2017年7月 エトルリアを巡りつつロマネスクもちょっぴり、トスカーナとラツィオの旅 その13
昔々、日本でイタリア語を勉強していたころ、六本木の、確か今はもうないはずの青山ブックセンター、近所で働いていたのでよく通っていて、そこでお洒落な雑誌Switchとか、写真が美しい建築雑誌に出会いました。その建築雑誌は、過去のナンバーも売っていて、その中に、イタリアの特徴的な町村の様子を特集したものがあったのです。広場の特集、丘の上の町村の特集など、数冊を購入して、写真を飽きずに眺めていた時代がありました。いつか行ってみたいものだと思いながら、シエナのカンポ広場とか、南イタリアの白い町とか、丘の上に張り付いているような小さな村の名前を覚えたんです。
あのまま、あこがれで終わる人生もあったのだよなぁ、とふと遠い目をしたりして…、笑。
そういう甘美な記憶の中にある村の一つが、ここです。
ピティリアーノPitigliano。
なんというロケーションでしょう。そして、緑に囲まれて、くすんだ土の色、屋根のオレンジが、なんという印象的な風景を形作っていることか。また、その村の名前が、なぜここまでしっくりと来るのかとまで、思います。
ここは、遺跡があるわけではないのですが、そういうわけで、是非一度は訪ねてみたい場所だったのです。この風景の美しさを見るだけでも、訪ねる価値があるのですが、この地域のTufo凝灰岩との関係というか、こういう特異なロケーションの村ができた絶対的な要素であるTufoという地盤を知る、絶好の機会ともなりました。
この地域、今では、トスカーナとラツィオの州境に近い地域ですが、多くの似たような町村があります。上の図で、わかると思いますが、崖の上の狭い場所にぎっしりと家が立ち並びます。周囲はすべて崖なので、言ってみれば、村のありようが、すでに天然の要塞状態なわけです。不安定な中世においては、これ以上ない安全なロケーションということになります。
平らなスペースには限りがありますが、実は、この村の実質のスペースは、出ている地面の二倍以上あるんです。
なぜかというと、村のある場所の地盤は、すべてTufoで、建物の地下に向かって掘り放題。どの建物にも地下があり、多くの家を、地下でつなげる通路もあったそうなんです。地下も、1階や二階どころか、かなり深くまであったらしいんですよ。この作りは、なんと、すでにエトルリアの時代からそうだったそうなので、2千年以上の古い構造だったりするそうです。
その一部は今でも使用されています。減価償却どころか、ですよね~。
登ったり下ったりの小路が続いて、楽しいウォーキングができますが、足腰が悪くなると、住むのは辛いかもしれませんねぇ。ただ、そうなるまでは、暮らしていることがイコール運動という感じなので、元気でいられるかも。
周囲は、ソヴァーナと似たり寄ったり。
整備されたエトルリアの遺跡はありませんが、この辺りには、きっと発掘を待っている墳墓などがあると思います。ピティリアーノも、エトルリア時代からの定住地だったわけですから、ネクロポリはあるはずですからね。ただ、遺跡としての価値とか、そういうことがないと、発掘はできませんし、多すぎて、全部は無理、ということは、ままあるのだと思います。
つい先日、ニュースで見ましたが、イタリアを代表するワインの一つ、Valpolicella、世界的に有名なAmaroneを算出する地域でのことですが、まさにそれら有名ワインのブドウを作る畑の下に、ローマ時代のヴィラが埋まっており、今般、一部が試掘され、素晴らしいモザイクの床が数メートルにわたって、出てきました。もう何年も前から、その存在は分かっていたものの、これほどの規模で試掘するのは初めてということでした。
床モザイク、素晴らしい保存状態でした。しかし、まさにブドウ畑の下なので、今後全体が発掘されるのか、また埋め戻されるのか、分かりません。高価なブドウ畑ですから、相当の予算がつかないと、無理ですしねぇ。イタリアは、遺産がたくさん埋まっているので、分かっているけど手を付けられない考古学遺産というのが、おそらく信じられない数、あるのでしょう。この辺りの土地も、エトルリアなどは、まだまだ色々あるのだと思います。でも、掘っても、建物の基部が出てくるだけ、のような遺跡には、予算もつかないんでしょうしね。
ぶらぶら歩いていると、外は新しいですが、12世紀の教会、という説明版がありましたので、喜んで入ってみると。
中もすっかり新しくて、がっかり。
サンタ・マリア・サン・ロッコ教会、12世紀、とありました。後陣の石積みに、わずか往時の面影が、というところでしょうか。
さらにぶらぶらいくと、ちょっと気になる場所が。
上物は、普通の家ですが、地下に通じる階段が道からあり、ごちゃごちゃしている単なる地下室にも見えますが、人の気配がありました。
記事の最初に記した説明は、村の入り口にそういう説明版が置かれている場所があって、ぶらぶら歩きの前に見ていましたので、これが、例の地下室なのかね、などと、階段への折口のあたりで立ち話をしていたところ、おやじが出てきたんです。
のぞき込んでごめんなさい、と謝ると、良かったら、どうぞ、見ていってください、と中に入れてくれたのです。
鋳鉄細工で、実用品からアーティスティックなオブジェまで、色々作っているおやじの工房というかアトリエでした。このおやじが、素朴な様子の人で、色々とこの地下空間のことを説明してくれたんですよ。
入り口からは想像もできないほど、奥にまで広がっており、奥の方には、さらに地下に降りる階段がありました。一階下くらいまでは、行けるという話だったと思います。灯りもつけて、ちゃんと整備しているようでした。すごくアドベンチャーな気分で、面白かったです。
それに、この人の作品、なかなかいいんですよ。
もともとアイアン系大好きですし、ファンタジーなオブジェ、すっごく気に入りました。車だから、運ぶこともできるし、しばし真剣に考えちゃいましたが、狭い我が家のどこに置くのか、という現実に思い至り、お値段を聞くのは控えました。簡単に手が届く値段だと、どしてもほしくなっちゃうからね。そして、なんとなくこのおやじの雰囲気からは、とんでもないお値段を言われる感じはなかったんで、大変危険だったのです、笑。
そんなわけで、観光地的な施設があるわけではないですが、短時間でも、とても楽しい滞在となりました。現地の人との交流は、やはり旅の醍醐味。
フランス語も、せめて片言でも話せれば、と思う次第ですが、去年で若干の達成感を得たら、もうやる気がなくなって、とうとう1年近く、勉強もご無沙汰で、またゼロに戻っちゃったな。情けなし。
最後は、にゃんこのお見送りでした。またにゃ。
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2020/05/31(日) 00:25:59 |
旅歩き
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2017年7月 エトルリアを巡りつつロマネスクもちょっぴり、トスカーナとラツィオの旅 その12
またまた、すっかりさぼってしまいました。
在宅勤務継続中で、普通に通勤しているときよりも、時間の余裕があるはずなんですが、勤務時間を終えて会社のパソコンを消した後、自分のパソコンを改めて立ち上げるのが、限りなく億劫になってしまって…。
おそらく、仕事環境が劣ることもあるのでしょうが、毎日かなり忙しいのですが、通勤していると、会社を出てしまえば、完全に切り離して、自分のパソコンは自分の世界、となるのですが、そこのところだけは、どうも切り離しにくいっていうのか。
ま、怠け者の言い訳です、笑。
さて、2017年の旅、後半は、エトルリア巡りとなります。
まずは、小さな村に二つも教会があったSovana近郊のエトルリア遺跡、”Tufo(凝灰岩)の町”考古学公園Parco Archeologico “Citta' del Tufo”です。村から車で5分足らずの場所、上の地図で、左側の方にあるPの先の一帯です。
かなり広大な敷地に、点在している墳墓を公開しています。要は、ネクロポリですから、当時の生活の場は、今のソヴァーナのある場所だったのではないか、と推察します。
とても緑が多く、起伏のある土地で、緑の隙間に、色々なタイプのお墓があります。当時も、こういう森のような場所だったのでしょうかねぇ。立派なお墓が多いのですが、木々や岩に隠されているというのか、守られているというのか、誰でもが訪れることは想定していない様子なのです。死者の町ですが、隠里的な。
Tufoの町、とある通り、この一帯は、地盤がトゥフォという凝灰岩です。上の写真の岩肌がそうですね。この石は、地下にある本来の状態では柔らかく加工がしやすいが、切りだされて空気に触れると固くなるとか、確かそういう性質のものではなかったでしょうか。
いずれにしても、この一帯は、地面がすべてこの岩でできているので、Sovanaの町も、掘れば、岩なのです。
それで、いわゆる切通的な道があります。
細くて、先が見えなくて、あるだけでスペクタクルな道。インディ・ジョーンズ的な、ワクワク感を覚えますよ。
人がいる方が、スケール感が出るかも。
こういう中に、お墓が、これはおそらく切り出されているんでしょうねぇ。
エトルリアでは、石棺の上に、その中にいらっしゃる方が横たわる彫り物が施されるのが通常ですので、上の写真では、金網の向こうに安置されているのが、石棺でしょうね。傷んではいますが、横たわった姿が、見られます。ずいぶんと立派なお墓ですから、有力者のものだったのでしょう。
お墓のどこかを飾っていただろう彫り物が、さりげなく置かれています。
翼を付けた悪魔とされている彫り物です。蛇のような竜のような下半身だから、悪魔なのかな。
こちらは、多分Ildebrandaの墓と呼ばれる、非常に大きくて立派な、墓というよりは一つの建造物です。
柵の向こう側、石が面白く切り出されているところにはアクセスできないのが残念です。イルデブランダとは、まるでロンゴバルドの名前のようですが、なぜかというと、発掘した考古学者が、中世ソヴァーナの有力者の名前をささげたとかそういうことらしいです。そういう紛らわしいことはやめてほしいですけど、笑。
この墓は、公園の中でも最も立派なものであり、エトルリアの墓としては、最も重要なものの一つであるということらしいです。
作られたのは、起源3世紀から2世紀、エトルリアの歴史としては、比較的新しい時代となりますね。
説明によれば、やはり、墓は、岩から直接切り出されているということです。もともとは、岩が、多色のストゥッコで覆われていたようです。エトルリアでは、派手目の色で絵を描く文化がありますから、かなり派手な装飾がほどこされていたらしいです。隠里どころか、ですね。
地下に、降りることができるようになっています。
この地下が、まさに棺が葬られていた場所となります。上の建造物は、エジプトで言えばピラミッド亠いことですね。柱が12本もある建造物ですから、どれだけの有力者だったか。
このお墓スペースは、紀元前4世紀のものとされているので、上物は後付けのようです。ここには、フレスコ画などの装飾は残されていなかったそうですが、天井に、幾何学模様が施されているのがわかるでしょうか。
これ、この旅の数か月前に、プーリアの洞窟教会巡りをしたときに、複数の場所でお目にかかった装飾ですから、アッと思いました。プーリアの方が、時代はずいぶんと後なのですが、岩を切り出して教会にするという発想は、このエトルリアの、ネクロポリ作りと共通するものがあります。この天井装飾、当時の誰かが、エトルリア遺跡からインスピレーションを得たのでは、と思ったりもしたのですが、エトルリアは、南部では見られないので、ちょっと無理がありますかね、笑。数世紀のときを置いても、人の考える装飾は、同じようなもんだ、ということですかね。
比較的地味な遺跡ではありますが、緑の中のウォーキングは気持ちよく、起伏があるので適度な運動にもなり、ソヴァーナを訪ねた際は、ちょっと足を延ばす価値はあると思います。このときは、先を急いでおり、あまり奥地まで行けなかったのが残念だったので、再訪を願っています。
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2020/05/30(土) 23:07:02 |
旅歩き
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2017年7月 エトルリアを巡りつつロマネスクもちょっぴり、トスカーナとラツィオの旅 番外編
ロマネスクの後は、エトルリア遺跡とか、ちょっと観光的な町村の訪問とかをまとめてみようと思いますが、いつものように、番外編として、宿と食事のことを記しておきます。
あまりご参考にはならないかもしれませんが、将来の自分の参考になるかもしれないので、笑。
宿は、例によってBooking.comで探したのですが、すっごく難しかったのです。7月でそこそこ混んでいる時期ですし、トスカーナはいつだって人気が高く、また外国人観光客が多いせいか、相場が高いのですよ。
その上、欧州の観光客は、ダブルベッドを好むカップルが多く、二つベッドのツインとなると、いきなり選択肢が減るのも困ったものです。皆さんラブラブなんですねぇ。私は、ラブラブ状態であっても、安眠のためには、ベッドを人と分けるのは嫌なんですけれど、笑。
最初は、トスカーナ中部で一泊。
Hotel Fondovalle
SP 308 Loc.Ponticelli, Citta' della Pieve
街道沿いで、ガソリンスタンドのお隣。窓からはスタンドがよく見える、といういたって実用的かつダサいロケーションの宿で、写真も撮影していません。
そして、後半3泊は、ラツィオに下って、ボルセーナ湖という湖のほとりの町です。
Hotel Relais del Lago
Via Laertina 140, Marta
ルレーなんて、ちょっとこじゃれた印象ですが、これまた町はずれで、道沿いで便利、かつ駐車場が広々としていて停め放題という、なんか実用だけで決めたホテルです。ベッドふたつ、朝ごはん付きでそこそこのお値段、という選択肢では、本当になくて、消去法でした。
でも、結果的には、旅の目的地との距離感がよくて、必要最低限の設備はありましたし、問題なかったです。ただ、一人だったら、ちょっと寂しい裏寂れ感があったかも。
ホテルのあるマルタという町は、湖のほとりなので、湖沿いを散策したり、旧市街をふらふらしましたが、変に観光地化してなくて、トスカーナに連泊するより、よかったと思います。トスカーナ最南端からたいした距離じゃないけれど、ラツィオに入ると、なんかすごくダサくなるっていうか田舎臭くなるっていうか、観光地度も違う感じ。
旧市街は、古い石積みの家並みで、なかなか風情がありました。それなりに古そうな建物もあります。
こんな彫り物を窓に据えるのは、きっとお金持ちのお家だったんだと思います。ニシン御殿的な網本さんの家とか。
湖のほとりですから、湖で漁をして生計を立てている人たちもお住まいです。
網を繕っていらっしゃいました。のんびりした夕方です。
美しい湖です。鳥が、等間隔に屋根に並んでいるのが、すっごくかわいかったです。
湖のほとりでは、撮影隊がいました。
黒いスケスケの衣装のきれいなお姉さんが、最後は水に入っていました。なかなかかっこよい写真になりそうでしたけど、カメラマンも大変だ~。
お食事は、最初の日のお昼を、グローピナのふもとの町、Loro Ciuffennaのすっごくダサいピッツェリアでピッツァ。
Pizzeria Dimicla
Via Circonvallazione 4, Loro Ciuffenna
見た目も内装も、相当ダサかったのですが、これがなかなかおいしいピッツァだったので、びっくりしました。確かシンプルにマルガリータにしたと思うのですが、素材が新鮮で、余計な味がなくて、ぺろりと食べてしまった記憶があります。私、ピッツァって、途中で飽きちゃうんで、一枚完食ってなかなかできないんですけどね。
ちなみに、このLoro Ciuffennaは、昔グローピナを訪ねた時にも立ち寄って、ランチをしたので、土地勘がありましたが、町の入り口に大きな駐車場があるし、旧市街には、複数のレストランがあるので、この近辺で食事の時間になったら、お勧めです。
初日の宿Fondovalleは、レストランもありましたので、夕食はそちらでいただきました。
気軽なトラットリアという様子の店で、それなりに混んでいました。それでもサービスは感じよかったんですが、なんと、頼んだ豚肉のグリルが、驚くくらいに塩辛かったんです。
ベースの味はおいしいんですが、お肉もおいしいお肉だとわかるのですが、塩が、なんだろう、料理の最中に、誰かが間違えて塩つぼを落としたんじゃないのか?というくらいに塩辛い。
私は、トウガラシの辛さは好きなんですが、塩辛さは、かなり苦手なので、これは参りました。同行者に味見してもらったら、やはり塩辛いということだったので、間違いなく塩辛かったとは思いますが、塩辛さが好きな人だったら、または南の人だったら、行けたのかなぁ。
とても無理だったので、塩辛くて食べられない旨言ったら、お肉やソーセージとかのグリル盛り合わせを代替品として持ってきてくれたのですが、やはり塩辛かったです。豚肉よりはちょっとましだったし、申し訳ないので、頑張って食べましたが、うーん。誰かに行ってもらって、試してもらいたいもんです、笑。
訪ねたのが、ちょうどランチの時間になってしまったピティリアーノでは、路肩が駐車場になっている道脇に、これまた見た目がダサいお店があったので、迷うことなく入りました。
Il Grottino
Via San Michele, Pitigliano
テラスからの眺めが素晴らしいレストランで、ここはテラスが文句なくお勧め。でも、あまり食べたいものはないし、トマトソースのパスタを頼んだところ、まるで人んちでいただくような、至極家庭的な乾麺パスタだったので、出てきた時はげっ、と思いましたが、これが、なかなかおいしくて。なんか結局家庭的なエリアなのかしら、笑。
オーナーらしいおやじは、大変愛想がよく、南出身らしい人で、どのテーブルにも愛嬌を振りまいていましたが、息子?孫?親戚の子供?ウェイターをしていた少年は、笑顔もなく、ふてくされていて、何があったの、というくらいに不機嫌な様子で、こっちが心配になるほどでした。
夏の、それなりに書き入れ時に、ああいう店員を置くというのは、やはり色々事情があるのだろうなぁ、などと、どうでもよい他人の家庭事情を同行者と語るのでした。
日本語出来る人が増えたとはいっても、欧州多言語に比べればまだまだ完全マイナー言語ですから、もしかして失礼なおしゃべりも堂々とできます。
ちなみに、今どきのミラノは、本当にできる人多いので、それは気を付けてくださいね。
ボルセーナ湖のほとりでは、近所のレストランに通ってしまいました。
Bar Pizzeria Pineta
Via Elmo Chiatti 2, Marta
これまた家庭的な料理で、たいした驚きはないのですが、新鮮な食材だけを使っているので美味しかったです。また、ファミリー経営でしたが、メインでサービスをやっているおかみさんが、すっごく感じがよかったのです。食後には、トスカーナ名物のカチカチのビスケット、ホームメードのカントゥッチを、地元の食後酒とサービスしてくれるなど、至れり尽くせり。こういう田舎の大衆食堂って、いいですよねぇ。トラック運転手とかが来るようなお店です。
そういうわけで、地味目でしたが、家庭料理系を楽しんだ旅でした。
これは、トスカーナ中部の名物パスタ、ピチみたいだけど、どこでいただいたのか記憶なし。
ピチは、かなり太めの手打ち面で、私が一年強過ごしたシエナでは、イノシシ肉のミートソースや、カチョカヴァッロという辛めのチーズのソースでいただくのが定番です。もちもちした食感が大好きで、ミラノに暮らしだした頃、レストランでピチを見つけては試していたのですが、おいしいものに会う確率は皆無。今では、トスカーナでしか食べられないもの、と思っています。
生肉をピエモンテでしか食べないような、笑。
これは、帰り道のどこかでいただいたのでしょうね。
あまり、フォトジェニックなお皿の写真がなくて、残念です。
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2020/05/20(水) 02:34:58 |
イタリアめし
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2017年7月 エトルリアを巡りつつロマネスクもちょっぴり、トスカーナとラツィオの旅 その11
このときの旅で、最後に訪ねたロマネスクは、こちらです。
ヴェトラッラVetrallaのサン・フランチェスコ教会Chiesa di San Francescoです。
たずねようとしたわけではなく、傍らを通過したので、ちょっと寄って行こうか、ということになりました。この教会、以前の旅でも、ここを目指すというより、脇を通ったので、せっかくだから見ていこう、ということになったような覚えがあります。
カステル・サンテリアとは違って、妙に縁があるというのか…。
訪ねた時、ちょうど結婚式が終わったとか、どうやらミサの直後とかだったみたいで、多くの人がいました。気にせず中へ。
構造は古いし、雰囲気はそれなりにありますが、ロマネスク的な遺構は、少ない教会です。
とはいえ、いくつかの立派な柱頭は、きちんと見るべきものです。
正統派ロマネスク、っていう感じですね。
これも、超正統派アーカンサス。写実に過ぎて、芸術的な面白さという意味では、ちょっと薄いかも。
こんな細かい彫りのフィギュア系もありますが、肉眼では全然見えないですよ、勿論。
上の方のは、ちょいと楽しい感じですけれど、全体としては、ごちゃごちゃとりとめのない柱頭で、どうですか。この石工さん、すっごくちゃんとした技術を持っていた人なんでしょうけど、創造力というのか、クリエイティブな部分には、あまり重きを置かない人だったのかなぁ。
で、ここに立ち寄ったのは、プリミティブな感じのクリプタを再訪したかったからなんですが、クリプタをのぞいたら、真っ暗でした。
イベントが終わったのに、中でおしゃべりに余念のないおばさんたちがいたので、明かりがあるかどうか尋ねると、ちょっと待て、と言いながら、手をたたき、大声で誰かの名前を呼ばわるのです。一応教会の中なんですけど、構っちゃいない…。
すると、名前を呼ばれたらしい子供が、順番にやってきて、「知らん」と。最後に司祭さんが登場したので、おばさんは、司祭はどこにいるんだ、と聞いていたらしいですね。で、迷惑そうに現れた司祭さん、うんざりした様子で、はいはい、と灯りをつけてくれました。
きっといつも、
傍若無人なことをされているんだろうなあ、と思わずクスリとしてしまいました。おばさんは、どこでも強し。
古いクリプタですが、ちゃんと使われてきて、だからケアされています。
天井の一部にフレスコ画がありますが、少なくとも今残っているものは、それほど古いものではない様子です。それでも、古色蒼然として、退色は激しいですが。
古いフレスコ画が上書きされているのかもしれないなぁ。暗くて、よく見えない写真ですみません。
上物にある精緻な柱頭との違いに、愕然とするほど、プリミティブな柱頭の彫り物。素朴で、よい感じです。時代的には、10世紀以前とかかもしれないですね。
やはり、記憶通り、なかなか趣のあるクリプタで、再訪の価値があったのですが、しかし、参ったのは、子供たちです。クリプタに明かりがついたら、数人が駆け込んできて、暗闇すら楽しみながら、追っかけっこです。
落ち着いて、脳内タイムスリップどころじゃなかったのです。さっきのおばさんと司祭さんのやり取りを見ても、おそらく、ここはそういう教会で、住民が好き放題にサロン的に使っていたりするんですかね。司祭さんも、発言力なさそうだし…。
しかし、少年の一人が、祭壇のところに立ち、右手を挙げて「ハイル・ヒットラー」、と叫んだのには、仰天しました。
そのポーズで、壁に写る、手を挙げた自分の影を見ているんで、「意味わかってるのかな?それは、ダメなことだよ」と注意したんです。小学5年生くらいですかねぇ。「分かってるよ、冗談だよ」と平然と言います。「冗談でもやったらダメなことだよ」というと、「分かってるって、大丈夫だよ、冗談なんだから~」と言いながら、走り去っていきました。
なんだろうなぁ。
やはり、歴史がそこにあるということなのかなぁ。こちらでは、極右的な若者が、ハーケンクロイツを使ったり、ネオナチみたいな動きは常にあると思うので、そういうのが子供にも見えるということなのかなぁ。そしたら、なんかちょっとかっこいいとか思っちゃうのかなぁ。もしくは、親が、家庭が、なんかあるんかなぁ。珍しい東洋人がいるし、ちょっくら決めポーズしてみようとか思ったのかなぁ。
すっごく考えちゃいました。こんなの初めてだったんで。
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2020/05/18(月) 00:43:39 |
ラツィオ・ロマネスク
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2017年7月 エトルリアを巡りつつロマネスクもちょっぴり、トスカーナとラツィオの旅 その10
次のロマネスクは…。
カステル・サンテリアCastel Sant'Eliaの教会です(オープンは、土日祝日のみ)。
前回の修行旅では、豪雨の中、車道が見つからず、たまたま窓を開けていた住人に尋ねながら、洪水状態の坂道を徒歩で降るという厳しい訪問だったにも関わらず、教会は「修復中につきクローズ」という、非常に辛い思い出のある教会です、笑。修復終了予定まで、たいした期間でなかったはずで、さらに悔しい思いをしました。
しかし、縁がない場所というのはあるということなのか、今回もまた、激しく空振りをしてしまいました。
最初に訪ねた時、夕方16時過ぎでした。扉にあったオープン時間を確かめると、17時から、とありましたので、ここで1時間は待てないし、どうせホテルへの帰り道に寄れるから、ということで他の町を回り、18時過ぎに、また戻ってきたのです。
が、またもや閉まったままです。
なんで?
と、改めて、扉の記載を見たら、なんと、オープンするのは、いずれの季節も土日祝日のみ、ということだったんです…。シュン。
今でも同様かはわかりませんが、一応、以下、記しておきますね。
冬季(10月1日-3月31日):土日祝日10-12/15-17
夏季(4月1日-9月30日):土日祝日10-12/17-19
これ以外の時間に見学したい場合、市庁舎またはおそらくカギ番さんに電話すれば、見学可能、とあります。
一人だったら、電話していたかもしれませんが、同行者もいたし、時間的には微妙な感じだったので、すごすご敗退しました。また来い、ということだと思います。
この教会のありがたいことは、扉口が鉄柵で閉ざされているのですが、中の扉はオープンにしているんですよね。
なので、中の雰囲気が、鉄柵越しには、味見できるのです。逆にイラッとするものでもありますが、何一つ見えないよりは、マシ。前回は、鉄柵越しに、望遠で撮影しました。後陣に、フレスコ画があるのですよ。また、柱頭もよい感じなんですよね。
大体、扉周りの彫り物を見たら、絶対中に入りたくなること、間違いなし。
ロンゴバルド寄りの、かなり古い時代の浅浮彫が、割と無秩序な様子で、はめ込まれているんです。元来ここのために彫られたもの、というより、古い時代の教会からの転用と想像します。今の教会の建物は、比較的新しそうですしね。
ワクワクするでしょ。
この、チューリップ状態の後ろ足が、枠に乗っかっちゃっているところなんざ、愛らしさ全開です、わたし的には。
これは、真ん中の扉のアーキトレーブで、上が左側、下が真ん中部分になります。
鹿ですかね。この立派な角は、珍しいです。
そして、右側部分。
ここにも、立派な角の鹿。そして、なぜかカメラ目線のライオン。単純な線ですっきりしているのも、印象的です。
脇の部分も、大好物です。
人物や動物のフィギュアもよいのですが、組紐や植物をデザイン的に浅彫りしたのが、すっごく好き。
悪魔くん的フィギュア。おへその協調が、気になりますね。雷様向け?
雷様がおへそ狙いって、なんでしたっけ?
今、書きながらすらすらっと出てきたんですが、子供の頃、そういう絵本があって、なんだかすごく怖くて、おへそのことを考えると、そのあたりがしくしくするような、おへそが気になる人になってしまったんですよ、わたし、笑。
日本では、でべそって、すごく否定的だし、だからきっと、へその緒をちゃんとでべそにならないように処理するんでしょうけれど、こっちでは、でべそっぽい人が結構いるんですよ。いや、人の裸を直接見ることはあまりないのですが、海水浴も苦手だし。でも、芸能人、特に女性は、裸のような衣装の人も多くて、結構へそが見えたりするんですけど、あのへそは、日本だったら見せられないな、というような人がいたりして、びっくりしたことがあります。
ちなみに、絵本は、「へそもち」だと思います。今、検索したら、今でもあるみたいですね。こどものともは、すごいなぁ。
さて、脇の扉の方も、こんな感じで。
なんとなく形状から、これは、もともとチボリオの装飾だったのではないか、という様子でもありますよ。Sovanaのチボリオ、髣髴としますよね。
いつか、そう遠くない将来に、必ずリベンジしたいと思います。
そう言えば、この教会は、教会のある場所が、すでに村をずいぶんと下ってきた谷底みたいなロケーションなのですが、そこからさらに下る道があります。
水音が聞こえたので、さらに下ると、谷川が流れているのだと思います。
時間がなかったので、いけませんでしたが、ちょっと散歩してみたいような緑の道でした。
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2020/05/18(月) 00:00:46 |
ラツィオ・ロマネスク
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2017年7月 エトルリアを巡りつつロマネスクもちょっぴり、トスカーナとラツィオの旅 その9
このエトルリア起源の古い町にある、もう一つの中世の教会が、こちらとなります。
サン・ピエトロ教会Basilica di San Pietro。
様式は、サンタ・マリア・マッジョーレ教会と、とてもよく似ています。起源も同じようなもので、エトルリアの神殿があった場所に建てられているらしいです。
ただ、このファサードは比較的新しい、と言っても、12世紀終わりごろから13世紀ですが、もうゴシックがそこまで来ている状態のものらしいです。というのも、教会のファサードを含む前部分は、地震で崩壊しちゃったらしいです。
北部に住んでいると、うっかりしますが、イタリアは地震国なんですよね。特に、中南部では、大規模な地震も起きていますし、特に中部では、近年、数年おきに、比較的大きな地震が繰り返し起きています。その震源が、徐々に北上している様子もあって、嫌な感じだなぁと思っていますが、このトゥスカニアのあるあたりは、そこそこ被害を受けている地域の一つかもしれません。
とはいえ、13世紀初頭の建築がそのままあるのですから、そうはいっても地震リスクは低いと言えるのでしょう。
テイストにゴシックが入っていることもあるのでしょうし、また、あまりに装飾的で、サンタ・マリア・マッジョーレ教会もそうですが、あまり私のタイプではありません。それでも、ここ、ロケーションがいいんですよね。町を見下ろすような丘の上なんで、いかにも神殿にピッタリ。教会周りは、時代が下っても、神殿の時代とあまり変わらないような状況で残されていますので、神聖な空気というか、結界的な雰囲気もあります。
すごい装飾的なバラ窓です。
時代的に、コスマーティ大活躍だったのでしょう。あちこちにコスマーティ・モザイクがはめ込まれています。これは、ローマって感じがします(コスマーティは、北部の方には来ていないと思います)。
バラ窓の両脇に二連窓、という独特のスタイルですが、向かって右側の周囲は悪魔的なモチーフ、左側には、天使や聖人のモチーフで飾られているのだそうです。確かにそうみたいですが、テイストがあまり好みの彫りではなかったので、写真、ほとんど撮っていませんでした。
以前訪ねた時に、山ほど撮影しているはずだという気持ちがあったせいもあるんですけれども。
一方で、このファサードで、私が大好きだった奴ら。
扉の、一番外側のアーキボルトなんですが、めっちゃくちゃかわいい浅浮彫が並んでいます。
大理石のすべすべ感も魅惑的で、手が届くところだったら、絶対になぜなぜしちゃうやつです。
左側に動物や狩りの場面、右は、なんとなく農民の毎月のお仕事的なモチーフになっているような。
とにかくかわいくて、これは、ついつい何枚もパチリ。
右側の小さい扉のリュネッタには、こんなうにょうにょしたやつら。
ライオンに挟まれて、ダニエルさんかと思いきや、蛇がいるし、真ん中のフィギュアは、なんだかもう、うにょうにょしているだけで…、笑。
アーチ型に置かれた、太めの縄目模様がよいですね。この彫り物は、もしかすると、古い時代の教会にあったものだったりするかもしれないと思います。テイストが古いですよね。
外観については、このとき、ほとんど撮影していないのですが、今更説明を読むと、7/8世紀の古い建造物の名残は、この、側壁と、後陣部分に残る、とありますので、こちらもご参考に。
浅いつけ柱とアーチのリズムも美しい側壁です。
この建物も、かなり研究対象になっているようです。というか、トゥスカニアは、町として興味深いので、多くの研究者がいろんな切り口の研究をしている感じで、美術史的にも、色々混ざり具合が、決定的な論を決めかねる要因になっていて、それがさらに研究を呼ぶ、みたいな感じ。
もともとは、コモの石工集団がかんでいて、中世のかなり早い時期にこの辺りに来たその人たちが、後に各地に広がっていく、いわゆるロマネスク様式を、ここで実験的にやってみたんじゃないか、という説があったようですが、今では、いやいや、そうではなくて、単にこの教会に、アーチ装飾や、ヴォルトではなく木製天井と言ったロンバルディア・ロマネスクをを取り入れた、まさにロマネスク様式の具現化だ、という説が有力だとか。
研究者によれば、ノルマンの影響も見えられるそうです。
サンタ・マリアの項でも言及しましたが、ここは、中世の巡礼の道の途上ですから、勿論文化や文明の通り道で、まざくるのは宿命です。
中はどうなっているかというと、かなり印象的なんですよね。
非常に装飾的なコスマーティの床モザイクが、かなり良い保存状態で残っています。
わたし的には、コスマーティは、すり減ってなんぼ、っていう装飾なんで、あまり保存状態が良いと、さほど訴えてこないんですけどね、笑。
内陣部分にも、かなり良く残っています。踏みつけを、ずいぶん以前から禁止したのでしょうかね。
わたし的には、踏みつけてなんぼ…、なんだけどな、笑。
一部、フレスコ画が残っていますが、さほど好みじゃなかったのと、傷みが激しいので、あまり注目しなかったのですが、12世紀とか、結構ちゃんと古いもののようですね。
古いやつは、ビザンチン・テイストの入ったローマ派のフレスコ、とありますが、確かにそういう感じ。でも、加筆修正の疑惑も大きいというか…。
内陣スペースでの私の関心は、もっぱらこっちに行ってしまってまして。
古い教会の遺構ですよねぇ。もう大好物なもんで、これはスリスリしましたです。我慢できません。
みつあみも、波型も、人生の木型も、あるだけで幸せなもの。
ディテールをのぞくと、若干がらんどう的な教会ですが、高い壁を支えるアーチと円柱は、注目ポイントかも。
見るからに、の再利用円柱、再利用柱頭です。だからバラバラ。
太さも高さもタイプの違う柱を再利用って、かえって大変にも思えるのですが、中世では、これは当たり前に見られますね。リサイクル方向に、技術が伸びていたんでしょうかね。石材だって、古代遺跡から切り出しちゃったりしているし、無から色々作っていたエトルリアやローマとは、違うカルチャーなんだと、改めて感じます。
エトルリアと言えば、その石棺が、ドカンと置かれていたりもするんです。
ここは、ローマ遺跡も出てきますが、それ以上にエトルリアが出てくる土地です。エトルリアの遺跡は、ローマ人に徹底的に破壊されちゃったんですけど、それでも定住していたわけですから、出てきますわね、いろいろ。
ここは、神殿もあった場所ですし、教会の外にも、石棺がたくさん並んでいます。
も一つ、内部の見どころは、12世紀のクリプタですが、このときは入れなかったようです(覚えてない、笑)。残念ですが、探せば、以前の写真があるはずなので、よし。
最後にもう一度、一番のお気に入りを愛でつつ、お別れです。
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2020/05/16(土) 02:30:46 |
ラツィオ・ロマネスク
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2017年7月 エトルリアを巡りつつロマネスクもちょっぴり、トスカーナとラツィオの旅 その8
いつもだと、自分の記憶やメモを参照して、旅の行程に沿って教会を紹介するようにしているのですが、このときの旅は、色々と目的が入り混じっていたので、まずはロマネスクをまとめて、その後、それ以外のことをまとめることとしています。
次は、やはり再訪地です。
トゥスカニアTuscaniaです。ここもまた、通ったら寄らずにはいられない中世の町。ロマネスク時代の教会、それも大変立派な教会が、二つもあるんですから。
で、今回びっくりしたのは、どちらも撮影可となっていたことです。以前訪ねた時は、どちらも撮影禁止の張り紙があり、どちらにも係員というか受付というか、そういう人が入り口に陣取っていたので、なかなか微妙な状況だったんです。いずれにしても、かなりストレスフルと言いますか。
今回は、堂々の撮影。
まずは、町の入り口的なロケーションにあるこちらです。確か前回も、ここから町にアクセスしたように記憶します。
サンタ・マリア・マッジョーレ教会Basilica di Santa Maria Maggiore。
愛想のない後陣ですが、車で町を目指してやってくると、調度この後陣のある道で、グイっと曲がって、教会の左側を通って、町へのアクセスということになります。
ちなみに、教会の入り口側の路肩に、スペースがあり、3台くらいの車が止められるようになっています。
ファサードは、こういう感じでしか撮影ができないのが、この教会の辛いところ、笑。
真正面から全体を撮影することができないので非常に分かりにくいんですよね。装飾がかなりごちゃごちゃしているから、全体を俯瞰出来たらよいのですが。
なぜかというと、ファサードとかなり接近して、やたらにでかい鐘楼が建っているんです。
もうすぐ目の前で、これと教会を合わせて撮影するのも、難しいので、どうしても分かりにくいですね。
この地にもともと作られた教会は、8世紀のものであろうとされているのですが、今ある建物は、12世紀前後に建設されたものです。前後いうのは、いまだに、明確な決定的な証拠は出てこなくて、研究者によって、11世紀から12世紀の終わりまで、可能性が論じられているそうです。この鐘楼も、同時期と考えられているそうですが、となると、実際の建設時期は、やはり幅があります。
とはいえ、教会の建物との比率が変なこと(鐘楼がやたらでかい)、置かれた場所に違和感があることなどから、教会より以前の建物であったのではないか、という説も濃厚。
確かに、12世紀っぽいアーチなどが施されていますが、基部の石積みなどは、ちょっと教会と違うし、もしかすると、ただの物見の塔だったかもしれないですよね。場所も、丘の上に広がる町のふもとというロケーションですから、見張り台としては絶好です。
話を戻して、ファサードです。
かなりごちゃごちゃ感ありますよね。レンガっぽい石積みと、大理石のふたつ遣いも、特徴的です。これは、もう一つの教会でも同様で、なんか気に入っちゃったようです。
ごちゃごちゃしているのは、ちゃんと理由がありまして、この土地、過去に何度も地震に襲われているそうです。その度に、何かが壊れたり、落ちたり、ということがあり、修復や再建が繰り返されることによって、シンメトリーだったものがアシンメトリーになったり、落ちてしまった彫り物が、違う場所に置かれたり、ということらしいんです。
例えば、リュネッタに置かれた聖母は、脚を、リュネッタにはみ出してアーキトラーヴェに置いていますが、これは、実際にあった場所に置かれたものではないということを物語っているとのことです。ではどこにあったのか、それは不明です。
隅切り部分が、特徴的ですよね。細い円柱が組み込まれていて、すっごく繊細な感じで。でも、広がりが開放的だから、普通の隅切りのつぼまり感がないですね。これだけ細い円柱をアーキボルトを支えるのもまれな感じがします。
扉脇の側柱には、それぞれ使徒ピエトロさんとパオロさんが彫りこまれています。下は、カギを持っているのでピエトロさんですね。
両者とも、目線が下で、静かに穏やかに瞑想している風なんです。全身立像で瞑想って、なんかちょっと不思議な。
そしてリュネッタのは、脚を飛び出させた聖母子。
左には、ロバにまたがったBalaam、イサクの犠牲、そして右側に神の子羊アンガス・デイ。
リュネッタの余白あきあきなんですけど…。何ですかね、未完成?聖母子は、ここになかったかもしれないにしても、彫り物もなさそうだし、左側と右側のモチーフのバランスも今一つで、これまた不思議な。
ちなみに、この雌ロバに乗ったBalaamのエピソードって、かなりあちこちで取り上げられているということですが(ブルゴーニュのソーリューやオータン、スペインのハカ、など)、ちゃんと見たことなかったので、ちょっと検索してみました。
イタリア語だと、正直、よくわからず、実際、「Balaamという預言者はヨナやエリアのように有名ではないのに、なぜ中世では、お気に入りのエピソードなのか」とか書かれていて、ますます?でしたので、この際日本語で検索。
それでも、あまりよく分かりませんでした…。読解力がないのか、読む気がないのか…。
というわけで、ご興味がある方は、バラム、雌ロバ、などをキーワードにすると、色々解説が出てきますので、それでよろしくお願いします。
ファサードに戻り、右扉です。
古典的な様式の葉っぱモチーフで飾られています。
アーキボルトの、これでもか、できな葉っぱモチーフ目白押しは、ある意味迫力ありますし、リュネッタ部分の植物と格闘的な様子も、印象的です。なんだろう、これ。
そして、左扉。
こちらは、ノルマンSiculo様式で装飾されていると。確かに、このアーキボルトのモチーフは、北っぽい。リュネッタは二股人魚とグリフォンの競演という感じで、ロマネスク王道というのか、聖書ハズレまくり系というのか、無秩序感、かなり激しいですね。
ファサード上部には、ライオンとグリフォンの間に、9本の円柱と10の小アーチを持つロッジャ。
そして、12の円柱で二重になった豪華なバラ窓。周りに四つの福音書家のフィギュア(鷲=ヨハネ、天使=マッテオ、ライオン=マルコ、ルカ=牛)。
と言っても、ほんと、こういう全部を一堂に撮影できないんですよ、ここ。
本堂に入ります。
古色蒼然、というのが、一番しっくりとする表現でしょうか。
色々時代が交錯していたりするようですが、全体に古臭い感じっていうか、雑然としている感じっていうか、そういう雰囲気なんですよね。奥に見えるチボリオは、ゴシック時代、つまり、われわれにとっては、結構もうどうでもいい時代のものです、笑。でもチボリオに守られているように置かれている祭壇には、ロンゴバルド的な彫り物が見られますので、ここは、しっかりチェックしてくださいね。
右身廊には、洗礼盤。13世紀のもので、全身浸かるタイプの八角形。これは、見るからに立派なブツ。
しかし、何故、これほど唐突に右身廊の真ん中にあるんだか。
もともとの本堂と洗礼堂の関係とか、そういうことかもしれませんね。
ロマネスク的に見るべきは、洗礼槽よりは、説教壇でしょう。
1200年代のもので、中世初期の彫り物等で飾られております。
個人的に大好物です。
とにかく、古い時代の名残はたくさん散らばっていて、見れば見るほど出てくる、するめ状態の楽しさがありますから、じっくり見学するべき教会です。
どれがどの時代のものなのか、俄かには分からなかったりするんですけどね。古代に属するエトルリア系なんかも、当たり前のようにボコボコとある土地柄なんですからね。
せっかく写真が解禁されたのに、以前来た時、嫌になるくらい撮影したからいいや、ととてもストイックに、少ししか撮影せずに、今となって後悔しております。また行かなくちゃ。でも、再訪のとき、撮影できるかどうかは、その時にならないとわからないんですよね。あーあ、大馬鹿。
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2020/05/13(水) 05:20:10 |
ラツィオ・ロマネスク
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2017年7月 エトルリアを巡りつつロマネスクもちょっぴり、トスカーナとラツィオの旅 その7
ソヴァーナSovana続きです。
村にあるもう一つの教会。こちらは、村のはずれに位置します。というより、あまりの小さな村なので、もともとは門前町的なものであったのかもしれません。
サン・ピエトロ・エ・サン・パオロ大聖堂(カテドラル)Cattedrale di San Pietro e San Paoloです(夏季9-13、15-20 冬季10-13、15-18)。
なんと、司教座がある立派な教会だったのですね。
こじんまりしていますし、こちらも前回紹介のサンタ・マリア同様、外観は、結構変容していて、ロマネスク的な面白さは、ほとんどありません。
でも、起源が大変古いために、ロマネスク以前の教会から引き継いだ装飾アイテムがたくさんあって、これはなかなか面白い場所なんです。
まずは、例によって、3年もたってから、資料を当たって知ったこと、笑。資料と言っても、インターネットをちょっと徘徊しただけですから、大したことではありませんです。でも、ちょっと驚きました。
この、後陣がポイントです。
トスカーナでよく見られる色の凝灰岩。
後陣にある一連窓なんですが、この位置が、とっても天文学。
というのも変ですが、そこまで細かく決まっていたことは、浅学にして知らなかったのですよ。いや、過去にも読んだけど、忘却したのかもしれません。
この教会では、6月21日、夏至の日の曙光が、まっすぐこの窓に差し込み、身廊をスーッと通って、ファサード側の壁にまで届くのだそうです。地下にあるクリプタでも、同様のことが起こると。
しかし、それはローマ教会の規則に反する、ということなんですよ。ローマ教会の規則というのは、教会は東向きであるべき、ということで、なぜ反することになるのか?
ローマ教会では、夏至ではなくて、春分秋分(Equinox、昼と夜の時間が同じ)の日が基本なんだそうです(940-1003在位教皇であるシルベストロII世による)。だから、ローマに従うなら、この窓は、春分秋分の日の曙光が差し込む位置でなければならないわけなんです。
一方で、夏至を基準にするのは、ケルトやゲルマン系、ロンゴバルドの文化なので、起源が初期キリスト教に遡る教会ですから、オリジナルに忠実に、夏至を基準にしたという説。それから、現在の教会の一つ前、7/8世紀の古い教会および洗礼堂(本当のオリジナルは、エトルリア時代の神殿と考えられているそうです)が洗礼者ヨハネにささげられたものであり、そのヨハネの祝日が6月24日であることから、夏至の3日後に訪れるその日を祝したものではないか、という説。
夏至か、春分秋分化、という、わたし的には、どうてもいいっていうか、どっちにしても東向いてるっていうことで、いいんじゃね?程度のことだと思うのですが、教義的には、やっぱり結構重要なことだったりするんですねぇ。
いずれにしても、この窓から入った光が、ファサード側までピーン、と到達するその瞬間というのは、結構感動もんだと思うんで、見てみたいもんではありますよね。
上の写真の奥の方で光り輝いているのが、件の後陣の一連窓ですよ。結構低い位置にある分、その、夏至の曙光の差し込み方が気になりますよねぇ。
内部も含めて、全体が凝灰岩なんですが、身廊を分ける柱だけは、白黒の石が使われていて、小尾は、多分、後代のものとなるんじゃないでしょうか。ちょっと雰囲気が変わりますよね。
曙光の話から、言及されたクリプタは、かなり素朴な様子です。
太い円柱、シンプルな柱頭および副柱頭。修復されちゃっていて、若干されすぎちゃってる感も感じるんですけどね、いずれにしても、素朴さはマックス。
上が、祭壇ですから、東向きだとすると、曙光のさす開口部というのが、ちょっとわからないし、訪問時は、そういう話は知らなかったんで、チェックしてなくて、よくわかりません…。こういう時、すっごく情けなくなります。でも、ここは、おそらく再訪のチャンスがあると思っているので、次回は、是非、きちんと確かめたいと思います。
クリプタは、このようにシンプルなものです。本堂も、構造はシンプルですが、ディテールには、見るべきものが。
ちょっと面白い柱頭の彫り物があるんですよね。古い時代の名残もしっかりあって。
初期キリスト教時代の教会の遺構が、そのまま利用されている部分もありますが、ちゃんとロマネスクを反映した彫り物もあるわけです。
すっごく分かりやすいアダムとイブとか。
これはなんですの?というような、エピソードもんも、あるんです。
でも、こういうとこだと、どうしても、単純なこういうやつが、なんか愛らしいっていうか、笑。
同時に、俺たちのことを見てね、という必至な視線を感じたりもするわけです。
なんか、ここの柱頭一連の、お願い、見てね、的な集中度は、ちょっとすごいですね。皆が同じ方向を向いて、何か訴えている感がすごいっていうのは、今写真で初めて感じて、びっくりしました。
要は、中も入ってなんぼ、の教会なんです。
外は、最初に言ったように、あまり面白みがないのですが、歴史が古いだけあって、古い時代の色々が垣間見える面白さはあるんで、現地にいらしたら、どうぞ、細かいチェックも忘れずに。
そして、今は側壁側が入り口となっていますが、その扉周りの彫り物が、ちょっと面白いんです。
そちらが入り口になっているというのは、14世紀に、司教館が、ファサードのくっつくように建てられたからだそうなんですが、なにも、そこまでくっつけなくても、と思いますけれどもねぇ。側壁側の、つまり、本来的には予備的扉が、これだけしっかり飾られるということは、ファサードはどうだったんでしょうかね。
こちらの装飾でも、渦巻き模様や唐草的なロンゴバルドの影響が、多く見られます。いずれにしても、面白くって、かわいらしくって、とっても好ましい浅浮彫密集ですよ。
すっごく浅浮彫。最近、深い彫りのものを見る機会が多かったんで、本来の意味的にも浅浮彫、というところに、かなり惹かれます。
永遠のシンボル、クジャクがいたり。これもまたロンゴバルドだし、渦巻きやお干菓子的な文様は、いかにも、ですね。はかない感じの浅さが、また何とも。
一部変に写実が感じられる、騎馬像。
なんですかね。馬の限りなくデフォルメ感。それでいて、変に印象深いつるっぱげ状態な騎士と、縮尺はともかく、リアルな感じの剣と盾。なんか、いろんな意味で時代を感じさせるというか、面白いです。
もう、こういういかにも、ロンゴバルド的な…。たまりません。
よくぞ、この浅浮彫で、残ったよね、千年以上。Tufoって、地下に埋まっているときは柔らかいけど、空気に当たると固くなって、だから保存もよいということを聞いたことがあるけれど、そういう石の性質にもよるよね。この地域は、とにかく地面がTufoの上にある感じで、掘ればTufoが出てきちゃう地盤で、だからこそっていうか。
こっちにしてみれば、ほんと、ありがたいことだった、と思うだけです。
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2020/05/11(月) 07:00:59 |
トスカーナ・ロマネスク
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2017年7月 エトルリアを巡りつつロマネスクもちょっぴり、トスカーナとラツィオの旅 その6
トスカーナとラツィオの州境のトスカーナ側に、二つ、長年行きたかった町があります。この旅で、やっと訪問を果たすことができました。トスカーナを回る旅では、南過ぎ、ラツィオを回った時は、若干北すぎるのと、山がちではないのか、という怖さも相まって、積極的には行こうと思わなかった土地です。いずれにしても、一筆書き的な旅程では、回りにくい場所なのです。
ソヴァーナSovanaという町が、その一つです。
丘の上にちんまりと張り付いているような、とても小さな、町というより村という方がしっくりするくらいの規模なんですが、そのような土地に、なんと重要な教会が二つあるんだから驚きです。
さらに、郊外には、エトルリアの有名遺跡もあるんです。
その上、村の様子は大変かわいらしくて、トスカーナの雰囲気が好きな人であれば、絶対に気に入ってしまうような、イメージにはまる村なんです。
まさに観光地ですから、すべてきちんと整備され、景観すべてが美しく保たれています。
まずは、一つめの教会へ。とても地味で、外側は、ほとんど中世の面影もなくなっています。
サンタ・マリア・マッジョーレ教会Chiesa di Santa Maria Maggioreです。
今ある教会のもとになっている建物は、12世紀のものですが、正直、魅力はないですよね。でも、ここは必ず中に入って、見なければいけないものがあるんです。
中に入っても、がらーん、とした感じだし、やはり中世の面影はほとんどないんですが、祭壇に見えるアレ、アレなんです。
なんと、9世紀から10世紀ごろのものとされているチボリオがあるんです。
チボリオは、個人的には特に好きなアイテムではないのですが、時として、大変興味深い装飾がほどこされているので、そうなると話は別、笑。ここのは、まさにそれ系です。
ほらね~!分かりますでしょ、ドンピシャ、私の大好物。ロンゴバルド彫り物ですよ~!
この一面だけなんですが、一面だけ、これほど完璧に残っているのは、なぜなんでしょうか。いずれにしても、典型的なモチーフがちりばめられていて、実に愛らしいですよね。
もともとはもう一つの教会、カテドラルに置かれてあったものらしいですが、そちらを修復するか何かで、こちらに移されて、もう中世からずっと、こちらに置かれているそうなんですよ。ということは、カテドラルの方は、起源が、チボリオと同じような、大変古いものだということですね。
構造が武骨で古さを感じさせられます。四隅の円柱も、なんだかずんぐりむっくりで、妙に愛らしいというのか。サイズもとても小さいですから、こういうサイズに合う小さな教会にあったということなんでしょう。
柱頭も素朴ですが、とても味があります。大好きです、こういうの。
他の面があったとしても、似たり寄ったりな彫り物だったかもしれませんが、似たり寄ったりでも、やはり好きなもんは好きで、絶対にかわいかったに違いありません。
一面しかないということは、おそらく、上の部分が崩壊していたとかそういうことなのでしょうが、実に残念なことですねぇ。
それにしてもかわいらしい。
線画だけの鳥は、初めてかも。アーチに並んでいるのはイチジクですかね。扇風機のような渦巻きは、ロンゴバルド系で、よくあるモチーフですし、縄目は、この時代、あちこちで使われていますね。かなりプリミティブな感じなので、この地域の石工さんだったんだろうなぁ。鳥も、縄目の延長な感じが、なんともうっとりです。
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2020/05/10(日) 01:55:16 |
トスカーナ・ロマネスク
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2017年7月 エトルリアを巡りつつロマネスクもちょっぴり、トスカーナとラツィオの旅 その5
このときの旅、記憶の中では、かなりエトルリアより、一般観光地より、というイメージを持っていたのですが、振り返ってみると、結構ロマネスクを訪ねていたので、今更あきれています。旅程については、同行者から一任されていたものの、なるべく偏りすぎないように、企画したつもりだったのですが、やはりどうしても、そっちにそっちに行ってしまうんですね、笑。
さて、次は、以前ラツィオ北部を一人で回った時に、苦労した挙句に初めて遭遇して、驚愕に近い感動を得た場所です。その時の印象が、いまだに鮮明で、今回はパスしてもよいくらいだったのですが、ここは、中世に私ほどの思い入れがなくても、イタリアに暮らす以上は、それなりに見ておいて損のない場所ではないか、というのも変ですが、色々な意味で歴史を感じられる場所でもあるので、そんな風に考えて、再訪した次第。
アクアペンデンテAcquapendenteのサント・セポルクロ教会Basilica di Santo Sepolcroです(2017年の時点で、日曜9/10:30、それ以外9/12、16:30/18:30)。
なんせこの外面、中世とは程遠いスタイルですから、同行者も、なぜここに?と、驚いていました。
この教会、長い歴史の中で、上物はこのような姿になってしまったのですが、実は素晴らしいクリプタが残されているのです。
サント・セポルクロとは、言わずもがなですが、聖なる都市エルサレムの教会を模した教会につけられる名前です。ここでは、クリプタが、サント・セポルクロを模しているようです。
詳細を調べたりすると、先に進めなくなりますので、それは将来時間ができた時のためにとっといて、さらりと、斜め読みしますと、ここは、前回のサン・サルバトーレ同様に、Via Francigenaが通る町。それも、まさに街道の宿場町だったようです。多くの巡礼が、この道をたどってローマへ、そしてエルサレムを目指していた往時、この町は周辺に比べても、巡礼で繁栄し、多くの巡礼宿や関連施設があったそうです。そういったことから、修道院が建てられ、サン・セポルクロを模した教会が10世紀に建てられたというのが、歴史のようです。
伝説では、以下となっています。
ローマ帝国皇帝オットーI世の母親であるマチルダMatilde di Westfaliaが、サント・セポルクロにささげる教会を建てる意図をもって、ドイツからローマへ向かう旅の途上、このアクアペンデンテで旅をストップする羽目になったのです。というのも、教会建設に必要な黄金を運ぶラバが、梃子でも動かなくなってしまったから。そして、マチルダは、まさにここに教会を建てるべきだ、という夢のお告げを受けるのです。
こういう、「ここ掘れわんわん」的な起源は、枚挙にいとまがないですね。とはいえ、おそらく、教会建設に適した理由はあったのだと思います。地形とか、そして、実際に滞留する巡礼者が多かったとか。地形的には、トスカーナから南下して、この辺りから、ボルセーナ湖へ向かって、なだらかになるところなので、明らかに関係はあると思います。
さて、そういうことは置いといて、久しぶりの再訪でも、やはり同じように感動しました。
ここは、サン・サルバトーレのクリプタとは、まったく違う様相で、全体に天井が低く、柱は太くて重厚で、武骨な感じです。石の色と相まって、薄暗がりの雰囲気も、大変に美しいです。
スペースは結構広いのですが、円柱が林立していて、見通しがきかないので、迷宮に迷い込んだ気分になります。ロマネスク・トリップというか、ある意味お手軽に中世にトリップできるんです。
サン・サルバトーレは、技術の粋を集めたライトアップで、隅々まで見ることができる良さがありますが、本来のクリプタは、うすぼんやり系で味わいたい、と思う向きには、程よい灯りだと思います。
うすぼんやりですが、柱頭は目の高さにあるし、とてもでかいので、撮影にもとても優しい状態ですよ。
彫り物は、力作ぞろいです。動物やシンプルな植物モチーフ、どれもサイズがデカいので、迫力あります。
それにしても、上物には中世の香ゼロなんですが、よくクリプタを、手つかずに遺してくれたものよ、とありがたく思います。聖なるセポルクロだから、やはり手を付けたくなかったんでしょうか。
力作ぞろいですが、ここならでは、という何かはないかもしれません。当時多く使われていたモチーフがそのまま使われているような印象も受けます。複数の石工さんがかかわっていると思いますが、個性的、というものはないかと。
ただ、それらが一堂に会して、この独特のスペースで並んでいる迫力がすごいから、それで、ここが特別な空気を持っているんだろうと思います。
この辺りは、再訪の可能性も高いので、またいつか訪ねることもあると思います。きっと、いつ戻っても、クリプタへ降りる階段でドキドキして、そして、柱の森を目にして、ひしひしと喜びを味わうことと思います。いつも同じように。
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2020/05/10(日) 01:20:29 |
ラツィオ・ロマネスク
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