アブルッツォ週末ロマネスク修行(2018年11月)、その20
ロショーロ・ディ・マルシRosciolo di Marsiの、サンタ・マリア・イン・ヴァッレ・ポルクラネータ教会Chiesa di Santa Maria in Valle Proclaneta、続きです。
正面は、こんな様子。正直、何らの魅力も衝撃もないですよね。
後ろの方はどうかというと、こんな感じとなります。
後陣も、私は特段好きではなく、外観的には、すっごく頑張ってきた割には、意外と大したことないじゃん、という印象に尽きるかも。
この地域、直近では2009年に地震に見舞われたのですが、実は歴史的にも、それなりの頻度で、繰り返し地震があったようです。2009年の前は1915年で、その時はかなりの損壊があったようですし、前述した本でも、中世のころから、100年前後のリターン期間で地震が起こっているようなんですよ。
イタリアは、もともと南部の方に地震がある国で、それは知っていたのですが、自分がイタリアに暮らしだしてから、比較的最近に集中して、ちょっとずつ震源地ずらしながら、中部の地震が定期的に続いているので、だからなんとなく、南部ではなく中部に頻発しているからいやだな、そのうち北部にも来るかもしれないし、などと考えていたのですが、そういう記録を見ると、最近が、たまたま、繰り返しの時期に当たっていた、ということになるのかもね。
まぁ、そのように度々地震に見舞われているので、あちこち損壊しており、修復や再建がなされているということだと思います。
さて、後陣ですが、写真に見られるように、カクカクしたスタイルで、購入した本では、装飾部分はロマネスクが採用されたプレゴシックとされています。
後陣の筒状の部分は、三段に分割されていて、一番下の段の柱頭は、最も繊細な装飾があり、ビザンチン風となっています。真ん中部分へとつながる帯は、アーカンサスのとげとげで、柱頭の上には、ライオンまたはそれ以外の動物フィギュアが載せられていたようです。損壊してしまって、全体が残っているのはなかったかと思います。
上の方は、装飾が単純化していき、シンプルな植物モチーフとなっています。
一番上部の軒下部分ですけどね、現地ではもちろん、今見ていても、本読まなきゃ気付かなかった。
アーチ状になっているけど、半円のと、クローバー上のが交互になってるのね。
これって、よくフランスで見かける、半円ととんがり三角のブラインドアーチが交互になっているやつを彷彿とします。イタリアのロマネスクでは、多分ないよね?
ということは、やはりゴシックのテイスト、ということになるのかな。
作られたのは、1400/1450年と、かなり後付になるようです。
つまり、かなり新しいですけど、教会の創建は古いし、他の部分は?
ということで、ファサード側に戻ります。
ファサード側には、ナルテックスともプロナオスともされている前室スペースがありまして、その入り口の右側柱部分だったと思いますが碑文がはめ込まれています。
すごいはっきりした彫りですが、もうね、古文書というだけで、私はダメ。ラテン語らしいので、もうちょっと分かってもいいんじゃね?と思うんですけど、ダメです。「この作品は、有名なニッコロNiccolo’の手によってなされた」とあるそうなんですが、最初の「H LOPVS EST CLARI MANIBVS FACTV NICOLAI」とあるところかな。
じゃあ、ニッコロが誰かというと、よくわからないそうですが、いずれにしても、スポンサーが地元の有力者であり、ベネディクト派がいたことから、それらの人々に、もともとあった教会を再建依頼されるに足る高位専門建築家であったはず、ということになっているようです(聖職者であった可能性もあり)。
このマエストロが、自らの装飾的知識のみならず、この地域または他の土地からも、優れた職人や技術者を連れていたらしいです。
この時代、この土地では、モンテカッシーニ修道院が権勢を誇っており、そこに連なる地域の修道院教会には、多くの共通する装飾が見られることから、同じようなメンツが、そこかしこで働いていたのでは、となっていますが、これは、実際に現地を回れば、だれでも納得する話と思います。
話が前後しますが、諸説ある中で、多くの研究者が同意している現在の教会は起源は、以下となっているようです。
「最初の教会は、おそらく2世紀に、異教の教会の上に建てられたもの。その後8世紀から9世紀に、修道士または隠遁の聖職者によって建てられた教会。さらに、10世紀、ローマ風のバジリカ様式の建物に、棟梁ニコロによって立て替えられ、11世紀及び12世紀に、今でもみられる装飾的な部分が付け足されたもの。」
分厚い本=資料がふんだんにあると、色々興味も沸いて来ちゃって、楽しいけれど、まとめるのが大変です。
次回、衝撃の内部です。
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2022/02/28(月) 17:30:29 |
アブルッツォ・ロマネスク
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アブルッツォ週末ロマネスク修行(2018年11月)、その19
アブルッツォ三日目、いよいよ佳境というところですが、相変わらずの悪天候続きです。朝食と準備の最中は曇りだったのですが、高速に乗った頃、降り出しました。最初は降ったりやんだりだったのが、どんどん激しさを増して、泣きたくなりました。
ただね、山の向こう、つまり行先方面に、ちらちらと晴れ間が見えたりするんで、晴れ女の自負もあり、気持ちのどこかに期待があるんですけれど、うっかりするとすぐにざんざんと信じられないくらい激しい降りになるので、期待しない振りをしながら走りました、笑。
そして、雨がひどい場合は、またもやプランBに変更せざるを得ない可能性もあるので、教会の訪問には事前アポが必要でしたが、ちゃんとアポ取らずに出発しています。
キエーティからすぐに高速に乗りました。同地滞在中、この高速は行ったりきたり、本当にお世話になりました。見ての通り、高速ですが、山を縫うような道なのでカーブも多く、そして、トンネルも多いんです。建設に、ずいぶんお金がかかった高速の一つかもね。
でね、晴れ女全開ですよ。
トンネルを一つ潜り抜けるたびに、雨の降りが弱くなってくるんです。そして、最後、5キロくらいの長いトンネルを抜けたら!
トンネルであれほどわくわくしたことはないだろうなぁってくらい、期待して走りましたが、まさに期待を裏切らず、トンネルを抜けたら、青空でした!叫びましたとも!イエーイ!!!!!
大げさでなく初めて目にするアブルッツォの青空でした。山が映えます。
高速を降りて、Roscioloに向かう途上で、目的の教会に電話しました。よくは覚えてないのですが、事前に電話して、実際の訪問直前にまた電話で、とかいう合意をしていたんだと思います。なんせ、標高千メートル超える土地にある教会で、すでに11月ですから、決めかねる事態はままあるはずで。
鍵番さんは、すぐに私も行きます、ということで、うっきうきで先に進みました。
Roscioloの村に入り、すぐに表示を見つけたので、それに従って進むと、かなりの田舎道で、心配になりました。犬の散歩の人がいたので尋ねると、大丈夫、道は合ってるよ、もっと先だよ、と言われましたので、本当に?と思いながらも、恐る恐る進みます。
こんな道ですよ、心配になりますよね。
でも、確かに少し先に、駐車場がありました。
その時点で、教会の姿は見えましたし、まぁちょっとあるけど、徒歩でいいでしょ、と思い、歩き出そうとしたまさにその時、すごい勢いで車がやってきて、「電話くれた人?教会まで、車でアクセスできるから、車で来なさい」と言われ、慌ててついていきました。
正直大した距離じゃないし、徒歩で行った方がわくわく楽しいアクセスができたと思いますけれど、そういう時に意固地にはなれませんよねぇ。
サンタ・マリア・イン・ヴァッレ・ポルクラネータ教会Chiesa di Santa Maria in Valle Proclanetaです(要事前予約、電話0863-516201)。
事前に調べたときは、かなりお年を召した女性が、鍵番ということで、そう理解していたのですが、私が訪ねた2018年11月には、どうやらその方は引退されていたようで、教会の鉄扉に掲げられた連絡先も、以下となっていました。
366 5902125(携帯電話番号)Mario Marini
以前の鍵番さんはCostanzaさんとなっていますが、電話番号は同じなので、もしかしたら息子さんかもしれないし、単純に村の住人ってことかもしれません。
メモには、以下の番号も記していて、ちょっと詳しいことは分からないのですが、もしかしたら、役に立つかもなので、記しておきます。
340 1202081 Virginio Marini
余談ですが、この時もまた、ワンコのお出迎えでした。
この方が、鍵番さんですが、彼の犬ではなくて、いつもうろうろお散歩しているようです。この子も含め、この日もまた、あちこちでワンコの熱烈歓迎でした。あまりの熱烈ぶりに、ワンコ苦手なことを忘れてしまうほど、平和な土地でしたねぇ、本当に。
ここでは、鍵番さんが熱心にガイドしてくださったのですが、耳がお悪いようで、ちょっと会話が厳しかったです。結構立て板に水状態で話されたので、残念ながらメモを取る余裕もなく、すっかりスルーしてしまいましたが、本も販売されていたので購入しました。結構詳細に色々記されており、いつもよりずっと資料が多いので、ちょっと長めになるかもしれませんので、面倒な方は、すっ飛ばしてくださいね。
今回は、本を参照して、周辺のことなどに触れてみたいと思います。
本は、地元の研究者っていうか、教区の聖職者がものした本でかなり分厚く、上質な紙に写真も豊富で、限られた部数だろうに、これで15ユーロは超良心的だと思います。
2000年に最初の版が出版され、その後2005年に再版されたものの、売り切れとなったため、2013年5月に、加筆修正した版が発行されたものですから、最新版といってよさそうです。
土地の歴史に、相当なページが割かれているのですが、これはちょっと読み切れなそうです。建築や装飾的なアイテムについては、自分の撮影した写真と照らし合わせて、見てきたいと思います。
実は、これまた結構なページを割いて語られているある事件、結構ドラマチックで、ちゃんと読んでしまったのです。何だと思いますか?
日本だと、あまりピンとこないかもしれませんが、この方、前法王のベネデット16世Benedetto XVIです。なんと、この方が、お忍びで訪問され、その際案内した方が、この本の著者なんでした。
その訪問の顛末が、レポートとして綴られているのですが、それが面白いのです。お忍びってよく使う表現ですが、法王レベルで、本気でお忍びってあるんだ、という驚き。2011年8月のことですが、訪問の数日前に、VIPの訪問計画を知らされ、その時点ではそれが誰だかは明かされず、しかし、尋ねるような空気もなく、その数時間後に下見に来た人により、VIPは法王であることを知らされます。
必要最低限の人以外に、訪問のことを知らせないよう言われ、鍵番さんら少数の方だけに事実を知らせます。この中に、先のCostanzaさんの名前も出てきますから、彼女も法王に会えたのですね。
当日、時間通りに法王がやってきて、法王の兄弟である聖職者さんも同行。この教会側は、著者の方に加えて数人だけ、そして、おそらくバチカンが手配したガイドの女性で、教会のツアーが行われ、法王は祈りを捧げたそうです。
報道関係も不在で、地元新聞記事のコピーも掲載されていますが、訪問の二日後となっていますから、知らされていなかったわけですよね。
8月でも、おそらくここを訪ねる酔狂な旅人は、あまりいないでしょうけれど、もしいたとしたら悲劇ですよね。訳も知らされずに、おそらく手前で止められていたでしょうから。
この法王は、通常終身で務める法王職を、自分の健康に不安があるので、ということで、ご存命中に、現法王フランチェスコが誕生したわけですが、今でもお元気のはず。現法王も、ベネデットの前の法王も、人気がすごくて、どこに行くにも人が騒ぎ立てる印象があり、本気のお忍びなどできないような印象があり、このベネデットさんが、それらお二方に比べると、一般的な人気は若干低かったとはいえ、それでも法王ですからねぇ、こんな風に本気でお忍びできるなんて、ちょっとびっくりしたし、そういうことをやられていたイメージもなかったので、そこもびっくりしたんですよね。お兄さんまで同行しちゃってさ。
意外と、そんなことやって、一人悦に入って、楽しんでいた人なのかと思ったら、今更親近感を覚えてしまいましたわ。
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イタリアぼっち日記
2022/02/27(日) 17:14:46 |
アブルッツォ・ロマネスク
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アブルッツォ週末ロマネスク修行(2018年11月)、番外編その2
前回の続きとなりますが、二日目と三日目の二泊した宿、ちょっと大変でした。
Via col Vento
Strada Madonna della Vittoria 91, Chieti
悩みに悩んで、場所はいまいちだけどレストランがあるから、と二泊連泊で予約したんですけどねえ、到着した途端に、レストランがない、ということを告げられまして。
そもそも、キエーティという町が、丘の上にある町だということはおおよそわかっていて、ここはその郊外だから、ちょっと坂道だろうな、でもレストランあるから、帰ったら出る必要ないし、と安心していたわけでね。
上の地図の、左の方に高速があって、そこからホテルまでぐるぐる山道なんです。ホテルは、キエーティの町への途中にあるんですが、そこから町までは1キロほどの道のりで、最初は緩やかですが、町の手前から結構な坂道になります。民家などがポツンポツンとある程度の寂しい道なので、歩くのはちょっとはばかられます。
「街までは車なら5分もかからないし、行けば店も沢山ある」とか、地元民の若いオーナーさんは、何でもないように言いますけどね、あなた、私の運転技術知りませんでしょ?と反論しましたけど、仕方ないですから、意を決して、到着した途端に、とるものもとりあえず出かけました。というのも、用心して早めに到着したため、まだわずかに日が残ってましたのでね。
しかし、ダメでした。町に入る前からかなりの急坂攻撃で、入ったら入ったで、もう暗くなっており、街灯は少ないし、どこに行ったらよいのか、見当もつかず、ただただ、後続の車に追立られるようによろよろと走り、なんとか一旦路肩に停めて、もうその時点で、気力パワー5%程度しかない状態。
最後の気力を振り絞ってナビに従ってホテルに後返り、その日は、朝食の時もらったバナナと水で、19時くらいにはベッドに入ってしまいました。
前夜とお昼にちゃんと食べといてよかった、と昼のレストランとの出会いに感謝感謝。
このホテル、そういうわけで高台に孤立してあるのです。あさイチ、そのロケーションのポジティブな点に気付きました。
美しいアブルッツォの風景が広がって、これは眼福。
朝ご飯はちゃんと普通にあったので(おいしいとは言いませんが)、昨夜はひどい目に合った、と相変わらずオーナーのお兄ちゃんに愚痴をたれながら、いただきました。
ちなみに、霧がなければ、夜景も絶景と言えましょう。
正直言って、悪い宿ではなかったんです。なんせ、一泊朝食付きで30ユーロ。部屋は清潔で必要なものはそろっているし、オーナーはとてもフレンドリー。ただ、ブッキング・コムに、レストランがあるかのように紹介していることだけが気に入らなかったんです。
宿泊後の評価でも、その点は文句を書いたところ、オーナーから反論が入りましたから、いくら安くても、自分にとって重要な点はあいまいにしてほしくない、という私の気持ちは伝わらなかったようです。実際、満足している方がほとんどのようで、評価は高かったと思います。
二日目は、ホテルに戻る前にスーパーに立ち寄って、お惣菜やら飲み物を調達して帰りました。ドライブ旅行は、昼間飲めないので、晩酌が楽しみなんですけど、しかしこの時、ワインオープナーはおろか、部屋食べ想定のフォークなども持っていません。
さて、どうしたもんか、と思ってワインの棚を見たときに、イタリアワインの幅広さに感謝しました!私の大好きなランブルスコは、発泡性なので、シャンパンのように、手で開けられるんですよぉ。
安宿で、洗面所にコップもありませんでしたので、車の中に山ほど転がっていた水のペットボトルをグラス代わりにして、おいしくいただきました。
大学生の合宿か?レベルですねぇ、笑。
お惣菜は、サラダとかハム類、アラブ式に手指でいただきました。ほほほ、一人だから気楽なもんです。
行き帰りの時間の無駄もなく、食べ方を工夫したりして、結構満足な夕食でしたよ。
本編のアップに先立つ三日目ですが、この日は、教会のオープン時間に左右されたり迷ったりで、相当行ったり来たりが続いたんですよね。ランチもどうかな、と思ったんですが、意外とちょうどよい時間に程よい町にたどり着き、ランチにありつくことができました。
Il Buongustaio
Piazza I Maggio 8, Bussi sul Tirino
目の前が停め放題の駐車場、というのも、私にはありがたいレストランでした。この時は、前夜食べてませんからね、やはりボリュームのあるパスタで行きたくて、再びキタッラ。
キタッラということで選んだと思うのですが、今検索してみると、このレストラン川エビ料理推しみたいなので、期せずして、推し料理をいただいたみたいです。川エビ、つまりザリガニですよね。町の名前にもなっているティリーノという川が、店のすぐ脇を流れているようで、そこで取れるのではないでしょうか。
ザリガニって、食するところはわずかですが、良い出汁が出るんですよね。美味しかったです。そして、前日よりは少なかったかと思いますが、それでもかなりなボリューム。もちろん、この日はペロリ、でした。
美味しかったので、本当はセコンドも行きたかったのですが、昼間は飲めないから寂しいのと、時間がもったいないので、残念でしたが、パスタだけでさらりと。
番外編としては、もう一つ、絶対に紹介しておきたい場所があります。
実は、トイレ休憩で立ち寄ったバールなんですけどね。
店中、ルパン三世なんですよ!
Albeという村から、先のBussiに向かう道のどこかで、おそらくAlbeから高速に乗るまでのどこかなんですけど、グーグルマップとか検索で探したけれど、残念ながら、見つかりませんでした。高速に乗るまで、結構迷ったんで、どこをどう通ったのか、不明なんですよね。
ちょっと感動しちゃって、どうしてこんなことになってるか尋ねたら、単にオーナーさんの趣味、ということで、コーヒーを入れてくれた人は淡々と、どっちかというと迷惑的他人事でしたわ、笑。
日本のアニメ、いや、今では漫画がすごい人気ですが、ここまで堂々と愛を叫ぶのは、やはりオタクですよ。アルベって、すごい田舎ですから、なんかすごいなって。
では、本編に戻ります。
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イタリアぼっち日記
2022/02/24(木) 15:43:34 |
アブルッツォ・ロマネスク
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アブルッツォ週末ロマネスク修行(2018年11月)、番外編その1
前回までで、二日目が終了している短い旅なので、ここらで番外の、実用情報を記しておきます。
この時って、宿泊場所には結構悩みました。行先が、結構ばらけているし、かといって、三泊同じ場所だと、走行距離が無駄になりそうだし。その上、ある程度場所を決めて検索しても、お手頃な宿が非常に少なくて。
最終的に、二か所に宿泊しましたが、宿泊した土地については、正しい選択だったと思います。でも宿そのものについては、そのロケーションも含めて、若干の失敗がありました…。
最初の宿は、大成功でした。
La Locanda di Mariella
Via Umberto I 95, Poggio Picenze, L’Aquila
ぺスカラの方から、一山超えて、ラクイラ近くの、本当に小さな村のロカンダです。ロカンダというのは、レストラン併設、というか、レストランが宿屋もやっている、みたいな形態の宿で、ドライブ旅行だと理想的なんですよね。
シーズンオフ、ということもあったかと思いますが、ダブルのシングルユースで40ユーロと安かったです。
お部屋はとってもかわいらしいテイストでした。でもね、家族経営で、最初のコンタクトは、ほとんどしゃべらない超無口の、すっごく昔の農民、的な印象のおやじで、このチャーミングは部屋は想像できませんでしたわ。
この日は、ミラノから到着した日で、ランチの時間なんかなかったから、すっごい空腹でたどり着いたんです。冬の旅は、日が暮れてしまうので、一日が必然的に早く終わってしまって、宿にも、18時過ぎには着いていたのではないかしら。
最初に尋ねたのは夕食の時間でしたが、20時ごろ、と言われて、相当落ち込みました。空腹に加えて、ひどい眠気で、ヘタするとバッタリ眠ってしまいそうだったのです。
あ、そういえば、そんな空腹の中で、いや、空腹だから感覚が鋭敏になって気付いたのかしら?恥ずかしい話ですが、運動靴の臭さにびっくりしたことを、今思い出した~!
こっちって、やはり基本日本よりは乾燥しているんですかね?意外と靴が臭くならないんですよ。ブーツでも、外側を磨く以外のお手入れなんてしないんですけど、におわないし、運動靴なんて、ほとんど洗わなくても、全然困ったことないんです。
それがこの時は、なんだかひどかったですねぇ。土砂降りでびしょぬれになりながら、車の暖房で半端に温まり、を繰り返して、生乾きの連続攻撃の結果とかですかねぇ。いやはや、呆然としました。何で、移動中気付かなかったのか、ということにも。
替えの靴などないので、洗うわけにはいかないし、どうしよう、と思ったところ、幸いにも小さい石鹸が、ダブルの部屋だけに二つ、アメニティとして置いてありました。それでこすったりした後に、一個ずつ靴に入れといたら、翌朝は相当ましになっておりました、笑。思春期の男子か?!ですよね~。
また、くだらないことを、笑。
そんなことで何とか時間をつぶし、それでも我慢できずにレストランに降りたところ、19時45分くらいだったかな、いいですよ、と言ってもらえて。
すっごく昔風の、いわゆる古き良き時代のレストランって様子でしょう。ゴッホの椅子も、真っ白でノリが聞いたテーブルクロスやナプキンも。イタリアのレストランで好きなところは、結構場末のレストランとかでも、レストランと名の付く以上は、ちゃんと布のテーブルクロス、あるんですよね。
お勧めのアンティパスト(前菜)をいただくことにしました。アンティパストって、イタリア飯では一番好きなんですよね。そして、まずは半リットルの赤!
ワインのカラフまでかわいいですね。
しかし、こんなの絶対こぼして、真っ白のテーブルクロスにしみついちゃうじゃんね。でもさ、テーブルクロスで染みついたのって見たことないから、どんだけ強力な洗剤で洗うのか、と思っちゃう。考えたら、布クロスはエコじゃないし、このコロナの世の中ではそぐわないものになっちゃったかもねぇ。
それでさぁ、アンティパストなんですが、16ユーロというお値段だったし、沢山料理の名前が書いてあったので、色々来るとは思ってたんだけどね。
冷たい普通な感じのから始まって、ま、16ユーロだし、これじゃ済まんよな、と思いつつ、いただいていると。
なんか来るし。
あったかいとか冷たいとか、そういうレベルじゃなく、とにかくどかどか来るし。
多分、一人でも二人でも、量は一緒だったんじゃないのかな。器の関係とかで。とにかくさ、もうテーブルに乗りきらないくらいのものが来ちゃって、アンティパストじゃないのよ、すでに。
セコンド(主菜)、それが無理なら、せめてドルチェ(デザート)行きたかったけど、とても無理でした。半リットルのワインは、大変美味しくいただきましたけど、魚あり過ぎ。
メニュー見ると、地元の食材ばかりで作られた地元の料理って様子で、すべてが口にあったわけじゃないけど、満足感は半端なかったです。地産地消的な、キロメートル・ゼロ的な、そこでこそ味わえるものって、いいですよね。
お値段的にも、しめて23ユーロはお得感ありました。
朝はさすがに遅めで、朝食は8時。イタリア人が大好きな甘いものばかりでしたが、それも古き良き宿屋のデフォルトなので納得です。
二日目も、ランチは無理かなぁ、という状況だったのですが、前回、セッラモナチェスカにたどり着くまでにとんでもない道を通過せざるを得ず、その直後、山の中で、まさか、こんなところにレストランがあるって、ありえないだろう、と目を疑う出会いがありました。
Taverna Con Fumino
C da Tratturo 23, Manoppello (PE)
だってさ、こんな道を行ったら、カーブの先にいきなりあったんです。
びっくりするよね。
で、一瞬迷ったけど、こんなところで出会うんだから、これは食べとけってことだろう、と思って、停まりました。駐車場も出かかったから、多分トラックの人とか、お仕事向けのお店みたいでした。
記録によれば、13時半ごろに到着したようなので、一応まだ食べられるか確認したところ、「いいけど、何人ですか?」
その後、急ぐしパスタだけ頼んだところ、「パスタだけ?」
感じ悪いとかじゃないんだけど、なんかすべてに戸惑いがある店でした。おそらく、外人、それも東洋人が一人で来るなどということはないはずだから、純粋戸惑っていたんだろうなぁ、と思いますけど、その、隠さない困惑感が、結構面白かったので、記憶に残っています。
パスタはキタッラを頼みましたが、盛りが強烈でした。
キタッラは手打ちの太麺で、昔シエナのピチが大好きだった私、初めてどこかで食べて以来、ファンなんです。ピチは、シエナ以外でおいしいのを食べたことはないんだけど、キタッラはどこでもおいしい。
しかし、そもそも太くてしこしこボリュームのある麵なので、これはすごい量ですよ、見た目以上に。日本の感覚なら三人前かな。パーティ料理で、テーブルに一つ的な量です、笑。
トマトソースは、いかにも家庭料理の味で、かなり薄め。おともに出された唐辛子入りオイルを多めにかけていただいてちょうどよい感じでしたが、半分も食べられず。
帰りに、「おいしくなかった?」と心配そうに言われちゃったんで、違う違う、私は胃が小さいから、というと、安心していました。
エスプレッソを頼んだら、ドルチェ付き。
地元のお菓子で、アブルッツォ風フェッラテッレFerratelle Abruzzesiというものらしいです。ゴーフルみたいなサクサクした甘い薄焼き。美味しかったです。
パスタと水とカフェで10ユーロと、ミラノから行くと、安いです。
ここまでは良かったんです。
しかし、この後二泊する宿がねぇ。
ちょっと長くなりすぎるので、一旦切ります。
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イタリアぼっち日記
2022/02/23(水) 12:47:03 |
アブルッツォ・ロマネスク
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アブルッツォ週末ロマネスク修行(2018年11月)、その18
以前の記事にもちょっと書いたかと思うのですが、この時、連休を利用してアブルッツォに行こうと思ったのは、インスタグラムで知り合った人の写真に触発されたところ大なのでした。
過去に、ホームページやブログを通じて、多くの日本人ロマネスクラバーと知り合う光栄を得てきたのですが、一度くらいは、欧州向けの発信をしてみようと思い、インスタグラムは、英語とイタリア語に限定したんです。そういう環境で、知り合った中に、アブルッツォ出身在住のLさんがいらっしゃいました。
中世全般の研究を趣味でされていることから、アブルッツォの中世教会の写真も多数アップされていました。そのため、何度か情報の提供をいただき、もし、私のアブルッツォ訪問が実現したら、お会いしましょう、ということになっていました。
以前言及したように、旅した期間、天候がかなり不順だったこともあり、私もざっくりとしか行程が決められず、実際、毎日毎時、プランB発動という有様。Lさんの方も、連休だったことから外出予定などもあり、事前にどこでどのようにランデブーするか、ということが決められない状況でした。
彼の方は、前回のセッラモナチェスカをランデブー場所と考えていたようですが、この日も、行程はかなり行き当たりばったり。同地見学直前にやっと連絡が取れたことから、次の目的地で会いましょう、ということになりました。
そこは見学先としてはピックアップはしていたものの、どちらかと言えばすでにゴシックなので、どっちでもよい場所ではあったのですが、Lさんはゴシック推しの方で、ぜひご案内したいと言ってくださるし、時間的にも場所的にもはまったので、向かうこととしました。
マノッペッロ・スカロManoppello Scaloのサンタ・マリア・ダラボーナ教会Chiesa di Santa Maria di Arabona(毎日7時半-12時、および16時-18時)です。
確か丘の上の住宅街のような場所にあったと思いますが、目の前の駐車場で車を降りると、ここでは前回のちびくろにゃんこに代わって、小型のワンコが駆け寄って歓待してくれました。
わたし、ワンコは非常に苦手なんですが、ここアブルッツォの旅では、とにかくどこでもここでも人懐っこい方々が、愛情全開の様子で寄ってくるので、ワンコ苦手なことを一時棚上げの日々でした。ワンコにしても、飼い犬だと思うんですが、首輪してなかったりもするし、それでいて親近感この上なしで、田舎ということなんでしょうけれど、ほのぼのする土地です。
で、ほんの5分足らずで、件のLさんが来まして、感動ってんでもないですが、初めてのリアル・ランデブーとなりました。彼は、インスタで顔見世もしているし、やっていることからわかるお人柄みたいなものが、実際にお会いしてもそのまんまだったので、初めて会ったような気がしませんでした。
で、いきなり中世ガイドという、なんだか不思議な世の中ですよねぇ、笑。
ちょっと不思議な構造となります。
上の図で、上部のBとある方が祭壇、つまり内陣となるのですが、反対側、つまり本来ファサードまで続くはずの身廊が、ほぼないも同然。これは、ありがちですが、資金が尽きた、ということらしいです。
そういう点に関して、Lさんが説明してくれて、それは面白かったので、記しておきますね。と言っても、真面目でよゐこの方々は、そんなこと知っとるわい、という知識になるかと思いますので、っていうか、ここまじゴシックで、写真もそそられないと思いますので、ロマネスクだけ興味がある方は、読まないでもいいかもね。
・修道院は、まず修道士の居住空間である僧房部分から作られるため、ここでも、僧房及びそこへ続く部分が、最も古い部分となる。
なるほど!
上の図でいうと、右側の階段の先が僧房となっているようです。
確かに、この辺りに、ちょっとロマネスク・テイスト?的なものがありました。
・僧房ができたら、次は祈りの場が必要になり、それは僧房とダイレクトでつながっていなければならない。祈りは、朝から晩まであるため。
なるほど!
だから、階段でつながっているんですね。
そういえば、昔の僧房をホテルにしている場所って、いくつかありますが、イタリアでは、教会もそのまま残っているというのは記憶にないなぁ。
スペインだと、パラドールに転用して、というのはあるけれど、数は少ないですね。レイレとかカルドナ。あ、再訪したいですねぇ。
・フレスコ画は、13/14世紀の、地元画家によるもので、もともとここにあったもの。聖母子図で、子犬を膝にのせているが、当時は小動物をカイロ代わりに実用品扱いしていた習慣が、表されている。
え~、カイロ代わりって、知りませんでしたわ。全然タイプでもない絵ですが、私には衝撃的事実だったので、あえて載せるわけなんです。
本当にそういう色々なことをお話しするのが楽しそうで、こっちもゴシックなので本来の趣旨とは違うんですが、そういうお話って面白いから熱心に聞くでしょ、で、ますます熱が…。って感じで、沢山興味深い話を伺ったのですが、私の呪われし海馬のおかげで、後刻思い出せたのはその程度でした。すまん~。
せっかくなので、おそらくその時聞いた話にもあったと思う説明を読みました。
で、いきなり、「教会は、ぺスカラの谷に、13世紀初めに創建された。」とありまして、え、丘の上だったよね?と、自分の海馬機能への疑惑がさらに…。
でも、間違いなかったわ。
全体として谷地形なんだろうけど、ここは、ちょっと上がっている場所。修道院だから、人里離れているもんね。
ローマ時代にもローマ神に捧げられた寺院があった場所らしいので、水があるとか神聖な場所だったらしいです。水がないと修道院は難しいもんね。
修道院は、1200年代初頭に、シトー派修道士によって創建されたそうです。
シトー派がここで出てくるとは思いませんでしたが、この修道院、シトー派の建築をイタリアで実践したということでは、大変重要な意味を持つようです。
シトー派って知ってるけど、あんまり興味ないから、ちゃんと読んだりしたことはなくて、なんとなく知ってるベースでとどまっています。多分読んでもすぐ忘れちゃう。
なので、もしかすると過去記事でも同じようなことを調べて書いてるかもしれないんだけど、お許しあれ。
シトー派の立役者は、クレヴォーClairvauxの司教ベルナルドさん。11世紀から13世紀にかけて、フランスのブルゴーニュ地域で、その規則に従って実践されたのが、シトー派建築というやつなんですね。ベルナルドさんは、「教会における豪奢さを非難して、生き様や信仰、そして、宗教建築までも、清貧思想への方向転換擁護者となる。その新しい思想が、修道院においても、修道士が農地で働き、祈り、写本を作成し、音楽や芸術品その他を作り出すことができる理想的な共同体である居住地であるという考え方をもたらしたのだ。」そうです。
箱は清貧でよし、美は自分たちで作りだすんだ、的な?
思想的なことは、どうせわかりませんので、深入りしたくはないですが、清貧思想に基づいて、建築まで決めるというのは、なかなかわかりにくいことです。
いずれにしても、このアブルッツォの教会は、完璧とはいえないまでも、そのシトー派建築様式を実現した建物だったそうです。
この開口部の感じって、確かにシトー派っぽさ全開ですよね?
隅切り部分っていうのかな、壁の厚みに、本来施されていた装飾要素一切なしで簡素な厚みだけですっきり。
でも、バラ窓だけには装飾的要素を残したのですね。これは、何か意味がありそうです。
天井のリブ構造や、円柱を角柱を囲むような束にするのも、シトー派様式らしいです。
シトー派というよりも、フランスっぽいなぁ、と単純に思ったりします。
あ、とんがりアーチもそうですよね。
そういう細かい部分すべてが、きっちりとシトー派建築規則で作られているんだそうですよ。
やっぱ、シトー派って、つまらないなぁ、って思ってましたが、なんか歴史的なそういうこと読んだら、今面白く記事を書けています。
聖人辞典に、シンボルが白ワンコ、という言及があったので、もしかして、カイロ代わりのワンコには、裏の意味があったのかな、とかうがった見方もできたりして?
本来、先に延びるはずだった身廊部分は、こんな様子で、当初から壁で終わっていたみたい。
13世紀後半にはかなりの権勢を誇り繁栄しまくったそうなんですが、没落もあっという間で、1400年代早々に修道院がいなくなって、16世紀には活動完全停止ということ。繁栄した時代には、教会を完成させるという計画もあったのだろうに、なぜそれがなく終わってしまったのかも興味深いところです。
僧房方面は、20世紀に一般家屋になって、売り出されたようです。今もそっち側は建物あるから、普通に住んでる人いるんだろうな。かなり田舎で不便そうな感じ、ありますけどね。
御退屈様でした。次はロマネスクに戻ります。
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イタリアぼっち日記
2022/02/22(火) 17:12:32 |
アブルッツォ・ロマネスク
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アブルッツォ週末ロマネスク修行(2018年11月)、その17
セッラモナチェスカSerramonacescaの、サン・リベラトーレ・ア・マイエッラ教会Basilica di San Liberatore a Maiella、続きです。
正面に戻って、ファサードから。
とてもシンプル。
こういう、つけ柱的なものがおそらく装飾なんでしょうね。こういう、幾何学風味の入ったファサードって、マルケで、すごく似てはいませんがいくつかあったような気がします。
私がつけ柱ラバーということは、長く見てくださっている方には周知かもしれませんが、つけ柱は、側壁派です。好みというのも、確たる理由なく、色々ですよね。
一見、装飾性が非常に薄い様子ですが、よく見ると、上部のアーチの垂れ下がり部分に、ちゃんと装飾的な彫りものがあったりはします。
結構でかいんで、スケール感からすると、装飾が小さい。
側壁の方にも、ちゃんとあります。
基本、「信条はシンプル・イズ・ベスト」って主張を感じますが、下手な手ではないですよね。しっかりとデザインされたものを、その通りに彫れる腕のある職人さんが彫った、というものに思えます。
でも、小さいんだよ、なんせ。
さて、再びファサードに戻ります。
内部の三つ後陣に呼応するように、三つの扉があり、装飾は、これもそれぞれかなりシンプルです。
中央と向かって左は、植物文様の浅浮彫。
アーキボルトも、扉脇も、似たようなモチーフの浅浮彫。どうやら、棕櫚のバリエのようです。
おそらくですが、アーキトレーブにも、本来は何かあったんじゃないでしょうかねぇ。と思ってしまうのは、向かって右手の扉口が、こんな様子だからです。
扉両脇と、アーキボルトは同じモチーフと思われますが、アーキボルトに、ライオンちゃん浅浮彫があるんです。
棕櫚のモチーフは、デザイン性が高いですが、このライオンちゃん、どうですか。
わたしはかなり好き。すっきりした線彫りが何とも潔し。表情も、善なのか悪なのかってわからなさがいいし、ハイタッチみたいな前脚合わせの前足の素朴な彫りが、結構つぼります。
これも、どっかでこういうの見たなって思うんだけど、最近は、そういうのがすぐに思い出せないのが、おばさんっていうか、記憶力的には本格老人です。フランスのどっかだった気がするんですけど、どなたか、思い浮かびますか?
そもそも、単なる私の記憶の錯綜という可能性も高いですけどね。
ちなみに、私が見た解説では、このライオンについて、「シンメトリーでバランスの取れたポジショニングだが、その見た様子は、異常に小さい頭部などデフォルメが施されている。これは、神々の世界と物質的な世界の間のアンバランスを象徴している。」とか、やけにうがったことが書かれていましたけど、そうでしょうかねぇ。
中に入りましょう。
内陣側からの、この写真が一番全体がきれいだったので、内陣からファサード側の様子を載せます。
見ての通り、中央身廊の一部と内陣は、美しいコズマさんモザイクでびっしり。保存状態も良好です。これは、もちろん13世紀以降、コズマさんの時代に施されたもので、教会本体よりも後となります。ローマ周辺及び以南の教会では、コズマさんモザイク床との出会い確率高いですが、本当によく普及したもんです、こんな七面倒で金のかかる床面。それだけ、教会が儲かっていたということなんだろうなぁ。
モザイクの床面は、踏まないでね、と注意書きがあり、柵で仕切られていましたが、こいつは堂々と飛び回っていました。
コズマさんは、ファミリーで長い間モザイク一筋でしたが、やはり初期のものが味があって好みです。おそらく、石色の褪せた様子とか、すり減った石の味わいがよりわびさびを感じさせるからだと思います。ここのは、まさにそういうものです。
おそらくほんのちょっと前までは、普通に上を歩けたのではないでしょうかね。
一部の壁面に、フレスコ画が見られますが、時代は結構下ります(13世紀)。傷みも激しく、正直、見たところで感動は薄い代物。
説明としては、「修道院の歴史で、特に重要な出来事をまとめた絵画があり、歴史上の何人かの重要な人物がまとめられている。本人の作った「規則」を手に持ったサン・ベネデット、サン・リベラトーレ教会を捧げ持ち、サン・ベネデットに差し出しているテオバルド修道院長(教会は、彼によって、11世紀初頭になされたもの)。ローマの大司教テルトゥッロ(伝説によれば、いくつかの領土を修道院に寄贈した)。皇帝カール大帝と、そのパトロンであるサンチョ(ヴィッラ・オリヴェーティの領主)。」とありますが、どれがどれやら。
古そうな彫り物も、少しは残されています。
そして、ここアブルッツォではお約束のアイテム。
右側にある、説教壇です。これはアブルッツォでは実にもれなく置かれているんで、びっくりしますよ。装飾的な内容もとても似ています。
12世紀の終わり頃のものとされているようですが、ここでは、あちこちにあった彫り物を寄せ集めで装飾にしたらしいんです。彫りの様子が緻密で、内容的にも永遠を強調するような様子は、他と似ているので、同時代、だけども、組成が寄せ集め、というのがある意味独特かもね。確かに、貼ってるというのか、はめ込んでるというのか、そういう様子がありあり。
高度な腕を持つ石工さんが、この地域にはいたということですね。そして、その人たちが、一時期に、固めて仕事をしたって感じ。
個人的には、チボリオとか説教壇というアイテムは、そこを飾る彫りの面白さを除いては、あまり興味がないんです。むしろ苦手といってもいいかもしれないんですけれど、明らかに、時期や地域を限定して普及しているアイテムだから、きちんと整理して研究している人がいるんでしょうね?
説教壇について研究している人は、アブルッツォはマストとなるんでしょうね。
と、こんなわけで、苦労してたどり着いた甲斐のある教会でした。今年最後のオープン、という割には、誰一人おらず、それでいて親切な黒ちびにゃんこのガイドにあずかったりして、それもまた、大変良い思い出です。
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2022/02/21(月) 16:39:12 |
アブルッツォ・ロマネスク
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アブルッツォ週末ロマネスク修行(2018年11月)、その16
前回の記事で詳細を記した、恐ろしいドライブを経て、無事、目的地に着きました。村を通過して、まだ?と心配になるくらい、山に分け入った行き止まりの場所にあります。
セッラモナチェスカSerramonacescaの、サン・リベラトーレ・ア・マイエッラ教会Basilica di San Liberatore a Maiellaです(オープンは、今調べたところ、以下となります。イースターの月曜、4月25日、5月1日、五月と六月の土日及び祝日、七月と八月の月曜を除く毎日、九月と十月の土日及び祝日、11月1日、各機関の10時から13時半及び15時半から19時半)。
わたしが訪ねた時とは、ちょっとだけ変わっているようですが、比較的よく開いている方だと思います。
というのも行かれた方は分かると思うのですが、何もない場所なんですよ。セッラモナチェスカの村から、ちょっと山に分け入る場所で、周囲には緑しかないです。
たどり着くと、一応こんな鉄扉があるんですよね。背は低いから、閉まっていても乗り越えることはできそうですが、でもここまで来て鉄扉が閉まっていたら、結構ショックな感じ。
でね、ここで一番印象的だったのは、実はこいつです。
鉄扉の近くに駐車して、車を降りた途端、近寄ってきた子猫ちゃん。
遊んでほしかったようで、最初から最後まで、私の順路を先導してくれて、本当にかわいい子でした。
教会の中も堂々と歩きまわるし、とにかくずっとついて回ってくれて、ガイドさん状態。おそらく、近所、といっても、すぐ近くに民家はないのですけれど、飼い猫に違いないとは思いますが、それにしても、一人で自由に、大胆な性格でびっくりです。
余計なことばかり書いていて、あきれられそうですね、笑。まじめに行きましょう。
この教会、もともとは修道院の教会となります。
伝説では、修道院の起源は、カール大帝、つまりシャルル・マーニュ、にあるとされているようです。781年、この場所で、ロンゴバルドとフランク族の戦いがあり、フランクが勝利したことから、カール大帝はこの地に教会の建設を決めたらしいです。カール大帝自らが、聖人リベラトーレに捧げることを決めたとありますが、あまり著名な聖人ではないような。ざっと調べると、この地域での信仰が強かった聖人のようです。修道院を地域に根付かせる戦略とかですかね。
この起源伝説の信ぴょう性が高いとされているようです。なぜなら、884年の記録に、同修道院の豊かに関する記録があるみたいです。創設から百年たっても豊かだということは、それは本当に豊かで、権威も保ち続けたということになりそう。
最初の建物は、990年に地震で倒壊したようです。リピートの期間は長めとはいえ、やはりこの辺りの土地、地震地域ではあるんですね。
その後、1007年から1019年に、当時の修道院長テオバルドTeobaldoにより、より大きな建物が、さらに1080年にはデジデリオDesiderioによる建築がなされたようです。
それらにつき、13世紀に、修復だったり、また床面にコスマーティ・モザイクが導入されたりということがあり、16世紀に、ルネサンス様式の改築などが行われました。
19世紀初頭に、修道院は閉ざされ、それから徐々に見捨てられていきます。1958年には、再び地震や土砂崩れに見舞われて、さらに倒壊などが進んでしまいますが、1967年から1996年まで、様々な修復工事が施され、過去の美しい姿が取り戻されたもの。
とは言え、オリジナルの修道院の建設基礎部分について残されているのは、ファサード左側の壁の一部に過ぎないということです。
では、見ていきましょう。
もともとは、こんな構造だったようですね。
今は、赤線で囲った教会部分しかないですが。
回廊があったあたりは、こんな状態です。
壁の下の方とかは、先述のように、オリジナルの回廊の構造物だったのかな。地面にも、基礎的な部分があるのかもしれないですね。
そのまま、後陣側に回り込みます。
土地が、斜面になっているようです。正面の方はまっすぐに水平に見えるので、そちらは整えたけど、こっち側は外側はそのまま、ということ。
三つの円筒形後陣は、結果として純粋な高さは異なるものの、水平線は揃えていますね。
後陣に開けられた窓なんですが、プレロマネスク様式とありました。柱のある隅切りでもなく、こういう構造を日本語でなんというのか不明なのですが、三重縁取りで引っ込められているような構造で、これは、より光を取り入れやすく、また、開口部の広さを強調するという構造とありました。
山側、つまり、ファサード側から見たら右側、回廊のあった反対側ですが、そちら側は斜面が迫っており、狭いスペースに支え構造があります。
これは、脇の盛り上がった丘の部分の土砂崩れなどを防ぐために作られた構造物のようです。
現地でちゃんと説明に目を通せばいいのですが、いつだって後付でしか詳細は見ないので、適切な写真がないのですが、こんな感じで、支え構造になってます。
この垂直の壁それぞれが、内部の側廊にある柱と呼応しているのだそうです。
先に、鐘楼が見えますが、ファサードの右側に、ほんのわずか、20センチということですが、それだけの距離というか、不思議に微妙な離れ具合で建っています。
定石通り、上に行くに従い、開口部が広くされるタイプですが、あまりに背が低くてずんぐりむっくりしているので、このような形であっても、なんというか、普通だったら感じられるような優美さや装飾性というのものが、ほとんど感じられないように思うんですが、どうでしょうか。
一部、繊細な装飾もされているんですけれど。
それにしても、これだけ接近しながら自立して建築するのって、結構面倒なことではないかと想像するのですが、そんなことないのでしょうか。珍しいですよね。
やはり久しぶりのせいか、なかなか筆がのらない、というところで、やたら時間かかっております。つまらなそうで申し訳ないのですが、にゃんこでごまかしつつ、次回に続きます。
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イタリアぼっち日記
2022/02/14(月) 18:27:22 |
アブルッツォ・ロマネスク
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アブルッツォ週末ロマネスク修行(2018年11月)、その15
ただでさえ、アップが遅れに遅れているのに、今回、三か月近くの停止を余儀なくされてしまって、残念なことでした。それでも、こうして再び戻ってこられたことに感謝し、焦らずゆっくりと続けていこうと思います。
しばらくは、調子が出ないかもしれませんが、よろしくお付き合い願います。
さて、すっごく間が空いてしまった前回の記事に続くわけですが、次の行先に至る経緯、すっごくよく覚えています。
その行先の教会は、オープン時間が昼休みを挟んで、午前と午後で、時間も一応調べていたのですが、直接目指すと、ちょうど昼休みについてしまうような時間だったので、念のため、電話をしたところ、なんと、その日は、この年最後のオープン日だから、一日中開けています、ということでした。
2月から11月まで開いていると理解していたので、11月早々のこの日が最後とは、夢にも思っておらず、とてもラッキーだったと思います。
それなら、とそこを目指すことにしたのですが、ちょっと大変だったんだよねぇ、この時。
日記に、書いたことを参照しながら、あれはどこだったのか、グーグルマップで探してみました。結構大変でしたけど、見つかりました。
アランノ・スカロというところで高速を降り、そこからぐにゃぐにゃの山道を走り、ポッツォPozzoという村の手前で、「居住者以外は通り抜け禁止」という表示があったのて、仕方なくう回路と示されている方向に向かったのですが、これが、行けども行けども山道なんです。
おそらく大した距離を走ったものではないと思うのですが、先が分からない不安で、結構長い時間、進むしかない道を進んだような気がしたのですが、途中カーブですれ違った女性に、お互い徐行運転だったので、思い切って尋ねたところ、この道でも行けないことはないけれど、とんでもない距離になるから、戻って、その村を通り抜けなさい、と言われました。通過禁止の旨尋ねると、それはいいから!というので、素直に戻りました。
そうしたら、村に入って、何でもない場所に、臨時の信号ができていて、信号待ちの行列がありました。
この写真では、あまり分からないと思いますが、この、坂道になっている細い道を行かねばならなかったのです。当時は、ここ未舗装で、大げさではなく車の幅ギリくらいの幅で、その上、相当の坂道ですよ。
その時に、道を尋ねた女性のアドバイスの意味が分かりました。
「本道が土砂崩れで通過不可となっているので、村中の小道を通る必要があるけど、すごい坂だし細いし怖いけど、でもね、一速でしずしず行けば大丈夫だから!」というようなことを言ってくださったのですよ。
本当に怖かったですが、なんとかなりました…。
ストリートビュー、撮影は私が行った一年後になっていますが、まだ、こんな様子でした。
あの時は、天候が悪くて、土砂崩れの直後だったような話でしたが、相当ひどかったということなんでしょうね。あのあたりは、山がちの地形で、高速以外はほとんど山道、という私にとっては鬼門以外の何物でもない土地。知らぬが仏で行ってよかったと思います。あの時のレンタカーは、確かパンダで、馬力はありましたしね。
この恐ろしい小道を抜けた先、また方向間違ったりしますが、予期せぬ山中でレストランに出会ったり、なんとかかんとか、切り抜けることができました。
教会は次回。
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2022/02/12(土) 17:09:48 |
アブルッツォ・ロマネスク
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大変ご無沙汰しております。
ちょいと予期せぬ出来事がありまして、昨年11月半ば以降、ブログの更新ができなくなってしまいました。リアルで交流のある方々には、ご連絡することができたのですが、そうでない方には、いらぬご心配をおかけしたかもしれず、または、もういない人、と認定されたかもしれず、笑、いずれにしても、失礼しました。
実は、歩いていて、車にひかれてしまったのです。まさか、自分にそういうことが起こるとは、人生って、本当にわかりませんよね。
ボカンとぶつけられ、ドカンと投げ飛ばされ、そのまま救急病院に運ばれ、その後リハビリ病院に転院となり、通算2か月と3週間ですかね、入院。昨日、自宅に戻りました。
骨盤骨折という、結構深刻な状態で、当初は寝たきり。その後、徐々に車いすから歩行器、松葉杖、という流れで、自宅には、松葉杖一本をお供に戻ってきました。
コロナのため面会禁止でもあり、入院中の暇な時間が長くて、退屈を紛らわせる目的で、別ブログを立ち上げて、そちらの方で、日々の徒然を書いておりましたので、ご興味あれば、見てみてください。ま、くだらない内容です。
イタリアぼっち日記 三か月近く、病院の中の、病室という極小世界で、上げ膳据え膳及び移動は最小、という生活をしてきた身には、退院、スーパーでの買い物、家庭医訪問などの一連の移動や行動は、友人のサポートがあっても結構な負担で、本日は、足全体が筋肉痛となっております。また、松葉杖の助けもあり、歩くことは階段の昇降も含めて、問題ないレベルまでリハビリしてもらったのですが、一人暮らしの家事が、意外に大変であることは、実際にやってみなければ、分からないことでした。
ま、少しずつ、やっていくことにします。
というわけで、せっかく調子よくアップしていたアブルッツォ、停止してしまったのですが、気を取り直して、再開したいと思います。入院中は、ロマネスクのことはあまり考えられなかったのですが、退院が具体化したころから、なんとなく、夏はあそこがいいかなぁ、などと考え出すようになりました。身と心はつながっているんですね、きっと。
では、どうぞこれからも、再びよろしくお願いします。
新年のあいさつもなく、いきなり2022年と年が改まっているのも、なんだか違和感ですが、仕方なし。
あとね、しばらく放置していたことにもよるのか、パソコンが異常に遅い…。すべて仕方なし。
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2022/02/10(木) 12:49:56 |
ミラノ徒然
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