2020.08 コロナ禍中、炊飯器持参の夏休み(エトルリアとロマネスク)16
ま、こんな感じで旅は終わったわけですけれども、他に記しておくべき場所はあったかな、と改めて、数少ない写真を見返していたら、ちょっとありましたので、忘備録として、一応。
ここは本来本編として記しておくべき場所ですが、写真がほとんどないため、ここに、張り付けておきます、という位置づけの場所は、チェルヴェテリの町の博物館です。
チェリーニ考古学博物館Museo Archeologico Cerini
ネクロポリが素晴らしいのに、町にあるこの博物館はかなりしょぼくて、がっかりでした。ここ、ネクロポリの遺跡との共通チケットが10ユーロだったんで、チケットを持っていたからまだよかったですが、ここだけのチケットでこの博物館だけ入ったら、かなり腹立つレベルの内容だったと思います。
ちなみに、ネクロポリ単独で6ユーロ、博物館単独で8ユーロ、共通チケットが10ユーロです。博物館のチケットの方が高いって、謎。
博物館といえば、ヴィテルボのエトルリア博物館は、初めて訪ねたときは、結構感心したんですが、今回は、しょぼさが目立ちました。
ヴィテルボ国立エトルリア博物館Museo Nazionale Etrusco di Viterbo(6ユーロ)
立派な彫像などがあるのですが、展示数が少なく、迫力に欠けて。その時々の展示内容とか見せ方によって、博物館もずいぶん違うものなのかも、と感じました。考古学博物館のように地味な博物館でも、学芸員さんの力量やセンスによるのですかね。
ちなみに、受付のおっちゃんたちは、とてもフレンドリーで楽しい人たちでした。こういうのって、結構救い。
芋づる式記事になっていますが、ヴィテルボといえば、この町を初めて訪問した同行者のために、一応、ヴィテルボで最も有名な場所には行きました。
教皇の館Palazzo Papaleと呼ばれる司教館。ゴシックバリバリのアーチの部分が、ヴィテルボの代名詞のようなアイコンとなっています。同行者が喜んでくれたので良かったです。
そして、前回この地域を旅した時の、チヴィタのような位置づけの、有名な温泉地にも立ち寄りました。
バーニョ・ヴィニョーニBagno vignoni旧市街のど真ん中にあるかつての温泉。
昔々に見た映画の、大変幻想的な場面に使われていた場所で、長年あこがれていました。こんなに激しく観光地化していて、こんな風に町の真ん中にドカン!という風景は、ちょっと予想外だったので、びっくりしました。
実は、お昼ご飯を頂く場所を探して、ちょうどよい時間に通りかかったものですから、それなら、ということで立ち寄ったのですが、温泉、そして、周りは店が並んでいて、ピクニックするような場所ではないんですよね。でも、損もすれば得もするCovid期間というか…。
駐車場もすっごく広いし、かなりの観光地だと思われますので、普段なら外国人も多数訪れるでしょうし、温泉の写真をゆったり撮影することも難しいのではないかと想像するのですが、昼時でもあり、多くの人は、レストランやカフェに座っていて、温泉を、上の写真のように眺めることができるテラス状のスペースには、意外と人が少なかったんです。
いつもは許されないだろうけれど、なら、急いでピクニックしちゃおうか、と、温泉を眺めながら、おにぎりを頬張るといううれしい体験でした。
パリパリの焼きのりも持参しています、笑。
タイトルにあるように、今回は炊飯器かついて行ってるんで、ほぼ毎朝、お昼用のおにぎりを握って、持参していました。8月中旬に、トスカーナやラツィオの田舎で、がさがさとおにぎりを食べていた二人連れは、私です!
最後の晩は、ミラノに戻る前の距離的なワンクッションで、ルッカで過ごしました。
ルッカは、いつ行っても大好きな町の一つです。
ピサ様式のロマネスクがたくさんあることも大きな魅力ですが、同時に、町として本当にかわいらしいんですよね。チャーミングなお店が点在しているし、レストランも、適当な値段でおいしい気軽な店がたくさんあるし。
このルッカ周辺には、まだ行けていない教会もたくさんあるので、また、何度でも行ってしまう場所です、間違いなく。だから、がつがつせず、この時は夕暮れ散歩と、翌日の午前中、ぶらぶらと足の向くまま歩きました。
住んでいる人も含めて、英語圏の外国人が多い町ですが、今回はほとんどイタリア語しか聞こえてこないので、改めてCovidを感じました。
これまでも、さんざん写真を撮っているし、また何度でも来ると思っているにもかかわらず、今回も、そうは言いながら、また大量撮影をしたと思うのですが、こういう、すでに莫大な、そして比較的最近の写真を持っている場所については、なくなって楽だったかも、と思ったりします、笑。そういう写真を見て、選んで、記事にするのって、すごく時間かかりますけれど、同行者のほとんど枚数のない写真だけだと、編集がすっごく楽なんです、爆笑。
ルッカに立ち寄ってよかったとしみじみ思ったのは、翌日のミラノへの帰路で、予期せぬ出会いがあったからです。
忘備録、もう一つ、続きます。
あと、ごはん編も、別途記事にします。
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2020/09/30(水) 04:29:08 |
旅歩き
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2020.08 コロナ禍中、炊飯器持参の夏休み(エトルリアとロマネスク)15
エトルリア関連で最期を飾るのは、今回訪れた遺跡の中で、もっと楽しめた場所です。これまで訪ねたエトルリア遺跡で、自分的に最も楽しめたのはタルクイニアですが、ここは、タルクイニアと双璧をなす遺跡と、自分の中では位置づけられました。
チェルヴェテーリCerveteriの、バンディタッチャ墳墓遺跡Necropoli delle Banditacciaです。
ここは、ポプロニア同様に、一般的に有名かつ、遺跡としても非常に価値の高いもので、エトルリア遺跡関連では、その写真は必ずトップに掲載される遺跡の一つ、という感じです。
エトルリア遺跡では、有名度からいえば、ポプロニア、タルクイニア、そしてこのチェルヴェテーリが、トップ3ではないかと思うのですが、今回、そのうち二つを同時期に訪問したこととなります。個人的な好みからいえば、だれが何と言おうと、このチェルヴェテーリが勝ちで、私の中では、タルクイニアとチェルヴェテーリが、同点一位、という感じです。
ちなみに、同点二位は、キウジとポプロニアかな。
例によって、同行者の写真しかないので、自分が撮影したかった部分が必ずしも切り取られていないため、若干寂しいですが、ご容赦ください。全体像を撮影したものがあまりなく、イメージがつかみにくいと思いますので、ご興味あれば、ネット検索してみてください。かっこいいい写真が、たくさん出てきます。
ここは、エトルリア初期のころのネクロポリとなり、お墓はこのように地上に出ているタイプです。時代が下ると、タルクイニアのように、地下に潜るタイプとなるそうです。
これは、おそらく、構造的には古墳に近いものだと思います。お饅頭型に盛り土をして、その中に石室が作られている構造です。ただ、古墳と違い、絶対権力者だけではなくて、そこそこの有力者たちが、家族単位で葬られているもの。
有力者、というか、要は金持ちですけれど、笑、そうであればあるほど、このお饅頭の規模が大きくなって、石室も何個も作られるので、このチェルヴェテーリで最も大きいお饅頭には、入り口が、確か四つあったと思います。
遺跡に入る前から、すでにこのお饅頭の連なりが見えるんで、びっくりします。
写真でも見ていたのですが、これほど大規模で、これほどの数、お饅頭とか、アパートみたいになっているタイプとか、とにかくすごくたくさん並んでいて、唖然としてしまいました。
その上、半分以上は、お金を払って入場する遺跡公園の外にあり、自由にアクセスできる状態。というより、そちらの部分は、ほとんど整備がされていない状態なんです。つまり、予算がつけば、まだいくらでも発掘したり、整備したりということが可能な遺跡なんですね。
でも、ここもガイドツアーはなく、特にこのCovid中は、週末しかオープンしていませんでした。
お饅頭のいくつかには入れるようになっているため、密空間になってしまうということかも。でも、心配するような数の訪問者はおらず、ゆったりと自由に出入りできたのは何よりです。
では、遺跡訪問。
結構立派系のお饅頭の入り口。天井がね、どれも結構凝っているんですよね。これは、石を積み上げているから、積み上げながらこういう風にしたと思うんですが、後代、地下に潜るタイプは、石をくりぬいて石室を作ることが多いのですが、こういうようなちょっとした意匠を、彫って作っています。この、石積みについては、アーチ構造的な補強の役割がありそうですが、石室の天井をほる場合は、単なる装飾的なものだと思われ、エトルリア人の装飾好きって、絶対に後の時代に影響を与えていると思っています。
この、柱頭の墳墓と呼ばれるお饅頭には、びっくりしました。
上の入り口から、すぐに石室となるのですが、石棺が置かれている奥のお部屋の前に、ホワイエみたいなスペースがありまして、そこに、なんと。
立派な柱頭の乗った柱が、ドカンと二本、ありました。
これって、中世のものと言われても信じちゃいますよねぇ。ローマ飛び越して、中世のものに近いです。
天井、このように、装飾的。
石棺の置かれた部分は、奥にあり、結構びっしり状態です。
もともとは副葬品もたくさん収められていたはずですが、もちろんすでに盗掘に合っていますから、ほとんどの場合、価値のあるものは見つからないことになっているようです。盗掘は、すでに中世とかにはじまっていたりするみたいですしね。
これが、構造です。下が入り口となり、その通路に、すでに二室、そして、円柱の立つスペースがあり、奥に三室。一族郎党が、その地位により、ふさわしい場所に葬られているものです。
墓によって、この内部構造はまちまちですが、おおよそ、この入り口と、石室、という構造。この墳墓のように、前室のような構造があるものは、規模が大きいものに限られます。
これは別のお墓ですが、前室が小さく、でも、立派な石棺がドカン、と。
ここでも面白いと思うのは、石室をつなぐ扉があるのはわかるのですが、その両脇に、わざわざ窓のような開口部が設けられていたり、その開口部はアーチ構造を使っているように見えるのですが、リュネッタみたいに見える半円は、半円の筋彫りがしてるのであって、半円がはめ込まれているとかではないんです。この、扉周りの筋彫りって、時代によるのか、石工さんによるのか、いくつかパターンがありました。
これ、わかりますかね。ちょっと鳥居的な筋彫りがあるんです。このタイプの筋彫りは、多くの場所で見られたので、一世を風靡した装飾だったのかも、笑。
実際、スタイリッシュじゃないですか?言い過ぎ?
しかしこの遺跡、広い割には、順路の表示も少ないし、迷路のようなものだし、全部を見学するのは、結構体力勝負のところもあります。階段を上ったり、道なき道を行ってみたり、人が少ないとインディ・ジョーンズ気分も味わえたりします。ただ、そうやってたどり着くところは、整備されていなくて、入り口をのぞき込むことしかできないような墓なんですけれどね。かび臭いにおいがぷーんと漂ってきたり、水が溜まっていて、いきなりカエルが跳び跳ねたり、笑。
乳母車を押して歩いているカップルなどもいましたが、いやはや体力ありますな。感心しました。
これも面白いアイテム。
大抵は、入り口の通路から石室に入った場所にあるようでしたが、椅子なんですよ、石の。
確かエトルリアって、そういえばカタコンベもそうだったかな。定期的に墓を訪れて、死者を悼む習慣があったとか、そういうことじゃなかったかな。カタコンベは、ローマでツアーの時に聞いたと思うけれど、カタコンベで葬祭を行ったので、必ずそういう葬祭スペースがあったという話だったかもしれない。エトルリアは、タルクイニア関係で読んだんだったか。
タルクイニアは、地下に降りていく通路があって、その先に石室がある構造ですが、親族等が訪ねることができるように、墓となっても、その地下にアクセスするため通路は閉ざされることがなかったとかそういう話。
もしそうなんだとしたら、ここも、この前室をたずねては、死者を悼む人がいて、そのための椅子なのかもしれないし、単に、死後の生活のための椅子なのかもしれないし。
へへ、勉強不足の分、想像力が膨らみます。
ここチェルヴェテーリにも、一つだけ、地下深くに降りていく墓があります。レリーフの墓Tomba dei Rilieviと呼ばれるものです。
ガラス越しに内部を見ることができますが、壁に、彩色された漆喰装飾があることから、レリーフの墓と呼ばれているようです。
武器とか生活用品らしいものとか、これ、写真で見たことあったんですが、副葬品が壁につけられているものだと思っていました。まさか漆喰のレリーフだとは。盛り上がっているものだから、リアルに見えたのですね。
今は、フレスコ画など残っている場所もありませんが、おそらくもともとは、もっと装飾的なものがあったのだと思います。
それでも、こんな風に、当時の世界に足を踏み入れることができる場所って、そうそうないと思います。紀元前6世紀とか5世紀とかの世界ですから、貴重です。
自分の足がないと、なかなか行きにくい場所だとは思いますが、こことタルクイニアは、多くの人に行ってほしい場所です。
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2020/09/28(月) 05:09:51 |
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2020.08 コロナ禍中、炊飯器持参の夏休み(エトルリアとロマネスク)14
トスカーナとラツィオには、多くのエトルリア遺跡がありますが、誰が行っても、ほぼ感動する遺跡と、すっごく想像力とか知識がないと感動しにくい遺跡と、玉石混交。
それは、残っているもののボリュームとかインパクトによるものが大きいとは思うのですが、加えて、見せ方とか、あとは見てもらいたいという熱意みたいなものも関係してくるのではないかと思います。
今回の旅では、これまでになく、エトルリアをフューチャーしたので、そういうことをより感じさせられました。
前回紹介したポプロニアは、遺跡の中でも有名な場所で、規模も大きく、その分人も集まりやすい場所でもありますが、実際は結構地味なんですよ、あるものは。
でも、ガイドツアーのガイドの中身が充実していて、わくわくと想像力が刺激されるので、実際に残っているものを見る以上の感動を味わうことができるんだと思うんですよね。これは、遺跡を見せたいという考古学者たちの熱意のたまもので、そういう風に遺跡を運営している母体の方向性が正しいと思うんです。
一方で、なんかちょっと違うよね、という遺跡もあるってことで、今回は、そういう意味で、もっと何かできるよね、と思った場所について書いてみたいと思います。
まずはコルトーナCortona。ここは、エトルリア、というよりは中世の町という観光イメージとしては強いのではないかと思います。中世というくくりでは、それなりに魅力的な町であろうと想像しつつ、ここもアレッツォ同様、私には縁のない町でした。いつかこうして、中世ではなくエトルリアを目指して、わざわざ訪ねる日がこようとは、という気持ちで訪ねました。
MAEC(Museo dell'Academia Etrusca e della citta' di Cortona)-エトルリア学術博物館及びコルトーナ市博物館。
町の中心部にある立派な建物に入っていますが、運営は、なんというか旧態依然という様子でした。
エトルリアの遺跡は、ネクロポリは多いので、町として存続している場合でも、当然現在の町の郊外にあることとなります。それはもうどこでも同じ。というか、多くのエトルリア起源の町が、今でも存続している事実に、結構驚かされます。
で、ここコルトーナも同様で、郊外にネクロポリがあるため、どちらも見学したい人のための共通チケットを販売していました。
この博物館の見学だけなら10ユーロ、共通券は13ユーロだったので、迷わず共通券を買ったのですが、郊外にあるネクロポリの場所や内容を聞いても、明確に教えてもらえないんです。「そのフライヤーにあるでしょ、そこよ、そこ。内容はフライヤーに書いてあるから。」と、かなり面倒そうに言うだけ。ま、いいですけどね。
実際に、ここの見学の後ネクロポリに向かったら、フライヤーに乗っている地図も、サイトで確認した場所も、古くて、たどり着けませんでした。以前入り口であったらしい場所に、原始的な地図が掲げられていたので、それを頼りに移動する羽目になり、我々以外にも、うろうろしている観光客が数人いました。
なんだか、そういうところで、印象って簡単に悪くなります。
博物館だけで10ユーロ取るだけあって、内部はそれなりの展示を工夫していましたが、でも、他との釣り合いを考えても、正直10ユーロは高いな、と思います。
おなじみのエトルリア。
例によって、何でもかんでも遊び心満載で、楽しくなる品物ばかり。
さて、この博物館、目玉がありまして、これは確かに目玉でした。
これ、わかりますか?
なんとね、エトルリアのシャンデリア。
紀元前4世紀のものって、もうそれだけでのけぞるんですけどね、シャンデリアってなんかすごいですよね。
かなり装飾的なんですよ。サイトからお借りした写真。
博物館は、市の一般的博物館と一緒だから、エトルリアのものは一部。その一部の多くが、郊外にあるネクロポリの説明に割かれていましたが、見学しているときはそうとはわかっておらず…。なんかね、そういうこと、わかりやすい説明もないんで、そういうのも不満。
で、移動して、ネクロポリに向かって、前述した行方不明不具合に遭遇するわけでした。
MAEC Parco Archeologico - Localita' Sodo di Cortona
何とかたどり着いたネクロポリは、結構広い敷地で、小さいながらも非常に新しい様子の受付がありましたよ。中はクーラーもきいていて快適で、清潔なトイレもあり、これは助かりますが、受付の係員二人、ほとんどの人は共通チケットで来るから、お仕事ほとんどなし。ただおしゃべりしているだけにしか見えません。
そして、遺跡関連のフライヤーの一つもないので、これまた唖然です。
ここのネクロポリは、三つくらい固まって発掘された墳墓だけです。古い時代の、盛り土系の墳墓で、上のは、一番大きなやつへのアクセス用の立派な階段。ほとんどは再建ですが、手すりのくるりんとした下に、ライオン君がいるんですよね。これは、結構は部分が残っていて、博物館に展示されていました。
神聖な場所に、ライオン君を設置。なんかさ、ロマネスクのスタイルだったりするんで、驚いちゃったよ。
スフィンクス的なものだったのかなぁ。
エトルリアは、結構同時期文明と交流はしていたらしいから。地中海世界って、面白いよねぇ。
規模は小さい遺跡だけど、中に入れるのは嬉しい。
こういう盛り土系は、発想としてはピラミッドに近いのかな。あそこまで計算されているようには思えないんだけどね。墓によって、内部のあり方がすっごく違うし。円形の盛り土の中に、墓によって一つだったり、複数だったりのお部屋があって、それぞれに棺が並んでいるっていう構造です。
ここは大きくて、入り口からまっすぐ突き当りがメインのお部屋で、左右に二つずつくらい並んでいたと思います。全部で5室とか、おそらく地域の有力家族のお墓だったのでしょう。
一室の壁には、文字が残されていました。
この墓は、だれだれの墓ですって書いてあるそうです。
Arnt MeanateとVelia Hapisnelという名前らしいですよ。なんかエキゾチックというのか、エトルリアの名前には、まだなじみがないのですが、ここ起源でラテン語化した名前とかもあるのかな。
そして、この程度は解読できているのに、まだ全部は解読できないっていうのも、不思議ですよねぇ。
この遺跡は、一角にまとまっているし、中に入って、ぐるりと回っておしまいですから、見学は15分くらいで終了。物足りない気がしました。ここも、考古学者がいて、ガイドしてくれた、おそらくかなり面白いはず。そういうのを企画するのも難しいとは思いますが、特にほぼやる気のなさそうな両受付を考えるとね。でも、13ユーロ取るなら、もうちょっと頑張ろうよ、と言いたい…。
でも、コルトーナは、まだ許せるんですよ。
今回かなり腹立たしかったのが、実はヴィテルボViterboの地下ツアー(10ユーロ)。
Viterbo Sotteraneoヴィテルボの地下ツアーという形で、やたら宣伝しているんですが、こういう写真見ると、そそられちゃいますよね。
同行者が地下好きだし、これは、事前に予約して、かなり楽しみにしていました。
実は私、昔ヴィテルボに滞在した時、これを目にしたのですが、ツアー主催の店が、どうもうさん臭い感じがして、参加しなかったという経験があるんで、若干懐疑的だったのですが…。
18時に集合だったので、律儀な我々は、10分以上前に到着。
地下ツアーだから、あまり大人数は密になっていやだね、と言いながら待っていると、主催者らしい人が、親しげに話しかけてきて、日本人の団体を案内したこともあるし、ビデオをアップしてくれた人もいるよ、みたいな営業トーク。その間にも、店の前では、あからさまに客引きをしている人もいるんです。もはや私の中では疑惑で真っ黒という感じになりました。
その上、待てど暮らせど始まらず、どうやらガイドの人が遅れているらしい。結局18時20分に、ガイドを待たずに説明が始まったのですが、なんだかどうでもいい町の歴史とかそんな話で、エトルリアはどこに?という状況で、10分くらいたったころ、やっと大御所登場。
店の人達は、プロフェッサー(通常は高校とか大学の教師とか、実際に学位を持っている人への敬称)と呼んでいる白髪痩身のじいさんでした。火のついていない葉巻を持ち、遅れたことを詫びるでもなく、では移動しましょう、と地下への入り口に移動です。
私、すでに怒り気味です、笑。
途中の広場で、輪になって話を聞きますが、じいさんの声が小さいうえに、広場の噴水の音もあり、まったく聞こえず。ツアー参加者がたびたび聞こえないといっているのに、無視して同じ調子でしゃべるじいさん。
やっと地下へ降りることができました。
確かに、冒頭の写真のような場所も一部ありましたが、「地下を歩く」というイメージは見事に裏切られて、ただ、階段を下りて、そこに広がっているがらんとしたスペースの一角に、冒頭の写真のような場所があり、さらに、昔水道を通していた細い水路の跡があり、というだけのことで、移動、ほとんどなし。狭い水路などは、アクセスが二人しかできないので、20ほどの参加者が、順番に見るだけで、半時間経過、とかそういう状態です。
じいさんの説明に代わって、店にいた若者のガイドもあったのですが、彼の方がよほどわかりやすくてよかったのに、なぜかプロフェッサーが出しゃばってきて、うっとうしいことこの上なし。自分は岩のベンチに腰掛けて、自分の話したいことだけを話しています。私が、何か忘れちゃったけど質問したことにも、明確な答えはなし。おそらくわからなかったんだと思います。
でも、イタリア人て、意外と小心者かつ大人なんで、話が違う!と怒り出すような人はいません。正直、苦行でした。
最悪だったのは、実はさらにその先。
やっと地上に戻ったのですが、この地下への入り口になっているのは、すでに機能していない教会の建物で、今はマルタ騎士団の博物館になっていました。実はこのプロフェッサー、おそらく自分の専門は、そちらなんです!
いきなりマルタ騎士団の話が始まったんで、もう目が点でした。
中世は私の専門ですから、一応展示してある物を一通りは確認しました。でも、うさん臭いプロフェッサーの話を聞く気は全くありませんので、おそらく20分以上は我慢しましたが、もう無理だと思い、同行者にも了解を得て、プロフェッサーの話の腰を折って、悪いけれど、この後予定があるので、ここで失礼します、と申し出ました。教会の扉は閉まっているし、勝手に離脱できる雰囲気じゃなかったんですよ。
そしたら、彼、おお、ガイドはどうだったか、楽しめたか等々、すごく親身に聞いてきました。私も大人になって、大変良かった、ありがとう、と対応しましたが、心の中では多いっ切り、毒づいてました、笑。
で、無事に辞去したわけですが、なんと、他三組ほどの参加者が、私に続いて出てきたのには、笑いました。みんな、気が弱いなぁって、イタリア人の小心ぶり、再確認です。
とにかくすべてがうさん臭いツアーです。
主催の店の店頭には、オーディオガイドなら4ユーロとか堂々と書いてあるんですが、オーディオガイドはなくて、必ずプロフェッサーのガイドに誘導されることになっているみたいです。事前に予約とかうたっていますが、現地で、客引きするくらいですから、その場で何人でも追加しています。
サイト上では、すっごく評判が良いことになっています。まぁ、こういうことにほとんど造詣がないとか、知識がないとか、そういう人だったら、楽しめないことはないかもしれませんが、他とのバランスからいって、この内容で10ユーロはぼり過ぎ。とにかく私には時間の無駄以外の何物でもなかったです。
昔、うさん臭いと思ったのは、正しかったのですね。当時、ふと参加しようなんて思わなくてよかったです。一人だったら、ちょっとやりきれない腹立たしさでしたから。
ということで、色々思うところのある二か所でした。
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2020/09/26(土) 18:46:49 |
旅歩き
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2020.08 コロナ禍中、炊飯器持参の夏休み(エトルリアとロマネスク)13
バラッティ・エ・ポプロニア考古学公園Parco Archeologico di Baratti e Populoniaの続きです。
なんと、あきれることに、ネクロポリでの見学記事について、重大な忘れ物が…。ネクロポリでは、ガイド・ツアー、二か所で参加したのに、二番目の場所をすっぽりと忘れていました、あきれます。
前回の記事に、その部分、加筆修正していますので、よろしかったら見てくださいね。正直、そっちのツアーの方が面白かったんですよ。
なんか、自分で撮った写真がないと、どうもしっくりとしないし、こういう抜けが激しい気がします。見学した場所は、教会でも遺跡でも、やたらめったら撮影しますから、撮り過ぎじゃないかと反省することもあるんですが、撮りすぎなりに、撮影の度に、残るものがあるのかの知れません。本当は、自分の目でしっかり見て、それでちゃんと残ればいいのですけれど、そこまでの視覚と記憶力直結能力がないので、写真で補っている感じっていうんでしょうか。
さて、そういうわけで、前回は、ネクロポリの見学でしたが、今回はアクロポリ、つまりネクロポリと同時期にあった生きている人たちの町の跡の方です。
前回地図をアップしましたが、こちらは、今も存続するポプロニアの村に隣接する場所にあります。現在のポプロニアの町は、中世時期からのもので、お城があって面影もありますが、ほぼお城のみ、という小さな村。夏以外は、人もほとんどいないのではないかと想像します。
でも、遺跡は、今の村よりはずっと広大な土地を占めています。といっても、今見られる遺跡は、エトルリアの跡を活用した、紀元前2世紀ごろの、ローマの遺跡なんです。
夢の跡的な、遺跡特有の空間です。
神殿跡が三つあるんですが、これはもう本職の考古学者レベルの想像力がないと、感動するのは難しいものでした。
幸いこちらも、考古学者のガイド付きツアーとなりますが、ネクロポリ同様、面白い内容でした。残っているものはほとんどないし、いまだ発掘中の遺跡もあるような半端な状態ですが、遺跡の中でうかがう歴史絵巻的なお話というのは、本で読む話よりもずっと楽しく受け取れる気がします。
エトルリアは、中世の都市国家のように、各町が主張に率いられる独立国家のような仕組みになっていたようです。で、ローマが台頭してきた際も、町それぞれが対ローマ政策を独自路線で進め、戦争で滅ぼされた町もあれば、相互条約を結んで、ある程度生き延びた町もあったということなんです。
そういうこと考えると、限りなく中央集権的だったローマ帝国というのが、ある意味歴史の中では異端的だったような気もしますね。
で、このポプロニアは、当初は条約を結んで親和路線を取ったのですが、ローマが激しい税金をかけてくるなどの政策を取ることにより、衰退が進む中、ローマ内での政争で、最終的に負けてしまう側についてしまったがために、勝ち組に徹底的に滅ぼされるという結果に終わったのだそうです。
時代の最後というのは寂しいものに決まっていますが、帝国主義的なローマが相手だけに、どうしようもない流れでしょうし、なんかむかつくな、笑。
そういうわけで、遺跡の上の方は、当然すべてローマの遺跡となるわけなんですが、エトルリアのものも、掘れば多少は出てくるのでしょうが、建物などの大物は、なかなか難しいのでしょう。
これも、紀元前2世紀だから、時代はもうローマ、という頃のもの。
でも、まだエトルリアの人たちがいたんですよね、おそらく。
見学した際には、ローマの浴場跡が発掘中でした。
素敵なモザイクがいくつか出てきたようです。規模は小さいけれど、高台にあって、気持ちのよさそうなお風呂でした。
あと数年したら、結構美しい建物となって、遺跡の目玉となっているかもしれません。でも、ローマだからな。
いずれにしても、まさに夢の跡。最近は、ローマの遺跡に行くこともなくなってしまいましたが、遺跡って、やはりロマンがあります。そして石の文化って、2千年でも、とにかく何等か形が残っているから、想像しやすいものというのはあって、たまには行くもんだと思います。
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2020/09/23(水) 05:16:58 |
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2020.08 コロナ禍中、炊飯器持参の夏休み(エトルリアとロマネスク)12
(9月22日に、少し加筆しています。)
行ったり来たりになってしまいましたが、またエトルリアに戻ります。
今回は、有名遺跡の一つ、ポプロニアPopuloniaです。
ここも、写真が少ないので、ネットからお借りしながら、となります、ぐすん。
バラッティ・エ・ポプロニア考古学公園Parco Archeologico di Baratti e Populonia(月曜休み、9時半-19時半、総合チケット20ユーロ)
バラッティというのが、ネクロポリ、つまり死者の町で、ポプロニアは、今も存続する町の近くにあるアクロポリス、つまり当時のポプロニアの遺跡となります。
コロナで想定外のこともあろうし、今回、旅程はいつも以上にアバウトにしていました。ポプロニアは、かなり広大な土地に、ネクロポリとアクロポリががあったり、どの程度の時間がかかるのかがよくわからなかったので、事前予約をせず、その代わり、オープン前に到着して、可能なガイドツアーは現場で予約する方法を取りました。
ガイドなしで、勝手にふらふら歩く形の訪問も可能となっていたようですが、ガイドツアーにしても料金は同じだし、遺跡は、可能ならばガイドの話を聞いた方が面白いに決まっていますからね。
宿からは結構な距離がありましたが、頑張って早朝出発して、無事、オープン前の9時過ぎに到着しました。上の地図で、右上に駐車して、受付の建物まで、移動します。印のついているのがそうですが、その左の方に広がる茶色の平地っぽい部分が、ネクロポリのメインとなります。不自然なドーナツ型が、墳墓となります。
そして、下がアクロポリの場所。
一番右端に、ネクロポリのある場所の印を残してみました。
アクロポリは、一番左にあり、今のポプロニア(Rocca di Populoniaとあるところ)も、すぐ近くです。ネクロポリとアクロポリは、直線距離で、2キロ弱というところでしょうか。しかし、直通の車道はなく、林が広がっています。林の中に小道があり、歩きたい人は歩けるようになっていますが、かなりわかりにくいようでした(ネクロポリのガイドツアーで一緒だったイタリア人が、歩いてアクロポリに向かいましたが、車で移動した我々と、左下にある無料駐車場のあたりで再会しました。海岸沿いを走る車道に対して、歩く道は、林の中をひたすら突っ切るようになっているようですが、何度も迷ったと言っていました)。
エトルリア人は、死後の世界を信じて、死後も完全な生活ができるように、ネクロポリを作ったようですが、これほど離れているのも珍しいような気がします。ポプロニアの人口がかなりあったということかもしれません。
この遺跡の良い点は、ガイドさんが皆、考古学の専門家、つまり、考古学者なんです。そして、ガイドの数をこなしているからだと思いますが、話が旨いです。専門的になり過ぎず、それでいて、聞いていて興味がそそられるうんちくをちりばめ、またさり気に、発掘にはお金がかかるんで、皆さんよろしく的なお願いも盛り込んだりして、今回、ネクロポリもアクロポリもガイドツアーに参加して、他のツアーの様子も目にしましたが、どのツアーも盛り上がっていました。
考古学に興味を持つ人はたくさんいると思うけれど、食べていくのは大変な職業だと思うので、彼らの知識を役立てるこういうお仕事、もっと増えたらいいのに、と思いました。イタリアは遺跡がたっくさんありますが、どこでもが考古学者を雇っているわけではありません。いや、むしろ、通常の観光ガイドがやってるケースの方が多いのではないかと思います。考古学者の皆さんは、情熱をもって、現場で発掘にもかかわっているのに、その知識や経験を生かす場所がいかにも少ないというのは、勿体ないことですよねぇ。
さて、開店前に到着したおかげで、無事、チケット売り場にも二番に並ぶことができ、ネクロポリ二か所(サン・チェルボーネSan Cerbone、レ・グロッテLe Grotte)、及びアクロポリ、それぞれの予約もできました。
予約時間までは、ガイドツアーで行かない林の方を散策。そちらの方に残っているのは、ほぼ廃墟状態の墓やら、目的のわからない石積みなどですが、緑が生い茂り、夢の跡的な雰囲気は悪くなかったです。
さて、ネクロポリのサン・チェルボーネのガイド開始。思ったよりも多くの参加者で、総勢、20人はいたでしょうか。ガイドは男性考古学者。熱心な語りで始まりましたが、いきなりがっかりでした。
というのも、この墳墓、通常なら入場できるのに、今はコロナで閉鎖中で、今度いつ開けられるかわからない、ということだったんです。個人的には、これを一番楽しみにしていたのに。
これね、エトルリアのお墓なんですよ。それもかなり初期の方のスタイルで、紀元前7世紀とか8世紀の時代。こんもりと小山を作って、周りを石で補強して、お墓それぞれによるのですが、中には、数段、地下に降りる構造になっているタイプもありますが、それは、時代が進んでからのもので、ここのは、平地で、周りを取り囲む石壁に扉があり、そこから通路で内部に入るようになっています。
これは、内部から馬車が発見されたことから、馬車の墳墓と呼ばれているもので、かなりの大きさです。
内部は、空洞になっているわけではなくて、洞穴状態というのでしょうか。扉から通路で、墓用のスペースがお部屋のように作られる構造で、ここでは三つのお墓スペースがあるようです。これだけの大きさや、副葬品に馬車まであることから、おそらく高貴な身分の人のお墓。
この、石壁の切り石とかの技術が、なかなかすごいらしいです。確かにねぇ。それに、きっちり円形なのもすごいなって思います。
このネクロポリは、かなりの長きにわたって使われました。ポプロニアが、それだけ長命な土地だったということですね。墓のスタイルも、時代によって変わっていくので、その長命がゆえに、古いものから、新しいものまでが混在しています。
この、祭壇のようなタイプは、紀元前4世紀ごろとかそういう時代のものらしいです。
この、一番手前にあるやつは、中に入れるんですが、すごくきっちりとした切り石で、びっくりします。
考古学者もいろいろ話してくれましたが、要はね、エトルリアのことって、今もあまりよくわかってないことが多いんですよ。それで、遺跡のことだって、用途とか、不明だったりして、いろんな説があったりして。考古学者にとっては、結構面白い研究分野だと思います。だって、明日、自分の学説が有力になる可能性もあるわけですよね。
そうそう、エトルリアは文字があるし、墓に書かれていたり、それなりに発見はされているんですが、実は、エジプトのロゼッタストーンに当たるボリュームのある文章が見つかっていないため、いまだに部分的にしか解読できてないんです。ね。夢があるでしょう。
ンといっても、エトルリア文字は、右から書くんですよ。見た目はアルファベット的なスタイルで、結構単純な様子なんですが、右からって、不思議ですよね。書く対象が石しかなかったから、引っ掛かりとかそういうものもないし、右からでも左からでも同じ何でしょうけれど、人の多くは右利きのはずだから、アルファベット的な文字だったら、やはり左から右に書く、という方が自然な気がするし。
エトルリア人のほとんどの聞き手は左だった!とか、わかったら面白いですよねぇ、笑。
さて、あけっぴろげの土地に広がる墳墓遺跡サン・セルボーネのガイドツアーは、約1時間で終了し、今度は各自が徒歩で場所を移動して、もう一つのガイドツアーであるレ・グロッテの集合場所へと向かう必要があります。その時間が気になって、サン・チェルボーネのツアーの最後の方は、ちょっと端折り気味に失礼した我々ですが、レ・グロッテのツアーも、ほぼ同じメンバーだったので、端折ることもなかったのに、と後悔しました。
でも、ここへ向かう道、山道だったりしてわかりにくくて、比較的健脚な我々でも結構時間がかかったんですよね。他の人たち、来られるのか心配しましたが、どうやら道に二通りあり、我々は遠回りをしたのでした。
そのおかげで、ポプロニアの紹介写真にも使われる絶景を、独り占めできました。
遠くに海が見えて、緑の中にインディ・ジョーンズ的な遺跡が見えます。これはちょっと感動的な眺めでした。
ここまで登ってきて、そしてこの後、下に見える遺跡まで下って、結構なアップダウンで、遺跡はやはり身体が元気じゃないと来られませんね。
私たちの前のツアーが遂行中ですね。
林の中のこんな道で、時々迷いそうなくらいに、自然林をそのままにしていました。
岩壁に直接くりぬかれたような構造のここのお墓は、エトルリアの歴史上では、ほぼ最後の時期、ローマへの移行期間に使われたものだそうです。紀元前4世紀から2世紀ごろのこと。
中には入れないので、状態は不明ですが、見た感じが、考古学っぽくてかっこいい。
そして、脇の方に、不思議なものがあるんです。
壁に、こういうくりぬきというのか、宙に浮いたようになっている切り石があるんです。これ、ミステリーって感じで、ポプロニアのアイコンとして使われています。
どこにあるか、わかりますか?
すごく唐突な感じですよね。
ガイドさんが説明してくれたんですが、すっかり忘れちゃった…。でもね、実際、何か、ということはわからないということだったのは確かです。
帰りも林の中の道を行くのですが、地下に降りる階段があちこちにあって、それもお墓なんですね。中には、フレスコ画があるものもあったようですが、今は公開されていませんし、ほとんどの墓は整備もされていません。中に何もなくても、階段や坂道を下って、お墓にアクセスするのって、すごくわくわくするので、いつか予算が降りて、そういったところも整備してアクセスできるようになったら楽しいだろうなぁ、と思います。
墓は墓なので、失礼な話ではありますが、とっくの昔に盗掘されたりしているし、もう遺骨も何もありませんから、まぁ問題はないかと。いや、死後の世界を信じていたエトルリア人冒涜になるのかなぁ。
もし時間的な制約があるなら、サン・チェルボーネよりは、こちらグロッテの方がお勧めかな。
長くなってしまったので、アクロポリ、別記事にします。
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2020/09/20(日) 19:34:40 |
旅歩き
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2020.08 コロナ禍中、炊飯器持参の夏休み(エトルリアとロマネスク)11
行ったり来たりになってしまいますが、ロマネスク編として、重大な場所について記すのをうっかり忘れていたので、ちょっとロマネスクに戻ります。
重大なのに忘れていたのは、同行者の写真が、一枚もなかったからなんです…。つまり、一般的には、そそられない場所、ということになりますねぇ。
アレッツォArezzoの、サンタ・マリア教会Chiesa di Santa Maria della Pieveです。
アレッツォという町は、なんだか縁がなくて、トスカーナはシエナに一年以上暮らして、当時は貧乏ながらやたら旅をしたというのに、なぜかこの町に行くことはなかったし、ミラノに暮らすようになってからも、トスカーナへ行くことは多数あったのに、なぜか縁がなかったんですよねぇ。
ピエロ・デッラ・フランチェスカというポイントもあったのに、特段興味がなかったり、そうこうするうちに、「La Vita e' Bella」という映画がオスカーを撮ったりして、その撮影現場の一つとなったことで変に有名になってしまったのが嫌気になったりとか、色々理由はあるんですけれど、たぶん、一番の理由は、ロマネスクとしてみるべきではあるけれど、画像的にはそこばかり出てくる、この後陣の写真が、自分にとっては、さほど魅力的とも感じられなかったのが、どうしても行こう、という気持ちにならずに、ま、次回でいいか、とほったらかしていた理由だと思います。
今回、半分そういう気持ちで、でもせっかく時間あるし、ではちょっとだけ寄り道してもよかろうか、という半端な感じで行ったわけなんですが、もう本当に、オレ、反省しろよ!と、真剣に自らを呪いました…。
もうね、素晴らしいんですもん、ファサードが。
(画像は、すべてネットからお借りしていますので、解像度的には、あまりよくないと思います…。)
トップに置いた、広場に向いている後陣の画像が有名すぎて、ファサード側って、あまり出てこないし、正直知らなかったんです、まったく。だから、町はずれに車を止めて、徒歩で教会に向かって、まずアクセスしたこのファサードの様子がちらりと見えたとき、驚愕しました。
そもそも、道が狭くて、全貌は見えないんですよ、なかなか。そのうえ、町を訪ねることが初めてですから、あれが目的かどうかは不明な中、でも、どう考えても、ロマネスク時代ってあれしかありえないわけで、興奮のるつぼでしたわ、まじ。
これまで何度も言及しているように、私、ピサ様式、大好きなんです。
でも、アレッツォにピサ様式って、想像もしてなかったんで、これは衝撃でしたよ。
後陣もね、なかなか良いのですけれど、いや、このファサード見ちゃったら、正直、もうどうでもいいって感じになりました。La Vita e' Bellaは、完全に忘却の彼方です、笑。
ここのファサードが良いのは、石色もありますし、ピサやルッカのような過剰装飾じゃなくて、素朴な石装飾にとどまっているところで、まさに私が最も好きなピサ様式のバリエなんです。以前の記事で紹介したキアンニなんかに通じるやつ。装飾的なんだけど、朽ちてる感が勝っているのが、もうたまらなくそそるんですよねぇ。
ずっと見てて飽きないファサードでした。
確か、ファサード側に回って、入ろうとしたら、お葬式のセレモニーの最中で、しばらく、ファサードを見上げながら終了を待っていたんですが、もう全くいやじゃなかったです。
地味な扉口周りにも、結構彫り物があり、それも、詳細を見るのが楽しかったですし、とにかく全体の雰囲気が、もうもう、大好きでした。
そのインパクトのせいか、実は、結構待った挙句に、やっと中に入れたんですが、内部の記憶は、ほとんとなしなんです。
長年気になっていたとはいえ、まさかこういう形で自分の好きなものだったとは、という驚きも含めて、ここは、ぜひ再訪したい教会の一つです。
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2020/09/19(土) 05:16:49 |
トスカーナ・ロマネスク
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2020.08 コロナ禍中、炊飯器持参の夏休み(エトルリアとロマネスク)10
今回の旅の、もう一つの目的、というより、メインの目的だったエトルリア遺構の訪問は、なかなか充実しました。
三年前に、同じような場所をうろうろして、わかっていたけど、それよりもずっと面白いな、と思ったので、どうしても、行けてない遺跡に行きたいと思っていたのです。
日本では、世界史でもほとんど習うことがないし、なんとなく先史時代と、ギリシャ・ローマのはざまで忘れ去られてしまっているような時代の人々の遺跡なんですけど、ロマネスク病の人にとっては、絶対にシンパシーを感じるものだと思っています。
まず、最初に訪ねたのは、キウジChiusi。
前回の旅の、ミラノへと戻る帰り道で立ち寄った町なんですが、事前に調べ切れていなかったので、時間が合わなかったりして、エトルリア博物館以外は訪ねることができなかったため、大変心残りがあったのです。
今回は、しっかりと事前に調べて、必要な予約もして、万全。
小さな町ですが、エトルリア関連のオーガナイズは、とてもしっかりしていて、興味のある方には、強くお勧めできます。
最低限見るべき訪問地を、四か所見学できるセットのチケットがあり、なんと10ユーロぽっきり。これはお得感すっごくあります。
そのセット券で可能な見学場所は、以下。
1. エトルリア博物館Museo Nazionale Etrusco(毎日9時半から20時)
2. エトルリアの墳墓(Tomba Pellegrina e Leone);今回、コロナのため、見学不可
3. ポルセーナの迷路(Labirinto di Porsena);30分ほどのガイド・ツアーで、予約必必至(ツアーは一日5回ほどあり)。
4. 地下探検(Citta' Sottoterranea);コロナ下では、予約必至。30分強のガイドツアー。
上記に加えて、2番の墳墓の近くには、サルの墳墓(Tomba di Scimmia)というのもあり、これは3ユーロの別料金となっていますが、これまたコロナのため見学不可でした。墓は密になってしまう狭い空間だから駄目だったんだと思いますが、特にサルの墳墓(内部にフレスコ画があり、そこにサルが描かれているから、こういう名称なんだと思います)は、写真で見ても内部が素晴らしく、最後まで期待はしていたのですが、やはりだめでした。
というわけで、キウジも、再訪必至、という町なんですよ。
予約した地下ツアーまで時間があったので、以前見学した博物館を再訪しました。
ままごとセットみたいな、埋葬品。死後の世界があると考えていたエトルリア人は、墓にいろんなものを持ち込んでいたんですが、これは生活品をまとめたもので、さまざまなタイプがあり、本当にかわいらしいですよ。大きさもいろいろなんでしょうが、展示されていたものは、50X30センチとか、結構大きくて、インパクトあります。
こういう骨壺は、もうきりなく並んでいました。
やはり、展示内容も変わっていると思いますし、意外と楽しめました。
時間があまりなかったのですが、係員の人から話を聞いたりして、エトルリアのことは知らないことだらけということもあり、面白かったです。ちゃんと勉強しないとなぁ。
骨壺、つまりエトルリア人は、基本火葬文化だったのですね。大きな石棺もあるので、私はすっかりそのまま埋葬するのが主体で、貧乏な人が主に火葬するもんだと思っていたんですが、どうやら時代に寄ったりするらしいんです。
そして、たくさん並んでいる骨壺、よく見ると、装飾彫り物が同じだったり、非常に似ているものがたくさんあるんです。それって、つまり工業製品なんだそうですよ。
この、キウジに、骨壺製造工場があり、似たようなモチーフっていうのは、出来合いの大量生産品なんだそうです。なるほど!
当時人気のあった人物増とか、そういうのがたくさん。庶民、といっても、装飾的な骨壺はそれなりのお値段もしたと思われますから、そこそこ身分のある人たちだったんでしょうけれど、そういう出来合いのものを買って、ちょっと名前を入れてみたりとか、そういうことはしたらしいです。
で、この博物館の後、予約をしていた地下ツアーのガイドツアーだったんですけれど、その地下にも、骨壺はいやになるくらい並んでいて、さらに面白いお話を聞けました。
見るからに面白いものがたくさんありましたから、私は大量に撮影していましたが、同行者は、地下ツアーの地下での写真、一枚きりでした…。潔いなぁ。その分きっと、目に焼き付けて、説明もちゃんと聞いているのだと思います。私は撮影ばかりで、後付で、写真を見ながら説明を思い出すタイプなので、自分が撮ったものがないと、正直お手上げです。
(ネットでお借りした画像です)
ただ、覚えているのは、エトルリアでは、女性の地位が高かったということ。
同時代の他の文明を考えたとき、これはなかなか画期的なことなのではないかと思います。女性も、誰それの娘とか、妻とかそういうのじゃなくて、自分の名前を子供に残すことができたとか、発言力があったとか、そういう文明だったそうなんですよ。ますます好きになっちゃいます。
そして、名前がね、それなりの地位の人だと、7つもずらずらと並んでいたんだそうです。
骨壺には、その中の一つ二つだけが彫られたそうですが、後代、ローマに押されてくると、その文字が、エトルリア文字からラテン語に変わってきて、名前だけがエトルリア風だけど、ラテン語で彫られるようになってきたのが、このあたりの骨壺、というのもたくさんありました。
地下水の水路の跡などもあり、今は通路として通れるようになっているんですけれど、表面を粘土質で固めて、相当深い溝となっているようでした。道路も水道も、ローマの遺構となっていますが、どちらも、オリジナルはエトルリア人が作ったもの。
ローマが台頭してきたころ、一気にエトルリアが破壊されたわけではなく、あちこち散らばっていた都市国家上のエトルリアの町それぞれが、違う対応で、ローマと交流したり、取引したり、しばらくは共存的な時代もあったみたいです。そういうところ、知らないんで、今後、本を読んでみたいと思っています。
この、市で企画運営している地下ツアーは、コロナ禍で、ツアー最高4名とか、最小限の最高で、我々の他は、ツアコンみたいな人が下見に来た、ということらしく、ガイドは、我々専属、という形でしたので、たくさんのお話を聞くことができて、充実しました。
そのあと、今度はポルセーナの迷路という、やはり地下ツアーに参加したのですが、こちらは、運営母体がまた違うようで、人数も15人ほどと膨れ上がり、人数が多い分内容は、若干薄いものでした。前置きがやたら長くて、見学するものは少ないっていうか…。
地下ツアーは、地下が博物館となっていて、たくさんの骨壺などが展示されているという見ごたえもあるんですが、迷路の方は、地下水道の跡を歩く、というちょっと探検的な感じで、今でも水が溜まっている苔が美しい井戸とか、ローマから中世にかけて、ごみ捨てとなってしまったそういう穴の説明とか、あるものはあるんですが、これは、ツアーメンバーに下らない人がいると、一気につまらなくなる内容でもありますので(イタリア人て、驚くくらいつまらない質問とかして、勝手に盛り上がったりするんで。この時も、地下に生息する蝙蝠が死んでて云々、という話で、相当の時間を取られました)、その時によりそうです。
また行くとしたら、地下ツアーだけでいいかな。
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2020/09/15(火) 04:39:26 |
旅歩き
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2020.08 コロナ禍中、炊飯器持参の夏休み(エトルリアとロマネスク)9
今回の旅の中で訪ねた主なロマネスクは、前回までの記事となります。残りは、再訪だったり、以前入れなかった教会に入れたりしたものですが、残念ながら、ほとんど写真がありませんので、まとめてさらりと記しておくことにします。
ネピNepiのサンタ・マリア・アッスンタ大聖堂Duomo di Santa Maria Aassunta。
ここは、引き返そうかと思ってしまうような上物なんですが、そして入場すると、ピカピカキラキラの内装に、さらに気持ちがめげそうになるんですが、実は素晴らしいクリプタがあるのですよね。本当にびっくりするくらいキラキラの内陣の、ピカピカした階段を下りていく感じなんて、落差にもびっくりします。
実際、同行者も、かなり絶句状態で、興奮していました。
また、楽しい柱頭が多くて、うれしくなっちゃいます。
しかし、いかんせん、本当に暗い!小銭を入れて明かりがつくシステムがありましたが、50セントでしたかねぇ。幸いにも一枚見つけたんですが、まぁ、びっくりするくらい短かったです、点灯時間、笑。うわうわ言いながら撮影していたら、あっという間に暗闇です。残念ながら延長用の小銭なし。誰も来ないし、まさに時間切れでしたが、また来ることもあろうし、きっと毎回こういうことになるんだろうなぁ、としみじみ。
修行旅のことは、特にイタリアでは、こういう有料点灯方式が結構あるので、小銭は常に準備しているんですけれど、思うようにはいかないもんです。
このネピは、この素敵なロマネスクの他、ローマの遺構も楽しめます。
町のすぐ外に、立派な水道橋があります。
水道橋では、毎度驚きますが、ここもまた、今でも道路をまたいで立っていて、アーチの下をくぐっていく感じなんですよ。二千年たっても、構造物として現役、というのはすごいことです。なんだかんだ言っても、ローマの技術って、やはり半端ない。権力と富が集中して、それを使いこなす人材がいて、という時代の結果ですかね。やっぱり、人材なんだろうなぁ。
さて、この後、懐かしのカステルサンテリアCastel Sant'Eliaに行きました。
ここ、素晴らしいフレスコ画を持つ教会がありますけれど、初めて一人で訪ねたときは、あと数か月後には終了予定の修復中で入れず、3年前に訪ねたときは、午前中にクローズで、午後に再訪したところ、またクローズで、自分がきちんと時間を確認していなかったから悪いんですが、とにかく、都合三回、入場拒否されている因縁の教会なんです。
今回は、事前にきちんと時間を確認して、ちゃんと開いているはずの時間に行ったんですが、なんと、Covidのため、訪問可能時間が限定的になっていて、要は、訪ねた時間は、またもやクローズだったんです。もう呪われているとしか思えない…。四回目にして、また入れず、という結果です。
縁がないのかといえば、無理せずに四回も訪ねることができる場所というのは、そうあるわけでもないので、決して縁がないとは思えない節もあるんですよね。何だろう、ツンデレ的な?
ヴィテルボViterboでは、一人で訪ねた2013年には入れなかった、サン・シスト教会への入場がかないました。
素敵な教会でしたけれど、写真なし。ヴィテルボへの再訪は、微妙ですが、ロケーションがいいしホテルも多いので、この辺りに行く際には、宿泊場所となる可能性が高く、そういう意味では、再訪あり、かもしれません。
帰りに北上する際に、ボルセーナBolsenaにも立ち寄りました。
同行者が地下好きなので、クリプタやカタコンベには、積極的な興味があるんです。
以前訪ねたときは、すっと教会近くまで行けたんですが、イースターと夏の違い、実感でした。というのも、ここは湖畔の町なので、夏は海水浴客が多く来ていて、道も渋滞していたり、イメージが違っていて、前の道が見極められなかったんです。湖沿いの方に出てしまったのですが、こんなに駐車場のある観光地とは、夢にも思っていなくて、びっくりでした。
ここも、上物は面白みがないのですが、長年常に現役教会であっただけあって、つぎはぎ構造がすごいんです。その一角に中世の名残があり、そして、地下にはカタコンベまであるんですよねぇ。
一人で来たときは、ちょっと怖くて、奥にまで入れなかったカタコンベ、同行者がいたので、安心して、隅から隅まで見て回ることができました。見学可能な場所は限定的で、実は、まだ発掘できていない部分も含めて、相応広範囲に広がっているようでした。
文字や絵なども残っているし、雰囲気はかなりカタコンベで、ローマ周辺の観光地化したものより、お勧めだと思います。
何より、ロマネスクの遺構がかわいいですしね。
しかし、2013年の時も、見学システムがわけわからず、かなり待たされたんですが、今回もまったく同様で、うろうろおろおろさせられました。ボルセーナってそういう場所なんですかね?あれは、改善してほしい…。
最後の日は、ルッカに泊まりましたので、ルッカの旧市街も散策して、いくつかの教会を見て回りました。あそこは、いつ行っても楽しくて愛らしくて、良い町だと思います。
ということで、あまりに写真が少ないので、サクサクと終了です。
次回からは、この旅のもう一つの目的であるエトルリア遺跡について、ちょっと書いてみたいと思います。
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2020/09/13(日) 01:34:32 |
ラツィオ・ロマネスク
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2020.08 コロナ禍中、炊飯器持参の夏休み(エトルリアとロマネスク)8
さて、次に紹介しておこうと思うのは、実は、今回、写真を失ったことが最も悔やまれる教会です。
チヴィタ・カステッラーナCivita' Castellanaの、クラリッセ・アル・カルミネ修道院Monastero delle Clarisse al Carmineのサンタ・マリア・デル・カルミネ教会Chiesa di Santa Maria del Carmineです。
上は、2013年のイースターに旅をした時の写真です。
ここは、現役の女子修道院のようなんですよ。入り口に、こんな日課が掲げられています。
このチヴィタは、わざわざ行ったというよりは、通り道として通過したので、それならせっかくだから、ロマネスクを再訪するか、と思い、ここではなくて、確か素敵なフレスコ画があると記憶している、町の中心部にあるドゥオモに立ちよるつもりだったんです。
ただ、前回もそうだったんですが、この修道院は、町をほぼ貫通する幹線道路に沿ってあり、その道は路肩に駐車できるもんですから、この近くに駐車したこともあり、それで、立ち寄ってみたんですよ。
そうしたら、なんと、絶対に開きそうもない教会の扉が、ほんのわずか開いているじゃないですか!この鐘楼の左側にある扉です(これも、以前の写真です)。
半信半疑で押してみると、ちゃんと開いています。小躍りする気持ちでするりと本堂へ。
かなり薄暗くて、陽光さんさんの外から入ってきた目では、ほとんど暗闇でしたが、うら若き修道女さんが一人、驚いてたたずんでいるのが目に入りました。教会に修道女さんがいるのは、当たり前のことではありますから、こちらは何とも思わず、小声であいさつをしながらも、カメラのスイッチをオン!本堂中をなめまわすように見回しながら、撮影開始です。
薄闇に浮かび上がるような、素朴な柱頭、そして、実際の年代はわからないながらも、面白い浮彫の施された祭壇が、すぐに目を引きます。その状態の端で、修道女さんが、逃げるように本堂を去っていったのが見えました。
その慌てぶりに違和感もあり、これは、追い出されるのではないか、と悪い予感もあり、慌てて数枚の撮影をしたところ、修道女さんがすぐ戻ってきて、蚊の鳴くような声で、「あの、教会は閉まっているんです。開放していないので、恐れ入りますが、お帰りください…。」と、予感的中です。
別に扉をこじ開けて入ったわけでもないのですが、まるで、そうやって不法侵入でもしたような気にさせられるような、何とも居心地の悪い修道女さんの案内でした。すっごく若い娘さんだったし、こっちはわけのわからない東洋のおばさん二人で、実際に怖かったのかも知れませんねぇ。だとしたら、申し訳なかったですけど、まぁ、扉が開いていたのは、彼らの不行き届きだし、仕方ないですね。
ここ、修道院なので、ロマネスクの回廊もあるようなんですが、あまり写真とかも出てこないし、どういう状態なのか不明。そもそも、ほとんど開いていないと思うので、本堂は、ミサの時に入れるかもしれないけれど、回廊などは無理そうですね、現役だとしたら、それも女子修道院だしね。
そんなわけで、他のどの教会よりも、貴重な写真だったかもしれないと思うと、ちくしょー、と思ってしまいます。
ちなみに、私が勝手に、心模様も含めてそういうドラマをやっていた最中、同行者は写真の一枚も撮らずに何をやっていたかというと…。
なんかね、ずっとごそごそ探しているな、というのは気付いていたんです。教会の椅子にバッグを置いて、なんかガサゴソ音を立てていて、何をしているんだろう、とは疑問に思いつつ、それどころじゃなかったんで、追い出されてから聞いたところ、「あんまり暑いから、センスを探してたけど、とうとう見つからないうちに追い出された。教会の中は、ほとんど何一つ見ていない」と。追い打ちをかけるように、「センスを探しながら、せっかく訪問者(=私たち)が来たというのに、明りもつけてくれない気の利かない修道女だな、とイラっとしていた」と。
私は私で、自分の心模様を説明して、同じ空間で同じ時間を過ごしたというのに、そのあまりの落差に、大爆笑しました。
この人とは、良く一緒に旅行をしているんですが、たぶんこういう人だから、気楽に長時間過ごせるんだと実感しました。お互いが好き勝手にできるとか、干渉しすぎないとか、そういう距離感って、大事ですよね。あ、あと、経済感覚も、すごく大事。
写真撮ってくれないけど、多くの旅で、良い相棒です。
本来目指していた、ドゥオモ、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂Cattedrale di Santa Maria Maggioreです。
フレスコ画があると思い込んでいたドゥオモは、大きな勘違いで、こちらも、2013年の旅では入れなかったらしいことを、今、昔の写真を見て思い出しました。訪問した時に、確かミサの最中だったのではないかと、うっすらと記憶が。
終わるまで待っている時間の余裕がなく、外だけ見て、引き揚げたんです、たぶん。
今回は、こちらは中に入ることができたので、これまたリベンジ成功だったわけですが、それも、大いに遅ればせで今気づいたわけですが、笑、いずれにしても、写真は一枚もないので、成功といえないことも、また気付いたわけで。
内部はかなりキラキラなんですが、古いクリプタがあります。ラツィオには、本当にクリプタが多いです。ただここのは、起原は古いけれど、全体にすっきりきれいになり過ぎていた感じがあって、あまり印象に残りませんでした。もちろん、写真がないことも一因です。
こういう感じです。これはネットからお借りしました。
いろいろ悔しいから、この町もまた、再訪しないといけないリストに並びました。まぁ、2013年の旅などは、イースターの3泊4日の旅で、かなり回れているので、そう考えれば、週末にちょっとくっつければ行けるかな、と気楽に考えています。
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2020/09/10(木) 05:08:16 |
ラツィオ・ロマネスク
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2020.08 コロナ禍中、炊飯器持参の夏休み(エトルリアとロマネスク)7
前回の記事の後からは、エトルリア関連の訪問が入るため、時系列通りにするとわかりにくいので、まずはロマネスクだけをまとめたいと思います。
目的地への移動途中で、懐かしい教会によることができました。
以前この辺りを回った際、宿泊していた宿のすぐ前にあった教会なんですが、上の写真でわかる人がいたら、すごいですね、笑。
ファルネータFarnetaという村の修道院教会Abbadiaです(昼休みはあったようですが、大体いつも開いているみたいです)。
同行者は、この柱頭だけを撮影していましたが、建物そのものも、結構立派で、見所がある教会です。10年ぶりの訪問で、なんとなくですが、全体が整備されているような気がしました。でも、過去の写真と比べて、正確に何が違うかは、わかりませんでしたけどね。
今も、後陣側は、畑が広がっていて、修道院があった当時と、あまり変わっていないかも、という風景です。そういえば、以前訪ねたときは、草むらから、いきなりキジが飛び出して、びっくりしたんですよね。今でもそんな感じです。
過去の記事は、左にあるトスカーナ・ロマネスク内(トスカーナ・ロマネスク2010 その6)にありますので、よろしかったらのぞいてみてください。
今回の記事は、写真がなくなったことがかなり悔やまれる教会の一つの紹介です。うう、辛い…。というのも、この教会だけで、100枚くらい撮影したと思うからです。でも、同行者にとっては、数多く訪ねているロマネスク教会の一つに過ぎなかったようで、見学そのものは楽しんだようですが、写真は、数枚しかないのです。そのため、雰囲気をお伝えするため、最低限、ネットから画像をお借りしようと思います。
ロンチリオーネRonciglione郊外にあるサンテウセビオ教会Chiesa di Sant'Eusebioです(Via Sant'Eusebio、ロンチリオーネの村の南2キロほどで、東に入る小さい道があるので、そこを入り、約1キロ先のヘーゼルナッツの林の中にあります。その1キロほどの道は、途中から未舗装となり、ほぼ能動のような道なので、タイヤのしっかりした四駆などでなければ、道が分かれる角のバール、FestivalBarの駐車場をお借りするなどがベターと思います)。
ここ、10年前の旅の時も、行先としてピックアップはしていたのですが、当時はネットでは、情報がほとんど出てこなかったものと思われます。ロンチリオーネは訪ねたものの、この教会については、「場所不明」というメモだけが残っています。
今回は、その10年前の旅の補完という意味もあったので、調べてみると、あなた!なんでこれを見てないのか、俺?とあきれるような教会じゃないですか。あわてて、オープン情報を集めだしました。教区などにも電話して確認を取って、たどり着いたのが、教会の修復を行ったという建築家の方。
訪問予定の日が、日本でいうお盆のような日程だったので、事前にはアポが確定できず、結局旅の最中に電話して、無事アポに成功しました。訪問情報を探せば絶対出てきますが、建築家のお名前は、ピエトロ・ラテアーノPietro Lateanoさんです。ネットで携帯の電話番号も出てきますし、彼は、訪問受け入れ大歓迎の方なんで、チャンスがあれば、ぜひ訪問して、修復のための浄財を寄付してきてほしいと思います!
前置きが長くなりましたが、本当に素敵な教会なんです。
分かれ道から歩いていくと、しばらく工場とか沿うことか、愛想のない道が続き、本当にこれでいいのか、と思い出したころ、ーゼルナッツの林となり、やばいんじゃないか、と思う頃、木の陰から忽然と、という感じで姿を現します。
ヘーゼルナッツの木は決して大きくはないのですが、横に広がっているので視界を遮りますし、この教会がまた、ずんぐりとしていて、縦にはとてもちびっこなんですよ。
もともとは、初期キリスト教時代の墳墓があった場所で、葬られていたのが、Flavio Eusebioという土地の有力者だったそうです。後陣部分は、その墳墓の建物を覆うように作られているため、後陣の開口部から、古い建物の外壁を見ることができますし、中でも、一部外壁が残っています。
その後、教会としての創建は、7/8世紀で、その時、近所のシュトリの司教だったEusebioさんと混同が起こり、それで、Eusebioさんにささげられる教会になったようなんです。
11世紀から12世紀にかけて描かれたとされるフレスコ画。
後陣の半円部分には、もうちょっと時代の下る絵があります。教会に入った時、かなり興奮する風景となりますよ。
私としては、素朴で大きな柱頭に、より惹かれるものがありましたが、その写真が、どうぞネットで検索してみてくださいね。どっしりして、格別な空間です。
入り口の、入って左側に、Jesseの木というフレスコ画があります。
Jesseの木というテーマ、私は不勉強で知らなかったのですが、キリストのファミリー・ツリー的なものらしいですね。11世紀から14世紀にはやったテーマらしいですが、教会に描かれているものは、あまりないということなんです。もともと、フランスのどこぞの教会にあるものが、最も古いと認められていたのが、このサンテウセビアの方が古い、となったとか、そういう話、件の建築家が話してくれました。いずれにしても、14世紀とかそういう時代なので、私の興味の範疇外ですが、フランス人の世界の中心的な、すべて自分たちが起原的な、そういうのに勝った!というんで、イタリアの研究者が喜んだ的な、笑、そういう話でもあるようでした。
この建築家ピエトロさんは、この教会が民間に売り払われようとしているときに、大反対して、私財を投じて修復を請け負ったということなんです。だから、今でもカギを持って、管理を任されているそうで、なかなかのやり手と見受けました。映画の撮影にも、使ってもらったり、自分は国の文化財関係の仕事を請け負うなど、やはりそういう才覚がないと、私財を投じるなんてできないですよね。
ただ、建築家だけあって、お話はそっちに偏る傾向があり、当たり前ですが、美術に関しては、あまりお話がなかったです。
ただ、いろいろ質問をしたところ、それなりに詳しい人らしいと認めてくださり、近所のシュトリにある岩窟教会の特別見学を手配してあげられるかもしれない、といううれしい提案をいただいたりしました。
結局、先にも言及したお盆のため、鍵を管理している人が夏休みだったためにかなわなかったのですが、次回は、この方に連絡すればよいということが分かっただけでも、ありがたいことです。
写真が少なくて、編集がすごく楽です、笑。でも、記事としてはつまらないでしょうねぇ。すみません。
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2020/09/07(月) 00:00:23 |
ラツィオ・ロマネスク
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