2020.06.ロックダウン明け、ピエモンテ日帰り訪問 その3
共通券で訪ねられる中に、塔があるんですが、その前に、他の史跡が密集するアルフィエーリ通りのはずれに、ちょっと目を引かれる塔がありました。

トッレ・ロッサTorre Rossa。
直訳すれば、「赤い塔」ですが、まさにレンガ積みで赤い。往時は、レンガの色も、もっと鮮やかで、本当に赤かったのかもね。
近づくと、てっぺんの方だけ、様子が違うのがわかります。

これは、ますます怪しい感じ、笑。
幸い、説明版が立っていました。
それによれば、「16面構造。建設起源は、おそらく、起原1世紀に造られた、町のローマ門にあった、二本の塔のうちの一本。その後11世紀に、上部二階分が付け足されたもの」ということ。
つまり、付け足しの上部は、バリバリのロマネスク時代となります。

この地域独特の赤白ツートンカラーで、下の赤ともナイスなコンビネーションです。
しかし、10世紀を置いて、びくともしなかったローマの建築美術のすごさ、そして、その上に付け足しを作ってしまう中世人の発想。どっちも、なんだかもう現代ではありえない悠久な感じで、あまり誰からも顧みられていない様子だけれども、すごく歴史を体現している建造物です。

ローマのレンガと、そして中世のレンガ。レンガの四角の正確性では、中世に軍配が上がりそうですが、それにしても緻密な。
ローマの塔は、ほぼ戦時向けの物見の塔だったり、古いものは、のろしを上げて、遠くに連絡するのろしの塔だったりします(指輪物語で、のろし連絡がありましたけど、ああいうやつですね)。結構わくわくするアイテムですが、なんとなくローマのものは実用本位の武骨な感じ。
中世時代伸ばされている塔は結構多いのですが、あまり調和を考えていなかったりするものもある中で、ここは、とても優美で調和を感じさせるものになっていると思います。
それにしても、なんとなく解せないのは、ローマ門って、普通はローマからやってきたときに、入場する門だと思うんですが、そうすると、北部の都市では、町の南側に位置するのでは。ミラノでも、町の南東方向にあります。
でも、ここは、南でもなく、東でもないんですよね。

南の方から来て、西側に回り込むような道がメインだったということかなぁ。謎。
それにしても16面って。何か競っていたんですかね、ローマ人。

チケットで入場できる塔は、もうちょっと町の中心部にあります。小さい地図の右の方に見えています。

トロヤの塔Torre Troyana(Piazza Meici、10-19)
12世紀終わりから13世紀にかけて建てられた塔。Palazzo Ducale(総督のお屋敷)のお隣に立つ塔であり、また町一番の高さなので、アスティのシンボルともいわれているそうです。
中世には、どこの町でも、塔は豊かさの象徴だったようなので、この塔もそういったことが起源になっているようです。アスティは、おそらく豊かな町だったのでしょうね、今でも、先に紹介した赤い塔のほかにも、いくつかの塔がありました。
今、中に入れる塔は、ここだけだそうです。
内部は、後付の木製階段となっていて、オリジナルがどういう様子だったのかは、まったくわかりません。ロックダウンを過ごした直後だったので、階段をてっぺんまで登るのは、かなりきつかったですよ。

てっぺんからは、アスティの赤い屋根の連なりが見晴らせます。お天気の良い冬だったら、アルプスがずらずらと見えるのかもね。
ちなみに、トロヤというのは、この塔を所有していた裕福な一族のお名前で、トロイ人とかは関係ないです。銀行家だったそうです。中世のイタリアでは、銀行家はケチで金持ちと決まっていますね。
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- 2020/07/27(月) 01:36:57|
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2020.06.ロックダウン明け、ピエモンテ日帰り訪問 その2
さぼり癖を克服するのは、容易ではないなぁ。
Covid-19で、どこにも行けなくなった分、ブログを更新しながら、バーチャルな旅を楽しむのもありだよなぁ、とずっと考えているのに、Covidとともに、何もせずにひきこもる、という癖がついてしまった感じです。
欧州では、今も、そこここで小さな感染源が発生していて、それでも、夏の間は経済優先で、積極的な対策が取れませんから、こういう状態が続くのでしょうし、なんとなくもやもやした気分で、皆が悩みながら夏休みを過ごしている状態だと思います。
びびりのミラネーゼは、普段なら海外ばかり行くくせに、今年に限っては、ほとんどがイタリアでの夏休みを選んだ上、ミラノにいる人たちは、前にもまして、マスク装着をきちんとしている様子が見られます。私も、すっかりびびりの仲間入りをしています、ことCovidに関しては。
さて、アスティの一日。前回のクリプタとの共通チケットで、アクセスできる中世サイトが、他に二つ。
まずは、こちらです。

サン・ピエトロの遺構群 Complesso Monumentale di San Pietro Corso (Vittorio Alfieri2,10-13 16-19 月休)
アスティには、過去に何度か来ていますが、ほとんどがワインがらみというか、食べ物がらみで、そういえば、中世を探しに来たことがありません。アスティ周辺域には、かなり集積しているので、数回に分けて訪問しているし、未訪の教会も数ありますので、今後も訪ねなければならない土地の一つなのですが、その地域の中心であるアスティそのものは、中世の街、という印象に薄くて、前回紹介したクリプタのことを知るまでは、まったく興味を持っていませんでした。
そして、クリプタの訪問を思い立って初めて、意外と中世の遺構が残されている現実に気づいたという情けない話です。
この遺構には、ですから純粋にびっくりしました。

この姿、ボローニャのサント・ステファノを髣髴とします。
皆様には、すぐにわかると思いますが、もちろん、サン・セポルクロを模した円形スタイル。創建は1110-1130とされています。やはり古い。
この一連の建物群は、この時期に、なんとエルサレム・ヨハネ騎士団によるものらしいんですよ。エルサレム教会、またの名をマルタ騎士団。アスティの壁のすぐ外側に位置するこの場所に、救護所や教会を作り、1798年まで、本部をここに置いていたそうなんです。騎士団の歴史上、非常に意味のある場所なのですね。
騎士団の歴史は、中世史上欠かすことのできないものだと思いますが、あまり勉強していません。教会巡りをしていると、騎士団の中でも勢力が強く、今でも存在しているマルタ騎士団が管理していたという教会には、結構出会います。彼らが運営した救護所、病院などは、中世の社会では、非常に徳の高い行為であり、また、その建築美術的な価値を今に伝える常用な遺構だったりもしますね。
でも、騎士団の繁栄は、ロマネスク時代よりも後付のこと、そして、キリスト教がある意味最もファナティックだった時代の話であることから、あまり勉強する気がしないサブジェクトだったりもします。とか言いながら。イタリア語の本は、割と買っちゃいます。要は、各種書籍が出版されるだけの対象であるということですね。

長々とすみません。内部はこういう感じです。すっきりと美しい。
ピエモンテらしく、レンガと石のツートンカラー。
中央部の円柱は、かなり修復の様子が激しいのですが、壁のつけ柱の方は、もうちょっと古びがあって、気に入りました。

柱に、ギザギザ組み込むなんて、憎いですね。めっちゃ可愛いです。
そして、入ってすぐのトンネル・ヴォルトが、これまた遊び全開。

すっごくかわいいですよね。語彙が貧しくて恐縮です…。
レンガの幾何学的模様だけでも美しいのに、古そうなレリーフはめ込みまで。

おそらく、色が濃いのが、レシンで再建したものかな。いずれにしても、本当にこういう風に装飾されていたんだとしたら、ここ作った親方って、すごくセンスありますね。
入り口もチャーミングですよ。

こんな透かしの彫り物が、タンパン部分にはめ込まれています。
で、ファサードも、やはりレンガで飾られているんです。レンガ好きだよね!

かわいいといえば、内部に、こんなに愛らしい墓石が置かれていましたよ。墓石に愛らしい、というのも、ちょっと違う気がしますが、この方、本当にやさしいお顔で、眠ってらっしゃいます。

1460と書いてあるようです。
もっと古い彫り物が、おそらく本来の入り口だったかもしれない場所に掲げられてます。トップの写真で見える、小さな扉の上になります。

とても典型的なロマネスク・テイストで、もともとどこにあったものかは不明ですが、間違いなくオリジナルの教会に付属するもので、マルタ騎士団の方々も、日々目にしていたかもしれない変な者たち。
そういう往時の人と同じように、応じあったものを見ていると認識するとき、ドキドキざわざわした気持ちになります。
扉近くには、こんなやつも。

摩耗しちゃっているとはいえ、それを差し引いても、ちょっとプリミティブすぎて、笑、騎士団の人も、あまり目に留めなかったのでは、とか考えちゃいました。哀れなやつ。
このサン・セポルクロ以外は、15世紀以降の再建建築となります。この回廊や、付属する住居も。

13世紀の、アスティの街中住居にあったという美しい二連窓が、移築されていたりもしました。普段は、考古学博物館の役目もあるようでしたが、私が訪問した時は、そちらは開いていませんでした。

アスティ周辺を回される際には、どうぞアスティ訪問も忘れずに。

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- 2020/07/26(日) 20:11:50|
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2020.06.ロックダウン明け、ピエモンテ日帰り訪問 その1
すっかりさぼり癖がついてしまって、写真の整理ができないまま時間ばかりがたっていきます。コロナで、いつものような旅ができない状況が続いていることも、さぼり癖を後押ししている感じ…。本当は、だからこそ、過去の写真をどんどんアップして、ブログで「今」を語れるようにしよう、ともくろんでいたんですが、とんでもないことでした、笑。
というわけで、アップしたい大物はたくさんあるのですが、現在のていたらくだと、過去にさかのぼる面倒さから、さらにアップが滞りそうなので、リズムを取り戻すべく、小さな旅の記録を片付けていこうと思います。
自分が住まうロンバルディア州を出て、他の州に行けるようになったのは、6月に入ってからでしたでしょうか。イタリアは、全国20州に区分されています。日本の県よりは大きな単位ですが、国土も小さいので、イメージとしては、県と同等といってよいのかと思います。ロックダウン中は、もっと厳しい時期は、さらに小さい単位である市間の移動もできませんでした。
それが州間移動解禁となって、うれしい気持ちもありましたが、様子見の気持ちもあり、ある週末の一日、この数年気になっていたアスティのある場所を目指すこととしました。
それが、こちらです。

サンタナスタシオのクリプタ Cripta di Sant`Anastasioです(Corso Vittorio Alfieri 365/a アスティ市内の6か所の重要施設を訪問できる共通チケットが10ユーロ。このチケットは、当日のみならず有効なので、絶対にお得。クリプタだけなら5ユーロ。チケットは、クリプタより町の中心寄りの同じ通りにある美術館となっているPalazzo Mazzettiで購入)。
クリプタって、地下教会なのに、このビルは何?と思いますよね。私も、え?と思いました。実は、この位置にあった中世の教会は、今の地形でいえば、建物の一部と、町のメイン・ストリートCorso Vittorio Alfieriにあったはずの上物は、もはや影も形もなく、地下のクリプタだけが発掘された、ということなのです。
じらさず、核心に。

かっこいいですよね!
以前、何かでこの写真を見てから、気になっていたのですが、なかなか行くチャンスがなかったのですが、今回、近郊で手ごろな場所がないかと考えていた時に、出かけようと思った週末の数日前に、ロックダウン後、再オープンしたばかりという情報に出会って、これは呼ばれているかも、と思って、訪ねたのです。
実は、再建部分も多いのですが、修復もよい感じで実施されており、クリプタ全体の雰囲気は、よく保存されています。

1100年ごろとされていす。古そうな構造の中にも、ちゃんと装飾があるのが、11世紀後半と納得です。
ピエモンテは、レンガが多いと思いますが、ここにも使われていますね。おそらく上物も、レンガ構造だったのではないでしょうかね。

それにしても、アスティの、結構な街中で、それなりの規模の教会だったと考えられるのですが、きれいさっぱりとなくなっているのはすごいですねぇ。教会の起源はロンゴバルド時代の8世紀にも遡るもので、12世紀に、より大きなバジリカ構造になったそうです。その教会は、1907年に壊されたそうなんです。
1907年って、何ですかね。町の再開発とかしたかったんでしょうか。千年も生きてきた建物を壊すなど、まさに蛮行以外の何物でもなく、アスティの人たち、何を考えていたんでしょうねぇ。

右上にある明り取りみたいになっているところが、地面の高さで、Corso Vittorio Alfieriとなります。中央左部分にあるのが、クリプタの入り口。
この階段のある部分は、明り取りのところにあるのが柱の根元のようですから、もともとの本堂の床面と、地下の中間部分にあたるわけですね。今の地面は、1メートルくらい上にあることになりますね。

この、立派な多角体の柱を見ると、教会は相当立派な規模のものであったと想像できますよね。
地下は広いスぺースとなっており、クリプタのみならず、教会にあったであろう柱頭などが展示されていて、これもまた、見ごたえがあります。

柱が立派だから、柱頭も立派ですよ。

シンプルな植物系。こういうの好みです。

ずいぶんといろいろなものが掘り出されているんです。一体どういう始末をしたんでしょうね。壊して、そこらへんに転がしといたら、いつか埋まっちゃったとか?1907年で、そういうのって何なんでしょうねぇ。


柱頭なんだから、柱の上に乗っかっている状態でみたかったです。
いずれにしても、想像以上に見ごたえのあるクリプタでした。
ロックダウン明けで、もしかして見学者が殺到していたらどうしよう、というのは杞憂に終わり、それもよかったです。

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- 2020/07/20(月) 01:17:01|
- ピエモンテ・ロマネスク
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久しぶりにピエモンテです。プーリアをコンプリートしなければいけないのですが、つい浮気しました。
ピエモンテといっても、ロンバルディアと境を接する南東部で、中世から都市国家時代は、領土的闘争の舞台でした。文化的にも、いろいろと混ざっています。
といっても、ロマネスクを見る上では、とてもマイナーな場所ばかりで、日本語では、ほとんど情報もない場所だと思います。それでも、改めて写真を見ていると、なんだか楽しい。
誰も知らないかもしれない、というのは、きっと自分だけが知っているかも、ということだから、楽しいんですね。そんなわけもないのに。でも、そういう誰も知らない、というレベルなのに、大切にされているものというのは、とてもよいものです。
よろしかったら、ピエモンテ南東部のマイナー・ロマネスク、おなじみのサイトで見てやってください。
ロマネスクのおと
- 2012/07/01(日) 06:57:03|
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前回訪ねたクローネ谷を、またトルトーナの方に戻って、ちょっと西よりの道を南下、リヴァルタの町に向かう幹線道路を、左に入る長い並木道があります。
その突き当たりにあるのが、かつてサンタ・マリア修道院だった建物群の名残。
Abbazia di Santa Maria - Rivalta Scrivia
ここは、起源は古いようですが、今残っているたたずまいは、フランス・ゴシックの影響をたっぷり受けたシトー派建築です。実は、少しはロマネスク時代の名残があるかな、と思って訪ねたのですが、ほぼ完全に、何もなかったです。
教会は、ここも残念ながらクローズ。でもこの状態では、中も何もないと思われます。
ただ、ここの全体のたたずまいが面白かったのです。
というのも、修道院の全体構造というのを、とてもよく残していると思われたからです。
建物群の周囲は、一部崩れているとはいえ、今でもぐるりと壁で取り囲まれており、入り口は並木道からたどり着く一箇所。
入ると広いスペースがあり、正面に、トップに置いた教会のファサード、右手に修道院の住居部分、左には、農場、入り口近くには、一般住居が並んでいます。修道院が活動をしていた当時と、ほぼ同じ造りと思われます。
一般住居には、今でも人が住んでいるようでしたし、農場も活動中でした。
農場は、教会裏手に広がる畑を持っているようで、また敷地内にはガチョウだかアヒルだかが自由に徘徊していました。フランス・ゴシックだし、もしかしてフォアグラ?ってことはないか。
起源が修道院の付属教会、という教会は、数多く訪ねていますけれど、今では教会の建物しかのこっていないというケースがほとんど。だから、こうやって、全体構造を、今もなお生きている状態で見ることって、イメージを抱くには、結構楽しいことです。
以前友人にもらってファンになった、中世の修道院を中心にしたミステリー小説「修道士カドフェル・シリーズ」というのがあるのですが、こういう場所を見ると、小説世界を実感できるものがあります。
町から離れた緑の中で、今でもこういう美しい独立したたたずまいです。わざわざ足を延ばしたのですけれど、行ってよかったです。
ピエモンテ東部、以前訪ねたいくつかと合わせて、サイトにアップする予定にしていますので、お楽しみに。
- 2012/04/04(水) 04:43:58|
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