2013年もまた、こうして暮れてゆくのですねぇ。
今日が仕事納めで、今年こそ早く帰れそうだ、と思ったのは15時ごろまで。やっぱり最後はばたばたで、ここまではやっとこう、と自分で決めたことも、最後に入った電話に邪魔されて中途半端になっちゃって。それでも、事務所を出るときは、既に誰もいませんでしたから、ま、やれるとこまでやったしね、いいよね、と言い訳がたつ気がしました。 いい加減イタリア人化していますが、言い訳を探したりして、なんとなく、最後の最後は日本人になっちゃうのが、ちょっと情けないな~。
ま、それはともかく、この3週間ほど悩まされていた風邪も、ほぼ完治。荷造りもほぼ終了。大掃除は、一切できませんでしたが、ま、それはいつものことなので、今更びっくりもしません。
「光陰矢のごとし」に、ただ呆然としますが、でも考えたら、今年もまた、細切れながら実に多くのロマネスクを訪ねることができたことを思うと、やはり一年は、決して短いものではなかったのかとも思います。 ラツィオに始まり、マルケと続き、イタリア・ロマネスクで始まった一年。ずっとあこがれていたフランス、ルシヨン地方でもどっぷりと素晴らしい歴史遺産に接することができたし、フリウリ再訪では、以前に見逃した多くの気になっていた遺構を訪ねることもできました。実際、今年はクリプタの年だったなぁ、という気がしています。どれだけのクリプタを訪ねたことでしょう。忘れないうちに、ちゃんと整理して勉強したいものです。
が、整理する暇もなく、新年、最初の予定が既に決まりつつあります。2014年のスタートはいつもより早く、イタリア以外の中世から始まる予定です。いつまでたっても、どっぷり、はまっているみたいです。
一方で、世界を見回すと、天災人災は枚挙にいとまなく、先ほども2013年を振り返ってのニュースに、なんだか暗澹とした気持ちにもなりました。日本でも、震災その後がまだまだ全然だめなのに、やっぱりひきもきらずにいろいろなことが起こっていますね。 わたしは、大変な人々を前にして、本当にとっても小さなことしかできていませんが、それでも、常にいろいろなものを見て、自分にできる支援は何かしらやっていきたいものです。 そして、みんなにとって美しく豊かな素敵な新年が来ますように、と祈っています。
つたない、そして即時性もなくだらだらとつづるだけのこのブログに、いつも来てくださる方々、今年も、ありがとうございました。明日から一時帰国で不在となりますので、2週間ほどお休みします。新しい年も、おそらく何も変わらずだらだら続けることになるかと思いますが、また遊びに来てくださいね。
2013年、残すところ、あと少し。皆様、よいお年をお迎えください。
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2013/12/31(火) 05:35:38 |
ミラノ徒然
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マルケ・ロマネスク、その7
アスコリのマイナー教会を駆け足で、見学します。 まずは、ポポロ広場に面して建つ、ゴシックのサン・フランチェスコ教会Chiesa di San Francesco。
着工が13世紀半ばで、完成は14世紀も後半なので、最終的には完全にロマネスク時代を超えちゃっているんですけれど、裏側にこんなものもあり。
回廊の跡ですねぇ。もともと修道院だったのですね。 中世後期に建てられた今の教会以前に、ポポロ広場というローマ時代からあったはずの広場に面している立地を考えても、絶対に古い教会があったものと思うのです。今、手持ちで資料ないですけれど。だから、サン・フランチェスコ教会、何か残されているのではないか、宝探しができるかも、と期待して入場したのですが、残念ながら、内部はまったく新しくて、取り付くしまなし、敗退。ステンドグラスが一杯あり、確かにゴシックでした。
次は、サン・グレゴリオ・マーニョ教会Chiesa di San Gregorio Magno。
偉大なるグレゴリオ、つまり初代のグレゴリオ法皇の名がついた広場に、捧げられた教会。ここもローマ時代からある広場で、もともともグレゴリオに捧げられた、小さな神殿があったようです。 その名残が、ファサード右側に、すっと縦長に建っているコリント式の柱なんでしょうね、多分。 今ある教会は、13世紀にロマネスク様式で建てられたものですが、全体にもう新しくなっている上に、周囲の住宅に埋没してしまっています。東側の壁のモザイクのようなつくりが、建設当時のものらしいです。
一方鐘楼は14世紀のもの。 教会内部には13世紀のフレスコ画が残されているということで、ちょっと興味がありましたが、残念ながら昼休みでクローズでした。 一見、絶対に開いてないだろう、という雰囲気なんですが、アスコリ、意外と教会しっかり開いている町なんですね。午前中10時半から13時、午後は15時半から17時半という、まぁまぁ普通の、イタリアにしたら長時間開いている方ですよね。ここも、洗礼堂同様、とにかく雨に降り込められて、あきらめた次第。
最後に訪ねたのが、川にも近い、いってみたら町外れにあるサンタ・マリア・インテルヴェニアス教会Chiesa di Santa Maria Intervenias。 前回紹介したサン・ヴィンチェンツォ教会とも近く、駐車場を探して一度車で通りかかったとき、すごく近くに、同じような規模のロマネスク教会があったので、すごくびっくりしました。
ロマネスク・ゴシック様式。どうやら、アスコリではそうなんですね。ロマネスク後期からゴシック、そしてルネサンスあたりが、今ある建物の基礎。
「インテルヴィネアス」とは、「ブドウ畑の真ん中」。当時、教会の周りでブドウ栽培が行われていたようです。でも、本当に川の近くで、そんなに土地があったとも思えないんですけれども。
鐘楼がとても立派です。
20世紀に行われた修復の際、この塔の中に、13世紀のフレスコ画が発見されたとか。やっぱり13世紀。その頃から、教会に多くを寄進できるお金持ちが増えたのでしょうね、きっと。残念ながらここもクローズ。ここは、どうも常にクローズ。
というわけで、地味教会三連荘。 地味ながら、どこもそれなりにちゃんとケアされている様子で、それって教会のみならず、アスコリの街全体が、そういう感じ。住んでいる人たちそれぞれが、それぞれ平穏に暮らしているっていうのか。すごく豊かっていうわけでもないけど、なんというのか、普通に豊かで、どっしりと生活があるっていうか。
一応、訪ねるべき場所はクリアしたかな(昼休みが残念だったけど)、と思いつつ、雨に追い立てられるように、アスコリを後にしました。
2013/12/30(月) 03:12:13 |
マルケ・ロマネスク
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マルケ・ロマネスク、その6
アスコリ・ピチェーノの旧市街は、大変こじんまりとしているのですが、ロマネスク当時の教会がたくさんあります。中世に繁栄したということは、今にまで残る多数の塔で明らかですが、教会の数だけを取っても、その証拠となりますね。 とは言え、内外に置いて、中世の面影を残しているかというと、やはりなかなかそういうわけにはいかず、というのは、他の多くの土地と同じです。
サンティ・ヴィンチェンツォ・エ・アナスタシオ教会Chiesa dei Santi Vincenzo e Anastasio。
中世時期にあった三つの大広場の中で、最も外側、川にも近い場所に位置し、非対称、無計画に作られたらしいヴェンティディオ・バッソ広場、またの名をヴェンティディオ・デッレ・ドンネ広場。ローマ時代は、ほぼ町の外側だったようですが、ちょうど町の内外を隔てる線上で、市場がたったり、出入りの人々が行きかい、とにかく常に往来の激しい場所が、必然的に広場になったということらしいです。 広場の名前にドンネ=女性とあるのは、かつてこの場所にベネディクト派の女子修道院が面していたことから。
そして、この変な形の広場の一角に、この教会があります。 一角を占めていますが、広場に面しているのではなく、広場の一部を半端な形で占拠しているのです。アクセスもしにくい変な立地です。
もともと6世紀にあった地下墳墓の上に、教会が建てられたのは12世紀。その教会が最終的に完成したのは、14世紀も後半ということで、ぱっと見、ロマネスク?ん?というたたずまいになってしまったのですね。
この碁盤目の不思議なファサードも、完成時のもので、オリジナルには旧約新約聖書の物語が、各面に、フレスコ画で描かれていたそうです。 このように区切ったファサードって、アンコナで、修復中だったためにわたしが全貌を見られなかった教会を思い出します。あちらは、ロマネスクの王道的なアーチ多用の石の装飾でしたが、発想には共通項があるような。同じマルケというのも、何かあるかもですねぇ。 フレスコ画は、「貧しい人々の聖書」と呼ばれていたそうです。残っていたら、素晴らしいインパクトがあったことでしょうが、なんといっても露天だから、保存は難しかったのでしょうね。
正面扉は、古い教会のものが再利用されているようです。リュネッタには、聖母と、教会が捧げられた聖人二人のフィギュアが、飛び出す絵本状態で置かれています。
内部は地味で、やはり時代が下るな、という印象。ここでみておきたいのは、内陣下の小さなクリプタ。と言っても、保存されているだけで、使用はされていないようです。
全体に床は新しいし、すべてがこぎれいで、なんとなくなじめない空間になってしまっている内陣。両脇に、クリプタへの階段がありますが、閉ざされています。確か監視の人に尋ねたら、入っていいよ、ということだったので、入場しましたが、真っ暗…。
このクリプタには、かつて、サン・シルベストロの井戸Pozzo di San Silvestro、と呼ばれる湧水があったのだそうです。その水が奇跡を起こしたとかどうとか…。でも本当に奇跡があったなら、今でも巡礼の地になっていますね、きっと。19世紀に整備されて湧水がなくなっちゃったということは…。
壁には、聖人のエピソードを描いた14世紀のフレスコ画があります。このときは、小さな懐中電灯を携帯していたので、わずかに見ることができました。 14世紀の割には、素朴で、ロマネスク時代を引きずるような絵でした。
小さな明かりを頼りに、内陣の最奥部、祭壇脇の階段から生還。
有料式の明かりをなぜつけないんでしょう。 って言うか、この状態で入れてくれるのはすごい。祭壇脇の階段は、かなり細くて急で、転げ落ちそうな不安定なものでしたし、滑って転んで怪我して、裁判起こすアメリカ人とかいたら大変なのに…。 地味だけど、この、たった数分の地下旅冒険が、印象深い教会です。
2013/12/29(日) 02:25:13 |
マルケ・ロマネスク
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マルケ・ロマネスク、その5
アスコリ・ピチェーノ旧市街の中世を訪ねます。まずは、最も気になっていたカテドラル、サンテミディオBasilica Cattedrale di Sat'Emidioに向かいます。
え、これですか、と思うと思うんですが、今ある上ものは、正直まったく興味がないのです。ここで向かうべきはクリプタ。ルネサンス以降の装飾びっしりの本堂内部に嫌気がさしても、忘れずにクリプタに向かってくださいね。
今ある教会は、もちろん以前あった教会の基礎の上に建てられたものなんですが、それよりもさらに以前にあった教会に、今に残るクリプタがつけられたのは、11世紀半ばのこと。この教会が捧げられたサンテミディオ(聖エミディオ)の亡骸が運び込まれたことによって、その墓所として作られた場所です。 よくあることですが、聖人の遺骸は、カタコンベから運ばれたそうです。なんか、そういう感覚、まったくわからないですけどね。わざわざ掘り起こして引っ張り出してきたわけですよね。墓堀の人、嫌じゃなかったのかな~。
おお! ここはすごいです。どこまでも続くトンネル。びっくりしました~!雰囲気ありますよね。 さりげなく、ごろんという感じで石棺などが置かれていて。
でも、こういう場所って、なんか一人で奥まで入るのは、勇気がいりますね。古いだけで、いくら明かりがついていても、ひるみます。今回は友人と一緒だったけれど、それでも他に誰もいないので、躊躇しましたね。まぁ、実際は、この写真で感じられるよりは狭いんですけれど。 実は、ここの地下の位置関係とか、ほとんど忘却の彼方です。本堂からどうやって入ったかも、実はよく覚えていない。このときは時間がなくて、メモをほとんど書いてないので、だめですね~。後日、調べることにします。 で、ここまでは古い部分。 石棺の安置してあるクリプタ本体は、こちら。
とても広いスペースで、かなり新めの部分と、古い部分からなっています。わたしが興味を持つのは、当然古い部分。
二本組みで結び目があったり、こういう風にペアになっていたり、という柱が数本。これは珍しいですね。柱頭は、素朴な植物モチーフが多かったですが、どれも異なり、素朴で愛らしいものでした。意味のよくわからない図像もいくつかあり、調べたら面白そうです。
全体が古いままで残されていたら、見事な中世の遺構となったのでしょうが、半分って言うのが、ちょっと半端。
さて、ここカテドラルでは、そのお隣に立つ洗礼堂Battisteroも必見。
残念ながら、ちょうどお昼でクローズの時間の上に、雨が激しく降ってきてしまいました。友人ともども、間抜けなことに、車に傘を置いてきてしまって、雨宿りする場所もほとんどなくてどうしようもなく、オープンを待つ根気もなく、引き上げる羽目になってしまいました。ひとりだったら、おそらく待っていたのでしょうが、でも、内部は、さほど重要なものがあるわけではなさそうでした(と、”すっぱい葡萄”して、引き上げた次第)。ただ、外壁にちょっと面白いものを発見しました。
なんだか怪しい図像…。直線が、とてもモダンなものなのかとも思わされますけれども。洗礼堂の二面の角に同じ高さではめ込まれていました。気になります。
2013/12/28(土) 03:59:07 |
マルケ・ロマネスク
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マルケ・ロマネスク、その4
次に向かったのはアスコリ・ピチェーノAscoli Piceno。 ここもまた、アクセスするのに、苦労した町です。町は、高台というわけではないのですが、全体を川に取り囲まれていて、その川は、深くえぐられた谷底を流れているために、町の一面は断崖絶壁の上になるんです。ナビの指示を読み間違えて、一度はその谷底まで降りてしまい、町からの一方出口になっている道に入ってしまいそうになりました。 ナビでは以前もこの間違いでえらい目にあったことがありますが、ナビって、高低差が分からないんですよね。少なくともわたしのトムトムは、二次元で見たら方向も似たような道だけど、ひどい高低差があって、行き先が全然違っちゃう道を最後まで読みきれずに、とんでもない道に誘導されたことが何度かあります。 幸い、このマルケの旅は一人じゃなかったこと、主に、わたしより運転がうまい友人が運転していたことで、大事には至らず、でしたが、結局町を一周回り込んだ挙句に、旧市街には入れず、川の外側の住宅地の一角に駐車しました。
アスコリ・ピチェーノは、マルケの州都ですが、その割りに小ぶりで、旧市街は、中世の面影をよく残す、美しい町並みです。たくさんの塔があることでも有名で、実際、少し離れると、どこからでも何本もの塔が目に付くのです。
橋をわたってアクセスする場所が多いのですが、古い城門が残っていて、趣があります。橋も、すべてが古い時代のままではないとは言え、なんせ深い谷を渡る土地的制約から、どうしても往時と同じようなサイズになるわけで、全体が新しくとも中世当時とそんなに変わらない景色なのではないかと思います。
旧市街は、若干の高低差があるだけですが、川に囲まれていて、それ以上は拡張できない限られたスペースであるためか、建物がぎっしり。道も見通しのきかない小路の連続。そして、見上げるほっそりした天の一角には、必ず、と言っていいほど塔が入り込みます。
こういう立地の町では、どこでも美しい広場がありますね。ここでも限られたスペースの中にも、大小織り交ぜて、印象的な広場がいくつか設けられています。中世の町村って、実によく都市計画がなされていたんですね。広場は、市場や周回や、市民の日常生活になくてはならないスペースだったのでしょうし、また狭い小路の連続の中に暮らしていたら、ほっとする空間でもあったのではないかと思ったりします。
昔、シエナやペルージャで暮らしていたとき、小路を抜けて広場にたどり着くときの開放感ってあった気がするんです。 町で、一番美しいとされているのが、このポポロ広場。
オリジナルは12世紀頃のようですが、広場として完成したのは都市国家が安定した後、ルネッサンス時代のようです。商人組合の建物とか、サン・フランチェスコ教会が一角を占めています。今は市庁舎が中央にあるし、市民なら定期的に訪れざるを得ない場所でもあるのだと思います。
ところでアスコリといえば、つい連想しちゃうのが、わたしの場合はこれです。
アスコリ風オリーブOlive all'ascolana。 このあたりで産するのでしょうが、とても大きいオリーブに種の代わりに肉をつめて、からりと揚げてあるもので、酒、特にビールのおつまみにぴったりなスナックなんです。 さすが、屋台があるんですね。他で見たことないです。焼き栗やチップスみたいに、立ち食い用に売っていて、お祭りだからとかではなく、常にあるような雰囲気でした。また、地元の人たちが結構買っていました。これ、おいしいんですよ。大量にいただけるものじゃないですけれども。
実は雨に降り込められて、若干難儀の観光でしたが、ずっと気になって初めてたずねた町でしたから、うきうきしながら歩きました。 ロマネスクは次回。
2013/12/27(金) 02:16:26 |
マルケ・ロマネスク
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師走の声を聞くと、やっぱりばたばたと忙しくなります。忙しくなるのは分かっているんだから、と11月後半から着々と仕事の段取りを付け出したというのに、結局日々押せ押せで、やっぱり忙しくなってしまうんですね。
そういう最中、今年は早くも二回目の風邪っぴき。これまで風邪は各冬一回、それも超軽くて寝込むこともなし、という真性の馬鹿っぽかったのですが、最近は二回が定番。それも、絶対に会社を休めない時期に引くことになっているのが、厄介です。 今回も、そろそろ二週間。喉から鼻、鼻から喉と行ったりきたりで、声が出なかったり、咳がうるさかったり、鼻がずるずる、と見た目、妙に騒がしいのですが、熱は出ず、いつまでも周りの方々にすごく迷惑な状態が続いています。
という状況で、毎年恒例の、ミラノ市庁舎の一角を開放しての展覧会のことも、すっかり忘れておりました。
今年は、この夏にバチカンでお目にかかったばかりのイケメンに、再会する運びとなりました。ラファエロの「フォリーニョの聖母」が、来ていたんです。
Raffaello a Milano La Madonna di Foligno (2014年1月12日まで)
実際に見たばかりだし、今回は遠慮しようかな、と思っていたのですが、ある日の会社帰りについのぞいて、行列がそんなに長くなかったので、つい並んでしまいました。結局寒空の下、たっぷりと20分以上並んでいたので、風邪にはよくなかったんでしょうねぇ。 でも、やっぱり並んでまでも見る価値はありました。
わたしは、自分の好きなものがかなりはっきりしていて、美術館でも博物館でも、どうでもいいや、と思うものはさらさらと流してしまうタイプ。ですから、オーディオガイドとかもまったく興味なく、自分の見たいものだけをじっくり見たい人。 この展覧会がよいのは、たった一枚(場合によっては複数ですが)の素晴らしい絵を、それが好きかどうかは置いといて、じっくりとガイド付きで見ることで、絵の見方、アーティストとの対峙、そういった片鱗を思い出させられるって言うか、一枚の絵にどれだけの情報や思いや歴史なんかが詰め込まれているかを知らしめられるって言うか、そういうことを改めて考える機会となるからです。
バチカンでは人気の部屋なので、多くの観光客の合間から、さらりと眺め、ラファエロはやっぱり品があるよね、ヨハネがイケメンよね、なんて軽口をたたきながら見ていたのですが、今回、ガイドさんのおかげでびっくりする発見もありました。
この絵、オリジナルは板絵だったのだそうですね。 16世紀中ごろ、ローマの、今はずいぶんと新しくなってしまったサン・アラチェリ教会に置かれるべく描かれました。ラファエロがローマに招かれて、初めて物した一品。建前は、絵の右側で、赤い衣を着て跪いているウンブリア出身の貴族シジスモンドが発注したものとされていますが、真相は、シジスモンドが長年秘書として遣えた法皇ジュリオ2世が、シジスモンドの死後に、その墓を飾るものとして発注されたものらしいのです。真ん中の天使が、無地の板を持っていますが、そこは本来なら、発注者の名前が書かれる場所。ここでは、天の前での地上の栄光など取るに足らぬものという意図とともに、そういう発注事情もあったとかなかったとか。
ま、わたしの視線は、どうしてもイケメンで筋肉も程よく美しいヨハネに行ってしまいます。
しかし、ふと思ったんですが、縮尺的に、なんか彼の膝の位置って変じゃないですか。上すぎる?膝を曲げているにしても、なんか変。
あ~、こうやって見るとそんな不思議じゃないか。現場で見ていると、なんかちょっと。特にミラノの会場では、本当にすぐ近くまで寄れたので、見方的に間違っていたかな。 教会に置かれる絵だから、下から見上げることを考えているのかとかいろいろ思いましたが、やっぱり変な気はしました。
で、ガイドさんの説明でびっくりした話になるんですが、この絵、1565年に描かれた後、1797年、TolentinoやPerugiaを経由して、ルーブルに運ばれるんです。ナポレオンの時代なのかな。そして、フランスで板が割れてしまったのだそうです。 その際、一部絵の具の剥落等もあったそうなのですが、フランスには板絵を布に移す技術があったということで、一年以上をかけて、布に移されて、バチカンに戻ってきたという話です。
フレスコ画を教会から引っぺがして美術館で展示するのは聞いたことがありましたが、板絵を布に移すというのは、不勉強で知らなかったので、びっくりしました。ルネサンス当時は、まだ板絵も多かったですから、そういう歴史を持っている絵が、実は他にもあるんでしょうか。心底びっくり。 だって、この絵がオリジナルのままだったら、今はもう残っていない可能性が大きいんですよ。そして、ちょうどフランスに行ってなかったら、当時イタリアにはない技術だったらしいですから、いずれにしてもどうにもならなかった可能性が大きいのです。 とは言え、もしかすると、移動による気候変動などのせいもあるかもしれませんが、そもそも。
しかし、そういう経緯があったとすると、これだけ大きな絵のどこかに、オリジナルとは若干ずれちゃっている何かがあっても不思議じゃないような気もします。
それはともかく、なんだかんだ言っても、ラファエロの筆は素晴らしい。天使もジェズも、ふくふくとして愛らしく、思わず指先で触ってみたくなる柔らかさですよね。
おりしも、今日はクリスマス・イブ。聖しこの夜。皆様が心穏やかに過ごされますように。 わたしは風邪にもめげず、これから宴会に出かけてきます。
2013/12/25(水) 01:40:21 |
アートの旅
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マルケ・ロマネスク、その3
次に訪ねたのはフェルモFermo。この町の坂道ぶりにはびっくりしました。「丘の斜面に張り付いている」という表現がよくありますけれど、この街こそ、まさにその”張り付いている”状態と思います。 町の麓に、地下駐車場があり、そこからは旧市街までエレベーターがありました。 駐車場に至るまで、麓の町を行ったりきたり、とんでもない住宅地に入り込んだりして、迷いに迷いました。最後は親切な若者が、じゃあ、僕の後をついてきて、と小走りに車を先導してくれて、やっと迷い道から抜け出したりしてね。この旅、友人と一緒でしたが、一人のとき同様の迷い振りでした。ただ、友人は坂道発進がかなり得意なので、そこは本当に助かりましたけど。
昔からイタリアの丘の町村は妙に合理的で、公共の無料エスカレーターやエレベーターで中心部に容易にアクセスできるようになっていることが多いのですけれど、それって部外者には、結構分かりにくいんですよ。 それに、ここのエレベーターは、なんだか汚らしくて、古臭くて、「本当に稼動しているのか」疑問を感じさせる状態。一人だったら、怖くて乗れないような代物でした。 そうは言っても、この急坂。
これ、実際目の当たりにすると、すごい角度ですよ。四つんばいで登るしかないじゃん、みたいなそういう激しい坂。これで延々昇るのは、さすがに嫌。 で、エレベーターで、一気に旧市街へ。
建物が迫って、圧迫感のある町並み。 道幅すら余裕ないんですよね、土地が狭いから。 ただ、先の見通せないこういう道をだらだらと歩くのは楽しいです。迷路のような町は、散歩に最適。でも、とにかくどこも坂道なのが閉口します。 この道の行きついた先は、結構広い空間が開けていて、そこに観光案内所もありました。
地図をもらって、目的の教会の場所を聞き、さらに坂道を行かねばならない、ということで、ちょっとがっくり。でも、仕方ないので、広場を突っ切り、坂道をのろのろと登りました。その先は丘の天辺になるのかな。目的のドゥオモDuomoです。
ファサードからして、全部デッサンが狂っているようなもので、なんか脱力します。オリジナルは、ロマネスクの建物、多分本当のオリジナルは、もっとずっと古い宗教施設と考えますが、それにしても、外観は新しい。古い時代の面影が若干あるから、そして開いているからには中には入るけど、期待度、この時点で、限りなくゼロに近く。 ああ。
これはいかん~! 一瞬クリプタに期待したけれど、あああ。
だめだぁ…。 せっかくここまできたのに、という絶望状態で、救われたのが、本堂の床に開いていた地下窓…。
あるんじゃないか! 本堂の下に、古い教会の床面があるんです、どうやら! 孔雀ですよ。永遠のシンボル。ということは、中世期のモザイク!これを、ちゃんと発掘公開しろ~! と思ってしまいました。どういういきさつでここだけなのか不明でした。今後に期待します。 ナルテックスの部分に、過去の彫り物などがあったのですが、全体は、ロマネスク的には、本来は素晴らしいものを内包しているだけに寂しいドゥオモでありました。一応側壁の扉口装飾は、再建要素が強かったとは言え、中世テイストを残しておりました。
ここもまた、最も有意義な眼福は、この美しいマルケの土地ですかね。
マルケ、美しいけど、とにかく地味だわ。なんか、アプローチの仕方がわからない…。
2013/12/23(月) 06:25:00 |
マルケ・ロマネスク
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マルケ・ロマネスク、その2
次は、予定外のチンゴリに立ち寄ったために、意外と時間が迫ってきて、夕方にアクセスしたランボーナRambonaです。平原の真っ只中なんですが、村に近づくとともに、なにやらにぎわいが…。
どひゃあああ、すごい人ごみ、すごい車…。どうみても、普段は誰一人いないような村はずれなのに、とにかく人が集まってきています。お巡りさんも多数出張って、車の誘導をしています。
やっぱりお祭り…。何もこの場所でやらなくても、と思いますが、村の唯一の広場といったところでしょうか。それが、今わたしが目的としているランボーナ修道院周辺だったのですね。 普段は村の駐車場になっているだろう整備されたスペースが、お祭りの屋台会場となっていて、農道に毛の生えたような道路路肩はびっしり駐車で、ずいぶんと先まで行って、やっと停める場所があったという次第。こうなると、教会が開いているのは確実ながら、心穏やかに見学できるだろうか、とちょっと心配になります。
でも、案じる必要なし。 ある意味寂しいですが、もちろんお祭りに来ている人は、お祭りが目的ですから、教会を訪ねる人はほとんどいません。難なくアクセス。
サンタ・マリア・アッスンタ・ディ・ランボーナSanta Maria Assunta di Rambona修道院教会。 ここでは、クリプタだけにかつての姿が残っておりますので、迷わず、クリプタへ。
!!! いいですねぇ。うっとり。外部とのアクセス扉は開いたままで、喧騒も遠くに聞こえてくるものの、敷居を一歩踏み込んだだけで別世界。実に素晴らしいクリプタで、一気にトリップしそう…。
床面が新しいのが残念なんですが、それ以外は素敵に当時のスタイルを残していて、興奮しました。
一部、彩色の残る柱頭。 超素朴なモチーフと表現力。四隅と上部の植物モチーフ。背景に若干色あせた朱を、修復していてなおかつ嫌味なく残しているのが、なんとも味わい深いです。先日フリウリで気になった彩色、ここでもあったのですね。でも、ここでは背景部分だけ。オリジナルもこうだったのかどうか、説明はありませんでした。でも、柱頭に作為的に色をつける意味も見当たらないので、伝統的にそうだったのだろうな、と考えます。もしかすると、フリウリでそうだったように、浮き彫りの浮き部分にも、派手な彩色があった可能性もあるわけですよね。
すべての柱頭に、異なる彫り物があり、それぞれに存在感があります。これ、それぞれの柱頭が彩色されていたら、さぞや派手な、これとは全然違う眺めになるんでしょうね。 いや、明かりももっと暗かったはずだから、色があったとしても、意外と思うほどは派手じゃないのかもしれない。
柱部分も、様々。高さも異なる様子が見られるので、ありがちな、ローマ時代の柱の再利用があるのだと思います。太さも、様子も異なる柱と、それでもそれにマッチした柱頭が組み合わされて、高さを調節するための足元もそれぞれ調和した装飾で飾られて。 そういう、間に合わせの中に調和を求めたり、ごっちゃごちゃのはずなのに思想が感じられてしまう中世の装飾というのが、結構好きなんですねぇ、わたしは。 ここ、床面が新しいのが、本当に残念。 そういうごちゃごちゃのわやわやの風景に、磨り減った床石とか階段石とか、そういう確固とした時間が見えると、なんかますます、くるんです。なんだろね、これ。
ほわわーん、と歴史に圧倒されて、建物としては残っている上部にも行ってみましたが、今は漆喰で塗り固められた、普通の建物で、ただの展示会場になっていました。クリプタと、現在の上ものは、つながっていませんで、クリプタとは、「同じマンションの別のおうち」、というような風情になっています。
癖で、念のため後陣、外側を確認。
おお!意外にも、当時の姿が、ほぼそのまま残っています。 ぽこん、と突き出た付け柱、凝灰岩っぽい石と、その間に挟まれたレンガでの渋い装飾も、とっても雰囲気。
この写真に、ぞく~っと来る人、ロマネスク好きならあり、と思いますが、病気です!わたし?もちろんゾクゾク。下部のレンガ積みと、この半円付け柱はスリスリ状態。 ちなみに、反対側の側壁も、同じような石+レンガ積みで、付け柱あり、でした。修復も相当していると思いますが、マテリアルも含め、かなりオリジナルに忠実にされているようです。ありがたいですね。まぁ、毎年この場所で、これだけ盛大なお祭りが催されるということは、やっぱり何かあるんでしょう。ランボーナ、まだまだ長生きしそうです。
2013/12/22(日) 06:59:32 |
マルケ・ロマネスク
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マルケ・ロマネスク、その1
プロローグをアップしてから、ずいぶんと時間がたってしまいましたが、やっと、春に訪ねたマルケ特集、開始です。さくさくと行くことにしますね。
ミラノを出発して、まず訪ねた町は、チンゴリCingoliです。
不思議な町の名前。 起源を探すだけでも、なんか面白そうな感じがします。このあたりの古代定住民族ピチェーノPicenoとか、ギリシャに関係しているかも、と思ったり。
市庁舎前は、美しい広場になっていましたが、それを囲むように立てられている柵に、CINGVULVMとありました。ちょっとギリシャとか古代テイストあります。やっぱり起源は古そう。紋章も、鹿と樹木で、それらしいいわくがありそうです。
でも、春の旅を今頃アップしているわけですから、そういうことを調べるのは、とりあえず置いといて、まずは、ロマネスクの旅をしましょう。
ここは、ロマネスク的には、あくまでマイナーな町。町全体の雰囲気は、それなりに中世なんですが、でも、どうしても行くべき場所かといえば、そんなこともなくて。ただ、通り道だったので、一応寄ってみた、という感じです。
旧市街唯一のロマネスクの遺構は、ここ、サン・フィリッポ教会Chiesa di San Filippo。
旧市街の中心部にあります。 ロマネスクの遺構ではありますが、教会建築全体は、修復が激しく、当時の姿とはずいぶんと変わってしまっていて、扉口装飾に、かすかに面影を見ることができるだけです。訪ねたとき本堂はクローズでしたので、内部は分かりませんが、外観から判断するに、内部はおそらくバロック等の新しい装飾になっているのではないでしょうか。
扉口装飾は、地味な上に、排気ガスなどで相当汚れているし、痛みも激しいのですが、今でも彫り物は残っています。 タンパンの人物フィギュア。
上半身が欠落しているのは寂しいですが、意志の強そうなお顔はしっかり残っています。フィリッポさんなんでしょうね、やっぱり。 雰囲気としては13世紀初頭くらいかとも思われました。ロマネスク後期、ほとんどゴシックにかかっている感じでしょうか。 一方で、側柱の柱頭は、動物フィギュア。
左右同じフィギュアみたいでしたが、左の方は欠落と痛みや汚れが激しくて、何かよくわからない状態になっていました。グリフィンとライオンっぽいですよね。感じとしては、やっぱりゴシック入っている感じです。
一応後陣もチェック。
やっぱりだめですね。 多分、この町では、高台からの風景を眺めるのが、多分一番の眼福。
ちょっともやっていはいましたけれど、遠くにアドリア海まで見えて、素晴らしい眺めでした。畑と、土の部分と、うっすらと黄色い花畑の部分と、まさにパッチワーク。 マルケは、丘のうねる土地が多いですが、トスカーナよりも起伏が細かく激しくて、時々ぐっと上に突き出したこういう町が多いように思います。だから遠くまで広がるパノラマを、より印象的に楽しめる場所が多い。うねうねが好きか、激しい高低差が好きか、という丘好きカテゴリーがあるとすれば、チンゴリは後者に受ける町ですね。 ロマネスク、関係ないけど。さくっと行きました。
2013/12/21(土) 06:28:40 |
マルケ・ロマネスク
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秋のリグリアその5
中世を求めてジェノヴァ旧市街を歩き回ったのは、もう二年も前になります。そのときは、関連教会をピンポイントで訪ねるのに精一杯で、町を見る余裕は一切なし。また、時間切れで訪ねることのかなわなかった場所、クローズやミサの最中で内部をみることがかなわなかった教会がいくつかありました。 今回、旅の最後に、ミラノに戻る列車はジェノヴァ乗換えだったことから、ジェノヴァ中央駅プリンチペ駅近くにある、前回見逃した教会を訪ねることができました。 駅前。ほぼ夕暮れとなり、美しい空色、時折ぱらつく雨のために明かりがにじんで、なんだか哀愁の港町って言う雰囲気でした。
ジェノヴァの駅は、もうずいぶんと長い間あちこち工事中(多分地下鉄のため)で、出口がよくわからず、上の中央口ではなく、横っちょから出る羽目になりました。そしたら、道なりに建っているビルの隙間から、絶対あれだな、と思わされるロマネスクの鐘楼の上部が、ちらりと見えました。
それにしても、この道なりに奥行きのないビルは、すごいですね。まるで張りぼてのような…。 塔に直接アクセスしたいのですが、道が分からず、結局中央口の方に出て、地図を片手に目指すのですが、そこは超方向音痴の私のこと、右に曲がらなければいけないのは分かるのですが、どこをどう曲がったらいいのか分かりません。 適当なところで右に折れたら、かなり急な階段を降りることとなりました。ジェノヴァはアップダウンの激しい土地なので、道を間違えると結構辛いことになり、方向音痴には辛い町です。 降りたところはこじんまりとした広場になっていて、中央には昔の、多分洗濯場跡?
水場にも鋳鉄の装飾状の支えがつけられいるし、水道らしいし、そんなに古いものではないと思いますが、今は水も出ないようで、周囲はカフェになっていて、洗濯場がお洒落なオブジェとして扱われているようでした。床面から何からきれいにされていて、広場全体がお洒落でしたよ。こんな風に再活用されている洗濯場、初めて出会いました。
目指す教会をさす看板が出ていたので、ほっとして矢印に従ったのもつかの間。周囲はいきなり、ここはどこ?!と戸惑うような道となっていました。
この写真では分からないと思いますが、道幅が狭くて、建物が両側から迫っていて、歩いているのはアラブ系と中国系ばかりで、エキゾチックなスパイスや料理のにおいが充満していて、きらきらとした怪しい雰囲気で、どうみても、アラブ系の国の旧市街としか思えない雰囲気なんです。 Via di Pre'という、ジェノヴァの昔ながらの港町の雰囲気を残す歴史的な通りで、駅からこの道を通ってカテドラルに向かうあたりが、いわゆる本当の旧市街ということだと思うんですよね。実際、右の写真に写っているのは、観光用のミニ・トレインのおしりで、こんな夕暮れの時間だというのに、観光客が結構乗っていました。観光名所のひとつでもあるということです。 実際、中国人はともかく、港町ですから、アラブ系の人たちは、ずいぶんと昔から、常にこのあたりでは見られたんだろうなぁ、と思います。各国の船員さん御用達の旅籠とか食堂なんかが軒を連ねていたのかもな~。
道は合っていたのだけど、自分の方向感覚は一切信用していませんから、途中見かけたお巡りさんたちに念のために尋ねたところ、案の定、逆に向かっていました。 時間の制約もあるので、慌てて戻ると、目指す建物が見えてきました。
サン・ジョバンニ・ディ・プレSan Giovanni di Pre'。 ライトアップが美しくて、かえってこの時間に来てよかったかもしれません。 建物は、二つの部分に分かれていて、まずは右にある円形の教会部分。
日が暮れてしまうと困るのは、教会の中が真っ暗になってしまうことですね。かといって、信者さんがいる場でフラッシュはたけませんので、写真ではよくわからなくなってしまいます。 灰色の重々しい石で、天井は低くトンネル・ヴォルトになっていました。外部からは、円形の構造に見えますけれど、全体どうなっているのかよくわかりませんでした。なんせ暗くて。 1180年建造の鐘楼と同時期のものとありましたが、この下に、サン・セポルクロというオリジナルとなる教会があったようなんで、今あるこちらは、もうちょっと後の時代になるんかな。いずれにしても修復が相当されているし、後付の装飾も多くて、なんかちぐはぐな感じ。サン・セポルクロには、洗礼者ヨハネの灰が、聖遺物としてあったとかなかったとか。それは眉唾にしても、由緒正しい発端の教会ではあったらしいですね。
もうひとつの建物が、道に面した方です。
ここは、もともとマルタ騎士団が建てたらしいんですよ。救護施設的に使用された建物らしく、今はそういうことに関する博物館になっています。訪ねたときは子供たち向けイベントをしていたので、子供がわらわらいて騒々しいことこの上ない状態でしたが、そのおかげで入場無料だったので、駆け足で見学してきました。
近代的な工事もされていますが、柱や、床面の一部、アーチやヴォルトなどなど、ところどころに古いものをちゃんと残しているのが、「古い建物の再生建築」のお手本のような建物になっていました。展示は、イベントも関係しているのか、たいしたものはなかったですが、好きだったのは、入り口に掲げられていたこれ。
古い碑文で読めませんが、最初にマルタ騎士団の十字架と、1339年とありますね。その下は、15Aprileかな。古文書の勉強をしたら、こういうのがすらすらと読めるようになるのでしょうかね。だとしたら楽しいでしょうねぇ。14世紀かぁ、マルタ騎士団かぁ、と思いながら、ちょっとだけスリスリしてきました。
ということで、つい長々となってしまいましたが、秋の楽しい遠足もおしまいです。お付き合いありがとうございました。
次は、やっと、春に旅したマルケ、ご紹介したいと思いますので、お楽しみに。
2013/12/19(木) 06:23:41 |
リグリア・ロマネスク
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