点が、多面、多層となってきたようにも思い、見えてくるものがありそうにも思えます。
うるさいですね、笑。
ちょっとディテールを。
メインの扉周りの装飾、とても好きです。
こういう、シンプルなギザギザとか幾何学モチーフ的なアーキボルト、好みなんですよねぇ。
外側には、顔が並んでいますが、それ以外は装飾的なモチーフがしっかりとした彫りで、堂々としたデザインとなっていますね。
そして、タンパンは、結構地味目の植物。
「タンパンに未完成の碑文が見られ、おそらく、”ここに悪徳の秩序に身を滅ぼした者が義人となる”とあります。」と解説があったのですが、肝心の碑文を引用した部分が赤い文字で書かれており、ほとんど消えかかっていて読めないんで、翻訳も正しいかどうか不明です。だって、意味が通らないもんね。おそらく読めてないんです。
しかし、重要なことを赤字で書くの、やめてほしいです。赤字は最初に色あせるって、どこでもそうなのに、実際に書く人はなぜ分からないのかしらん。
タンパンもアーキボルトもデザイン的なしゅっとした様子なんだけど、側柱に乗っている柱頭に、ちょっと面白いのがあります。
んん?蛇みたいのに耳をかまれてるやつ?と思うじゃないですか。
いやこれ、身体~?!
いわゆる角っこ一つ頭のライオンとかよくあるけど、あれのヒト版?
珍しいですよね?それもオケツくっつけの、極小身体に、激デカ頭部って…。
頭は好きみたいで、上部の窓の装飾も、ずらりです。
頭部が出てくると、ついケルト?と言いたくなりますが、この辺りは、実際にケルト入っていると思うので、そういう関係可能性はあるのかな。
扉周りのアーキボルトに並んだ頭部は、割と新し目の写実感高いやつなんだけど、上部のやつらは、ロマネスク感が強いおやじ顔率高しで、かなり違う雰囲気です。
上のは、ミチミチびっしり状態というのも、アーキボルトの整然とした雰囲気とはずいぶん違いますよね。
言うまでもなく、上のやつらが好みですけどね、笑。
面白いのは、本当にここだけで、一応周囲をぐるりとしましたが、特筆すべきものはなし。
内部ももちろん見ましたが、宝探しするまでもなく…。
本当に何もないし、置かれていた案内板も、中世後の修復や装飾に関する説明がほとんどでしたので、それを含めても、中世推しで訪ねる場合は、入れなくても、一ミリもがっかりすることはありません。
グーグルのストリートビューを見たのですが、最新映像となっていて、もしかしてちょっと洗ったのかしら?とも感じられる白さになっていました。当時は、ファサードの前にベンチがあり、そこで、ホテルの朝食をぱちって作ったサンドイッチのランチをいただいた記憶があるのですが、ベンチは見えなかったので、記憶違いかもしれません。
ちなみに、この町、教会の近くになかなか立派なお城なんぞもあり、そんな町ですから例によって大変小ぎれいで、それなりに観光客が来るような場所かもしれないと思いました。この辺り、売りはやはりお城となるんでしょうかね。
勿論私は、遠くからお城らしき建物を認めただけで、さっさと退去いたしましたが。
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2023/11/05(日) 16:10:52 |
サントル・ロマネスク 18-36-37-41-45
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