(2020年7月訪問)
Covid-19のせいで、生活がいろいろ変わりましたし、数か月はひきこもり生活となったわけですが、それでも何かしら良いことはあるもので。いや、良いかどうかはわかりませんが、なかなか遠方に行けない分、ロックダウン後に、日帰りのお出かけ頻度がアップしました。別にストレスを感じていたわけでもないのですが、単純に外出したい気持ち、そしてまた、ロマネスクに浸りたい気持ちが、どこかにあったせいもあるとは思います。
で、日帰りですと、当然ミラノ近郊となるわけで、そういえば、しばらく近所の訪問をしていなかったなぁ、と気付いてしまいました。
この数年、夏休みなどの長い旅は、フランスやスペインなど外国中心で、そもそもイタリアは、おろそかになっていたし、近郊は本当に行かなくなっていたんですが、考えたら、ロマネスク修行を始めた当初は、日帰り訪問が基本で、情報を探しては、まめに出かけていたのですよね。
それっきり行けてない場所が、実は結構あります。写真も、以前はCDやDVDに保存していたのですが、パソコンが変わるにつれて、そういう媒体を読み込むことができなくなっていたりして、古い写真は、もはや取り出せなかったりもします。だから、今後は、近郊の再訪もして、新たに撮影するのも大いにありだな、と改めて思う今日この頃です。
今回は、そういうロマネスクの一つ。いや、ここは、実は存在は知っていたけれど、なぜかこれまで訪ねるチャンスに恵まれなかった場所だったんです。
ある日、ミラノからピエモンテに用事で行くという友人に同行しました。時間もあるし、高速を使わないで行く、ということで、地図をたどりながらののんびり旅。
途中、まだロンバルディア州内ですが、地図に、ずいぶん昔に印をつけた町に気づきました。その地域で、印がついているほとんどの町は訪ねているのに、ここだけは記憶がありません。
せっかくなので、ちょっと立ち寄ってもらうことにしました。
それがこのブレーメBremeという町です。
見るからに小さくて、実際も小さい町なんですが、そんな中に、中世の教会と洗礼堂と、そして、他の教会のクリプタがあるんです。びっくりです。なぜ、過去に訪ねていないのかもびっくり。たぶん、当時は、あまり情報が出てこない場所の一つだったのではないかと思います。
ロンバルディア州とピエモンテ州との境目、パヴィア地域となり、米どころゾーンですが、この一帯には、小さくて地味で、でもかわいらしいロマネスクが点在しています。
まずは、今は住宅街に埋もれたようになっている教会。
サンタ・マリア・アッスンタ教会Chiesa di Santa Maria Assuntaです。起源は10世紀と古いものの、往時の面影を残す部分は、ほとんどない様子です。でもおそらく、往時も、こういうレンガ造りではなかったかと思います。
中も、全部新しくなってしまっています。
なのに、後ろ側、つまり後陣側に位置する洗礼堂は、古い時代の建物が、しっかりと残っているのですよ。
そちら側に回り込むと、こういう様子です。
こ、こりは…!
すっごく私好みの古さ。私好みのロンバルディア・アーチ、うっとりものです。
8世紀から9世紀とあります。
もともとレンガと、川石をミックスした建材でできていて、三つの後陣を持つ立派な建物だったそうです。お隣の教会とはそれぞれ独立した建物となっていて、ブレーメの人々はもちろん、近郊の人々の先例に使われた、地域唯一の洗礼堂だったのですねぇ。
今は、教会と一体化されちゃって、教会内の礼拝堂のようになっているようです。今回は、残念ながら開いていなかったようですが、まさか礼拝堂のようになっているとは思わなかったので、きちんと確認できていないのは残念ですが、おそらく、また訪ねるチャンスがあると思っています。
もう一つ、というより、おそらくもともとこっちの方が気になっていたものだと思いますけれど、修道院Abbaziaです。
一部が、今は市役所として使用されているようですが、この正面向かって左側に、結構大きな修道院施設が、おそらくかなりオリジナルに近い様子で残っているのですよ。
ロックダウンが終わった直後だし、なんだかいかにも開いてなさそうな施設なのに、とりあえず、鉄扉は開いています。わくわくしながらも、中は閉まっている可能性があるから、過度に期待しないように気持ちをセーブしながら、中へ。
すごくわかりやすい!
その上、閉まっていても驚かないような扉、全開!
この通路を通り抜けた先に、地下に降りる狭い階段があり、なんと親切なことに手動の電灯スイッチまであって、アクセスできました!10世紀のクリプタです。
雰囲気、すごく10世紀。レンガ、こういうのって味があります。
床面は新しくなっているし、全体に修復がかなり行われた様子ですが、それでもなお、古い時代の雰囲気が残されており、うれしい邂逅でした。
脇に、アクセスはできないけど、覗けるようになっているスペースがありました。
アクセスできないようになっているのは、後代の構造で、この、左手に見えているのが、本堂からのアクセス階段なんだと思います。今は、上にあるはずの修道院教会はアクセスできなくなっているので、荒れ果てているとか、いずれにしても、もう教会として使っていない建物のはず。だから、本来のクリプタの構造ではなく、ほんの一部だけが残っているという形なんだと思います。
その上物、サン・ピエトロ修道院の、わずかな名残が、この壁部分です。どうやら、屋根も落ちちゃっているんでしょうね。残念。でも、よくぞクリプタが無事に残ったものです。
修道院は、17世紀まで活動していたようなので、没落してからは早くダメになったのですね。教会以外の構造は、結構きちんと残っているので、一体何が起こったのか疑問もありますが、単純に戦時中に損壊したとかいう単純な理由かもしれません。
地味ですが、ミラノから日帰りで行ける範囲、結構数がありますので、すでにブログでも紹介している場所も含めて、今後は再訪が目標です。
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2020/08/09(日) 00:51:44 |
ロンバルディア・ロマネスク
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(2019年1月訪問)
この際、なかなかアップする暇がなかった、ちょいとマイナーなご近所も、一気にやってしまいますね。長期休暇の修行以外にも、時々は、ふらふらとご近所に行っているんですよ。実際、訪問できていない場所は、まだ沢山あるのですよね。
自分が持っている数少ない紙の資料だけでも、丹念に見ると、ここもあそこも、まだ行けてない、と焦るほど。
今回の記事も、そういう場所の一つです。
カソレッツォCasorezzoのサンティ・サルバトーレ・エ・イラリオ教会Chiesa di Santi Salvatore e Ilarioです(住所Via San Salvatore, Casorezzo、鍵は、地元お住まいのアントネッラさんが保管しています。電話番号持っていますので、必要があればご教示します)。
見るからに、わざわざ、なぜ?というお姿ですよね。でも、愛用のJaca Bookロンバルディア版に、堂々と写真入りで掲載されている教会です。
いつものように、くだらない前ふりから、笑。
お天気の良い週末に、ふと行こうと思い立ちまして、おおよその場所だけ調べて出発しました。正確な住所は不明だったので、すぐには分からず、何人かに訪ねながら、何とか到着。村の北ハズレに当たります。教会の南側に市街が広がり、北側には草原が広がっています。
たどり着いたものの、扉は固く閉ざされていますし、何も書かれておらず、途方に暮れて、周りをぐるぐるしていました。すると、青年が、犬の散歩に来たのです。トップの、後陣左に見える人です。
慌てて近づき、カギのことを訪ねると、今日は日曜だから人がいるのでは、そこの扉をたたいているといいよ、と。え~、そんなことあるかなぁ、と疑問に思いつつ、何度もノックしたものの、まぁ、当然な感じで、応答はなし。
犬を遊ばせている青年に、再び、いない様子を伝えると、それなら、町の教会に行ったら、何かわかるかもよ、と教会の場所を教えてくれました。
せっかくのお天気なので、車はそこにおいて、徒歩で、教えてもらった道を教会へ。6、7分でしょうか、町の中心に普段使いの教会がありました。
鉄柵が閉まっていのですが、呼び鈴を押す間もなく、丁度人が出てきて、「あれは我々の管轄ではなくて、カギ番がいます」と、カギ番さんの電話を教えてくれたのです。
サン・サルバトーレ教会に戻りながら早速電話をしてみると、「すぐ行きます」と言ってくださいました。嬉しくて、超速足で戻りましたが、結局20分くらい待ちましたでしょうか。アントネッラさんではなく、旦那さんが車でやってきました。
今考えると、昼時で、おそらく奥さんはランチの準備中だったと思います。どこでもかしこでも、我ながら図々しいことをやっているなぁ、と反省中。一年遅いですが、笑。
ここからが本題ですね。
先ほど、どんどんとノックした扉をくぐり、後陣側から入ります。
そう、目的は、フレスコ画だったんです。だから、入らないと、まったく訪ねる意味がなかったため、この日は、しつこく頑張って、カギを求めたのでした。
トップの写真でわかるように、教会の建物はもうほとんど変容してしまって、往時の面影はないも同然なわけですが、そうはいっても、もともと小さな教会であったことに変わりはなさそうです。それでいて、ずいぶんと立派なフレスコ装飾がなされていた様子なのは、ここもまた、立地的にはコモ湖畔にも通じるものがあります。つまり、ミラノからフランス方向へと通じる交通の幹線に近いということです。
1990年代の発掘により、今の後陣が、17世紀に西向きにされたことがわかっています。教会の創建は11世紀とされていますが、両壁は、そのままで、後陣と入り口だけが交換されたというもの。壁は、今は内外とも漆喰ぬりされてしまって、そうは見えないのですが、漆喰の中は、11世紀の石積みそのまま。
鍵番さんは、ガイドもしてくださったのですが、このタイプの小さな開口部がいくつかあるのですが、これらのために、フレスコが残ったのではないかということを話してくださいました。
外側は、一応透明な板が張られていますが、密閉ではないですね。
今ある後陣は西向きなので、そちらから入って右の壁が南となり、それで、南壁に遺された最も古いフレスコ画の意味が分かったということです。
その南壁のフレスコ画、なんといっても、このエリザベツご訪問が、大変良い保存状態で残されています。
フレスコ画が二段で描かれており、赤い帯で区切られています。この赤は、もしかするとすごく鮮やかだったのかもしれないですね。
物語は、南東の上から、つまり、今の入り口寄りの上の方から、ということになりますが、そこから始まり、受胎告知、エリザベツご訪問、ベツレヘムへ向かう場面、生誕場面、マギの図。下の段は、今の扉近くから後陣へ向かって、ほとんど欠落していて正確な内容不明な図(マギの夢とも考えられているようです)、神殿奉献。その後、幼児虐殺、エジプト絵の逃避、神殿でのジェズなど、続いていたと考えられていますが、残念ながら、ほとんどは、ほんのわずかの部分が残されているだけです。
これが、エリザベツ訪問の真下にある神殿奉献で、この二場面だけが、よく残っています。
聖母から差し出されたキリストを、恭しく抱き取ろうとしているのがシメオンさん。ヨゼフが差し出すつがいのハトは、生贄。右の方にいるのは、預言者アンナさんらしいです。忠実な再現図っていう感じですね。人物それぞれに、ちゃんと名前が記されているのも、すごく真面目な画家さんって感じ。または、あれか?ビザンチンの影響があるとか?
今の後陣寄りにも、壁は残されているのですが、もうほとんど内容がわからない状態です。
わずかに残っているのが、この部分ですが、ベツレヘム?何でしょう。
下の方は、ほとんどシノピアだけが残っている様子ですから、剥落しちゃったのでしょうかね。残念なことです。絵の上に傷が浸かられているということは、上に漆喰が塗られていたことだと思うのですが、古い絵が守られることなく、かぶせられた漆喰とともに持って行かれてしまったんでしょうかね。
一番西寄りの部分には、神殿らしい絵が見えます。
これだけの情報から、色々解明する研究者は、やはり偉いですね。
さて、これらは南壁ですが、北壁の方は、西側上から始まり、エルサレム入場などの受難のストーリーが描かれていたようなのですが、もうほとんどの部分は欠落していたことに加えて、16世紀のフレスコ画となっています。
その一連の場面からはみ出す絵もあり、時代が違ったり、いろいろあるようなんですが、下のは、13世紀のもの。若い聖人が十字架を持っていますが、これは、傷もないまま残っている様子からすると、下に、11世紀のフレスコ画があるのかもしれませんね。
その右上にあるのは、一層下の部分で、おそらくこの部分が11世紀ではないかと。なんという集積。
こちらも、11世紀のものが、かろうじて残っています。
場面の縁取りの様子などからも、時代がうかがえるようですね。確かに、時代によって違ったりします。色使いもそうですね。
数は少ないながら、じっくりと拝見したいフレスコ画だったんです。でも、カギを持ってきてもらっているし、それも昼時でしたから、カギ番さんのことを考えなければいけなくて、思う存分というわけにいかないのが、辛いところ。
また、お話をしていただく以上、きちんと聞かせていただきたく、そうするとぱしゃぱしゃと撮影ばかりしているわけにもいかなくて、実はあまりよい写真も取れませんでした。こういう時、一人での見学は、制約が多いです。
この教会に関連して、同時代のフレスコ画がある地域の教会情報も見ましたので、ある日思い立って出かけてみたいと思っています。ある日思い立ってお出かけできる日常に、早く戻りたいものです。
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2020/04/11(土) 20:22:31 |
ロンバルディア・ロマネスク
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(2020年2月訪問)
久しぶりのコモ湖周遊、最後の登場は、コモです。と言っても、ここは、今年に入ってから、ふと訪れたのですけれど。考えたら、今年最初のロマネスク、ということになるのかな。
コモの町はずれにあるサンタッボンディオ教会Basilica di Sant'Abbondioです。
過去に二度ほど訪ねているのですが、実に久しぶりで、周辺の駐車場に関する記憶など、すべて思い違いも甚だしくて、記憶のあてにならなさを実感しました、笑。
最後に訪ねたのが、過去の記事を見ると、2008年7月です。10年以上の間を置くと、さすがに周辺の状況も、多少は変わっておりました。ブログ様様、本当にありがたい記憶庫です。
冒頭に記したように、コモの町はずれ、結構なハズレとなっております。それにも関わらず、立派な建物で、ちょっと疑問を感じませんか。
実はここ、Via Reginaなんですね、ほとんど。
これまでの記事で触れたと思いますが、Via Reginaは、ロンバルディアと北部ヨーロッパを結ぶ重要な道で、ちょうどこのロマネスク時代あたりに、整備が進んだものです。巡礼や交易に欠かせない幹線だったのです。
中世以前、すでに初期キリスト教時代にも、状況は同様だったようで、実はこの教会の下には、初期キリスト教時代、4/5世紀ごろの使徒教会Basilica Apostolorumがあります。
今ある建物よりは、小さいものだったようですが、ラテン十字の一身廊、小さな内陣、大きなナルテックスがあり、正面には五つの扉があったということまで分かっているのだそうです。
今の教会のファサードは、後代の手が入っていたものを、ロマネスク様式に無理やり直した、という経緯があり、その賜物なのですが、手が入ったにも関わらず遺されたものが、おそらく、その初期キリスト教時代の教会の遺構なのかと思われます。
同じような写真を並べて恐縮ですが、この、ファサード前と道との間のスペースは、なんとなくナルテックスの後かな、と考えられなくもなし。
そして、ファサードに張り付くつけ柱が、ナルテックスの天井を支えるアーチの根元だったのかな、と。
初期キリスト教時代の教会は、カロリング時代に、多くの装飾が加えられ、徐々に変貌を遂げた後、11世紀初頭に、ベネディクト派の管理となり、その潤沢な資金により、さらに多くの変貌を遂げたそうです。その結果として、11世紀終わりごろ、修道院としての機能も併設して、修道院教会となったようです。教会が先で、修道院が後、というのも、ちょっと珍しい気がしますね。
その修道院部分は、過去に訪ねた時は全く分かりませんでしたが、上の写真で、ファサードに向かって左側に、回廊があるのです。2006年に修復されて、大学施設になったようです。
本堂から、ちらりとのぞける場所がありました。近代的な様子になっています。基礎はそのままに、内装から何から、新しくして、今の仕様に耐えるようにすることは、よく行われますが、すごいことですよね。
内部は、ロマネスク的には、かなりシンプルです。
ほとんどの柱頭は、のっぺらぼうだし、円柱も、しっかりとそろっていて、風情もあまりなし、笑。ほんのわずか、古そうな彫り物が残されています。
一個だけ、やけに手の込んだやつが。
グリーンマン系ですね。副柱頭の組紐帯は、あちこちにはめ込まれているので、おそらく、初期キリスト教時代からカロリング時代には、もっと彫り物があったのではないかと想像します。扉口とか、後陣外側の窓枠とかに、多くの緻密な彫り物があるので、内部も、本来はそういったものがあったはずに違いないと思うのですよ。
私の持っている本によれば、北側の柱頭は、フィギュアもの、南側は植物モチーフ、とありました。そうだったかなぁ?
装飾性には乏しくとも、この堂々とした円柱の存在感は、なかなか。
ちなみに、後陣全体を覆っているフレスコ画は、14世紀半ばのもので、私の好みではありませんので、いつ行っても、じっくり見たことはないのです。悪しからず、笑。
修復されていて、ピカピカ、かなり良い状態です。
では、扉口へ。
ね。植物系も組紐系も、動物フィギュアも、繊細でかわゆし。ネコ系ライオンと鳥は、左右同じ。これは、かなりの部分、再建なのかも。またはやりすぎの修復。
ぐるりと南側の壁を回って、後陣の方へ。この辺りの壁の様子、シンプルな装飾も含めて、とても好きです。
レンガを入れたのは、修復した人の考えなのか、それとも、もともとそういうものが見られたのか。ちょっと唐突な感じがします。かわいくて、好きですけどね。
付け柱は、こういう様子だと納得できるのですが、それと連動しているアーチの厚みが、深いですねぇ。印象的です。この半円つけ柱、実に味があります。私の大好物。
先に記したように、窓枠に、様々な彫り物装飾があります。
ここも、再建入っていると思いますが、モチーフがなんだかよい感じです。
近づけないのが残念ですが、美しい後陣の眺めです。
ちなみに、二本の塔の一本は、後代の再建。どっちだと思いますか?(南側が、19世紀の再建。)
前回と違っていたのは、ファサード側のスペースにアクセスできるようになっていたことです。
ここ、教会前の道がVia Reginaになっていたと思うのですが、すごく狭いんです。その向こうは、鉄道線路がすぐ迫っているし、以前は、ファサードに向かう位置も、道はあってもアクセスできなかったと思うんです。
だから、ファサード全体を撮影するのに、苦労した記憶があります。それが、その道にアクセスできるようになっていて、線路の下をくぐって、反対側に、出られるようになっていたのです。
これ、多分、ミラノから、Como San Giovanni駅に行くヤツだと思います。町から遠い方の駅です。車窓から見えるんですが、こういう風に撮影できるところには、容易にアクセスできなかったはずなんです、昔は。
ま、私の記憶など、まったくアテになりませんけどね、笑。
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2020/04/11(土) 00:20:09 |
ロンバルディア・ロマネスク
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(2019年10月訪問)
グラヴェドーナGravedona続です。
サンタ・マリア・デル・ティーリオ教会Chiesa di Santa Maria del Tiglioです。
全体に、縞々のツートンカラーとなっています。灰色の石が、Moltrasio産で、白は、Musso産の大理石。どちらもコモ湖周辺の土地ですから、地産地消と言いますか、加工できる石が豊富な土地だからこそ、コモの石工集団が発達したのでしょうね。
ところどころに、白の代わりに、ピンクがかった石が挿入されているのですが、これが、装飾的なものなのか、どうなのか。全部がきっちりと同色で縞々よりも、デザイン性が高いというのか、アクセントになっていると思います。この、違う色の挿入で、縞々感は、かなり薄まっていると感じますので、それが意図するところだったのかどうか。
それとも、あれですかね?ロマネスク建築では、度々出会う、あえての不完全性ってやつ?一辺が歪んでいたりとか、神の完全性を侵さないように、あえて不完全なものを作るっていう。
この鐘楼、35メートルもあるのだそうです。
昔は、この辺りに、背の高い建物もなかったでしょうから、ランドマークとしては、とても目立つものだったのでしょう。
でも、それなら、湖側に建てた方が、より意味があったのではないか、と思ったりもします。
これ、後陣側ですが、ほら、湖のほとりなんですよ、すぐに。
湖側の後陣は、こういう様子です。
あ、でも近いと見えない鐘楼も、湖上からは、ちゃんと見えるから、それなりにランドマークであったということかな。
後陣側も、ちゃんとツートンカラーですが、とっても控えめで、渋い縞々ですよね。
縞々というと、なんといってもトスカーナはプラートやピストイアなどの、白と緑の激しいやつを印象しますが、あれは、ああいう石があるからこそああなったということなんでしょうね。
さて、正面側に戻りますが、鐘楼は、上部が八角形となっています。段毎に、サイズの異なる開口部があるのは、ロマネスク仕様ですが、今ある姿は、16世紀前半頃のもののようです。確かに、開口部が、ロマネスクのものだったら、もうちょっとバランス均衡的ですよね。これ、一番上の二連窓のバカでかさに比べると、その下の二連窓が、ちっちゃすぎで、ちょっと変。
この、ファサード組み込みの、スタイルは、フランスのブルゴーニュ地方やアルザス地方によく見られるもの(Clocher-porche)で、この土地が、それらの地域と深くつながっていたことの証左とあります。前回紹介したPiuroも、変容が激しいとはいえ、同じスタイルでしたよね。
アルザスなどは、もっとドイツ的に、西構えの日本鐘楼ドカン!というタイプも多かったように記憶しますが(早く、アップしたいものです、涙)、ブルゴーニュあたりだと、確かにファサード鐘楼一体型、というスタイルは多かったような。
なんせ、Via Regina上にある村ですから、フランスやドイツの様式が日常的に入ってくる土地ではあるわけですね。
白い帯の部分に、よく見ると、浮彫があるのがわかるでしょうか。
ケンタウロスとか、鹿とか。
これらは、どうやら、この辺りで見つかったものを、はめ込んだらしいです。ローマのものがあったり、初期キリスト教時代のものがあったり。
これなどは、おっぱい?
大きな切り石にポツンとある感じで、もともとどういう状態であったのか、まったく分かりませんね。軒持ち送りなどに、こういうものがあったことはありますけれど、これ、部分だけを大きな石に張り付けているのかなぁ。
では、入場します。
ほぼ四角な感じで、上部にマトロネオ的な構造物があります。もともとは、初期キリスト教時代の洗礼堂だったと考えられており、それを基本に作られたがために、こういう四角構造。一部、その遺構が見られます。
例えば、床です。
かつては、床面がモザイクで覆われていたのですね。初期キリスト教時代には、よくあるスタイルです。
彫れば、もっと出てくるのか、すでに損壊が激しいのでこれだけ見せているのかは分かりませんが、いずれにしても、床面全域がこうだったことは間違いないですね。
今よりは、一回りも小さい建物だったようですが、それにしても、手間暇のかかる、つまり金のかかる洗礼堂を作っていたということです。
この床面モザイクは、1900年代の修復で発見されたそうです。
さて、マトロネオのような構造物ですが、どこからアクセスするのか。
これは、入り口のある西側壁となりますが、どうやら、この壁の中に、階段があるようです。それで、マトロネオや鐘楼へのアクセスができたそうです。確かに、厚みが半端ないですよね。ちょっと面白そうですが、公開はしていないので、今でも使用可能なのかどうかは不明。
実は、勝手にマトロネオと呼んでいますが、この構造の目的は、実は不明だそうです。おそらく建築学的に、石の重量を拡散軽減する技術的な必要から作られたのではないか、と考えられてはいるようですが。確かに、信者のためのスペースとしては、高すぎますし、実用性が感じられないです。
壁面にあるフレスコ画は、ほとんどが14世紀以降のもので、私はあまり好きではないのですが、ちょっと興味深い話があったので、記しておきます。
上の写真ではなくて、東側の後陣側のフレスコ画だと思うのですが、聖母子とマギが描かれています。
下手な写真で、判別しにくいと思いますが、これは、結構後の時代の再建フレスコらしいです。なんかマギが持っている贈り物が、浮き出しになっていて、変ですよね。
オリジナルのこのフレスコ画が、描かれた時なんでしょうか。二日間にわたって、輝き続けた、という伝説があり、この逸話は、当時の多くの史書に記されているそうです。
東側にあるとはいえ、本当にこの場所にオリジナルがあったとすると、マトロネオ的構造で光が邪魔されるため、自然に明るい場所ではないはず。今は、ライトがあてられているので、変に光っちゃってるくらい、まさに輝いているわけですが、当時は、ほとんど真っ暗だったのではないかなぁ。でも、もしかすると側壁の窓から、光が当たる時間があるのかもしれないし、そういう伝説には、理由があるような気がするんですよね。
上の方の西壁右側の壁面には、木製のキリスト像があります。
これは、12世紀の作品ということです。立派な彫り物ですよね。でも、実際にここにあったものかどうかは、分かりません。
植物モチーフの立派な柱頭がいくつかありました。
アーカンサス系は、コモのサンタッボンディオSant'Abbondioとの共通性も感じられるということですが、そちらは次回、紹介しますので、確認してみてくださいね。
つくづく、まだまだ行かねばならない場所がたくさんあることよのぉ、と感心しています。
また、昔に訪ねたっきりの教会は、写真も陳腐化しているので、再訪するべき、と感じました。そういうわけで、つい最近、サンタッボンディオにも行ってきた次第なんです。
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2020/04/05(日) 02:08:51 |
ロンバルディア・ロマネスク
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(2019年10月訪問)
おお!画面が大きいって、いいな~!
毎日、会社貸与の小さいノートブックで在宅勤務しているんで、久しぶりに自分のデスクトップのモニターに感動中、笑。
さてさて、コモ湖北部にある、ロマネスク的にはマストの教会が本日の記事となります。
修行を始めた頃、コモ湖地域というのは、ミラノからかなり行きやすく、また関連情報も多かったので(Romanicomoという、ロマネスクとコモをもじったサイトが、ずいぶん昔からあります)、ちょこちょこ攻めてはいたのですが、なんせ、厳しい土地なので、アクセスが怖くて、どうしても行けてない場所が、いまだにいくつかあります。
湖沿いは、対抗二車線の狭い道で、よい季節だと常にそこそこ混んでいるので、のろのろもできない状況。湖側に村がある場合と、山側の場合があるのですが、いずれも、駐車スペースは非常に限られているし、狭い道の路肩にあったところで、なかなか急に停まれるもんでもないし、また、山側だと、いきなりすごい坂道になったりして、何度も辛い修行をしたもんです。
前置き、長い、笑。
グラヴェドーナGravedonaのサンタ・マリア・デル・ティーリオとサン・ヴィンチェンツォ教会Santa Maria del Tiglio e San Vincenzoです。
言わずもがなですが、左の縞々がサンタ・マリアで、右がサン・ヴィンチェンツォとなります。村中ですが、湖のほとりで、大変美しい印象的なロケーションの教会です。
来て初めてわかりますが、何も怖がることはなかったです、ここは。村、というより、結構それなりの町で、教会のある一帯は、平地で、至近に無料の駐車場もありました。ドイツ人などのツーリストが多い季節はごった返して、駐車も大変かも知れませんが、訪ねた時は、すべてガラガラで、湖沿いのレストランもほとんどクローズで、リゾートさもあまりなし。
実は、この町でお昼を食べようと、楽しみに来たのですが、そんなわけで、店がない…。唯一開いていたレストランは、かなりの高級店で、メニューを見て踵を返し、湖沿いで唯一何か食べられそうだったバールにて、ピエディーナ(ロマーニャ地方のパニーニ)とプロセッコで簡単お昼といたしました。しょぼいながらも、ピエディーナとしてはおいしい部類でしたけど。
教会がちゃんと開いていることを確かめてからランチをして、満ち足りた気持ちで、ゆったりと見学開始です。
この教会が建っている場所は、古代から神聖な場所と捉えられていたようで、サンタ・マリアの、今ある建物の下には、古い時代の神殿があったものと考えられています。というのも、発掘調査により、ローマ時代の祭壇や墳墓が見つかったりしているからなのです。
古代から神殿があり、また、初期キリスト教時代の遺構も見つかっているため、延々と祈りの場であり続けたそのすぐお隣に、さらに教会を建てた理由は何か?
確かにね。
お隣のサン・ヴィンチェンツォ教会は、バロック時代に激しく変容してしまって、それ以前の遺構は、わずかなのですが、いずれにしても、創建は11世紀と考えられています。この一帯が神聖な場所だったいうこと、また村のスペースには限りもあるでしょうから、もう一つ教会を建てるなら、ここしかなかったというのは分かります。
ふたつあるのは、実は割とよくあることで、そこそこの規模の町村であれば、複数の教会があるのは当たり前ですよね。ここまで隣接していることはまれではあっても、人口比から言ったら、こんなに要らないのではないか、というケースは結構あると思います。
教会それぞれの用途が、違っていただろう、というのが、基本的な理由だそうです。一方を高位の儀式用、もう一方をデイリーユース用、とか、一方を一般市民用、もう一方を貴族用、とか、ま、そういう区別をしていただろう、ということです。
説明長し、恐縮です。
前にも書きましたが、イタリアものだと、イタリア語の資料が読めちゃうんで読まないわけにいかず、そして読むと一応まとめてみたくなっちゃうので、ついだらだらと。資料があると、写真と突き合わせてまとめるのが、意外と面倒で、それで、アップが遅くなると。
まぁ、そんなわけで、知的好奇心はいくらか満たされるのですが、アウトプットに時間がかかります。スミマセン。
まずは、サン・ヴィンチェンツォ教会から。
往時の面影は、トップの写真でも見える北側の壁面などわずかです。
壁面の下半分でしょうね、ロマネスク時代のものは。
浅いつけ柱にブラインド・アーチで、とてもロンバルディアしています。
でも、中は、こんな感じ。
建物構造は、あったものをそのままに残したものの、内部はもう見事に痕跡なしです。
ただ、説明を読んでいたら、内陣近くの壁に、初期キリスト教時代の、Musso産大理石の石板を使った墓碑が掲げられているということでした。
このあたり、墓地がたくさんあったのでしょう。今は、その痕跡もないのですが。
ただ感謝したいのは、実は、クリプタが残されているんです。
二つの教会を撮影したトップの写真と見比べていただけると、位置関係がわかると思いますが、ここに、階段があります。
階段を降りて、クリプタの床面からは、こんな感じ。
半円柱のつけ柱が、組み込まれた壁が、後陣のクリプタ部分を囲んでいたようです。この壁により、本来の本堂の大きさが明らかで、後代に、後ろの方にも付け足しがされたようです。
さて、入場です。
ほぉぉぉ。
とってもシンプルなヴォルトの連続。柱の森。いかにも11世紀という古い時代のクリプタで、大変好みです。
漆喰は、オリジナルもこうだったのかな。石がむき出しの方が、雰囲気は出そうですが、この漆喰は、悪くないです。
中から先ほどの入り口側。
構造的には、もともとここに入り口があったようですね。
それにしても、しびれる床面です。オリジナルかどうか、わかりませんが、さすがに石材の産地だけあって、素敵な石が使われています。
何とも味のある…。度々修復が入りながらも、ところどころにオリジナルの床石が残っているという感じでしょうか。ツルツル感と言い、このでたらめな幾何学模様的な配置と言い、すっごく好きです。
奥の方に、区切られた一角があります。
手前側のスペースです。
中はごちゃごちゃ物置状態になっていましたが、オリジナルは、ここから、本堂にアクセスする階段があった様子です。このスペースの床面も、良い感じでしたので、メインスペースと同時代と思います。
一部、フレスコ画が残っていました。
サンタ・マリアの方でも、フレスコ画がありますが、比較的新しい時代(14世紀以降)のものが多く、こちらも同じような時代の者かと思います。が、この部分の様子を見ると、全体にフレスコ画あったとしても不思議ではないので、もともとは、柱や柱頭は地味でも、絵では見せちゃる!というタイプのクリプタだったかも、とか、妄想します、笑。
教会を改装する際、埋め込むのも面倒だし、階段閉ざしちゃえばオウケイ、そっちは扉閉めちゃえばオウケイ、という風にして、余計な破壊をしなかったのは、予算の都合か何か分かりませんが、おかげで今、ほぼオリジナルの構造を楽しめるわけで、ありがたいことでした。
しかし、この繊細な円柱で、重たい石造りの建物を支えてるんですから、アーチ構造って、本当にすごいもんです。アトラスが見えるような…。
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2020/04/04(土) 01:22:17 |
ロンバルディア・ロマネスク
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