(2019年10月訪問)
この辺りに出かけた時は、友人と一緒だったし、明日どっか行こうよ、と唐突に出かけたこともあって、あまりちゃんと調べてなかったんです。で、キアヴェンナの洗礼盤のところで、あら、こんなものがあるんだ、とびっくりして、足を延ばしました。

アウローゴ・ディ・ピウロAurogo di Piuroのサン・マルティーノ教会Chiesa di San Martinoです。
私が気付いてなかっただけで、ロマネスク的には、それなりに有名なはず。私が愛用しているJaca Bookのロンバルディア・ロマネスクの本にも、ちゃんと出ていました。
ただ、この辺りは、いつか行かねば、と思っていたものの、いきなり訪ねることになっちゃったんで、事前に調べもしなかったんですよね。ここだけを目指すのはちょっと辛い場所なので、キアヴェンナで絵葉書を売っていたおかげで気付くことができて、本当に感謝です。さらに、とりあえず、あるものすべてチェックする自分の宝探し習慣に感謝です、笑。
実はこのあたり、山中で、小さな村が続くのですが、Piuroだけでは出てこないんですよね。今は、スマホで教会の名前を入れれば、ナビゲーションアプリが自動的に連れて行ってくれますが、ナビやグーグル・マップのない時代、たどり着くだけで大変だったろうな、というような場所です。

道は簡単で、キアヴェンナの洗礼堂の人が口頭で教えてくれた通りで、村までは、ナビを見るまでもなかったのですが、教会の正確な場所はちょっと迷いました。
トップの写真で、奥の方に、もう一つ鐘楼が見えるのがわかるでしょうか。ピウロと思って、路肩にあった駐車場に入った村の、鐘楼なんです。鐘楼は結構古そうなたたずまいでしたが、本堂は絶対に違うし、スマホを確認したら、まだ先に進め、というので、半信半疑ながら、先に進み、結局、目指す村が、川向うということがわかりました。
美しい山々をバックに、絵画的なたたずまいで、なんでこんな素敵な場所、今まで調べてないんだ、オレ、と、大いに反省しました。
なんといっても、このロマネスク感バリバリの鐘楼は、うっとりしますよねぇ。

それに比して、教会本体は、遠目にも、かなり修復が激しいことがわかると思います。
実はここ、1618年に、激しい土砂崩れに襲われて、かなりの損害を受けた村だそうなんです。教会は、その多くの部分が、幸いにも損壊を免れたものの、無傷というわけには、行かなかったこと、また、村人にとっては常に現役の教会であったことから、度重なる修復や改修を受けたことから、外観は、ロマネスク部分がほとんどなくなってしまったということなのですが、この鐘楼は、ロマネスク的には、ほとんど無傷ですよね。

天辺の三角屋根まで見えると、全体にすっきりと細い感じになります。
ずっと二連窓が続いていますが、上に行くほど、ちょっと広くなっているようにも見えますが、どうでしょうか。アップで確認しても、同じサイズに見えます。
それにしても、石の質感と言い、素朴な装飾と言い、久しぶりに、美しいロンバルディアの鐘楼にあったな、と思いました。

二連窓の中央に置かれた小円柱の、かわいらしい渦巻き柱頭。何とも愛らしいシンプルさです。シンプルながら、それぞれ微妙に違うんです。

ちなみにこの鐘楼、ファサードに組み込まれて立ち上がっているスタイルです。

逆光で見にくいですが…。本堂がほぼ新しくなってしまっているのが残念です。
このスタイル、この後訪ねる著名教会と同じなので、そちらで記すこととしますが、アルプスの向こう側でよく見られるClocher-porcheとなります。
思わず長くなってしまいましたが、実はここを訪ねた目的は、これじゃなかったんです。鐘楼は、おまけみたいなものだったんですが、思いっきり食いついてしまう美しさでしたから、期待が高まります。
しかし、あいているんだろうか、という杞憂がありましたが、幸い、お掃除の人がいらしていました。

一見すごく新しいし、目的のアレがどこにあるのかもわからず、え?ここじゃなかった?と焦りました。ぐるぐる見回して、右上のアーチの上に気付きました。

こんなところに~!これは、あれか、もともとの構造がないがしろにされて、新しい構造になっちゃったけど、フレスコ画は消されずに無視されちゃったというやつか。アオスタの教会がそんなのでしたよね、確か。
この部分は、オリジナルでは南壁に当たる場所。福音書家ヨハネのエピソードが描かれているようです。
後陣に近い方のアーチ部分。

西側のアーチ部分。

1700年代に作られたヴォルトで、多くの部分が隠されてしまっていますが、11世紀と考えられているフレスコ画。
最初のやつは、エルサレム入場らしいです。
二番目のやつの、左端は、文字が見えるので、ラザロの復活ぽい。
その他、姦淫の許しとか、盲人の快癒とかあるのですが、わかりますか。
ファサードの裏側部分にもあったようですが、これはもうほとんどわかりません。
人々が横並びで正面に向かって立っている様子からは、ビザンチンのイメージ(ラベンナのモザイクのイメージ)も感じられますが、どうでしょうか。

これが、後陣側から、南壁、ファサード側の眺めです。

今、向こう側に新しいスペースを作ってしまったために、壁が壊されて、アーチになっちゃったわけですが、オリジナルの教会は、ここに壁がある一身廊の小さな建物だったのです。そして、この壁全体に、このようなフレスコ画があったと。素晴らしいですよね。手前の方にも、わずか残されたものがありますから、壁も後陣も、フレスコで覆っていたのでしょう。
研究によれば、チヴァーテのフレスコ画と同じマエストロがかかわっているということ。確かに同時代、距離も近いですから、さもありなん。
北壁は、教会が捧げられたサン・マルティーノの生涯ということですが、かなり難しい。

今は、石壁がむき出しとなっていますが、勿論こちらも、上にべったりと漆喰が塗られていたものです。修復で、フレスコ画見つかったので、全部はがしたのでしょうが、それでも、これだけしか救えなかったのですね。残念です。
これだけで、サン・マルティーノのエピソードだとわかったのは、この、むち打ちのシーンがあるかららしいです。

サン・マルティーノは、カロリング時代、ロンバルディアで人気のある聖人だったようです。なぜかというと、どうやらサンタンブロージョと同時代の人で、親交があったとかそういうことらしいですが、どうなんでしょう。

残念なところもあるわけですが、それにしても、よくぞこれだけでも残ったものだし、見つけてくれたもんです。1970年代の修復で見つかっていますから、かなり最近なんですよね。そこで発見されて修復されて、この姿ですから、今見るべき丁度よい時だったのかもしれません。
たまたま開いておりましたが、いつも開いているとは思えません。でも、お掃除されていたのは、ご近所の方っぽかったので、鍵は村にありそうです。声をおかけしたのですが、非常に迷惑そうで、ほぼ無視されました、涙。何かお話を聞ければ、と思ったのですが、インフォメーションなら、そこに冊子があるから、とすげなく…。
確か、絵葉書はありましたけど、リゾート系の冊子しかありませんでした…。
ここね、そういう土地なんですよね。近所に、立派なあれが。

アクアフラッジャの滝Cascate dell'Acquafraggioという有名な滝があって、これは結構観光地になっているようでした。特に興味がないので、車窓から撮影したのみです。
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- 2020/03/29(日) 20:48:30|
- ロンバルディア・ロマネスク
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(2019年10月訪問)
そういうつもりではなかったんですが、今や世界でもトップクラスのホットな土地、ロンバルディア特集になっていて、なんだか複雑…。
ご心配くださっている皆様方には、どうぞご安心くださるようにお願いします。元気に生きております。1週間に1回、スーパーへの買い出ししか外出できない生活も3週目ですが、人間、慣れるものです。
ロンバルディアは、誰でも知ってるロンバルディア帯だったり、コモの石工だったり、ロマネスク芸術には多くの貢献をしている土地ですから、ロマネスクの遺構はたくさんあるんです。どれもが比較的地味なんですけれど。
中でも、コモ湖周辺は、宝石箱をひっくり返した状態で、小さな教会が散らばっています。どこも行きにくいので、住んでるからこそ、気軽に訪ねられるわけでもあるのですが、実は、ミラノからも、結構行きにくい。というか、遠いんです。
コモ湖畔最大の町は、ミラノ寄りのコモだと思いますが、そこまでは、車で40分程度だし、高速並みの国道ですから、快適ドライブなんです。しかし、コモ湖の北部は、湖畔の道を延々必要があり、前回記事にしたサン・フェデリーノあたりだと、2時間ほどもかかってしまい、同じ時間を南に進めば、ボローニャまで行けてしまうというような、そういった場所なんです。というわけで、このところご紹介している数々は、これまでなかなか行けていなかった場所なんです。

訪ねたのは、キアヴェンナChiavennaという町です。アルプスが迫る山のリゾートといった風情の町となります。ここは、鉄道駅もあり、それも町中なので、電車アクセスも可能です。車であれば、鉄道駅の駐車場が便利です。

山あいに広がる、中世の町という風情。中世の地味な塔が、ありました。
さて、でも目的はこれじゃなくて、こっち。

サン・ロレンツォ教会Chiesa di San Lorenzoです。
どう見ても、中世じゃないじゃん、なんですけど、実はここにお宝があるんですよ。もうずっと行きたいと思いながら、道のりの遠さにひるんでいた場所。こんな変に半端に新しい入れ物になっているとは知らず、場所を特定するのに、ちょっと手こずりました。
イタリアだと、どうしても資料に目を通してしまうし、素通りできないので、他の国のケースと違って、饒舌になりがちですみません。今回も、だらだら書いてしまいます。
このキアヴェンナ谷Valchiavennaは、イタリアから北部へとつながる交通上の要衝だったことから、かなり古い時代から、人々の定住があったものとされています。しかしながら、キリスト教が定着した時代や状況については、詳細は不明なんだそうです。ロマネスク期に、定住者が増えたから教会も爆発的に増えたのか、その前から、同じように多くの定住者がいたのかどうか、ということなんでしょうけれど、考えるに、ロマネスク様式が広がったのは、人の行き来が盛んになったからなわけで、10世紀ころから、往来が増えるとともに、定住者が増え、町村としての体裁が整ってきたということなんでしょうね。
コモ湖の西側は、Viale Regina女王街道という古い道があり、それ沿いの村々に、ロマネスク教会があります。一方東側は、土地の関係でしょうか。西側に比べると町村が少ないのですが、立派な修道院(ピオナ修道院)が、今も残っていますね。
で、キアヴェンナに話を戻すと、このサン・ロレンツォ教会も、11世紀前半には、すでに教会があったという記録があるようです。また、12世紀初頭に洗礼堂が付け足されたという記録もあります。
しかしながら、16世紀前半に、火事で焼失、その後、後期ルネサンス様式で再建されたために、私などが行っても、感動がない外観になってしまったというわけです。
では何を見に行ったかというと、こちらになります。

洗礼盤Fonte Battesimaleなんです(3月/5月および10月/12月:土日祝9-12/14-17、6月/9月:毎日9-12/14-18)。
立派でしょう。すごく大きくて、びっくりしました。
この地域で産出するOllareという石の塊から、掘り出されたもののようです。
オラーレという石は、初めて聞いたと思うのですが、まさにこの地域特産の石で、加工が容易なのに、火に強い性質を持ち、主に、オープンやストーブ、また鍋や鉄板などの調理器具にも使われるものなのだそうです。ということは、今も石切り場があるということなんでしょうね。
1699年、もともとこの洗礼盤が置かれていた八角形の洗礼堂が、新しい構造物をつくるために壊された際、洗礼盤は、新しい建物に置かれることとなりました。しかし、なんということか、移動する際に、今は、階段状になっている台で支えられていますが、本来、支えとなっていた福音書家のフィギュアが壊れて失われたしまったということです。今残っているものだけで、もうびっくりするくらい素晴らしいのですが、これが、猫脚状態で、福音書家のフィギュアに支えられていたとしたら、かわいらしくて、叫んじゃいそうですよ。残念。
円周6メートルもあり、なぜそんなに大きいかというと、イースターおよびペンテコステの際に、キアヴェンナだけでなく、この地域一帯の新生児の洗礼を実施するためだったんだそうです。17世紀になって、地域のあちこちの教会で洗礼が可能になると、この洗礼盤の役割が終わり、ここでも、より小さな洗礼盤が用いられるようになったということです。
せっかくなので、浮彫の全体を、じっくりと。
テーマは、古代の洗礼儀式を描いたものということです。洗礼の本来の主役である水、聖水を祝う儀式ということで、キリスト教と古代宗教の混ざったイメージのテーマになっているんでしょうか。お水を祝うって、ふと、お水取りとか浮かんだんですけれど、水は、どの宗教でも重要なんですね、きっと。人にとって重要なもの、という背景がやはりあるんでしょうか。人が、水から生まれてくるからでしょうか。
彫り物では、浅浮彫Bassorilievoというスタイルが多いですが、これは中浮彫Mezzorilievoというスタイル。ほとんど、飛び出す絵本状態で、彫刻との差は紙一重ですね。Mezzorilievoと明確にされているケースは、非常に少ないため、これまで、浅くないよな、と思いながら、浮彫は全部Bassorilievoと認識していました。いい加減にみているので、いつでも新鮮な学びがあります、笑。

主人が、洗礼を受ける子供を抱き、イースターのろうそくを持つ待祭。祭司ら、助祭が支える典礼書を読みながら、洗礼の祝福の祈りを行っている。

他の助祭が、三角帽をかぶり、司祭の十字架を持っている。

それに続いて、火のついたろうそくを載せた燭台を持つ副助祭。この副助祭、ライトセーバー持ってる風で、イケメンですね。

三人の使徒が釣香炉と聖なる油の入った小瓶をもって続く。

儀式には、三人の儀式には直接関係ない人々が彫られています。

城で働く鍛冶屋、塔の上で見張りをする兵士、鷹を持った優美な騎士。
これらは、当時の生まれつつある社会における階層、つまり、職人、普通の人々、貴族を表したものとも、イースターの祝祭に参加する皇帝の代理人(騎士)、キアヴェンナのシンボル的な代理人、そして自由都市の自尊心を表すフィギュア(鍛冶屋と兵士)という解釈も。

浴槽の淵には、1600年代に彫りこまれた分があり、そこには、キアヴェンナおよびこの一帯の人々の望みで、1159年3月に、この洗礼盤ができた旨、記されています。
作品は、場所から言っても、当然コモの石工のものですが、かすかにモデナで活躍したマエストロWiligelmoの影響がみられるということです。それは、背景がすっきりすべすべで、余計な彫りこみがないことや、人物がシンプルな線を基本にして彫られていることなどだそうです。モデナの大聖堂にある素晴らしい彫り物絵巻を、改めて写真で確認してみないといけませんね。
しかしなぜ、Wiligelmoの影響があるのでしょうか。当時、コモの石工の技術は引っ張りだこでしたから、当然有名マエストロの工房には、コモ石工さんがいないわけがないですね。それで、マエストロと仕事をした経験のある石工さんが、どうやらこの彫りにも関わっていたのでは、という推測ができるのです。
コモの石工さんは、ヨーロッパ中を歩いて、その技術を伝承するとともに、各地で異なる技術を得て、融合して、どこかで実現して、ということをやっていたのかもしれませんね。それって、すごくロマンですねぇ。

今は、こんな風ですが、オリジナルは、浴槽だったのでは。
一部失われたのは残念ですが、実に素晴らしい洗礼盤です。よくぞ、これだけでも保存してくださった、と感謝の念でいっぱい。

ちなみに、ここは、門番さんがいますけれど、入場無料。
一方、お隣に宝物館があり、そちらは有料となります。ロンゴバルド細工的な、キラキラの聖遺物入れとかあるようなんですが、このときは、入りませんでした。
一人じゃないと、若干見学にも制約があるんですよね。でも、また行けばいいと思っています。良い季節に行けば、気持ちの良い場所だし、一度訪問済みだと、様子がわかるので、気楽に行きやすくなります。
とにかく早く、遠出がしたいです!
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- 2020/03/28(土) 03:17:38|
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(2018年9月訪問)
さて、前回は、Samolacoの村から歩き出してすぐ、廃墟に出会いましたが、そこまでは、平坦で気持ちの良い林道でした。しかし、そこからは、徐々に踏み分け道状態となります。

岩肌に、植物が茂っていて、山奥みたいな状況になります。
ワイルドな…。

落雷でもあったのか、ぼっきり、見事に道をふさいでいます。割れた部分が、みずみずしい肌色だったので、かなり最近のことらしい。
時々、Mezzolaの湖が見えます。鉱物などが溶けているような色をしている湖です。ほとりに、砂利の工場なのか、そういったものがあったので、石があるのではないかと思いました。

左手に湖、右手に岩肌を見ながら、かなり道なき道状態となっている藪を行きます。

最後の方で、岩がゴロゴロしている登りを、もう這いつくばるようにして進みます。この辺りは、写真を撮る余裕もなしです、笑。Civateは、登りはそこそこきついとはいえ、整備された山道なので、ここを行けばいいんだな、という安心感がありますが、ここは、勿論行きつく場所は一つ、というロケーションではあるとはいえ、若干不安になるような道。これは、一人では絶対に来られないです。
炭焼き窯のあったところから、かなりのアップダウンを経て、約50分。岩場から転げだすような感じでたどり着いた、湖のほとり。
到着です!
向かえてくれる教会の、愛想のないお姿、笑。

サン・フェデリーノ小寺院Tempietto di San Fedelino。
オープンは、4月から10月末の週末、14時から17時。それ以外の時期の見学についての連絡先は、以下となります。
Agriturismo Val Codera
Localita' Giavere, Novate Mezzola
tel 333 780 7686 & 346 224 6391
www.agriturismovalcodera.it
後で触れますが、実は、歩き以外に、この民宿から船で来ることができるのでしたよ。ご興味があるけれど、とても岩山歩きは無理、という場合は、この民宿にコンタクトすれば、すっごく簡単快適に来られます。
そして、そうやってアクセスした方が、インパクトのあるかわいらしいお姿と出会えることができます。

ねね、素敵なロンバルディア様式の、ミニミニ後陣。よいお姿ですよねぇ。
さて、この教会、サン・フェデーレさんに捧げられたものですが、フェデーレさんという聖人、どういう方だったのか。
ローマ軍の兵士だったのですが、キリスト教者となりまして、同様の仲間とともに、284年(私が有する本では、298年となっていました)、迫害を逃れるために、駐留していたミラノから逃げ出したんだそうです。最後は一人となって、この辺りに逃れ込むのですが、結局追いつかれてしまい、改宗を迫られるのに、頑として拒否したことから、首切りされて、埋まられたのが、この場所だったということになっています。
その後、この地域の住民が、殉教者の亡骸を祭るために、小さな礼拝所を建てたのが、教会の起源ということです。
蛮族が押し寄せてきたころ、建物は損壊してしまいます。そんなある日、フェデーレを信仰していた近郊在の女性の夢に現れ、自分が実際に埋葬された場所を告げます。女性は、すぐにコモの司教Uboldoに知らせると、司教はすぐに駆け付け、遺骸を、コモのサンテウフェミアへと運んでいきました。それが10世紀のお話ということです。

そういう経緯のある建物ですので、今ある建物の下には、古い建造物があるそうですが、それが、実際には何に使われていたものかはわかっていないようです。
それにしても、どうして、こんな人里はなれた場所に、という疑問もわきますよね。隠遁所とかそういう性質のものだったのか?
実はここ、岩が採掘されている土地のようなのです。なので、おそらく古い時代から、石を掘り出す人々はいたようなのですね。そういう人たちの祈りの場だったり、集会所だったりするような礼拝所が、あったのではないか、ということらしいです。
今ある、このかわいらしい姿は、10世紀の後半のものとされています。
しかし、到着したのは13時半ごろ。持参のおにぎりをいただいて、カギを待ちましたが、来ません。わたしは、そういうことは日常茶飯事、慣れているのですが、同行者は、ロマネスク病でもないですし、「14時と書くなら14時に来るべきだろう!」とイライラしています。
14時半になっても現れないので、上にも書いた電話に問い合わせると、もうしばらくしたら行きます、ということでした。
仕方なしに、近辺をウロウロします。
北方角と反対側に行くと、すごい岩場が。

斜面に、延々とゴロゴロした大岩が並んでいます。これはすごい昔からこういう状態らしく、このゴロゴロの中に、歩く道があるんですよ。こちらから、岩山に登って、元に戻る道、別方向に行く道にアクセスできるということですが、登山靴でもはいてないと、ちょっと無理。
さらに林を進むと、湖に出ました。

岩ゴロゴロの道を登ると、この正面の岩山の天辺に向かう道に出て、コモ湖の方に降って行く道があるのだそうです。
青緑で、美しい湖の色でした。
まだ来ない…。
おにぎりをいただいたベンチに戻って、ぼーっとしていると、川遊びをしている若者たちが、寄ってきました。

筋肉美の美しい若者でしたが、すっごく感じがよくて、しばらくおしゃべりしました。おばさんになると、なんか変な色気もなくて、色々気楽になることがありますねぇ、笑。きれいだったんで、目がハートになっていたかもしれませんけれど。
昔、ヌードデッサンをやっていたんですけど、その時、男性のヌードも美しいものだなぁ、と気付いて以来、美しい筋肉には、純粋にぼーっとしちゃうんですよ、へへ。
そうこうするうち、もう15時過ぎですかね。鍵の御一行様がやってきました。
そう、このときわかったんですよ。船で来られることが。4、5人のリゾートスタイルのお客さんを連れて、調子のいいおやじでした。
待ちに待った入場です。

淡いパステル調で、大変美しく清潔感にあふれるフレスコ画。
かつてはほぼ全面にあったと考えられていますが、今は後陣部分とそれ以外に、ちょっぴり残っているだけ。

テーマは、祝福するキリスト。キリストの両脇に、天使の姿。彼らの手が、赤い布で隠されているのは、神に対する絶対的な信仰を意味するものです。
下の方には、十二使徒。キリストに比して、非常に小さく描かれています。中央には、聖母がいたのではないかと考えられていますが、窓になっています。ということは、この窓は、後付けのものということですね。
長年にわたる湿気と、人による損害などで、失われてしまった部分が、どういうものだったのか、残念なことです。

修復は、相当頑張ったと見えますが、傷みがひどくて、これ以上は無理だったんでしょう。
時代が下る絵も、あるような気がしました。

持っている書籍に、興味深いことが書いてありました。実は、性格にはどの絵のことなのかわからないんですが、アイルランド起源の装飾ではないかと考えられているものがあると。

アイルランドには、ケルズの書とか、中世の美しい書籍がありますよね。そういう書籍装飾に使用された装飾的な表現様式が伝わってきたもの、とあるんです。
この場所、今では忘れられたような土地ですが、湖のほとりだし、北部との交通の要衝と言えないこともない場所ですから、いろいろな伝播を受け止めている可能性はある土地なんですね。
それにしても、この小さい空間が、全面フレスコ画だったとしたら、あたかも天国に迷い込んだような、トリップし放題、みたいな場所だったかもね。
うまくアップできるのか不明ですが、Youtubeに動画を張ってみました。
San Fedelino
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- 2020/03/23(月) 00:36:39|
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(2018年9月訪問)
前回のCivateの最終回の記事に、ちょっとだけ加筆しました。クリプタのフレスコ画にご興味がある方は、どうぞ、のぞいてみてくださいね。
さて、まだまだ過去の、まとめたいものがたくさんあるのですが、せっかくロンバルディアに戻ってきたので、たまっている地元ロマネスクを、この際やってしまおう、と思っています。地元は、Civateのように有名な場所もありますが、ほとんどはかなりマイナーで、行きにくい場所も多いので、逆にご興味を持つ方がいらっしゃるかもしれません。
今回は、ずいぶん昔から気になっていたものの、行き方すらわからず途方に暮れていた教会です。昨年、Civateにご一緒した友人が、実は、そのあたりに詳しく、行ったことがある、というので、私がCivateにお連れする代わりに、こちらは、彼女が連れて行ってくれるということになりました。
どこかというと、こんな場所です。

これは、ミラノの北の、いわゆる湖水地方。下の方の大きいのがコモ湖です。で、目的は、印が付いた場所ですけれど、実は、道がないんです。このグーグル・マップだと、割と近くに黄色い道があるし、拡大すれば、道があるだろう、くらいに見えるんですが、20万分の一の紙の道路地図だと、完全に道がない場所です。なので、いったいどうやってアクセスするのか、わからなかったんです。
ミラノからだと、コモ湖を、右側から北上して、まずは、Novate Mezzolaという町を目指します。アルプスの足元、と言ったロケーションなので、山が一気に迫ってきます。

その村は、教会から最も近い村となるのですが、実は、教会は村からは川向うに当たるため、村を通り過ぎて、結構先まで進む必要があります。是非グーグルで確認してみてくださいね。村から4,5キロ先に、やっと橋がありますので、そこを渡って、Samolacoという村に駐車して、そこからは歩きとなります。
そう、Civate同様、ここも、通常は歩きでのアクセスとなります。

歩く道がたくさんある、山のリゾートですね。長閑な田舎ですよ。

ここは、村はずれなので、まだ人家があります。田舎っぽいよねぇ、のどかでいいよねぇ、などおしゃべりしながら歩いていたら、この、ピンクのお家に、バンがやってきて、庭に出ていた奥さんと会話しながら、ごそごそしていました。ちょっと笑っちゃったんですが、これ。

庭先に置かれた、この鳥小屋状のもの、なんだと思います?
なんと、パン配達用のボックスでした!バンで来たのはパン屋さんで、ここに大きなパンを二つ入れて、去っていきました。
こんなのは初めて見たので、すごくびっくりしました。パン・ボックス。
この先は、すぐに林となります。

村はすぐそこですが、ここまで来ると、かなり山で、一人だとちょっと怖くて、来られそうもないですね~。
さて、歩き出してすぐ、この茂った林の中に、教会らしき建物の廃墟がありました。

サン・ジョバンニ・アッラルケット教会Chiesa di San Giovanni all'Archettoの廃墟です。目的の教会ではありませんが、興味深い廃墟でしたよ。
後陣側、こんな風になっています。

え?びっくりしますよね。
この教会、建てられた当時は、湖のほとりというロケーションだったそうです。上の地図で見ていただけると、今は川になっている部分が、当時は、相当北の方まで湖だったようですね。創建は、見た通りにロマネスク時代で、16世紀ごろに、内部にフレスコ画が施されたということなので、長い間、教会として機能していたようです。しかしながら、その後度重なる洪水で損害を受け、また、洪水によって、おそらく土地が泥沼化してしまったなどがあるようで、結局ずぶずぶの沼に半分埋まった状態になった、とそういうことらしいです。
20世紀になって、残った部分を修復して、後陣の屋根など、きれいにしたようですが、すごいですよね。教会として使用する可能性もないものですから、放置する方が普通だと思うんですが…。頑張った地元の人たちがいたんだろうなぁ、と思います。
後陣、内側がどうなっているかというと、こんなです。

半分どころか、3分の2くらいは埋まっていますね。
こちらは勝利のアーチだったりするのかしら。すごく立派。

廃墟好きには、結構たまらない遺構になっているかもしれません。
なんだか楽しくなってきました。
この辺りは、まだ平らな道で、秋晴れの9月ですから、暑かったですけれど、茂った木々のおかげで太陽も遮られて、結構買い的な散歩です。
ちょっと進むと、今度はまた、いかにも人工的な石積みが。

ブラタモリで、タモリが、クエスチョンマークを出すようなやつ、笑。
なんだと思ったら、炭焼き用の窯でした。16世紀のもので、この辺りに炭によい木が沢山あったようです。

こんな人が誰も来ないようなところなのに、きちんと説明が置いてあるんですよ。さすが金持ち地域、と感心です。地域の歴史を学ぶ、子供の遠足とかがあるのかもしれません。なかなか立派なものです。

これを超えたあたりから、まさかの山道となります。
続きます。
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- 2020/03/21(土) 03:13:50|
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再び、チヴァーテCivateのサン・ピエトロ・アル・モンテ教会Basilica di San Pietro al Monte、続きです。
過去にホームページに掲載したとき、結構調べて、たくさん書いた気がしていましたが、今見返すと、たいしたことなかったですね。ここは、一つ一つアイテムごとに見ていくと、本当に突っこみ所がたくさんあるし、調べれば調べるほど、いろいろな資料も出てきてしまうし、きりがないようです。が、改めて面白いな、と思っています。
今回も、とても読み切れないし、芸術作品のみを、それも自分が気になった一部のみを書くわけですが、こうなると、定期的に訪問して、その度に何かを発見して、資料を当たる、というような形で、少しずつ、理解を深めていくしかなかろう、という気持ちです。

今の後陣側は、構造はがらんとしていて、その真ん中に、チボリオがあります。チボリオは、通常、後陣にある装飾類を隠してしまうことが多いし、その構造そのものが、あまり好きではないのですが、ここでは、これ以外の装飾がない場所ですので、問題なし。
2007年に訪問したときは、チボリオを含む全体を修復中だったと思います。それに、前述のように、あまり好きなアイテムではないので、ほとんど細部までは見ていなかったように思います。
(自分のHPからの引用)「身廊の中央部、一段高くなった祭壇部分に、Ciborio(聖体用祭壇)があります。美術史上、このバジリカでもっとも重要性が高いと思われます(個人的には、フレスコ画や漆喰模様の方が好みですが)。装飾的にも 建築学的にもミラノのサンタンブロージョにあるものと非常に似ているのだそうです。屋根の破風部分に、キリスト教教義の要点が表されていて、キリストの死、復活などの場面が、漆喰装飾で 表されています。左は、入り口に向いた正面部分。教会に入ってくる人に向けた第一のメッセージで、ビザンチン起源の図像、勝利するキリストのイメージに従った十字架のフィギュアということです。キリストは穏やかな顔をしており、脇で苦悩する聖母、使徒ヨハネがいます(この辺の感覚は、勉強不足でよくわからないのです)。北側(正面から右)は、復活(マグラダのマリアが、空っぽの墓の前にいる場面)、西側は、キリストがサン・ピエトロに本を、サン・パオロに鍵を与えている場面、南は、二人の天使に支えられたアーモンドで囲まれた玉座に座るキリストで、これは昇天を表しているもの。四隅の 円柱の柱頭上には、鷲、ライオン、牛、人と、四人の福音書家のシンボルの像がつけられています。内部は、クーポラの四隅に、黙示録の四大天使、そして18人の聖人に囲まれた子羊(キリスト)が中央に おかれています。」
ふふ、当時からチボリオ嫌い、笑。この後も、あちこちで目にしているアイテムですが、好きになれないままです。
今回資料を見ると、どうやら、上物や柱頭は、再建臭いです。ちゃんとした再建だと思いますが、なんかゴシック臭もあり、あまり好きになれなかった理由が腑に落ちます。
このチボリオが注目されるのは、ミラノのサンタンブロージョ教会にあるチボリオとの共通性です。ミラノのは、これ。これも、2018年同時期に訪ねました。久しぶりのサンタンブロージョ。

ほぼ同時代の作品らしいのですが、教会の規模が違いますから、まず、大きさはかなり違います。そして、経済力と土地の性質から、マテリアルも相当違うようです。当然のことながら、サンタンブロージョは、より高価な材質を多用していると。一方、チヴァーテでは、地域で手に入るものしか使えないわけです。
また、当然石工さんの技術力も違いますね。ミラノでは、工賃を気にせず発注したくらいのものがあると思いますが、チヴァーテの山の上で、おこもりしてくれる石工さんは、限られたでしょうからねぇ。
では、この相似はなぜか、と言うと、同時代、まずこちらサンタンブロージョのチボリオがあったのを、どうやら真似したんでは、ということらしいです。結構単純で下世話、笑。サンタンブロージョからは声がかからない石工さんが、俺だって、と思ったのかどうか…。でも、コピーって、ちょっと寂しい気もします。
先述したように、以前訪ねた時は、修復中だったこともあり、よく見られなかったのが、上物の内側です。

これは、きれいでした。ライトアップされているので、よく見えますし、全体にパステルカラーで、すがすがしく美しい。描かれているのは、HPからの引用通り。
四隅にいるのは大天使だったのですね。とてもかわいいんですよ。

喜びいっぱいで踊ってる感じ、どうです?
どの大天使もこういうポーズで飛び跳ね感満載です。
この部分の装飾は、ミラノのチボリオにはないものです。が、もしかすると、オリジナルはあったのかもしれませんね。または、材質も技術もいまひとつな中、何かできないか、と考えた結果の装飾かもしれません。
さて、もう一カ所、訪ねるべきはクリプタとなります。

ロンゴバルドとか、ビザンチンとか、この土地を通過した文化が、少しずつ残っている、今残っている建物の中で、最も古い時代の構造となります。
不ぞろいの柱は、もともとは、漆喰による装飾で覆われていたもの。長年にわたる湿気などで傷み、すべてはがれてしまったのです。
このクリプタは、冬季や、夜間の祈りなど、気温の低い時期に使われていたもの。そういう時に、多くの人々が入ることで、熱や湿気、はたまた二酸化炭素の影響などもあったんでしょうかね。そう考えると、よくも、これだけ残っていたものだと感心もします。
柱頭もまた、ストゥッコ装飾ですが、こちらは、結構ちゃんと残されています。
惜しいのは、それよりも、壁面を覆っていたであろう、多くのストゥッコ・レリーフが失われてしまったことです。残されている一部を見ても、素晴らしいもので、きっと、他の壁面にも、新約聖書のエピソードがあらわされていたものと考えられます。
祭壇の左に、「幼子の神殿奉献と、シメオンの賛歌」があります。

これだけじゃ、私など、解説なしにはさっぱり。本来は、右側に、ジェズを抱えたマリアがいるはずなんでしょう。左側にいるのは、シメオンとアンナ。シメオンが、広げた布の上に、幼子を抱き取ろうとしているところです。
その前に置かれた円柱的な祭壇みたいなものは、ユダヤ教の祭壇にも見え、また、古代ローマの祭壇にも見えるようにあらわされているそうです。彼らの背後にある建物は、エルサレムの神殿で、当時こういうものであろう、と考えられていた様式であらわされているそうです。
こういうのって、中世期の表現には結構あって、面白いと思う点の一つ。風聞だったり、時代が違う人を表しても、自分の時代の衣装を着けちゃったり。
祭壇のところは、エピソードが二段構えになっています。

ちなみに、この両脇にあるつけ柱の装飾ですが、おそらくこういう漆喰装飾が、すべての柱を覆っていたものと思われます。豪華なクリプタだったのですね。
下段には、キリスト磔刑図。残念ながら、キリストのお姿が傷んでいます。これは、かつて、ろうそくの火からボヤが起こって、この部分だけが、傷んでしまったということなんです。もしかすると、当時、キリストが身を挺して、自分の身体だけで被害を抑えた、とか伝説ができたりしたかもしれないですね。
ここでも、昨年、一昨年、どちらの訪問時もガイドをしてもらい、面白い話をたくさん聞いたのですが、メモが見つからないので、涙、きいた話で、印象的だったことを一点だけ記しておきます。
この、磔の十字架部分に注目です。

渦巻き状の模様が彫られているのがわかるでしょうか。これは、十字架の木が芽吹いている様子なんです。十字架にされた時点で、木は成長をやめて死んだものとなるはずなんですが、芽吹く様子を描くことで、復活を表しているという話。
プーリアの洞窟教会でのビザンチン絵画を見学したときも、同様の表現があり、感心したのですが、これは、ビザンチンの図像学となるのでしょうか。またはカトリックも同様なんでしょうかね(でも、今回紐解いた書籍には、「宝石のちりばめられた十字架」、とありますので、真偽は不明)。
キリストの磔刑像の両脇にいるのは、洗礼者ヨハネとマリア。あれ?デエシス?とか思ったり、そうすると、やはりビザンチンか?
いやいや、これ、普通の図像みたいですね。
全体像に戻ると、ヨハネとマリアそれぞれの近くに小さく描かれたのは、兵士。オリジナルでは、それぞれが槍と棒を手に持ち、その先にお酢をしませたスポンジをさしていた、とあるのですが、お酢?死に際のキリストに、のませようとする人がいたということらしいですが、お酢というより、ダメになったブドウ種なのかな。
なんでそんなことがわかるかというと、右側の兵士の腰に、そういう容器がぶら下げられているからだそうです。エピソードの細部まで知らないと、そんなのわかりませんよね。
でも、しょっちゅう教会に行って、いろんな図像を見ているんですけど、聖書そのものを読み込んでいないし、なかなかエピソードが頭に入らない。毎度、情けなくなるのですが、この槍を持った兵士が、有名なロンギヌスなのですね。ロンギヌスの槍って、そういえばアルメニアにあるみたいです(アルメニア、この夏に行こうと思って、いろいろ調べていたのですが、コロナで無理になりましたので、とても残念です)。
さて、上部は、聖母被昇天図となります。

右側でぎゅうぎゅうしているのが、天の国の人たちで、マリアの昇天を今か今かと嬉しく待っています。先頭で、十字架付きの立派な光背を背負って、祝福しているのは、キリストその人。
左側で片手を頬に充てる嘆きのポーズをとっているのは、地上の人々です。
天使が、マリアの魂を持ち上げている上部に描かれた町は、勿論天の国。
皆、極限的な歯痛を我慢しているような憂鬱さ前回の地上の人たち。

それに対して、美しいお顔を引き締めて、早く俺たちのもとに!と言わんばかりの自信満々、強権発動的な天の人々。キリストそのものの、きかんきな有無を言わせぬ様子、ただ事じゃないです。

ジェズのエピソードから磔刑までですから、主だった新約聖書のエピソードが、ちりばめられていたはずですよね。残念です。
もう一つ触れておきたい装飾は、フレスコ画。
クリプタのトップの写真、全体増で、右側の壁面(南壁)に見えるものです。

クリプタは、先述したように、もともと冬場とか夜間とか、暗い時に使用されることが多く、暗闇では、凹凸があるレリーフ装飾の方が、目に見えやすく、意義があったであろうし、また、少ない光で増幅されて、効果的であったろうという説、理解できます。でも、このクリプタが作られた当時は、結構光が入ったはずで、特に、このフレスコ画が並んでいる側には、自然光が入り、フレスコ画装飾の意味もあったはず、ということらしいです。
で、その光を寿ぐように、数人のフィギュアが描かれています。
いずれも、油を入れた容器がぶら下がったたいまつを持っている図。
そのうち、最もよく全身像が残っているのが、サンタニェーゼSant'Agnese、聖アグネス、上の写真です。
(2020.03.20.加筆)
いつも訪問いただく方から、このフレスコ画のモチーフについての疑問を伺っていたのですが、お答えになる文ではなかったので、加筆します。
この、Civateをケアしている団体の見解としては、建設当時の構造では、このフレスコ画の描かれた面には、外光がよく差し込んでいたことから、光を祝う儀式がモチーフになっているということなのです。たいまつを掲げた複数の人の並ぶ姿が、それであると。
一部で、「賢い乙女」がモチーフではないか、という説も、確かにあるようです。油つぼとたいまつですから、確かにそれも納得はできるものです。
ただし、描かれている人物には、男性も混じっており、全員が同じようにたいまつを掲げているようなので、単純に賢い乙女というのも、違うようにも思われます。
アニェーゼについては、何とも言えませんが、後付けの可能性もありますが、ルチアの名前も見られるようですから、人気聖人コスプレ、笑、みたいな発想だったかも知れませんよ。
(加筆終わり)
アニェーゼは、確か10歳くらいで殉教した少女だったと思います。ローマに、彼女にささげられた立派な教会があり、その後陣モザイクに、美しいお姿を見ることができます(ローマの中世書庫で、見ていただくことができます)。
ここで、念のため聖人辞典を調べてみたところ、なんとアニェーゼは、二人いることがわかりました。一人は、私も知っていたローマの少女。もう一人はギリシャ出身の大人の女性で、神殿で衣服を脱ぎ棄て裸身になったところで、生贄になるのを拒んだところ、神の望みで髪の毛が伸びて裸身を隠し、白い衣服をまとっていたと。
なんだか、かなり異なる二人ですが、どうも、この二人が一緒くたになったのが、アニェーゼという神格のようです。
ローマのアニェーゼはローマに実際に住んでいた少女のようなので、教会モザイクも彼女のものと思いますが、アニェーゼという名前はギリシャ起源で、純粋とか純潔を表す者等いことなので、ここでも何らかの混乱というか、入り組んだ様子です。
ビザンチン世界では、大人のアニェーゼ信仰がありそうですね。
あんまりかわいいんで、ちょっと貼っときますね。

ま、最後はアグネスちゃん、となってしまいましたが、チヴァーテ、面白さがわかっていただけたでしょうか。登山はちょっときついですが、登る価値は大。もう体力的に登れない方には、一年に一度、ヘリでのアクセスも可能ですので、是非。

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- 2020/03/16(月) 02:32:35|
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