2017年12月の週末旅行、ローマの古代から現代まで、その8
サンタ・マリア・アッスンタ大聖堂Cattedrale di Santa Maria Assunta di Anagni続きです。
係の人に怒られたりして、ちょっと情けない気持ちで待っていたら、やっと自分の予約時間となりましたので、クリプタに入りました。前回記事を見ていただくと分かりますが、こちら、撮影厳禁ということで、とても残念です。
本からの写真なので、あまりよくないですけど、クリプタ、こういう状態です。すべての壁面、ヴォルトはフレスコ画でおおわれ、床面はコズマさん大活躍のモザイク。「贅を尽くした」という形容がぴったりくるクリプタです。
もともと、秘密の場所にアクセスがあったと考えられているようです。というのも、往時、教会の宝物を置く場所でもあったため。ということは、限られた人しか入ることができなかったということになりますから、地下礼拝堂、という位置づけではなかったのかな。
サイズは8x19メートル。普通のクリプタを想像すると、ちょっと違うな、という広々感です。天上も高いし、クリプタらしさが薄いです。
三身廊に分割され、二列の円柱で分割されており、それら円柱はアーチを支え、21のヴォルトを支えています。すべてのスペースにびっしり、というのがなんかすごいですよね。空間恐怖なアラブ的勢いです。
これら写真は、古色蒼然な雰囲気ですが、実際は、色もかなりはっきりしていて、正直うるさいくらいですが、クリプタだけあって、うすぼんやりとしているので、うるさいながらも、ある程度の落ち着きは得られるかな。いや、私には、かなり過剰でした。
建築的な構造から、このクリプタと上の教会は、同時期に建設されたものとわかっているそうです。実際、教会建設の指揮をしたピエトロ司教が、このクリプタに、多くの聖人のレリックを祭ったとされています。サン・マーニョのレリックを中央祭壇に、サンタ・セコンディーナ、アウレリア、ネオミシアのを左祭壇に、そして、多くの殉教者のレリックを右祭壇。それだけのレリックを集めたということは、やはり力のある司教だったということなんでしょう。
床モザイクは、創建に遅れて1231年に、当時の司教アルベルトが、なされたということで、ピエトロさんの時代にはなかったようです。
ローマ地域には、このコズマさんモザイクが実に多いのですが、特に床の幾何学装飾は、かなり好きです。最近は、ハンコのモチーフとして、色々な図案を研究しているのですが、実際の図案をコピーしたりアレンジしてみると、その優れた装飾性がますます魅力的に感じられます。
壁面を覆うフレスコ画はこんなことになっています。
正確な年代を特定するのは難しいとされているようです。フレスコ画って、実際、どの時代のものでも、碑文や文書への記載など、明確な手掛かりがない以上、年代特定は難しい、いや、ほとんど不可能であるということは、聞いたことがあります。また、古いものであればあるほど、かなり修復だったり加筆だったりということも施されているために、さらに難しくなるのだと思います。
ここでは、研究者によって、二つの説があるのだそうです。どちらの説にも共通するのは、三人のマエストロがかかわっているということ。上の図の三色は、その三人の作品を色分けで表しているのです。
説1は、すべて1250年代ごろ。往時の司教が、ベネディクト派の三人のフレスコ画職人を呼び寄せたという記録があることに基づいた説。
説2は、そうじゃなくて、絵画装飾は、少なくとも二段階、二つの異なる時期に行われたもので、それぞれの隔たりは130年ほどあるという説。最初の時期、つまり、教会創建当時にされたものと、その後1230年ごろになされたものがあるということです(説1が有力らしいです)。
これは、入ってすぐの場所、上の図でいえば左下にあるもので、最初のマエストロによる作品です。
他のマエストロの作品と比べると、なんとなく時代が遡るような、ビザンチンとかの影響とかもあるような、なんかそんなことから、素人目には、説2押しとなります。これだけの規模のクリプタで、レリックまでかき集めたピエトロさんが、創建時に、何らの壁面装飾もしなかった、というのは、なんとなく違うような気がするんですよね。こういった装飾についても、きちんと段取りして、最初から決めていたのじゃないかと。
実際、この絵のテーマが、ピエトロさんを反映したものとされているので、その方が矛盾ないように思えますしね。
これね、ヒポクラテスとガレーノが宇宙の四要素について対話している図。なんかいきなり、来た~って感じしませんか。
この周辺に、ヒポクラテスによってあらわされて創世の理論の絵があります、この上のやつがそうだと思います。そりゃそうだ。宗教と、理論的な科学的な哲学っていうか、なんか相反するようなものの融合?
このマエストロ、宇宙というマクロコスモス、そして、人というミクロコスモ(上の写真)を表現するのに、プラトンの文Timeoティマイオス(宇宙創造から人類の誕生までを物語る壮大な書作)を使ったとされています。その本は、4世紀にカルキディウスCalcidioによってなされたラテン語翻訳によって、中世期にかなり広範囲に読まれており、非常に有名な著作だったんだそうですよ。
もうこの辺りの解説で、普段めったに解説なんか読まない私はぶっ飛んじゃいました。普通にクリプタでフレスコ画見て、プラトンとかヒポクラテスとか出てくると思わないじゃないですか。ディオマイオスなんて本、人生で初めて聞きましたよ、情けないですけど。そんでもって、すでに4世紀に、ギリシャ語からラテン語に訳す人がいて、当時から多くの知識人が読んでいた、という事実に愕然とするとともに、日本語でネット検索したところ、この翻訳本がきちんと日本語に翻訳されていたり、カルキディウス研究している人がいたりする事実に、さらにたまげた次第です。学問の世界とは、すごいものですねぇ。
ちなみに、なんでこんなテーマのフレスコ画があるかというと、もともとサレルノの学校で医師であったピエトロ司教が発注したのでは、ということなんですが、だとすると、やはり時代が遡るんじゃないのか?よくわかりませんね。
ちょっと脱線しますと、このピエトロさんってね、なかなかの人物。
将来法王グレゴリオ7世になるイルデブランド・ディ・ソアナIldebrando di soana付きの司祭だったのですが、その将来の法王が、その総務担当として、ローマに帯同したがったらしいです。つまり、切れ者だったのですね。
その後、前の記事でも書いたかもですが、アレッサンドロ2世により、1062にアナーニ司教に任命されます。それで、カテドラル建設をすぐに決めたわけですね。その資金調達のために、オリエントへの旅も辞さない勢いだったとあります。
どういうことかというと、1071年、法王の代理として、コンスタンティノープルへ最初のミッション。その際、医療の勉強経験を生かして、皇帝ミケーレ7世の病気を治したんだそうですわ。その翌年アナーニに戻った時には、皇帝から多額のお金を受け取り、それをカテドラル建設に生かすことができたということらしいんです。金儲けのために行ったわけではないのかもしれませんが、バチカンに尽くすことで、多くの予算を分捕ろうとしていたかもしれませんよね。
1097年には、十字軍にも参加しているようです。戦う司教ですな。精力的ですごいし、そのくらいの人じゃないと、カテドラル建設なんてできないのかもね。
長い脱線でした。
マエストロの話に戻りましょう。
最初のマエストロは、フレスコ画の大部分を描いたとされています。色分け図で、水色になっている部分が、彼の作品とされています。後陣、そして対面にある身廊のヴォルト、さらに中央身廊のヴォルトなど。12世紀のローマの絵画との関係性が顕著で、中世初期の傾向が見られるということです。
上は後陣の黙示録です。
おなじみの24人の老人軍団。羊に向かってかぐわしいグラスを高々とかかげています。
これは左の祭壇になります。聖母子、ビザンチン入ってます、風です。
二番目のマエストロは、装飾専門絵師、と呼ばれているとか。装飾的な内容は素晴らしいが、人物像はどうかというタイプ。1200年代初頭のローマ絵画に造詣があり、ほぼ間違いなく、サン・パオロ・フオリ・レ・ムーラのモザイク作業を行った折、ビザンチン文化のあるベネチアの職人と働いた経験があるとされているそうです。
下は、この人の作とされている聖櫃のストーリーです。
ヴォルトに丸く描かれていますので、もう半分はこちら。
確かに装飾アイテムがすごくて、きらびやかな絵です。人物像はいまいち、ということですが、どうですか。視線が泳いでたり、どの人も同じような様子だったり、定型的すぎるとかそういうことなのかしらん。ヘタとは思いませんけどねぇ。
三番目のマエストロは1200年代前半の人で、自然派的なテイストを持つ方。すでに、ルネサンス期初期のチマブエやジョットにも通じる新しい技術や表現力を発揮していると。1228年に、スビアコのサクロスペコで働いたと同人物であることは間違いないということですから、かなり特定できているのですね。
ほんの見開きの写真なんで、ちょっと変ですが、四人の聖人。
確かに、相当時代が来てるなって様子がありますよね。
まとめると、フレスコ画のテーマは、四つ。
世界と人の創生、サムエレ記にある聖櫃のストーリー、黙示録(主祭壇の周囲)。
四つ目のテーマは、地域の聖人伝説に割かれ、その犠牲をいとわない姿を描いています。地域の聖人に触れるというのは、なかなか憎い選択ですよね。
こんなところで、許されたし、自分。もうちょっと写真あるんですけど、どのマエストロで、内容はどうで、という解読が結構大変な作業で、もう無理…です、笑。
このくらいの知識を、訪問前に持てると、見ることがもっと楽しく奥深くなるだろうと思いながら、書いてきましたが、一方で、事前にあまり知識を持ちすぎて、そういう前提で見てしまうつまならさもあると思うので、やっぱり現場主義に徹して、できれば後付で少し勉強して、かなうならば再訪をするのが、わたし的には理想の楽しみ方となるかと思います。
それにしてもこのクリプタ、一回入ると、確か20分だったか30分だったか時間くれるんですけど、撮影もできないし、知識もないですし、そんなにいられるものじゃなく、確か10分強でさっさと出てしまった気がします。
出る前に、少し展示があります。
コズマさんのモザイク。ほんと、図案の参考になります。
このロンゴバルドらしい彫り物は、かつてあった説教壇の一部というようなことだったと思います。素晴らしいものだったんでしょうねぇ。
でも、下のは、ちょっとヘタじゃないかい?
そんなわけで、かなり長くなってしまいましたが、アナーニ大聖堂、これでやっと終了。やはり見所の多い教会だったということですね。時間をやりくりして、頑張って行った甲斐があります。
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2021/07/23(金) 14:11:50 |
ラツィオ・ロマネスク
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2017年12月の週末旅行、ローマの古代から現代まで、その7
サンタ・マリア・アッスンタ大聖堂Cattedrale di Santa Maria Assunta di Anagni続きです。
待ちに待ったクリプタの見学です。が、その前に、ひと悶着。というか、大失敗。というか、やっちゃいました。
本堂から地下に降りると、左にクリプタがあるのですが、まだ私の予約時間になっていないため、待ち時間に、右側にあるスペースを見学します。
サン・トマーソ・ベケット礼拝堂La cappella di San Tommaso Becketです。
地味なスペースですが、読みやすい解説があったので、うんちくを。
このトーマス・ベケットという聖人、結構あちこちで目にしますし、なんせ名前が明らかに英人なもので、ラテン系の名前の中では目立つので、目に留まりやすいです。当初は、ベケットって、なんか作家がいたなぁ、なんで聖人?とか思っていたくらい、私の頭の中では、なんか浮いている名前でした。
お名前通り英人で、ロンドン生まれの方で、カンタベリーの司教でした。
カンタベリーは、若かりし頃に英語学校に3か月通った思い出深い場所で、カンタベリー大聖堂も、毎日その脇を通っていたこともあり、なんとなくその名前を聞くと、ノスタルジックなふわふわに包まれます。
その時の滞在は短かったのですが、カンタベリーで仲良くなったイタリア人女子との縁が、今のイタリア暮らしにつながっているとも言えるので、そりゃまぁ、ノスタルジーというか、思い出にくらくらしてしまうような町なんですよね。そういえば、カンタベリー大聖堂を訪ねてきたダイアナ妃にも遭遇しました。っていうか、聖堂の出待ちをしたんですけどね。当時からミーハーだった、しみじみ。
でも当時は中世なんて、まったく興味がなかったので、実質4か月くらい暮らしたのに、ちゃんと聖堂を訪ねたのは1回だけ。なんと勿体ないことをしたものか。その後、一度は再訪したいと思いながら、いまだに果たせていない自分だけのお約束です。
おっと、思い出路線の脱線。年寄りくせ~。
そのトマス・ベケット、そのカンタベリー大聖堂で、頭を剣でかち割られるという非常に激しい殉教をした方なんですが、その死からたったの二年後の1173年2月2日、アナーニ近くのSegniという町で、時の法王アレッサンドロ3世が列聖したのだそうです。そしてまた、1174年4月に、同法王による正式な献納を受けるために、新しいカンタベリー司教がこの地を訪問。その際に司教は、殉教者サン・トマスのレリックを持参し、それは、現在宝物館に収められているそうです。
そういう地域的な偶然もあり、この辺りでは、この聖人信仰が根強いそうです。
で、やっと話がもとに戻るんですが、その時も、おそらくこの礼拝堂が、何らかの儀式に使われたのではないか、ということらしいんです。
で、さらに先に戻って、オレが何をやっちゃたかと言いますと、撮影ですね。
博物館入場の際に、地下はすべて撮影禁止ですからね、よろしくね、と念押しされたんですよ、確かに。でも、ここに至るまでは禁止じゃなかったんで、この礼拝堂に入った時、何も考えず、いとも自然に撮影を始めてしまいました。
で、数枚撮った後に、おそらくどこかに撮影禁止と書いてあったか、または、その念押しを思い出したか、あ、もしかすると、礼拝堂内に、カメラがあったかもしれません。それで、もしかしてやばいかも、と慌ててカメラをカバンに閉まったところで、係員が、文字通り駆け付けてきました…!
これにはたまげましたね。
撮影禁止に気付かず撮影して、怒られたことは北部で一回ありますが、それ以来の激しい対応でした。いや、駆け付けてきた方は、非常に穏やかに、撮影禁止と言いましたよね、と、怒鳴られるような状態ではありませんでしたが、かなり怒っている様子はあらわでした。ちょうどカメラも閉まったところだったし、そうだそうだ、礼拝堂内には撮影禁止の表示もなかったんですね、で、いや、禁止ってうっかり忘れてて、今、カメラ封印したところで、とかなんとかへどもどしながら、大汗で言い訳して、恥ずかしかったです。
お兄さん、ぷりぷりした様子で戻っていきましたけど、カメラでちゃんと見てること、そして、秒速で走ってきたこと、驚きました。でもカメラで監視しているなら、撮影くらい許してくれてもいいんじゃないか、このソーシャルの時代に、とは思います。今もまだ禁止なのかなぁ。
また、話を戻します。
この礼拝堂、非常に縦長、ウナギの寝床状態の4x14メートル。異教時代の寺院、おそらく、ローマ時代の古代寺院が起源と考えられています。ドーム型ヴォルトでおおわれ、内陣エリアの中央部にはプリミティブな祭壇があり、その周囲は石の腰掛となっています。床は入り口に向かって斜めになっている、とあるんですが、もしかして、祭壇で生贄とかそういう儀式をやってた名残だったりするのかしら。
上の写真でも分かると思いますが、壁や天井の全面を覆うフレスコ画は、かなり傷んでおり、それは、このスペースが長年にわたり、聖職者の墓地として使われていたことによるようです。単なる地下室扱いで、ケアされなかったということなんですね、きっと。まぁ、とんでもない派手なクリプタが目の前にありますから、どうでもよかったのかな。とはいえ、1999年にフレスコ画が修復され。一部はそれなりの美しさとなっています。でも、傷み具合を考えると、修復なのか、限りなく再建に近いのか、若干疑問は残ります。
祭壇後ろの壁は、中央部に、玉座に座ったキリスト、その右手に聖母と二人の聖人、左手にサン・トマーソ・ベケットと他二人の司教。
お顔が、一筆書きみたいにシンプルでかわいいので、ちょっとアップしてみますね、キリストと聖母。
右壁の、一並びは、一連のベネディクト派の聖人たち、サン・シルベストロ、サン・グレゴリオ、サン・レミージョ、サン・レオナルド、サン・ベネデット、サン・マウロ、サン・ドメニコ・ディ・コクッロ。これらの近くに、サン・クリストフォロの巨大な姿。
サン・クリストフォロは、大抵縮尺が他のフィギュアと違うので、見た目でわかりますが、他は、名前が記してるのかな。
同じ壁だと思うのですが、これは十二使徒と思われます。
おそらく傷みが相当激しかったと思うのですが、天上のヴォルト部分には、創世記のストーリー。闇から光が生まれるシーンから始まり、アダムとイブの創造、原罪、楽園追放、カインとアベルなどが描かれている。そして、父祖アブラハム、イサクの犠牲、そしてヤコブのストーリー。このヴォルトは、すべて一人のマエストロの手によるものと考えられているそうです。
左壁には、新約聖書の場面。受胎告知、お誕生、マギ、教会献納などがみられる。入り口のわきには、信者が礼拝堂を出る際に正面に見るところだが、左側に最後の審判、右側に謙譲と傲慢を表す寓意画。
これはどこにあったものか、不明。やけにはっきりしていて、ここだけは漆喰のおおわれていて無事とかそういうのなのか、または確信犯的に上塗り再建か。
正面のすっとしたマリアちゃんたちとは違って、ねっとり系の再建くささがあります、笑。
「ここのフレスコ画は、クリプタとさほど変わらない時代のものだが、作者の手はかなり劣る。しかしながら、その芸術的な教育の高さを語るものはあり、純粋かつ民衆の想像力を物語るものがある」とか言っちゃってる研究者もいるそうです。確かにね、若干いい加減感はあふれているけど、そして時代は下る感もあふれているけど。
ハプニングもあり、なかなかクリプタにたどり着けませんねぇ。
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2021/07/20(火) 22:15:15 |
ラツィオ・ロマネスク
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2017年12月の週末旅行、ローマの古代から現代まで、その6
サンタ・マリア・アッスンタ大聖堂Cattedrale di Santa Maria Assunta di Anagni続きです。
やっとこさ入場しますが、最大の目的であるクリプタは、博物館という扱いになっていて、要は入場料を払って見学する仕組みになっています。
博物館はクリプタだけではなく、ちゃんと見学コースがあり、クリプタについては、入場の際にアクセス時間を決める必要がありました。わたしは15時過ぎに行ったのですが、私の前に団体さんが入ってしまい、その人たちのクリプタの予約が15時半ということで、次の16時からにした方がいいよ、と勧められたので、そういうことに。正直、どういう仕組みになっているのかも不明でした。
カテドラルの博物館、要は宝物館のようなものですから、あるものは、こういうやつ。
美しい職人技ですし、最近ではハンコのモチーフの参考にもなったりするし、興味が全くないわけではないんですが、まぁ、急ぎ足で眺める程度で済ましちゃうタイプの展示物ではあるわけです。
が、ここのコレクション、かなりすごくて、布物の展示に、こんなに食いついたのは初めてかも。
通過しながら横目で見る状態だったのに、そんないい加減な視線をもとらえて離さない美しい色や光沢に、思わず立ち止まって、ガン見。
そして、展示キャプション見て、13世紀のものであるというので、のけぞるほど驚いたんです。だって、保存状態すごく良いんですよ。おそらく、退行した色合いが、さらに良い雰囲気に感じるのであって、オリジナルはもうちょっと鮮やかな色合いだったのかもしれないんですが、黄金やシルク、もう贅を尽くされた刺繍の様子が迫ってくる勢いっていうか。
これらは、祭壇を飾る布だったようで、全体にツリー・オブ・ライフというのかな、Albero della vitaをテーマにした刺繍が、本当に素晴らしかったです。北欧の方のものでした。
一方こちらは、パレルモ産。
赤いシルクに金糸の刺繍。前回お話に出たボニファチオ8世の祭服だったとされています。これも13世紀のものです。
この美しさは、このちっちゃい写真では、絶対に伝わらないと思うのですが、13世紀の刺繍が、ここまで美しく、という驚きと、その細かさやモチーフの面白さ、刺激的でした。
これも、13世紀の飾り布で、イタリア中部産。
この頃って、建築やそれにかかわる装飾は男性のお坊さんが主にやっていたわけですが、刺繍もそうだったのか、またはこれほど繊細な仕事だから、女子修道院も多くできるようになってきた時代から、女子の修道僧の仕事として増えたのか。
照明は暗いし、ガラス越しだし、撮影してもうまく取れないのは分かっていたのですが、バカみたいな枚数を撮影していました。いやはや。宗教って、本当に芸術には貢献していますね。
結構な数の展示の後、サルバトーレ礼拝堂Cappella di Salvatore。
この礼拝堂は、教会建築の終わりに、ピエトロ司教の望みによって作られたものとされていて、ピエトロ自ら、サルバトーレ及びサン・ベネデットに捧げるものとしたそうです。ここは、司教のプライベートの礼拝に使われ、創建当時は、内陣に直接通じる階段があったそうです。
なんか教室みたいな様子になっているのは、絶賛修復中で、その作業台とかがたくさん置かれていたんです。
で、一旦本堂に出ます。
地味な本堂です。
三身廊で、それぞれに後陣があるタイプ。構造はロマネスク時代往時のままとはいえ、装飾的には、それ以降の手が入っていて、すでに13世紀半ばに、中央身廊や翼廊部分は、ゴチック様式が持ち込まれていたんだそうです。前回までの記事でも書いたように、セレブ御用達ですから、資金豊富だったであろうことも、おそらく背景にあるでしょうね。
で、その勢いで、17世紀初頭には、バリバリのバロック装飾が持ち込まれたようです。ローマはバロック、すごく普及しましたから、はやりだったんでしょうし、やはり資金…。
我々中世ファンにとって幸いなのは、イタリアは、中世創建時の姿に戻そうという流れが割とあって、ここも、19世紀から20世紀にかけて、できる範囲で、バロックの余計な装飾が取り除かれて、一部中世の様子が取り戻されています。
オリジナルでは、すべての壁にフレスコ画があったようですが、取り戻されたのはわずか。
数少ない生き残りが、この聖母子。写真悪くて申し訳ないですが、リンゴのほっぺでかわいいですよね。
この後、クリプタに降りるのですが、そこのフレスコ画同様、この本堂の方でも、複数のマエストロの絵画があったのだろうと想像します。今残されたわずかな絵画も、明らかに傾向が違いますよね。
柱は、何もないかと思ったら、ひっそりとこんな方々がいましたね。
ほぼ、ワンパンマンですね。
そいから、こんな人も。
今年の干支の方。行ったときは干支じゃなかったですけどね、2017年、自分の年をひっそりと待ってた時期ですね、笑。
床や壁、多くの場所のモザイクは、もちろん例のコズマさん一家のもので、この床は1230年ごろとされているようです。材料は、ローマ時代の建物から持ってこられたものを再利用しているそうです、こんなモザイクすら。ある意味エコな時代ですよね、あるものをとことん利用する。ローマのものを中世で再利用して、今まで来ているわけですから、このモザイク、テッセラによっては2000年の歴史を背負っていることになります。
モザイクは、持ちがよくて、考えたらそれ自身がエコです。ここまで長い時間保たせようとは考えていなかったと思いますけれど…。これを作った13世紀の職人さんが、21世紀でもなお、黄金のテッセラが燦然としているこの様子を見たら、たまげるのでは。いや、もちろんそういう気持ちで作ってたからね!と胸を張るのか。
内陣にある司教座ですが、これは大理石職人ピエトロ・ヴァッサレットの作とされています。ローマのあちこちの教会で活躍した著名マエストロです。ここでもコズマさん一家のモザイクが美しいです。
司教座の左にあるくねくねは、全然ちゃんと写真撮ってなくて、我ながら観察眼ないんですが、おそらくイースターのろうそく立てだと思います。これも同じマエストロの作品で、こういうくねくねにモザイクというやつは、ローマで多くみられます。このくねくねのねじりん棒状態が、何ともセクシーというか、魅力的ですし、モザイクのモチーフとか色合い、とても好きです。
というわけで、クリプタだけが目的で、博物館見学に入ったのですが、意外と展示に食いついてしまいまして、長くなってしまいました。
2021/07/18(日) 15:09:34 |
ラツィオ・ロマネスク
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2017年12月の週末旅行、ローマの古代から現代まで、その5
サンタ・マリア・アッスンタ大聖堂Cattedrale di Santa Maria Assunta di Anagni続きです。
上は、最初にアクセスした広場から教会を望んだ写真となります。手前に、今インフォメーションセンターとなっている建物があり、邪魔ですが、その後ろに後陣があることとなる位置関係です。
解説を読んでいて、この面について、「南西部分」とあり、あれ?となりました。上の写真で、左側に後陣があるとすると、この壁は北となるからです。改めて地図を確かめると、この教会、東後陣ではないのでしたよ。後陣はほぼ北向きで、ファサードは南、で、ここは南西向きとなっているようです。ローマ市内の教会などは、向きがかなりバラバラになっていますから、起原の問題、創建後の町の成り立ちの問題など、様々な理由で、後陣が東向きではないケースは結構あるように思います。とか言いながら、普段はあまり考えることもなく、自動的に東と思い込んでいるんですけどね。
方向感覚のある人なら、お日様の位置とか時間で、なんとなく方向が分かるんだと思いますが、私の場合、自信をもって堂々と宣言できる方向音痴ですから、解説を読んでなければ、ここだって完全に東後陣と思い込んでおりましたよ、笑。
さて、ということで、南西壁ですが、ここは、後代の手が最も入っていて、複雑な構造となっています。
上の写真で、白い構造物に囲まれて、鎮座している像が見えると思います。この像の下のあたりに、本来は、入り口があったようです。後陣側にも階段があったように、この広場と教会の関係は、緩やかな上り坂になっているため、この扉口前にも優美な階段があったようですが、19世紀になって壊されたとか。蛮行…。
さて、上の方に鎮座されているのは、法王ボニファチオ8世。14世紀の法王です。なぜ法皇様がアナーニに?と思いますよね。
ちょっと歴史を紐解きますと、アナーニは、一時、歴代法王が好んで滞在する保養地だったそうなんですよ。
もともと、先史時代から定住があったというアナーニは、気候的に優れていたことが、まず第一の理由だったらしいです。また、異教時代から、神聖な土地とされていたことで、ローマ帝国も、またその後のキリスト教も、その神聖さを尊重していたことも理由みたいですね。
そういうことから、往時のセレブの多くが、別荘を構える土地の筆頭でした。東京でいえば軽井沢的な?いや、那須御用邸的な?
そういう前提の中、1062年アナーニの司教に選ばれた同地出身のピエトロ・ディ・プリンチピ・ディ・サレルノが、それまでの古い教会を壊して、20年かけて、今あるカテドラルを建設しました。小さな町なのに、立派な教会を建設したのは、立地や気候の良さから、そこに至るまで、ローマ以降も、ゴート、ビザンチン、ロンゴバルド、フランクなど、多くの民族の支配を受け続けてきたことから、いざというときには住民が逃げ込めるだけの規模のものを作るという意図からだそうです。
ピエトロさんの話は、追って続けますが、ここで触れたかったのは、法王のことです。そんなわけで、12世紀から13世紀にかけて、歴代法王の多くが、ここで時間を過ごしたのですが、この、今鎮座されているボニファチオ8世が、どうやら襲われるとか事件に巻き込まれたそうなんですね。そのために、ここで滞在した最後の法王が、このボニファチオさんだった、ということらしいんです。
実際、どういう構造だったか、よくわかりませんが、上の写真で、右側にある後陣のような円筒形の部分の下には、当時のメイン扉の装飾らしきものが。
朽ちちゃって、見る影もないやつらですが、こんな人たちがファサードまもっていたということは、チャーミングアイテム満載だった可能性ありますね、オリジナルは。そういや、後陣の上の方にも、愛らしいやつら並んでたしね。だとしたら、失われてしまったのは、残念ですが、法王たちが次々来たということは、それだけお金も落ちて、だから色々手を入れてしまったんでしょうねぇ。痛しかゆし。っていうか、ロマネスク的には、どうなんだろう?
そして、回り込むと、この何とも地味なファサードに出会います。
建材には、これ以前の教会のものなども使われているようです。まぁ、おなじみなことですね。石というのは、本当に劣化しないんですね。
真ん中の扉に注目です。地味ですけどね。
これは、マトローナの扉と呼ばれていて、でも意味不明なんですが、笑、アーチへの装飾的帯、平面化した浮彫技術で実現されたもの。古典的な芸術的モチーフ及びビザンチンの影響を受けた要素が使われている、と。拡大すると、意味がちょっと分かるかな。
アーキボルト、二重に美しい浮彫が施されていますね。そして、内側の色違いの石によるアーチも、かなり好みです。
で、右側の下にね、私もみんなも大好きな人たち…。
めっちゃいいですよね、このお二方。これ、先ほど出てきたピエトロさん絡みのものなんですって。
カテドラル建設中のピエトロ司教。馬車、いや、牛車で移動中に、オオカミに襲われて、牛がピエトロを守るために、八つ裂きにされちゃったんだそうです。ピエトロさんは、怒って、その後オオカミに車を引かせたということになっているんだそうです。
これら浅彫りって、過去のものなんでしょうけれど、組紐とか、お干菓子系のやつ、すごくきれいにされていて、うっとりです。
それにしても、牛車って、優雅な感じ。一方で、八つ裂きとか、オオカミ車とか、なんかこういう伝説って、激しくて面白いんだよねぇ。何て言っては不謹慎ですけれども。
ファサードの前には、完全に離れて、でっかい鐘楼が堂々と建っています。
壮大だけど、ロマネスクの典型的な開口部の工夫によって、優美です。五層で、一番下の開口部が一連、そして二連、上部は三連。三連は、微妙に幅が違うんですよね、それで、塔全体が軽快に、ほっそりと見えるようになるんですね。本当に繊細ですごいもんだと思います。
カオルレの円筒の鐘楼と同じような位置関係かと思いました。こういうのが、なんでこういう位置関係なのか、よくわからないんですが、結構あるような印象。イタリアは、鐘楼と本堂は一体化しないことの方が多いし、置かれる場所が結構フリーダムですね。
外だけで2回もやるとは。脱線多すぎなせいですね…。
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2021/07/16(金) 18:18:58 |
ラツィオ・ロマネスク
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2017年12月の週末旅行、ローマの古代から現代まで、その4
前回の記事で訪ねたサン・ロレンツォは、確かテルミニ駅近くから、バス1本で行けたのですが、なんか帰りは違う路線じゃないと、テルミニに素直に戻れないとか、そんな話だったような記憶があります。
いずれにしても、昔に比べれば、かなり良くなったとはいえ、インフラ関係が比較的整っているミラノから来ると、ローマのバスは、いまだにかなりわかりにくいと思います。
それでも、どのバス停でもバス待ちの人は結構多いし、実際にバスは混雑しているので、本当に市民の足なんでしょうが、時間に余裕がない場合に使いこなすのは、厳しい。この時も、ここで待てばいいんだろうな、というのは分かったものの、時間が読めないので、結局歩き出して、とうとうテルミニまで歩いてしまいました。
歩いた方が早い、っていう発想が原始…。でもね、今ミラノのバス停は、ほとんど、あと何分で着くっていう表示があるので、待つ決断をしやすいのですが、時刻表もなく、あと何分で着くか分からないバスを待つのは、リスク高いんですよね。30分待ってこなかったら、予定が確実に狂うので。
というわけで歩いて駅に行き、もちろん駅前のホテルに行くわけではなく、直接、次の目的地に向かいます。
一旦ローマを出るんです。短い週末旅行なのに、予定はびっしり。時間の無駄遣いが許されない旅です、笑。
行先は、アナーニAnagniという町です。
ローマから、ローカル線で約1時間で目的の駅に着き、そこから町までは、ローカル・バスという旅になります。
最近は、こういう公共の交通機関を使う旅、あまりしないですが、車で動くのに比べると効率は下がるものの、移動に緊張したり、時間に繊細になったり、特に、人とのふれあいっていうか、大げさじゃなく、交流するのは、楽しいものです。
この時も、駅前から乗ったローカル・バスの運ちゃんが、すごく親切で、ほんの短い会話だったけど、なんだか楽しくて、こういうのが面白かったから、イタリアが好きになって、気付いたら30年住んじゃったんだよなっていう原点みたいなところあるんで、時々はいいもんだなと思ったり。
それにしても、漠然とした記憶ですが、ここのローカル路線バス、とんでもなく古かったなぁ。
最寄り駅は、確かにアナーニという駅名なんですが、イタリアではありがち、実際の町村は、はるか遠方の丘の上、というパターン。丘の上ということもあり、15分から20分くらいはかかったでしょうか。
そんなわけで、旅気分というんでしょうか。遠足を楽しむ状態で、一番前に座って、運ちゃんとしゃべりながら、楽しいバスでした。
この週末、お天気は今一つ不安定だったのですが、腫れ女健在で、ほとんど雨に降られることはなかったのです。でも、この日はどんよりって様子で、昼過ぎなのに薄暗い状況ながら、ヤコブの梯子?車窓から、なんと4本も同時に見えて、びっくりの美しさでした。
運ちゃんは、カテドラルなら、ここで降りて、それ、そこを行って、と道までしっかり教えてくれて、去っていきました。
車なら、ピュッと目的地に到着ですが、公共の足で動くと、たどり着くまでに物語ができちゃいますよね。
サンタ・マリア・アッスンタ大聖堂Cattedrale di Santa Maria Assunta di Anagni(9-13/15-18。クリプタは博物館見学ルート内で、見学時間が30分毎の入れ替え制)。
トップにある写真が、町の入り口となるのですが、そこからカテドラルには自動的に行ってしまう感じの小さな旧市街です。でも、広場に面しているのは、地味な側壁で、あれっ?って感じになります。
右側が教会の一部で、正面の、ちょっと縦長の四角っぽい建物に、ツーリスト・インフォメーションが入っています。
私がここについた時、教会はまだ閉まっている時間だったので、まず、このオフィスを訪れて、資料をもらったりしたんですが、よさげな本があったので、つい一冊購入しました。カテドラル情報が大半を占めるとはいえ、アナーニの全体情報というか、そういうタイプの本で、確か10ユーロでした。でもね、教会に入ったら、そちらでは、アイテムごとのガイド本が、確か各5ユーロで売っていたと思います。
紙ものは、現地でしか入手できないと思うので、手ごろなものはつい入手しがちですが、正直、読むか読まないか不明なところもあり、なるべく容量の少ないながら意味のあるものが欲しいし、お値段は安いに越したことがないので、こういうのって、結構悔しさが強いです、笑。
とはいえ、今ちゃんと読んでいますので、結果的に意味があるので、よし、ですけどね。
まず、外側から。
最初にアクセスしたツーリスト・インフォメーションの建物のすぐ後ろにあるのが、この、なんというか、四角い箱から、ポコっと飛び出したような後陣です。建物全体からいうと、なんとなくサイズ感は小さいようにも思えます。背は高いですけれども。
ちょっと独特な感じですよね。
規模は違うけど、トスカーナのファルネータとか、あとどこだったかな、マルケのどっかにも、こういうタイプの後陣、あった気がします。普通は、半円のこの後陣としての構造がどどん!って感じになるのに、なんか変に取ってつけたような不思議な存在感のタイプ。
解説によりますと、ここに、この教会で使われたロンバルディア様式が明らかになる場所とあります。この建設を担当したのは、ここよりもちょっと南、地域としてはローマと同じラツィオになるのですが、モンテカッシーニという大規模な修道院を拠点とする土地の職人さんたちとされています。その職人さんたちは、もともと南部出身の人たちらしく、ロンバルディア様式がどうして採用されたのか、その辺は不明。当時先端的なものだったのか、単純に、北部出身の職人さんがいたか、または、その地場の職人さんの中に、北部でも仕事をした人がいるのか。
ロンバルディア様式は、遠くスペインまでもいっているわけですから、当時のそういった知識や技術の普及というのは、今のようなメディアがないことを考えると、驚異的です。ローマ帝国は帝国を広げることで、己の文化や法律を広げていったわけですが、中世期では、ローマの遺産である街道などによって、情報や流行や技術が国を超えて広がったわけですね。強制ではなく選択的な普及とでも言いましょうか。いずれにしても、歴史を感じるところです。
さて、ぱっと見かなり地味目ですが、丈夫の方は、ブラインドアーチで、装飾的アイテム満載。
地上からこんなに遠い場所なのに、細部まで繊細な彫り物がたくさんあって、相変わらず職人さん、腕が鳴る的な仕事をしています。
この、シナモンロールみたいなフリーズ、久しぶりに見た気がします。フランスではあまりないタイプなのかな。これも、実にかわいらしいんですが、その下のアーチの部分、いわゆるアーキボルトですが、ここにも、それぞれに組紐とかのモチーフが飾られているのは、驚きです。
もしかして、昔の人は目がよくて、今の人よりももっと良く見ることができたなんてこともあるのかしら、と思ったりします。
脇の小さな後陣は地味ですけれど、窓のところに、こんなデザイン的な素敵な浅彫りがあったりします。これはセンス良いですね。
この後陣側に、扉がありますが、解説では、その扉から広場に降りる階段の優美さに言及していました。
緩やかな坂道を、階段状にした、階段というよりは坂道に限りなく近い構造。なるほど、こういうのって時々あって、確かに上り下りが楽なような気はしますが、Cordonata(イタリア語)という単語は初めて認識した気がします。やはり、たまにはちゃんと本を読むもんですね。何て言いながら、すぐ忘れるんですが。
続きます。
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2021/07/11(日) 10:53:09 |
ラツィオ・ロマネスク
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2017年12月の週末旅行、ローマの古代から現代まで、その3
シリーズ開始直後から、いきなり停滞しています。
昨日、ワクチン二回目接種完了、いよいよ夏休みが本格的に身近に迫ってきているんです。でもね、ここに来るまで、実際どうなるかは分からなかったところもあり、なかなか本気で夏休みの計画しにくかったんですよ。さすがに3週間前くらいから、ちょっと調べだしたりしていたんですが、ここにきてにわかに本格化していて、今週などは、平日も夜間はホテル探しとかしておりまして、せっかくネット接続していても、なかなかブログの時間もなく、という状況です。
去年も似たようなものでしたが、今回の計画よりは、目的地がもっとシンプルだったんで、計画スタートは遅くとも、チャンチャンとあっという間に決めることができたんですが、今回、イタリア内でもかなり遠方に遠征すること、そして、目的地と決めたものの多くが、訪問の状況を確認する電話番号を探すのも大変、という苦行になっておりまして、なかなかかなり大変なんですわ。
ま、いつもの言い訳です、笑。
サン・ロレンツォ教会Basilica di San Lorenzo fuori le Mura、続きです。
前回、もともとあった古い教会部分について、書きました。その古い部分は、現在内陣となっているということなわけですが、今の教会は、そこから鼻面を相当伸ばしていて、オリジナルのほぼ倍の長さとなっているようです。
こちらの床も、コズマさん一家の仕事のようですが、時代は新しそうで、すり減り方も少ないですね。
こちらは、ファサード側からの中央身廊。
ちなみに、柱については、前回でも触れましたっけ?再利用ということは書いた気がしますが、このバジリカに並ぶ22本の円柱は、この近所にあり、中世辞典ですでに廃墟となっていたらしいコンスタンティヌスのバジリカ、つまり遺跡ですよね、そこからぱちって来たものだ廊です。それぞれ大理石ということなので、大変高価なものですし、ここだけのために作ろうとしたら、大変な作業となりますから、再利用というのはなかなか賢い選択です。
写真でも、実際に見た感じでも、識別できなかったと思いますけれど、大理石でも、グレーから白、黒、赤、また、いくつかについては、チポッリーノと呼ばれる種類の、おそらくグラデーションが入っているような大理石だと思うんですが、そういう多色のものだということです。
再び外に出ます。
このたたずまい、何を思い出したかというと、まずはサウンド・オブ・ミュージックの、トラップ一家が逃げる途中で立ち寄った修道院内にある墓の場面ですね。ハッピーエンドとわかっていても、何度見てもドキドキするし悲しくなる場面です。その次に思い出したのは、スポレートの駅と町の間にあったと思う教会。なんかやはりナルテックスとかあって、こんなようなたたずまいではなかったか。当時は、中世関係、まだ駆け出しで、なんだか、スポレート始め、ウンブリア、再訪したいなぁ、としみじみ。
おっと、お得意の脱線。
まずは、右奥に見える鐘楼。
ちょっととってつけた感がありませんか。
それもそのはず、これね、オリジナルな町の防護壁の一部だったものらしいんですよ。
12世紀から13世紀にかけて、この近辺が要塞化され、壁と塔が建設されたようなのですが、おそらく地域の政治が落ち着いたルネッサンス期に、壁のほとんどは取り払われたのですが、その名残として、この塔が鐘楼として生き延びたということです。これも、長い歴史所以の姿、ということになりますね。
ローマは、誰でもがローマの遺跡を訪ねるために行く人がほとんどなわけですが、中世という切り口でも、ローマの跡やその後が見え隠れして、歴史の重層というか、どの時代の名残も余さずあるというのか、何度言っても、絶対に何かしら発見がある町だと思います。そういう意味でも、永遠の都なんですよね、間違いなく。
ちなみに、この教会、名称に、Fuori le Mura、壁の外という風になっていて、もともとローマ市の外にあったもののはずなんで、時期によって、もしかして、市外だけと、東京都下みたいな位置づけだったりしたのかしら。単純に壁のすぐ外だったのかな。
位置はこういう場所です。この一帯は、かなり道がまっすぐな様子で、近代に発達した地域だろうな、とわかりますよね。この教会ができたころは、本当に何もない場所だったと想像します。墓とか、教会とか、カタコンベとか、そんな場所です。
さて、この鉄柵の中、ナルテックスとなりますが、ここ、かなり装飾がされているんですよ。
13世紀のフレスコ画が、かなりびっしりあります。保存状態も良好です。
ローマって、南だし、夏の気温はかなり暑いのですけれど、海も近いせいなのか、湿度はミラノより低くて、朝晩はしのぎやすいのです。そういう気候が、フレスコ画にも良いのではないかと考えます。
理路整然と絵巻物感がすごいですね。フィルムみたい。
13世紀といっても、最後の四半世紀、ほとんど14世紀にかかるくらいの時期のものだそうです。教会がささげられたサン・ロレンツォ、そしてサント・ステファノのストーリー、そして、皇帝エンリコ2世のストーリーが描かれているようです。
雰囲気が、同じローマの、サン・クアットロ・コロナ―ティでしたか、あそこの素晴らしく色鮮やかなフレスコ画を彷彿とするところがあります。あそこの絵も、確か13世紀だったと思います。
いかにも漫画的でわかりやすいこういうタイプの描き方がはやった時代があったのかな。いずれにしても、これだけ残っているのはすごいです。特に、完全な室内ではないわけですしね。
とはいえ、ここね、第二次世界大戦で、被害を受けたらしいです。ローマ、爆撃しちゃったんですねぇ、なんという大胆な。何百年何千年と生きてきたモノたちを、平然と破壊するなんて、やはり戦争はいかん、としみじみ思ってしまいます。
しかし、そういうものを復元する執念、欧州の文化はすごいものがあると思います。ここも、おそらく破片を保管しておいて、じっくりと復元したのではないか、と想像します。アッシジのサン・フレンチェスコが地震で壊れたときのように、どの砕片も捨てられることなく、ジグソーパズルのように、根気よく復元されていった映像などをご覧になった方もいると思いますが、そういう気の遠くなるような作業、当たり前のようにやる人たちっていうか。
石の文化ってことになるんでしょうかね。
ナルテックスには、回廊同様に、石の碑文とか、こういった石棺も置かれていました。これは、6世紀のものだそうで、ブドウ狩りがテーマの、すごく粘着質な感じの彫り物が施されています。石棺にブドウ農家テーマっていうのは珍しい気がしますね。財を成したブドウ農家が、特注したということなのかな。
なかなか充実して、リベンジ大成功だった、と改めてファサードを眺めます。
立派な構造ですよね、このポルティコ構造。これは、ローマあちこちで活躍したVassallettoの作とされているようです。この方、または工房なのかな、当時もっとも著名な大理石職人の一人。ローマの、特に巨大教会系には、ほぼかかわっているのではないでしょうか。
でね、これ見てて、おや、と気付いたんです。アーキトレーブのところに、美しい帯が走っているじゃないですか。その中に。
パッと見、ありがちなコズマさんモザイクなんですが、ちょっとだけ、なにこれ!と思わずハート目になってしまうモザイクが見えたんですよ。
かなりサイズは小さくて、この時オペラグラスを持っていたと思いますが、ここまでは見えませんでしたし、写真でも撮影できたか自信がなかったのです。でも、結構よく撮れてましたね。
金色が残っている方は、かなりキラキラしていたので、もしかして新しいものかとも思ったのですが、この残り方から言えば、やはりオリジナルなんでしょうね。コズマさんのモザイクは後付なんだと思います。
コズマさんは、幾何学系のモチーフですから、残っているものを再利用して、うまくフリーズに仕上げたのかと思われます。にくいですね。これは、感激しました。
ということで、なんとなくこれ!という大物はないのですが、どのアイテムにも歴史の重層があるという、実にローマらしいという言える教会でした。
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2021/07/09(金) 18:35:39 |
ローマの中世
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2017年12月の週末旅行、ローマの古代から現代まで、その2
サン・ロレンツォ教会Basilica di San Lorenzo fuori le Mura、続きです。
この教会、前回でも歴史に触れたように、相当長い歴史がある場所のため、構造も非常に複雑というのか、一見、何がどうなってるの?という様子になってしまっています。
上が、内陣部分になるんですが、なんだか不思議じゃないですか?私など、最初に訪ねたときは、本当になんでこんなになってるのって感じで、わけがわかりませんでした。
あまり良い写真が撮れていないのですけれど、上のは、割とわかりやすいかも。
この内陣部分が、おそらく、オリジナルの教会部分のはずなんです。といっても、創建当時は、今はクリプタとなっている聖人の墓所を覆うような形で建てられた小さな教会だったはずです。
それが、バジリカ様式になったのが、上の写真で、内陣部分を囲うような形で、壮大な柱が建てられているところなんでしょうね。ローマ市内にあるサン・サビーナとかを彷彿とします。
この柱、すごいですよね。左右6本ずつ、並んでいるようです。柱に支えられているアーキトレーブは、2世紀から3世紀ごろ、つまりローマの建物に使われていたものの再利用ということ。やりたい放題ですよねぇ、まったく。
柱だって、もちろん、ローマのものでしょう。
こうなると、とても中世ではなく、ローマ、なんならギリシャの眺めですよねぇ。
この、内陣の持ち上げとか、チボリオとかは、11世紀から12世紀にかけてのものらしいです。
チボリオは、四本の蛇紋岩によって持ち上げられる構造で、1148年、パオロ・ロマーノの四人の兄弟によると記されているそうです。この家族は、サン・クレメンテやサンタ・クローチェ・イン・エルサレム教会でも活躍した大理石職人なんだそうです。ちなみに、上部は、後代に交換されたもの。
蛇紋岩の独特の色と、ローマ風の柱頭というシンプルな装飾です。もともとの屋根構造がどうなっていたのかは不明ですが、あまりごちゃごちゃしたものではなかったのではないか、と勝手に想像します。
チボリオのお足元は、Cosmatiモザイクの床となります。
ローマに来ると、このコスマーティはおなじみですね。この一家の作品が、あっちにもこっちにも見られます。ここでは、床以外にも、チボリオの後ろにある司教の椅子が、コスマーティでキラキラです。
1254年のものだそうです。コスマーティは、13世紀に華やかな作品が多く残っているように思います。
金色が入って、妙にきらびやかで、軽薄なイメージもあるんですが、このモザイク装飾、個人的には結構好きなんです。
近くから見ると、華やぎは同じでも、すごく職人的な仕事である様子もわかり、ただ見とれてしまうっていうか。
かつては、後陣とかにも、残されていたらしい壁モザイクは、今では、内陣手前にある勝利のアーチの部分に残されているだけ。それも、あまりケアされていない様子で、ほとんどくすんでしまっています。
これ、暗いっていうのもありますけれど、掃除したら、もうちょっと見えるんじゃないかと思うんですよ。これじゃモザイクだかフレスコだか、まったくわかりませんよね。
図像は、中央に玉座のキリスト、肥大にサン・パオロとサン・ステファノ、サン・イッポリート、そして右に、サン・ピエトロとサン・ロレンツォ、彼らと一緒にペラージョPelagio(6世紀に教会を創建した皇帝)が、教会のモデルを寄進しているものとなっているようです。
下の部分は、修復されたんでしょうか。華やかな宝石や花のモチーフです。
歴史が長いし、色々の手が入っているので、各所に、これはいつのもんだろうなぁ、と目に留まるアイテムがあります。
宝探しのような楽しさがあります。
下の、鋳鉄の門は、多くの教会で目にするアイテムですが、これって結構曲者。っていうか。ぱっと見、さほど古いものに見えないケースがすごく多いんですよね。
でも、そう思っても、多くが、中世のものだったりすることが多いんです。で、毎度びっくりします。
ここのはどうかわかりませんが、おそらく古いんじゃないのかな。
これ、作りがよいと、絶対に錆びたり朽ちたりしないらしいんですよねぇ。まさに職人技満載アイテム。
これは、クリプタの柵だったようです。
きらっきらなクリプタの様子。でも、下に降りたら、かなり地味な…。
すり減った床モザイクが、つるつるして良い感じでした。
続きます。
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2021/07/04(日) 15:23:01 |
ローマの中世
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