一年前のエミリア周遊(2021年10月)、その12
バッツァーノ・ディ・パルマBazzano di Parmaのサンタンブロージョ教会Pieve di Sant'Ambrogio、続きです。
鍵守りさんから頂いた冊子、かなり読み応えのある内容で、図版も豊富で面白いのですが、これを日本語訳しようとすると、私の語学力では膨大な時間がかかってしまいます。
一つのアイテムにのめり込むスタイルではございませんし、斜め読みして、もう十分、という気持ちですし、こちら読んだくださる方も、あまり詳しくてもつまらないのではないか、と自分に良きように解釈して、笑、深い追及は避けたいと思います。
とはいえ、前回の伝説を語るだけではちょっと…と思うので、もう少しだけ、抜粋していきたいと思います。
そもそもですが「石灰岩の一つの塊から作られたもので、外側は、八角形、内側は円錐形。八面のすべての面で、角に円柱を置き、上部は植物モチーフの装飾アーチで区切っている。おそらくローマ時代の石棺装飾からインスパイアされたもの」。
洗礼盤は、円形や多角形など、様々な形が用いられますが、最も多いのか、またはいわゆる推奨?の形は八角形とされているようですね。
こういった知識は、各所で出会うのですが、記憶力悪いのですぐ忘れちゃったり、特にこちらで記事にしたことがあるかどうかというと、マジ覚えてないので、繰り返しになっちゃって、また同じこと書いてやがる、とうざったく思われるかもですが、お許しくださいね。
八角形は、キリストの死と復活を象徴する重要な八という数字から来ているもので、まさに洗礼盤にはうってつけな形、ということなんですね。
しかし、実際思い返すと、円形の洗礼盤とか、変な多角とかは思いつくのですが、八角形というのは、意外と思い出せません。全身浴時代のデカサイズのは、八角形が多いな、という印象ですが、こういった井戸の入り口みたいなスタイルになってからのは、なかなか思いつかないです。
さて、「洗礼盤は、信者が、洗礼を通じて、原罪によって決定された古い命を捨て、キリスト教の社会に守られて、生まれ変わるというのを意味する埋葬と、象徴的に組み合わせとなっている。もちろん、それらは、死、そしてキリストの復活と結びついている」とあります。この意味から、洗礼盤の装飾に、こういった内容と結びつく図像があしらわれたりするわけですが、このバッツァーノでは、伝説のお話でも分かるように、洗礼という儀式と直結した図像が施されたということになりますね。
なんとなくの意味は、伝説のお話でも通じるし、納得感ありますが、もうちょっと美術的な記述がありました。
「読解のカギは、主要な人物から明らかにされていく。洗礼者ヨハネ(光背、裸足の足、ベルトのタイプから認識できる)。キリストを洗礼するもの、そのため、洗礼盤が捧げられるもの。彼は、この図像の中で唯一、彫りこみのある円柱に囲まれている(ほかは彫りこみのないすべすべの円柱)。」
「ヨハネは、祈り、そして挨拶のポーズで左手を挙げ、彼の最も有名な言葉を発している様子だ。”神の子羊がここにいる。彼が世界の原罪を取り払うだろう”。」
ちなみに、ヨハネのつま先が見えてるんですけど、すごくしっかりした足指に爪。
これは、いかにも、ラクダの皮衣を着て砂漠生活していた人の足指的な!ラファエロのイケメン美脚ヨハネより、写実的!笑。脱線すみません。
「八角形の対面となる面には、十字架の刺さった子羊が置かれている。それはもちろんキリストの殉教のシンボルである。
このように、それぞれの対面している図像方式で解読を進めると、他の図像に関しても、何らかを感じ取れることが分かる。
処女は、反対側にある図像の天使からのお告げを聞くために、手を耳にあてている(お告げのエピソード)。」
現在、洗礼盤が置かれている場所では、本堂に向いた場所に聖母がある状態です。その反対側の面、つまりお告げしているガブリエルさんは、壁に近くて、残念ながら正面から見ることが出来ない位置となっていて、撮影も困難を極めます。
せっかく八面全部、保存状態の良い彫り物があるのだから、すべて見られるように配置してほしいもんですが、鉄柵の中に置きたい気持ちもわかるし、難しいですかね。
お告げの天使は、お顔がかわいそうなことになってはいるんですけどね。
「同じように、祝福するキリスト(十字架の彫りこまれた光背が目印)には、洗礼準備者が組み合わされている。」
この洗礼準備者のフィギュア、パルマ近郊のヴィコフェルティレVicofertileの洗礼盤のフィギュアをちょっと思い出したんです。で、過去の写真を調べてみたんですけど、全然違いました、笑。
こっちは、そもそも聖職者だったし、石の材質も違うし、彫りの確かさとか、時代も下ってそうです。
で、バッツァーノの洗礼盤の作成時期のお話となります。
これは、研究者の間でも種々議論はあるポイントだったようですよ。
「装飾的な要素の古さや人物像の硬直的な形から、初期キリスト教やロンゴバルド時代のテイストが読み取れる。しかしながら、図像の選択や、人物の衣服、また、人物のポーズ、フィギュアの占めるスペースなどから、総合的に考察すれば、10世紀から11世紀にかけて、つまりアンテラーミの時代には先立つものと考えられるのである。」
というのが、1999年に行われた修復プロジェクトのリーダーの見解です。
同じ冊子には、おそらく研究者と思われる方の分も掲載されているのですが、その方は、理由は上の方と同様ですが、「11世紀最後の四半期と12世紀の前半と考えられるのである。確証のポイントは、人物の衣(オリジナルは彩色があり、さらに分かりやすかったはず)で、例えば処女の衣は当時の典型的なもの、また、洗礼準備者も同様に、そう考えられるものなのだ。」という意見のようです。
1世紀の違いというと、ふーん、とは思いますが、結構な違いです。
アンテラーミへの言及がありますが、アンテラーミBenedetto Antelamiは、パルマで活躍した建築家彫刻家で、1150年ごろ、コモの石工として有名なコモ地域で生まれたとされる方です。おそらく最も有名な彼の作品は、パルマのカテドラルに置かれたキリスト降架の浅浮彫ですが、それは1178年、12世紀後半のものとなり、そのあたりが全盛期だった人。ロマネスクが、成熟した時期ですよね。まぁそのくらいにならないと、個人名は出てこない、つまり、ただの職人だった人たちが、専門家や芸術家として認められるようになってきた時代で、次の時代にうつるようなそういう感じになるのかな。
似てるんじゃないか、と一瞬思ったヴィコフェルティレなども、アンテラーミの時代ではないかと思うんですけれど、要は、そこからどれだけ遡るか、という点なんですね。
素人目線で言うと、修復リーダーに一票、ですかね。
フィギュアのプリミティブさも、装飾的なモチーフにも、それ以前の要素が満載な様子ですし、イメージとして、12世紀はないような…。
縁の上部に彫られた植物の帯モチーフとか、人物フィギュア上部のアーチのモチーフなど、とてもロンゴバルド風です。
こういったモチーフは、相当長い間使いまわされてきたもので、11世紀以降でも、各地で見られるということですが…。
いずれにしても、ロンバルディア風が散見されるということで、コモ地域の石工さんがかかわっていたのかというのは示唆されています。
彫りはかなりしっかりしていますから、地域の素人ではないのは間違いないですけれど、それにしても、寒村と言っていいような村なので、なぜこのように立派なものが、という謎は、冊子には言及されておりませんでした。
いつもと逆で、最後ですが、位置関係を。
パルマからは30キロだから、距離は大したことないけれど、クルマでもドキドキの山道ですから、なかなかの山奥状態です。でも、カノッサがすぐ近くにあるのね。もしかしてマチルダ、関係してるのかな。
ということで、昨年来のエミリア・ロマーニャ、一気に完結です。
この辺りは、長年懸案な場所も、まだまだ結構ありますので、今後も折を見て、地図をつぶしていく感覚で訪ねていきたいと思います。
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2023/01/21(土) 11:22:21 |
エミリア・ロマーニャ・ロマネスク
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一年前のエミリア周遊(2021年10月)、その11
次にご紹介するのは、これまでにも何度か行きたいと思いつつ、ポツンと一人立つ感じで、他の教会と組み合わせにくかったり、なんといっても山深そうな様子もありありだったので、怖いという気持ちもあり、なかなか実現できなかった場所です。
実際、かなりくねくねした山道を結構な時間走るので、相当手に汗をかきました、笑。オートマじゃなかったら、絶対行けなかったわ。
バッツァーノ・ディ・パルマBazzano di Parmaのサンタンブロージョ教会Pieve di Sant'Ambrogioです(毎日祝9-12)。
教会本体は、見てわかる通り、ロマネスクの痕跡はなく、なんでわざわざ?と思われますよね。ここは、入場しない限り、訪ねる意味がないので、必ず事前に確認することをお勧めします。
というのも、基本的に日祝の午前中は開いていることになっているのですが、鍵番さんの都合で、結構いい加減だったりするようなのですよ。私は事前に鍵番さんにコンタクトして、開いている、という言質を取って訪ねたのですが、到着時11時15分で、しっかりクローズでした。
鍵番さんに電話すると、妻らしき方が、「夫に今すぐ戻るように言うから!」ということで、5分ほどで鍵がやってきました、笑。
きっと誰も来ないし、今日はもうやめやめ、とか勝手に帰宅しちゃったんだろな、と思います。私が到着するのと入れ違いに去っていった車があったので、多分あれだった…。
入場したからって、まずはこれ。え~、どゆこと?ですよね。
お宝は、脇の方にあります。じわじわ行きます、笑。
キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
すんばらしい洗礼盤があるんです!
でも、鉄柵…。
と、一瞬がっかりしたら、全然カギなんかなくて、中に入れるのでしたよ。
鍵番さん、既定の時間前に帰っちゃった反省からなのか分かりませんが、おもむろに、豊富な図版が入った、実に素敵な冊子をくださいました。売っていたとしたら10ユーロ以下では絶対に買えなそうなやつ。おいくらか尋ねたら、取っときな、というぶっきらぼうな感じで押し付けられましたので、有難くいただきました。ちょびっと献金はしてきました、笑。
というわけで、盛りだくさんな解説が手元にありますので、これは読まねばなりません。嬉しい半面、正直ちょっと辛いです、笑。
どうやって読んでいこうかと悩むところですが、この八角形の洗礼盤、それぞれの面に彫り物があり、その分かりやすい解説にもなっている伝説的なお話から始めてみます。
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バッツァーノの洗礼盤における最初の洗礼(歴史と伝説を交えた短い物語)
太陽は、すでに丘の後ろに姿を消した。最初の影が、パルマ地域のアペニン山脈にある小さな村バッツァーノの家々を覆いだす。ドン・ロレンツォは、祈りを捧げるために教会に入り、すぐに、身廊の奥、洗礼盤の近くにある隠れた姿に気付いた。近づくと、洗礼準備者であるステファノの姿であることが分かった。ステファノは、膝まづき、頭を垂れていた。
数時間後、聖なる土曜日の夜中に、ステファノは洗礼を受けることになっていた。その洗礼盤で、初めてとなる洗礼となるもので、それは、キリストが復活してから千年過ぎた1303年になって数か月後のことだった。
司祭は、「立ちなさい!」と声をかけた。「最後の教えのために、君はもう少し遅くに来るものと思っていたが、すでにいるならば、今話そう。」ステファノは、おそれのあまり、固まっていた。「神のおそれは、知識の一歩である。」ドン・ロレンツォは荘厳に大声で語り、ステファノが立つことを手伝った。「洗礼の儀式の意味を深く考えるために、一つ一つの彫刻の前に、立ち止まりましょう(司祭の声音は、父性あふれるものだった)」
「君の前に、最初の彫刻があります。白い衣をつけた洗礼準備者が、キリストが30歳の時にそうしたように、洗礼を待っています。親しいステファノ、そう、君のように。」
「二番目の彫刻は、悪魔的な動物、悪の力を表している。
洗礼は、それらに勝つことを助ける。君は、悪魔を拒否することを、三回宣誓しなければならないことを覚えておきなさい。」
「三番目の彫刻は、神の母となります。ごらん、ステファノ。耳の近くに置かれた聖母の左手が、とても大きく彫られているね。」
「それは、我々に、祈ることは、神の言葉を聞くことである、という教えを伝えるものだよ。聖母のもう一方の手は、おなかに置かれているね。なぜなら彼女は、神の諭し(Il Verbo di Dio)を受け取ったからなんだ。そしてそれを守り、光に差し出したんだ。。」
「四番目には、救済者を待つ洗礼者ヨハネが彫られている。」
「”彼は、成長しなければならない。そして私は優しくしなければならない。”君の三度の洗礼のために、私はこの面で行うつもりだ。」
「そして、五番目。」
「この面は東、つまり祭壇の方を向いている。祝福のポーズのキリストの姿だ。右手で三位一体(Trinita’)を表し、左手には、”私が道であり、真実であり、命である”という本を持っている。」
「六番目には、ジェズの約束が彫られている。」
「魂の救済が、生命の樹にとまった鳩によってあらわされている。鳩は、聖なるツボから水を飲んでいる。」
「七番目は、装飾的に彫られている五つの花も目に留まるが、黙示録の五番目の天使である。」
「最後の審判の予告をしている。座っており、右手で善人のリストを、左で悪人のリストを握っている。」
「最後、八番目はアンガス・ディとなる。」
「君も知っているように、これはジェズを表している。十字架による死は人を死ぬことではなく、死から解き放した。神の子羊は、洗礼をもって始まる救済の道を、すべてに与えるために犠牲になったのだ。」
「八角形の聖なる場所で、君は洗礼を受けることとなる。それは、神の復活の日を思い出させるものだ。三回にわたって、君は水に浸かり、三回にわたって、象徴的な死を迎える。罪のために死ぬが、再び浸かることで、新しい命をもって生まれ変わるのだ。聖霊によって照らされた道を天井に向かって進むのだ。」
ステファノは、ドン・ロレンツォにお礼を言い、家に走りかえった。暗闇はもう怖いものではなかった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
続きます。
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2023/01/15(日) 17:03:14 |
エミリア・ロマーニャ・ロマネスク
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一年前のエミリア周遊(2021年10月)、その10
ノナントラNonantolaのサン・シルベストロ修道院教会Cattedrale di San Silvestro、続きです。
通常、大抵は時間がないから、と博物館や美術館は端折ることが多いのですが、今回は後陣に再会したかったし、過去の記憶を確かめる気持ちもあり、併設博物館を訪ねました。入り口は、教会からは結構離れた場所になります。
以前は本堂から中庭に出て、そこからアクセスできる建物だったはずですが、今は各物館経由でしか、中庭にはアクセスできないことになっていると思われます。
見せている内容も大いに変わっていました。もともと修道院の建物を使っているのですが、以前は、その食堂だった場所を公開していたんです。壁に、修道院が最も繁栄していたとされる時代、11/12世紀のフレスコ画が残されており、それを見ることが出来たのです。
上がそうなんですが、今回はそれが見られなくなっていました。当時のことをさほど覚えていたわけではなく、帰宅して写真を確認して気付いた次第で、なぜ今は見ることが出来ないのか、不明です。
過去の記載によれば「教会の南側に、かつての回廊のスペースを開けて並行して建っているのが、 修道院の食堂だった建物。今では市の所有物となっており、教会からはまったく別の入り口からアクセスする必要がありますが、必見。というのは、当時のフレスコ画が、わずかながらのこっているからなのです。当時大変高価だったラピスラズリの青が、各所に美しく見られることから、修道院がもっとも繁栄していた時代のものとされます(11/12世紀)。南壁にもっともよく残っていて、 使徒パオロのダマスカスからの脱出が描かれています」ということです。
現在の博物館は、まず文書アーカイブの説明から始まりました。修道院ですから、もちろん写本の歴史があるということですね。
デジタル化された写本と、そしていくつかオリジナルのものがありました。
これなどすごいお宝。
11世紀最後の四半世紀、つまり1075年から1100年に書かれて、製本は12世紀早々になされたものとありました。カノッサのマチルダが使ったものとかあったけど、それは眉唾ですよね。
それにしても、こういう写本系は、わくわくしてしまいます。ベアトゥスとか、一部突出して有名な写真がありますけれど、特に有名でなくとも、なんか、派手な色使いとかね、ロマネスクの真髄的な絵の様子が楽しいし、ミニアチュール的な装飾も見てて飽きないです。
そういえば、かつてダブリンに三週間も滞在しながら、お宝見学もしないで戻りましたけど、有名なケルズの書、いつか目にしてみたいものですわ。テンプルバーばかり通って、本当にアホな女…。
壁にはめ込まれていたお皿のオリジナルも展示されていました。
ビザンチン起源の陶器とあります。ピサだと、北アフリカから来たものが多かったと思うのですが、こちらは、アドリア海を渡ってきたというものになるのでしょうかね。
袈裟、と呼んでもいいんですかね、聖職者の衣の装飾です。
ビザンチンの、9世紀から10世紀のものというから、すごいじゃないですか。
説明には、「横糸に、黄色、二種の緑、ピンク、二種の青、白、赤、縦糸は赤の絹糸を使って織られたもの。右を向いたワシは、オリエントを向き、ビザンチンの力を誇示するモチーフ」とありますが、それ以外にも図像学的なモチーフが織り込まれている、大変貴重なものとなっているようです。
なんといっても、それほど古い布物、というだけでもすごいし、保存状態もかなり良いです。
アナーニでしたか、あそこも博物館に確か多くの布物が保存されていて、アイテムとしてさほど興味があるわけじゃないのに、あまりにすごいモチーフだったり、それが織物である事実に圧倒されて食いついてしまったことがありました。
おそらく、当時手で行っていた織物技術って、コンピューター制御でできる現代でも、なかなか真似できないレベルだったりもするんでしょうねぇ。なんせコスト感覚違いますもんねぇ。
以前は見ることが出来なかったものが、こちら。
サン・シルベストロの聖櫃Arca di San Silvestroです。
現地の説明は以下。
「長年にわたる歴史研究家たちの論争の結果、今では確実とされている伝説では、法王サン・シルベストロの遺体の骨の一部は、756年から、ノナントラ修道院で保管されてきた。756年に、ローマから、アンセルモ修道院長によって、運ばれたことによる。修道院の文書によれば、10世紀から11世紀にかけて、そのレリックは、聖なるツボの中に収められており、長年修道院に置かれていたが、近年博物館に移された。
1372年、ツボから右の前腕が取り出され、そのために作られた聖遺物入れに収められ、それ以降、修道院の宝物として取り扱われるようになった。
1475年、人々に公開された際、大理石で作られた入れ物、つまり、ここで展示されている聖櫃に収められた。」
元々は、教会の内陣部分に、サン・シルベストロのレリックを祭っていたのを、近年、博物館に移したということのようです。以前訪ねたときは、もしかしたら、まだ教会に会ったのかしら?または博物館が工事中だった記憶もあるので、まだ置き場所が確定できない状態だったかもしれません。
実は見学した時は、大抵そうなんですけど、あまりじっくり説明を読まないもんで、笑、形が棺なのに、なんでこんなに小さいのか疑問だったんですが、今、謎がとけました。聖遺物入れ、聖櫃だったなら納得です。だって、かなり小さくて、言い方悪いですけれど、子供の棺サイズなんです。
聖櫃の上には、ここには、ノナントラの守護聖人であるサン・シルベストロの聖遺物が収められている、と記されていますが、彫られたのは割と新し目な様子でした。
普通のサイズの聖遺物入れなど、工芸品も展示されています。
ベネト地方の工房作と言われている12世紀から13世紀にかけての聖遺物入れ。高さが8センチとあります。Senesioさん、Teopompoさんという、私などには全く知らない聖人のための聖遺物入れだそうですよTeopompoさんって、名前がかわいすぎますが、感じとしてギリシャ、つまりビザンチン系ですかね。
さらに古くて、10世紀から11世紀にかけて作られたもので、起原は不明ながら、コンスタンティノープルあたりと考えられているそうです。
腕の先っぽの方には、七宝で聖人の顔がはめ込まれていて、それぞれの聖人のレリック入れなんでしょうか。とにかく手が細かいですね。まさにコスト無視の仕事です。まぁ、貴金属は表面を覆っているにすぎず、本体は木製らしいですけれど。
左も右も、キリスト磔刑の十字架という、聖遺物でも最重要なやつを納めるために作られた、特殊用途の聖遺物入れStaurotecaというものらしいです。やはり、何でも調べるもんですよね、初めて知った言葉です。11世紀とか12世紀のもの。
やはり、装飾もすごいです。
すっごくビザンチンですよ。
女性など、オリエント、インド辺りまでも通じるような様子ありますよねぇ。
いつも余裕がなくて、博物館系は端折ってしまうことも多いのですが、ここでは時間があったし、入場料も5ユーロと安かったし、結構楽しく見学しました。そして、たまにこういった宝物を見るのも、とても勉強になります。
以上、ノナントラ、終了。ここは、結構通り道的な場所にあるので、今後もふと立ち寄る機会はあるかもしれませんが、積極的にはいかないだろうなあ。
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2023/01/14(土) 13:20:45 |
エミリア・ロマーニャ・ロマネスク
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一年前のエミリア周遊(2021年10月)、その9
ノナントラNonantolaのサン・シルベストロ修道院教会Cattedrale di San Silvestro、続きです。こんなに細かく書こうとはおもっていなかったのですが…。
やっと入場しようと思ったのですが、前回の、扉周りの記事で、うっかりしておりましたよ、涙。
うっかりしすぎだろうって話なんですが、側柱の浮彫についてまとめるのが結構大変だったもので、つい達成感に浸ってしまって、リュネッタに関しての記載を忘れておりました。過去のHPでも触れていなかったのも原因ですが、おそらく当時、調べ忘れみたいなことかと思います。
実は、ちょっと気になることがあったので、今更現地で買った本を引っ張り出したんですよ。で、改めて、ちゃんと書いていなかったこともあったので、追記的に記します。
リュネッタの下、いわゆるアーキトレーブ部分に文字が彫りこまれているのが認識できるでしょうか。なにが書いてあるかというと、「1117年にパダナ平野を襲った大地震の際、教会が損壊し、その四年後に再建が始まった」という記録的な文が彫られているのだそうです。
過去にも何度か言及していますが、1117年の大地震で損壊した北イタリアの教会は数多くあるようです。あちこちで、この年の地震で損壊、という記述は目にしていますから。
昨今、イタリアでも定期的に地震が発生しており、特に中部ウンブリアでの地震以来、エミリアでも頻発と言ってよいような状況です。今のところ、ミラノを含むロンバルディア州では、大きな揺れは来ていないものの、過去に揺れたことがないわけではないので、もし千年周期だったら?そろそろやばい?みたいなところもあるわけで、ちょっと怖いものはあります。
おっと、脱線しました。
このリュネッタ、もともと説教壇を飾っていた浮彫を集めて組み合わせて作られたものではないか、とされているようです。説教壇に関しては、現在影も形もないのですが、地域のいくつかの教会(Quarantoli、Carpi-残念ながら、どちらも未訪)で見られる説教壇と似たタイプのものであった可能性が高いと言われています。
中央に、祝福するキリスト、両脇に花を持った天使、そして四人の福音書家のシンボルという構図。アーモンドの中のキリストを支える二人の天使、というオーソドックスなものじゃなく、独立した天使二人、独特です。そして、天使がそれぞれ、ヤンキーがバットを持ってるように花を持ってるんですよ、笑。
それにしても、ここでも手が美しいこと。感心いたします。
行ったり来たりですみませんが、入場しましょう。
「教会内部に入ると、奥に、かなり高く持ち上げられた内陣が目に入ります。もちろん、その下にクリプタが あるためです。実はこの持ち上げられた内陣も、20世紀に行われた修復工事の賜物。クリプタは15世紀に水がしみだしたことでクローズされてしまい、その後内陣が下げられてしまったのです。
クリプタは、1121年作。一部がオリジナルである64本の円柱で、レンガのアーチ、漆喰塗りのヴォルトを支えています。」
「柱頭のうち36個は様々な古い時代のもの(その場にあったもの、美術館に 収められていたもの、近郊の別の場所のもの等)が使われ、それぞれ異なるモチーフになっています。」
パッと全体を見たときは、”柱の森”状態はすごいものの、床も新しいし、かなり保存状態が良いために、つるんとした新しい印象もあって、ふーん、というのか、若干感動が薄かったりもするかもしれないんですけど、丹念に見ていくと、いかにも再利用な様子のバラツキとか古さがあって、じわじわと時間や歴史を感じさせるような仕組み、というのも変だけど、そういうクリプタかと思います。
いずれにしても、広さ、半端なくて、さぞや立派な修道院だったのだろうと考えさせられます。
「祭壇は新しいものになっていますが、その中には、サンタンセルモやサンタドリアーノIII世のレリックが 今でも収められているそうです(かつてここにあったサン・シルベストロのレリックは、現在、本堂内陣の祭壇)。」
ちなみに、本堂にある祭壇は、すっかり新しいのですが、こんな様子です。これだけ見ると、中世の教会には見えないですよね。
磔刑図は、ちょっとオリジナルはいつごろか不明です。
衣がまっすぐに十字架をはみ出していて、やけにゆったりと長いのが、特徴的なのかな。どう考えても、両腕長すぎなのも、アンバランス感高めていて、キリストの困惑的表情の頭部と全体が、なんとなく合ってないみたいな。新しいのかな。
オリジナルの壁からはがされて、現在絵画のように壁に掲げられたフレスコ画(下の方)は、15世紀半ば過ぎ、1450/1475頃に、無名のマエストロとされる絵師の作品となるそうです。その時代についての知識は限りなくないに等しいので名前を見ても分からないのですけれど、Erri派とされているそうです。
磔刑図、受胎告知、そして7人の聖人が並ぶ三段だて。
聖人図は、一番左にマントを貧しい人に与えるサン・マルティーノ、サン・グレゴリオ・マーニョ、福音書家ヨハネ、中央部にサン・ジャコモ、法王サン・シルベストロ、その右に、修道院長サンタントニオ、そしてサン・グレゴリオ。
漆喰に覆われていたおかげで、保存状態が良いようですが、特に受胎告知は、この時代の絵画としての評価がとても高いものだそうです。技法がちょっとミニアチュールっぽくて、私も結構いいなと思いました。
教会内の見るべきはこんなところと思います。
今更ですが、ここはやはり一度は訪ねるべき場所ですね。
併設の博物館について、次回。
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2023/01/09(月) 17:55:16 |
エミリア・ロマーニャ・ロマネスク
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一年前のエミリア周遊(2021年10月)、その8
ノナントラNonantolaのサン・シルベストロ修道院教会Cattedrale di San Silvestro、続きです。細かい内容が続きますが、ま、たまにはね、ということで、正面扉周りの彫り物、続きです。
向かって左側の側柱の正面向き部分の浅浮彫です。
右側が、キリストの生誕物語であることに対して、こちら側は修道院の歴史絵巻となっているようです。こちらも、時系列は下から上、となっています。
「1)アンセルモとアストルフォ王、2)王がアンセルモに土地を寄贈」
「3)アンセルモと修道院の模型」
ここ、修道院の模型というのが、ちょっと気になりますね。バジリカ様式で、ファサード前にポルティコがあるようなスタイル。ちょっとポンポーザとか彷彿とさせるようなスタイルっていうのかな。昨夏に久しぶりに訪ねたウンブリアはずれのルニャーノ・イン・テヴェリーナでしたかね、そんなのも思い出させられる構え。穴には陶器のお皿ですかね。どこの教会をイメージしたのか、考えると面白いですよね。
「4)アンセルモその他が法王にサン・シルベストロの亡骸を求める、 5)馬で同聖人の亡骸を運ぶ、6)ノナントラに亡骸を埋葬」
亡骸を運ぶ図と埋葬の場は、残念ながら、一部失われています。他部分の保存状態がびっくりするくらい良いので、なぜ?と思ってしまいますが、良すぎるんですよね、おそらく。
「7)サンタドリアーノIII世の死、8)修道士が同亡骸をノナントラに運ぶ)、9)サンタドリアーノの埋葬、」
「10)サムソンがライオンにまたがっている」
「最後の一枚が唐突な感じですが、これは当時有名ななぞなぞで、「蜂蜜より甘いものはなくライオンより強いものはない」という意味となり、寓意は、「教会までも奪い取って土地を支配するものたち (ロンゴバルド)は、修道士に食物を与える(アストルフォの寄贈)」ということなんだそうです。中世の人たちは、そういうことがすぐわかったんでしょうか。
これは、モデナ同様、ヴィリジェルモの 作とされています。預言者スタイルではなくて、使徒スタイル。より親しみやすい雰囲気のフィギュアと思います。」
浮彫の上下に文字が彫られていますが、それがことわざというか、上述のはちみつより云々の意味なんでしょうね。EDFOREDVLCED DCOMEDNTECIBVS?さっぱり分かりませんが…。
「左右の側柱の場面の数が違うことで、水平のラインが途中でずれていきます。なぜあえてアシンメトリーにしているかというと、シンメトリーは完璧を意味し、それは神のものであるゆえに、あえて、 人間の不完全さを表すアシンメトリーとし、人間の作品であることを強調したんだとか。」
でた!
このアシンメトリー理論は、結構あちこちで出会う説明なんですけど、ほんとのところどうなんだろう?と思う今日この頃です。本当にそこまで考えてアシンメトリーにしたのか?例えばここの場合だと、単純に、この場面は削れなかろう!とかで数が合わなかっただけとか、そういう可能性もないことはないような気がしないでもないっていうか。
次回、やっと内部に。
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2023/01/08(日) 17:04:18 |
エミリア・ロマーニャ・ロマネスク
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