アブルッツォ週末ロマネスク修行(2018年11月)、その37
さて、カペストラーノCapestranoのサン・ピエトロ・アド・オラトリウム修道院教会Abbazia di San Pietro ad Oratorium、最後に、フレスコ画を見ていきます。
最初に記しておきます。ファサードについて書いた記事で、扉口のリュネッタのフレスコ画については不明、としましたが、内陣にあるフレスコ画の解説を読んでいたら、ちょっとだけ言及がありました。
サン・ピエトロ法王の姿で、内陣のフレスコと同じ12世紀のものだそうです。だとすると、あそこでボロボロになるまで放置されたのは、勿体ないですね。よく見ると、巻物がびろーんと広げられて、アーチ模様みたいになっていて、ちょっと面白いデザインで、大部分が欠如しているのは残念ですね。
さて、内陣のフレスコ画です。
チボリオに完全に邪魔されてますが、全体はこういう様子になっています。
全体での大きな特徴は、単色である、ということのようです。濃淡はありますが、黄土色がかった赤、という表現がされていますが、赤茶色とでも言ったところですかね。
解説では、「このようなフレスコ画の場合、通常は多色使いするものなのに、なぜ単色使いなのか。ふんだんなお金が必要とされている再建が実施されている事実から、予算が足りなかったと考えるのは無理がある。作者の選択だとするとその意図は何だろうか。」とあります。
予算はあったはず、というのは納得できますし、実際の絵の様子から、一定以上の技術やセンスのあった方と見受けられますから、やはり、明確な意図をもって、単色にしたということになるのでしょうか。この色って、本来、フレスコ画の下書きであるシノピアに使われる色に近いので、その辺に何かあるのかと思ったり。あ、でも、ルネサンス以前のフレスコ画も、シノピアから彩色、みたいになってたんでしょうか。当然なってましたかね?
そういう根本的なことを考え出すと、意外と分かってないことが多いことに気付かされます。
上の方から、絵を見ていきます。
一番上の三角部分は、残念ながら、ほとんど失われてしまっています。装飾的なものがあったのでしょうけれど。
その下、チボリオがあっても、信者側からっしっかりと見える位置には、玉座に腰掛けて祝福のポーズを取るキリストです。その周囲には、四人の福音書家のシンボル。両脇の端っこにいるのは、セラフィム(熾天使)ですよね。
解説によれば、「5世紀に法王レオーネ・マーニョによって決められた図像学に従えば、最初に使われたのは、ローマのサン・パオロ・フオリ・レ・ムーラ教会だが、アナーニのカテドラルのクリプタに1200年早々になされたものでもある。」という図像らしいです。
他の解説での言及では、初期キリスト教の伝統から来ている図像で、テーマは、神の子羊Agnus Dei、支持する民衆、イスラエルの12の部族、12人の使徒というものをベースにしていると。黙示録の4章(天上の礼拝)の8とあるので、手持ちの聖書を見てみます。
「この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その周りにも内側にも、一面に目があった。彼らは、昼も夜も絶え間なく言い続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方」と。」
それで、比較的最近訪ねたアナーニAnagniについては、いくつか本を持っているので、確認してみました。といっても、あそこは、激しく撮影禁止でしたから、本を見ています。
どうやら、クリプタにあるこの主祭壇の図像が、解説で言及している伝統的な図像となるようですね。しかし、私は、そもそも論として、5世紀に法王によって決められた図像学、ということの知識がゼロ…。意味ないし。
というところで、おなじみの聖人辞典を紐解きますので、ちょっと脱線します。
レオーネ・マーニョ、少しですが記述があります。マーニョとは、アレクサンダー大王とか、カール大帝の名称の一部にもなっている「大」、つまり偉大な人につける敬称のようなもので、要はこの方、なかなかの人物だったということになります。
441年に法王に選ばれ、20年という長きにわたってお勤めを果たした方。その間、アッティラ率いるフン族に対抗してローマを守ったということでも大いに語られるようですが、何よりも、451年に行われたCalcedoniaの公会議で、キリストの御托身に関する教義を決定したことが、最も意義があったとされているそうです。理論派であり、戦う法王でもあった文武両道の人だったのですね。
図像学に関しては不明なので、今度は芸術史辞典に移って、Calcedoniaの公会議を調べてみます。
こういう時、紙の資料は助かりますよ。ネットだと、出所が不明なものが沢山ありますから、本当に正しいのか疑う必要もありますが、さすがに辞書なら、とんでもないことは出ていないという信頼がもてますからねぇ。
で、その公会議ですが、争点は、その前のエフェソスの公会議で優勢だった、キリスト単性論(キリストは神性と人性を併せ持つ単一の性とする考え)へ対抗するグループが開催を求めたものだったそうです。で、この会議では、単性論が負けた、ということらしいです。
そもそも私は、キリスト教に思い入れがあるわけでもなく、聖書の内容もうろ覚えなら、教義なんてほんと分からないのですけれど、公会議の争点って、特に時代が古いころは、面白いんですよね。それで、フレスコ画の内容が変化したり、洗礼盤が浴槽から小さいものに変わったり、と芸術的なアイテムにも具体的な変化を大きくもたらすので、もうちょっと追及していきたいポイントではあります。
脱線終わり。
で、ここは、そういう古い図像が元になって描かれたものであろう、とされているようです。
あまり鮮明な写真が撮れていませんが、向かって左側は、植福のポーズ、つまり印を結んでいるような手になっているみたいですね。
福音書家は…、なんというか、よく見えないなりに、あまりうまくないなっていう様子です、笑。
そして右側。
左手では、本の中の"ego sum primus et ultimus"を指示しているようです。
アップで見たら、剥落の大きい上部ですが、キリストの頭上には、神の子羊が描いてるような感じです。足下には神の手が見えますし。
キリストの左側にいる鷲のはずのフィギュアが家鴨にしか見えないんですけど、そして家鴨のくせに、癖に、っていうのも失礼ではありますが、本を守ることとかに、なんかすごい使命感持ってるんでしょうか、または、このポーズの直前に、キリストがおちゃめしたとかそういうことなのか、めっ!という表情なのが受けます。
後者だとすると、キリストの、なんとなく笑いを押さえている表情が納得できます。なんてね、失礼しました。聖お兄さん的な解釈でした。
でも実際、なんとなく笑いをこらえている表情していませんか?
さて、キリストたちの下の段は、黙示録の図像の続きとなりまして、長老がずらりと並んでいます。
向かって左側。
そして、右側。
各側に12人、合計24人いるはずですが、一番下の一人が、よく見えない状態ですね。上のキリストの部分に比べると、一人一人が小さいですが、表情などは、結構細かく書き込まれています。
何種類かの顔のお手本があって、それを順繰りに置いた風な、全員遠い親戚的な様子ではありますが、身に着けた装飾的なものなど、細かく書き込まれていますよね。
黙示録の5章の8から10とあります。皆さん、きっとお手元に聖書があると思うので、確認してみてくださいね。香の入った金の鉢を、捧げている様子。目線が素晴らしいですね。一点集中しています。
解説で、絵画的には、ビザンチンの影響を受けたもの、とありますが、キリストやこの長老たちの顔やお着物など、確かにうなずけます。そしてそれは、「アブルッツォ地域の芸術史、およびイタリア南部中央地域の芸術史を語る上で、大変重要なこととなる。実際、デジデリオ王以降の時代のベネディクト派のフレスコ画に結び付けられるものである。サンタンジェロ・イン・フォルミスと、アナーニのカテドラルのクリプタの間に位置するもの。」となっています。図像にしても、絵画表現的にも、アナーニとの共通性というのは、興味深いです。
サンタンジェロ・イン・フォルミスは、昨年やっと訪ねることができて、記憶も写真も新しいのですが、さらなる脱線は避けます。早くアップしたいものですねぇ。
さて、さらに下の方には、何人かの、ベネディクト派の聖人。
聖人たちが並んでいる上部の、半円になっている部分は、残念ながら、ほとんど剥落しています。キリストが、サン・ピエトロに鍵を渡し、サン・パオロに巻物を渡す場面があったものだそうです。
足の部分とか一部が見えているから、それの類推なのか、または剥落前の記述とか、スケッチなどがあったのか、そこは不明。
聖人たちは6人、左右それぞれに三人ずついて、トンスラや、持っている本などによってベネディクト派の聖人と見分けられているそうです。
この人たちは、サイズも大きいので、書き込みはしっかりされていて、表情もお着物も個性あります。ビザンチン系だと、お召し物が装飾的で、素敵なことが多いのが、結構好きなんですけれど、ここもしっかりキラキラしたものが多用されたお召し物ですね。そして、リンゴのほっぺ。
こっち側の人たちは、かなり顔の描きわけができてますね。マン名kの人は、ちょっと天馬博士風。アトムのね。なんでいきなりそういうのが出てくるのか。古い記憶が出てくるというのは、年取った証拠なのか…。
でね、その天馬博士の手が、以前訪ねたプーリア、いや、性格にはバジリカータ、マテラ郊外にある洞窟教会のフレスコ画を彷彿とさせる。
これは、六本指があるのが変だよね、ということで、当該ブログにも書いてると思うんですが、なんかこのうにゅっとやけにしなやかな様子が、似ていませんか。こんなのも、ビザンチン系につながるのか、それとも単にそういうもんなのか。
数多くの教会を訪ねてきて、どんどん忘却の彼方なんだけど、たまにふと結びつき記憶があって、とすると、全部ちゃんと覚えていられたら、すごい研究ができるんじゃないか、なんて、思っちゃったりしました、笑。
とまぁ、脱線多し、で時間かかりましたけれど、こんなところでしょうか。
最近の研究では、モリーセ州にあった同時代の教会壁画との共通性などが見いだされているようですが、モリーセは、まだ行けてなくて、ここでは詳しい言及はしません。
これだけのフレスコ画が、ここだけにあったとは思えないので、両脇の後陣や、身廊を分割する壁などにも、本来は描かれていたのでは、と想像しつつ、本堂を後にして、アンジェロさんに別れを告げつつ、一応、一周。
南側に、回廊跡らしきスペースがありました。修道院の名残ですね。
側壁に扉もあるので、まさに回廊だったのでしょう。川はすぐそばで人里は離れていて、修道院には理想的な土地だったように思われます。
以上、長くなりましたが、次に移動します。
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2022/03/31(木) 16:46:26 |
アブルッツォ・ロマネスク
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アブルッツォ週末ロマネスク修行(2018年11月)、その36
さて、カペストラーノCapestranoのサン・ピエトロ・アド・オラトリウム修道院教会Abbazia di San Pietro ad Oratorium、チボリオを見ていきます。
ぱっと見、新しげ?特に上の部分が…。
あ、ちなみに、無粋な黄色は、補強的なものなのだと思います。
まず最初に、今更残念、と思ったこと。
チボリオの下に置かれている祭壇、異教時代の祭壇なんだそうですよ。「そこには、今でも犠牲の捧げものを燃やした後が見られる。間違いなく、近辺にあったであろう神殿からもたらされたもの。」という説明を見て、今更アワアワしても仕方ないのに、まったく注目しなかった自分にあきれたっていうか、てへっ、じゃないだろう?という気持ちです。いや、燃やした後を見たって仕方ないですけども、でも、もうちょっと観察してもよかったと思います。見た目が地味で何もなかったから、それほど古くは見えなかったんですけど、今、写真を改めると、多分天板の上部に、彫りこみというか切れ込みみたいなものが見えます。古代の儀式に使われたていたのは、そこだけなのかもしれません。
チボリオに話を戻します。
12世紀、または13世紀とするものもあるようですが、カザウリアとの関連から、13世紀が濃厚。
上の方は、ゴシック様式が濃厚で、上下で、異なる時間に異なる職人さんによってなされたんじゃないか、と素人でも感じますよね。どう考えても、タイプが違うもんね。
今回見つけた解説は、全体の様式とかアブルッツォ地域の芸術史という観点に立った大きな話が多くて、特定のアイテムに関する考察が少ないのですが、確かにロマネスクとゴシックが混ざってるよね、というようなことは書いてありました。
この写真だと分かりにくいかもしれませんので、アーキトレーブの部分、アップしてみますね。
正面右端なんですけど、分かりますか?
あまり至近距離から撮影してなくて、遠くからの撮影を切り取っているので、解像度が悪くて残念ですが、この図像、あれ?最近どっかで見た?と思いませんか。
これこれ。ファサードの扉脇にある柱の、一番下の部分です。写真は、90度角度を倒した状態にしていますが、そっくり、そのまんまなんですよ。
で、下が、カザウリアの説教壇。
もう瓜二つ~!
特定の職人さん、というより工房が、自分たちのレパートリーとして売ってたんですかね。
モデルさんは、自分の写真や実績をまとめたファイルをもってブランドのメーカーを回り、ミラノコレクションなどのファッションショーに売り込みかけるらしいですが、当時の職人さんや工房にも、そういうブックとかあったのかなぁ、など、またいらんことを想像してしまいました、笑。
だとしたら、写真のない当時は、やはりデッサンみたいなもので、ブックをこしらえて、これなら、縦長の場所はどこでも置けますぜ、例えば扉脇の縦置きでもいいし、アーキトレーブなら、まんま横置きですよねぇ、なんてやってたとしたら、面白い…。
カペストラーノでは、すっごく気に入って、ファサードにもチボリオにもお願いしちゃったんでしょうか。もしかすると、二か所頼むと、抱き合わせで安くなるなどの特典もあったかもですね。
当時は、聖職者が職人だったことも多いので、本当のところ、どういう風に、モチーフを選んだりしてたのか、分からないのですが、そんなこと想像すると、異常に楽しくなります、笑。
いずれにしても、これを見たら、カザウリアの職人さんがかかわっていただろうことは、間違いなさそうですね。まぁ、前にも書いたと思いますが、ここは狭い範囲の教会なので、同じ職人さん、工房が、あちこちで活躍していたことは違いないでしょう。
ゴチックっぽい上の方では、下の写真の部分が、とても独創的と言われているようです。
分かりますかね。
アーチとアーチの間にある三角の部分。ここに、彩色されたマジョリカ陶器がはめ込まれているというんですよ。この、淡い色の三角、陶器なんですって。
アブルッツォで現存するチボリオは7つあるけれど、こんな装飾がされているのは、ここだけらしいです。
全部で16あったうちの7つが完全に残っているようです。
これは確かに珍しいですよね。陶器というから、よく教会外壁にはめ込まれる水盤みたいなものを想像してしまって、解説読んでも意味が分からなかったんですが、よくよく見たら、こんな感じ。
水盤は、ピサ様式でよく用いられていますが、あれは、マグレブとかから持ち込まれた高価な陶器を、彩色の施された装飾アイテムとして使用したもので、12世紀後半とか13世紀ですかね。ピサとその周辺の土地だからこその外来アイテムだと思うんですが、ここは、どうなのかな。
こういう特定のアイテムの研究はあまりなされていないようですが、ローマの国立博物館の研究者は、使われている色(銅の緑、コバルトの青など)から、ルネッサンス初期の陶器ではないかとしているようです。
そういう専門知識はないけれど、これは、私も遅い時代のものと感じます。お皿だって、そのままの形を埋め込んだわけで、13世紀当時の技術では、土台の形に合わせて、多色の焼き物ができなかったからだと思うし。
解説を読むことによって、想像も一歩上を行く、みたいなところはありますね。
ちなみに、ドラゴンの彫り物に関して、カザウリアが元になっているが、それはファーノのカテドラル経由でカザウリアにもたらされ、その前をたどるとピアチェンツァに行きつく、とあるんですよ。
カテドラルの扉口のアーキトレーブが、とても物語的な彫りをしてあって、それがカザウリアと共通するのかな、と思いましたけど、具体的なつながりは不明です。
ちなみに、上はピアチェンツアのカテドラルにあるアーキトレーブの彫りとなります。そんなこと言われると、久しぶりに、行ってみたくなりますね。夏時間にもなったことだし、そろそろ引きこもりもおしまいにしたいので、ここは距離も近いし行先候補地の一つにしましょうかね。
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イタリアぼっち日記
2022/03/29(火) 16:54:30 |
アブルッツォ・ロマネスク
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アブルッツォ週末ロマネスク修行(2018年11月)、その35
さて、カペストラーノCapestranoのサン・ピエトロ・アド・オラトリウム修道院教会Abbazia di San Pietro ad Oratorium、続きです。
お待たせしました。やっと入場です。
おおって、声出ちゃう感じです。鍵開けてもらって、最初の一目は、電気がない状態だけど、お!ってなる。そして、明りつけてもらうと、おお!ってなる。しつこいけど、そういうイメージです。言いたいのは、ここはほんと、鍵に来てもらってなんぼ、の教会です。
後陣で分かるように、内部は後陣に呼応する三身廊。身廊は堂々としたサイズの角柱で区切られ、それぞれにロマネスクの彫り物が施された柱頭。以前は、オリジナルの教会のものだと考えられていた柱頭もあるそうなんですが、今は、すべてロマネスク時代のものだとされているそうです。
内陣側からのこれだと、角柱の堂々感が、より分かりやすいかも。
ちなみに柱頭は、かご型のおなじみのスタイルではなく、よくあるスタイルからいえば、副柱頭みたいな様子で、縦に狭い帯みたいなスタイルになっています。
そのスタイルのためと、損傷が結構あるので、それで、ぱっと見は、アイテムとしては地味この上なしという状態ですが、見ていきましょう。
唯一といってよいくらい、珍しく完全な様子で残っているやつ。端正な植物モチーフで、技術力ある職人さんの作だと想像します。
ちなみに、前回の記事でも言及したように、この教会にかかわった職人さんは、カザウリアと同じであると考えられているようですから、確かに技術のある方々です。ということは、本当は、もっと色々アイテムもあったのかもしれませんよね。ここは、チボリオはあるんですが、説教壇はないのです。もしかすると、というか、逆に、ここにも説教壇があったと考える方が、しっくりくるようにも思いますね。
このような彫りを見ると、確かに、ロンゴバルドの時代にモノではないかと考える方がありと思います。解説では、カザウリアとの共通性に言及していますが、カザウリアも、クリプタなど見ると、起原は古い教会と思いつつ、でも、転用っぽいアイテムを多く使っていて、本堂の柱頭などは、もっとゴシック寄りのロマネスク風味で、こういった7,8世紀のテイストのものはないんですよね。
うーむ。研究者に反論するわけではないけれど、私は、こういう一部のアイテムは、デジデリオ王の時代に作られたもの、と考える派です。
これなど、深彫りすることによって、影ができて、彫りのアイテムが強調されることなどが、やはりカザウリアと共通するとあり、それはそうなのかもしれないんですが、アイテムそのものが、プリミティブ、決してヘタウマという意味のプリミティブじゃなくて、技術というよりデザイン的な部分で、古いのではないか、と思うわけです。
で、こんなのまで出て来ちゃうと、もうお手上げ。
これはひどくロマネスクっぽい得体の知れなさ…。
なんでしょうか?
左には射手が弓を張っていますがそれが、右隣の、オケツなのかおっぱいなのか、ぶら下げた人に刺さっているのか、それとも止められているのか…。
カペストラーノをキーワードで探してみたんですが、この教会、他に注目すべきアイテムが多すぎて、柱頭に言及しているものが全く出てこなくて、お手上げです。
お分かりになる方いたら、ご教示よろしくお願いします。
しつこいですが、絶対ロンゴバルド。ですよね。
残念なのは、ほとんどが、こんな様子で、壊れちゃってること。
これら見ていると、ロンゴバルド、要は、古い時代の教会との兼ね合いが、もう少し深く考察されてもいいのにな、と思います。外壁にも、ロンゴバルド時代とされる彫り物の破片がいくつもはめ込まれている事実があるわけですしね~。
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イタリアぼっち日記
2022/03/28(月) 14:31:24 |
アブルッツォ・ロマネスク
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アブルッツォ週末ロマネスク修行(2018年11月)、その34
さて、カペストラーノCapestranoのサン・ピエトロ・アド・オラトリウム修道院教会Abbazia di San Pietro ad Oratorium、続きです。
ファサードの扉周りですが、すでに紹介したもの以外についてです。
扉の左右両脇に、彫り物が見えると思いますが、これは、サン・ヴィンチェンツォ・ディアーコノと、預言者ダヴィデと解釈されており、近年の研究では、サン・クレメンテ・ア・カザウリアの中央扉にあるアーキトレーブ、そして、王の姿を彫った石工の作品ではないかとされているようです。
カザウリア、旅の最初の場所なんで、忘却でしょうか。こんなやつです。左スレッドのアブルッツォ・ロマネスクから、前の記事を見ていただけるとディテールが見られます。
向かって右側に置かれた、王冠をかぶった男性のフィギュアは、中世後期の造形性を感じさせるが、預言者ダヴィデとしているが、実はデジデリオ王を表しているのではないか、と複数の研究者によって、まことしやかに考えられているものです。その男性像が指さしている碑文に基づく解釈で、碑文は、
SCULPTORIS IMAGO APPARUIT ITA IN SOMNIS HAEC
とあり、意味は、「このイメージは、石工の夢にまさにこのように表れたものである」となります。
意味を考察する解説には、以下のようにあります。
「建物の本当の起源という謎が、夢の結果ということにされている。それは、レーノLenoの修道院の起源を彷彿とさせるもの。
王様が、狩の後の疲労から、Leno川のほとりで眠り込み、蛇が頭に巻き付いているという夢を見たが、実際にそのような状態になっていた。
従者は、蛇がかみつく危険を恐れて、王を起こさなかったが、運よく、蛇は勝手に遠ざかっていった。王が目を覚ました時、夢の話をした。従者は、実際に目の前で起こったと同じことを話すので、びっくりした。夢の中で、蛇は、ある場所を示したのだが、それは、実際に蛇が去っていった場所だった。その場所を彫ってみると、三頭の黄金のライオンが見つかった。
頭を取り巻いた蛇は、将来自分が王になるというメタファーで、この不思議な夢を見た場所に、レーノ修道院が建てられた。おそらく、この場所では、似たようなことが起き、それが、この碑文に彫られたのではないか。」
レーノ修道院というのは、ミラノから100キロほど東に行ったブレーシャ郊外にある土地で、実際に758年に創建の修道院があったそうなんですが、なんと、18世紀後半、ベネチア共和国に破壊されてしまったということです。ベネチアも悪いことやってますよねぇ。一部、碑文や彫り物などが、ブレーシャのサンタ・ジュリア博物館に所蔵されているということで、私も過去に、何かを目にしているのではないでしょうか。にわかには思い出せないけれど。
このエピソードで思い出すのは、前回も言及したと思うのですが、チヴァーテのサンピエトロ創建の話です。
改めて確認しないので、間違ってたらごめんちゃい、ですが、あそこもデジデリオ王が絡んでいて、狩の後ケガをしてどうたらこうたら、と言う話じゃなかったでしょうか。
つまり、デジデリオは、「狩が大好き、どこでもすぐ寝ちゃう、その場の思い付きや霊感に従って、教会や修道院建てまくり」という人だったのかな、と。
なお、写真右下、身体の下の方に、やはり文字が彫りこまれており、これも近現代の落書きではないですから、当時のものと思うのですが、言及は見つかりません。
文字も、Aの上に線画走っていたり、なんとなくアーキトレーブの文字との共通性が見えますよね。
ちなみに、右側に置かれたサン・ヴィンチェンツォとされているものについては、何らの説明もなく、ごめんなさい。一番著名なヴィンチェンツォさんは、14世紀の聖人らしく、この時代に取り上げられる人は、どこのどのヴィンチェンツォさんなんだろうか。
解説で、面白いと思ったのは、
「信者の多くが文盲であった時代からすでに、デジデリオ王とサン・ヴィンチェンツォの姿とともに、アーキトレーブに碑文をはめ込むなど、教会の創建が古いことをことさらに強調するように感じられる」という記述。
確かに、文盲率高い時代ですよね。アーキトレーブにだって、何か装飾性のあるフィギュアを彫った方が、信者は嬉しかったのではないかと思うんですよ。棟梁が、変にインテリだったのかなぁ。
扉脇の角柱になっている部分の装飾も、気になりますよね。すごく繊細な彫りです。
左側は、ドラゴンの口から吐き出されているブドウのつる枝。
縁取りの装飾的な帯が、すごく細かくて、高度な技術が必要になるものですよね。これは石だと思いますから、石工さんのテクニックも道具も、ハイレベルです。時代が下るのかな。
右側は、アーカンサスの葉っぱからつる草文様となっています。こちらも、周りの帯がすごい。
リュネッタには、フレスコ画があります。
割と古そうなんですが、そして、調べているときに、どこかで言及されているのを見たように思うのですが、見つかりません。重要度は低いようなので、同時代ではないのでしょうね。そもそも、こんな場所に放置してませんよね、12世紀のものだったら。
ということで、なかなか先に進めませんが、次回は中に入りましょう。
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イタリアぼっち日記
2022/03/25(金) 18:00:27 |
アブルッツォ・ロマネスク
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アブルッツォ週末ロマネスク修行(2018年11月)、その33
さて、カペストラーノCapestranoのサン・ピエトロ・アド・オラトリウム修道院教会Abbazia di San Pietro ad Oratorium、続きです。
今回は、ひと際地味な記事になりそうですから、どうぞ、ご覚悟のほどを。
前回取り上げたファサードですが、その地味なファサードの中で、必ず注目されるものが一つあるんです。
これなんですが、ファサードの扉の、左上の方にはめ込まれています。
この方向、つまり、文字は逆向きになっています。意味は置いといて、見ていて、気付くことがないでしょうか。
12世紀の大修理の際に、埋め込まれたとされる石版です。よく見てくださいね。
五文字からなる五つの単語が積み重なって、いわゆる回文になっているんですよ。
単語は、以下となります。
rotas opera tenet arepo sator
どこから読んでも、この単語が連なっているんです。
そもそも回文っていう概念、普段出会うこともないので、忘れていたから、新鮮っていうか驚いたし、こちらの言葉にそういう遊びがあることも認識してなかったので、これまた驚きましたね。
碑文は、大文字で彫られ、文字の橋の始末が三角になっているなどの特徴が、昨日紹介した扉のアーキトレーブに彫られた碑文と共通していることから、同時代の彫りだということは間違いないようです。
謎めいた様子から、これまで数多くの解釈がなされてきたようですが、定説としては、sator opera tenet – tenet opera satorは、文字通りでは、Il seminatore controlla i lavori dei campi(種をまく人は、畑の仕事を管理する)であり、それを意訳すれば、“Il Creatore ricorda le opere”(創造主は自分の作品を覚えている)、さらに自然な言い方をすれば、“Il Creatore tiene a mente il tuo operato”(創造主は、自分の作ったものを心にとどめている)としています。
解釈は種々あり、複雑な一つは、アナグラムを使うとPater noster(Our father)という単語になるという説などがあるようですが、私は説明を読んでも、よくわかりませんでした。確かにアナグラムで、その単語はできますけれど。
文字がさかさまの位置で置かれたのは、「回文の価値を強調するため、またはそれがもたらすマジカルな力を他のものに転換するため」ではないか、ということです。
さすがにこれは、職人さんがいくら間抜けでいい加減であっても、うっかりさかさまにすることはなさそうですよね。石工さんは、文字を彫る仕事も多かったでしょうから、それなりの人は、当然文盲ではなかったと思いますしね。いや、でも石積み専門職人さんだったら、まさか、があり得るのかなぁ。いやいや、いくらなんでもねぇ。
これはもちろんラテン語で、起原はローマ時代にも遡るものらしいので、ここの専売特許ではないんですけれど、私が認識したのは初めてでした。
でも、あちこちでこの回文が使われているということで、その主なものがあげられていて、興味深かったので、以下。実際に現場で実物も見られた方もおられるのではないでしょうか。
Collegiata di Sant'Orso - Aosta
アオスタのサントルソ参事教会、ここは、私行ってます。2007年と、すでにかなり時間が経っているので、はっきりと覚えてないんですが、素敵な床モザイク。自分の写真は、全体が取れていないので、上は本からお借りしたものです。
12世紀前半のモザイクとされているので、時代的にはカペストラーノと重なりますね。
世界で最も古いものとされているのは、ポンペイにあるものだそうです。ポンペイは二度ほど訪ねているので、きっと目にしているのではないかと思うのですが、なんせ直近でも20年以上前ですからね、笑、たとえ見たとしても、覚えているわけがありません。
ラツィオはフロジノーネ県の町Acutoにあるサン・セバスティアーノ・エ・ロッコ教会Acuto (FR) - Chiesa dei SS. Sebastiano e Roccoには、絵画に表されたものがあるようですが、これはさほど古いものではなさそうです。教会の起源は古そうで、古いアイテムはいくつかあるようですが、全体は新しくなっているので、訪ねることはなさそうです。
わたしのおひざ元、ロンバルディアでは、割と最近といってもすでに2年前の2020年9月に訪問しています。
ピエーヴェ・テルツァー二Pieve Terzagni (CR)というクレモナ近くにある村の、サン・ジョバンニ・デコッラート教会Chiesa di San Giovanni Decollatoです。
ここは内陣に素晴らしい床モザイクがあるのですが、特にこの回文がある場所は、バラバラにされてしまったようで、残念な状態になっていますね。でも、確かにSatorですねぇ。
訪問した時は、ここはバラバラなんで、ほぼ注目してなかったと思います。ご興味あれば、画面左側のスレッドの、ロンバルディアのロマネスクから、関連ページをご覧くださいね。
その他、以下となります。どこも行ってないです、残念ながら。
モリーセ州
Acquaviva Collecroce (CB) - Chiesa di S.Maria Ester
プーリア州
Ascoli Satriano (FG) - Chiesa del SS. Sacramento
トスカーナ州
Campiglia Marittima (LI)
Duomo di Siena
ベネト州
Pescantina (VR) - Chiesa di San Michele di Arcè
同じ回文といっても、使われた時代はローマから、バロックくらいまでバラバラなので、美術史の一つの切り口として、面白いと思いました。ので、ちょっと地味すぎますが、一回費やしてしまいました。
ちなみに、カペストラーノに戻りますと、ちょっと面白いことが。
上の写真は、実際の状態で文字がさかさまに置かれているんですが、写真をひっくり返してみたんですよ。
全く同じ写真を、180度ひっくり返しただけなんですが、こっちだと、文字が浮き上がって見えませんか。びっくりしちゃったと言う、ただそれだけです、笑。
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イタリアぼっち日記
2022/03/24(木) 18:05:23 |
アブルッツォ・ロマネスク
| コメント:2
アブルッツォ週末ロマネスク修行(2018年11月)、その32
今回の教会も、気になるアイテムが複数ありますが、ここでは紙もの資料は入手できませんでしたので、自分なりに信頼できそうな2、3のサイトから情報をいただき、訳したり、自分の考察をしてみたり、という形で紹介していきたいと思います。
今までも気が向くと、ちゃんと資料を読み込んだりはしているんですが、言っとこうと思うのは、私、ただのシロートの現場好きなおばちゃんなんで、間違っていることを平気で書くし、勘違いなんかも多いと思うんです。ピックアップする資料はイタリアのことならイタリア語、フランスのことならフランス語を基本にしていますけれど、語学力には自信なしなんで、翻訳間違いとかも多々あると思うんですよ。
言い訳じゃないんです。だから、ご遠慮なく、どんどんご指摘ご質問ください、と、改めて、言っておきたかったんです。気を悪くされるかもしれない、とかそういうお気遣いは不要です。これは、度々書いていこうと思っています。よろしくお願いします。
さて、カペストラーノCapestranoのサン・ピエトロ・アド・オラトリウム修道院教会Abbazia di San Pietro ad Oratorium、続きです。
前回は鍵番さんの話で終わってしまいましたけれど、今回からは、真面目な考察、笑。
ちなみにこの教会、アクセスポイントからは、このように、後陣丸見えなんですが、鉄柵がありますよね。脇の方にも続いている上に、藪とかすごくて、一切直接のアクセスはできなくなっています。
後陣側は、形がすっきり見えるだけで、何ら装飾的アイテムもないので、ここだけ見ても仕方ないっていうとこです。せめてファサードが見られれば、中に入れなくてもそれなりの収穫はあるのですが…。この鉄柵も、決して低くないので、これを超えるのは、私には無理だろうなぁ。
というわけで、ここに行かれる際は、是非事前にアポのこと、確認してください。
外観は、どの壁も後陣同様、すっきりで、装飾はファサードの扉口周りにあるだけです。全体が相当修復されている様子ですが、これは地震があったから、仕方ないことですね。若干味のない様子ではあります。
わたしときたら、ファサードの全体を撮影してない。重要なポイントなのに、毎度あきれますね。
まずは、歴史ですが、創建は、ロンゴバルド最後の、そして最も著名な王デジデリオとされています。つまり8世紀となります。デジデリオって、確かミラノ近郊の山上にあるチヴァーテのサンピエトロなんかも創建してますよね。フットワーク軽いっていうか、力もあったんでしょうけど、キリスト教の力をフルに活用した人ってことかもね。
創建については、扉上のアーキトレーブに彫られた碑文があります。
教会の起源が、"A rege Desiderio fundata anno milleno centeno renovata"、つまり、デジデリオ王により創建され、1100年に改築された、と彫られています。
そうなんです。創建はロンゴバルド時代、その4世紀の知の1100年に、ロマネスク様式をもって改築が施された、という歴史がある教会です。12世紀の工事は、ルッジェーロ2世時代のノルマンの主導によるものだそうです。ノルマン人も、なんかシチリアだけっていうイメージが強いんですが、結構広い範囲にいたんですよね。イタリア半島って、ローマの後は、ロンゴバルド人、そしてノルマン人が、その広い範囲を手中にした時期があって、そのあたりが「暗黒の中世」として割と無視されやすいっていうか、下に見られるっていうか、中世好きには納得しがたい歴史上の扱いがあります。
ロンゴバルドの遺構はほとんどなくて、やはりファサードにはめ込まれた浅浮彫くらいが、明確にそうだ、と言えるもの。
あちこちの壁に、組紐のバリエ石版がはめ込まれています。大した数ではないけれど。
12世紀の工事の際、本堂内部の何かのアイテムに使われていたものなんでしょうねぇ。オリジナルの教会には、なにかロンゴバルド時代の素敵なものがあったということなので、それは残念。こういう彫り物に関しては、本当にロンゴバルド起源のもの好きなんですよ。
ものによっては、この近辺にあったであろう墓碑や、またロンゴバルド以前の異教の神殿などから持ってこられたものとあるはず、とされています。おそらく、この場所自体が神聖な場所だっただろうから、ここにも宗教施設があった可能性も高そうです。水も豊富だしね。
それにしても、今写真を見返していて、本当にあちらに一つ、こちらに一つ、という様子で、いくつもの小さな彫り物がはめ込まれてあることに気付いています。残念ながら、現地では、気付いていなかったものも沢山あります。
後陣の上の方の壁に、お花モチーフとか。
同じ壁の右の方に、ライオンちゃんみたいなやつとか。これは、全体を撮影していますが、彫り物のクローズアップないので、現地では絶対に気付いていませんでした。ぱっと見、かなりきれいなのっぺらぼうな様子で、あまり丹念に見ようとしてなかった様子が、残念です。考えたら、ここに至るまでのいくつかの教会でも、こういう様子で、落書きみたいな彫り物はめ込みが結構ありましたよね。これ、もしかすると、アブルッツォの教会の特徴の一つと言えるかもしれないような気がします。落書きはめ込み、笑。
下のなどは、これはファサードなんで気付きやすいですが、カロリング時代のものとされています。小さな石棺の装飾だったと考えられているようです。小さな石棺って、子供用ってことかな。アーチに囲まれた花園で、いつまでも遊んでね、的な?悲しいですね。
彫りの技術も、表現力もつたない様子なのが、さらに、そういう石工さんしか頼めなかった的なお話を考えちゃって、悲しいかも。
訳すのも時間かかるので、小刻みのアップですみませんが、一旦切ります。ファサード編、続きます。
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イタリアぼっち日記
2022/03/23(水) 18:20:16 |
アブルッツォ・ロマネスク
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アブルッツォ週末ロマネスク修行(2018年11月)、その32
時間つぶしを終えて、もともと目指していた教会に戻ります。
前回書いたように、この教会、林の中にすっぽりと隠れているので、目的的に行かないとたどり着けないんです。
正確に住所がないので、カーナビではたどり着けず、おそらくスマホもつかったとは思うんです。それでも、国道から林に入る道に相当迷い、やっとうまい具合に入れて、そうするとね、駐車場があるんですよ。
駐車場たって、林をちょっと切り開いて、砂利で整備しただけのスペースで、そこまでは、前日にもたどり着いたんですよ。
でも、そこから、上の写真の表示が見えなかったんですよね。
見えたからって、こんな砂利の細道を、車で進む勇気はなく、それに人っ子一人いないところで、距離がどの程度あるか分からない状態で、一人で歩く気にはなれなかったんです。
この時、絶対に教会来たことあるはずのインスタ仲間の人に、なんで聞かなかったかなぁ、と今更あきれています。だって本当に悩んだんですもん。
見学の時は、思い切って車を降りて、この小道を行くことほんの1、2分で教会につきまして…。そういうこと、ちょっと書いといてくれると、本当に助かるんですけどねぇ。
こんな林、怖いですよね?
すぐ近くに、水量豊富で美しい川も流れています。これはおそらく、前に記事にしたブッシ・スル・ティリーノの村の由来にもなっているティリーノ川ということでしょう。
そして、また駐車場的なある程度整備されたスペースが広がり、鉄柵の向こうに見えてきます。というか、ドドン!と見えます。
カペストラーノCapestranoのサン・ピエトロ・アド・オラトリウム修道院教会Abbazia di San Pietro ad Oratoriumです。
わたしが訪ねた2018年11月の時点では、アンジェロさんという年配の方が鍵番で、現地にもその方の名前と携帯番号が記されていました。この時何度も電話をしたのは、そのアンジェロさんです。でも、今回検索したところ、カペストラーノの観光局とアポすることとありましたので、市の管轄と変更したようです。
市の管轄となると、おそらく決まった条件でしか開けなくなると思うので、というのも、ここはカペストラーノからはかなり離れた孤立した場所にありますから、見学者一人のために、わざわざ市の職員が出張ってくれるとは思えないですからねぇ。今となっては、ラッキーな時に訪ねたかもしれません。
当時の鍵番のアンジェロさん、ちょっと面白かったですよ。
予約するのに14時過ぎに電話した時、午後は15時半からだから、15時半にもう一度電話しろ、と言われたので、悪いかと思いつつ15時25分に電話したら、分かった、すぐ行く、と結局10分ほどで登場。
遠くからバタバタガタガタとうるさい音がしたと思ったら、アぺでした。
アぺって、イタリアの誇る?三輪車なんですが、ご存じでしょうか。日本で言ったら、ホンダのカブみたいなもんですかね?50CCなので、原付免許で乗れて、上部で小回りが利くので、今でも現役。モトGPのヴァレンティ―ノ・ロッシが、高校生の時、アぺに乗ってたのは有名ですよね。
あ、脱線著しいですね。
今更ですが、今回は思いっきり脱線話です。
でね、アンジェロさん、アぺ降りるなり、「ガソリンが切れそうなんだよ、帰宅まで持つかね。まったくなんて土地だよ、ガソリン入れるのにガソリンをたっぷり使って走らにゃならんなんで、なんかの策略かよ!」と、愚痴満載マシンガン・トーク…。
移動しながら、身の上話まで始まります。
なんでもこの方、ベネズエラで長年移民生活を送ってらして、2004年に帰国されて息子たちは、今でもベネズエラで生活されているという、「人に歴史あり」系の方。イタリアでは、かすかな年金なのか生活保護なのかもらって生活しているような話で、でもベネズエラも大変だからご家族に仕送りなどしているような。そんな生活をしているので、車の免許もなくて、アぺしか乗れないとか。
イタリアも、かつては貧しい国でしたから、南部や、この自然の厳しい中部地域からの移民多かったのですよね。確かマドンナの親がアブルッツォ出身じゃなかったですっけ?昔、同僚にチッコーネというおじさんがいて、実はマドンナと遠い親戚筋に当たると言っていました。
これまた、どうでもいいですね、笑。
移民政策への愚痴も、相当言ってました。
日本でも、サント・ドミンゴの移民は棄民政策だったとか、色々あるじゃないですか。イタリアも、きっと似たようなひどい話が沢山あったのだと思います。そういう歴史を、実際に生きてこられた方、教会見学の、それも時間が不足している旅でなければ、じっくりお話を伺ってみたいような気持にもなりました。
でも、残念ながら、そういうわけにいかず、彼の愚痴を背中で聞き流しながら、見学にいそしみました。
アンジェロさんは、そういう方なので、鍵番も、おそらくかすかな収入のためになさっていたと思います。ここに来るまで、ランチでお金を崩しておいたので、大正解でした。
というわけで、今、解説を読んでいますので、乞うご期待。
っていうほどのことは書けませんが、ここ盛沢山なんでね。
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イタリアぼっち日記
2022/03/22(火) 12:10:24 |
アブルッツォ・ロマネスク
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アブルッツォ週末ロマネスク修行(2018年11月)、その31
前回のブッシを北上したカペストラーノが次の目的地だったのですが、ここは、場所の特定にすっごく苦労しました。カペストラーノの郊外の別の村であることは分かっていたのですが、道沿いに目視で見えるものがなく、らしいところで脇道に入るのですが、教会の表示がないんですよね、まったく。
国道を、何度も何度も行ったり来たりして、最後にやっと、林の中の駐車場を発見して、そこから歩いたら、見つかった、というような立地でした。
教会は、やはり鍵番さんと事前にアポを取らないといけないので、ちゃんと事前に電話をかけて、「見学の前に電話をくれれば、15分で行く」、と言われていたので、15分、最悪30分くらいは待つ覚悟で、ちゃんと現地についてから電話したんですよ。そんな林の中の何もない場所の教会なわけだから、鍵番さんも他から来るに決まってるわけで、こっちが遅刻したら申し訳ないですからね。
ランチも済ませて14時頃で、ちょうどいいんじゃないか、完璧だわ、と悦に入って電話したところ、「午後は15時半から」とにべもないお言葉…。
最初から言ってくれよ~。
他に選択肢はないので15時半にお願いしたものの、そこで1時間半はさすがに待てないので、多分行くことはないけど、何かの時のためにピックアップしていた、地域のマイナーな教会をチェックして、最寄りの一つに行ってみることにしました。
前置き長いですが、というわけで、今回は、めっちゃマイナーな教会を訪ねます。
片道15分程度だったので、ちょうどお手頃のオフェーナOfenaという村です。
クルマを適当に停めて、歩き出しましたが、教会の名前しか知らないので、どこに向かったらいいのか分かりません。
会った数人に訪ねまくり、なんとか教会がささげられた聖人の名前となっている小路にたどり着きました。
で、これかいな、という中世っぽいい開口部のある壁に気付きました。
どうやらこれが、オフェーナOfenaのサン・ピエトロ・イン・クリプティス教会Chiesa di San Pietro in Criptysです。
壁をなめるように見て、一つの扉口のアーキトレーブ部分に、古そうな彫り物発見。
これは違いない、と思って、でも、修復工事中なのか、とにかく取りつく島のない状態なんですよね。仕方なく、手前にある塀に登って、そこから、開口部越しに、内部を除きました。決死の行動、笑。
そしたら、予想外に面白そうなものが見えたんです。
これが、多分ファサードの扉じゃないんでしょうかね。
アーキトレーブに、やはり文字で、脇の柱には細かい植物系の帯彫り物がありそうです。柱頭も、プリミティブな様子ですが、しっかり装飾的。
これは面白そうじゃんか、と思ったのですが、できることはこれだけ。
場所がね、村はずれで、たどり着くまではちょこちょこ人に会ったのだけど、ここでは人っ子一人いなかったんです。車は駐車されているから、住人はいたんでしょうけど、昼の直後だしねえ。
せめてうろうろしているにゃんこと遊んだりして、だれか来ないかなぁ、と時間をつぶしたんですけども。
ちょっと、このにゃんこがね、ふさふさしていて、態度も堂々としていて、私にはラファエル(綿の国星)にしか見えませんでした。
ラファエルの割には人懐こさもあって、近寄られてまたびっくり。
左右の眼の色が違う子でした。
ま、それはともかく、当初の目的、時間つぶしにはなりましたけれど、残念な見学で終わってしまったわけです。
今更調べてみると、しかしこの教会、実は見るべきものがあるようなんで、別のびっくりです。
修復工事が2019年に終わったということなので、私が訪ねたときは、その直前だったのでしょうね。前回の記事のブッシも似たような状況だったので、あの時期、おそらく地震の影響もあったのか、あちこちに予算がついて、修復が行われていた、ということかもしれません。
以下、簡単な解説を見つけました。
「サン・ピエトロは、その名前に、洞窟とか、クリプタとかを付けられることもあるように、地下構造がある。
創建当初は、村からは離れ、孤立した場所に立っていたが、現在は、サン・ピエトロ地区という村の一部となり、村からカプチン派の修道院へと続く道沿いにあることとなる。」
「一身廊で、円筒の後陣。教会は二層構造になっていて、下部が、いわゆる地下、洞窟のようなものとなっていいて、上部が本来の教会となっている。
教会は、13世紀に開けられたロマネスク様式の開口部を持つ壁のプロナオス構造を持ち、床面には白黒の幾何学モチーフのモザイクが施されている。
扉は、オフェーナのシルベストロの作品ということが、記されており、同時に1196年という年代も記されている。これが、教会創建の年と考えられている。」
「内部後陣には、1400年代のフレスコ画が保存されている。
2019年、フレスコ画及び祭壇、また各扉口の修復作業が終了した。」
床の白黒モザイクとか、洞窟と呼ばれる地下構造は、ちょっと見てみたいもので、検索したのですが、修復されたフレスコ画の写真しか出て来ませんでした。
今は、きっと公開しているのではないでしょうか。
一つ、ユーチューブに、最近あったらしいグループ見学の映像をあげている人がいて、素人のものですが、ちょっとだけ雰囲気が分かりました。内部は真っ白の漆喰塗になっているので、ロマネスク的に面白いものはありません。
唯一分かったのは、ロマネスク様式の開口部のあるところが地上レベルで、下の方は地下部分となること。
坂になっている土地に合わせた構造だったということですね。
地下を彫ったというよりは、一部外に面している構造で、ただの倉庫だったのかもね。
わたしの時は、そういうわけで、見るものもなく、早々に引き上げることとなったのですが、なぜか村の上の方に行ってしまって、段々畑になっているオリーブ畑を抜け出すのに、えらい苦労しました。
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イタリアぼっち日記
2022/03/21(月) 13:15:17 |
アブルッツォ・ロマネスク
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アブルッツォ週末ロマネスク修行(2018年11月)、その30
この辺りって、さほど広くもない上に、起伏がある土地柄、道の選択肢は限られるので、同じ場所を何度も行ったり来たり、ということが、頻繁に起こりました。
今回の記事の教会も、そういう道にある教会なんですが、まさに道沿いに建っているので、最初に通った時にすぐ気付いたのですが、駐車する場所がないじゃん!とそのまま通過しました。
いつまでたっても、運転に余裕がないっていうか、突然の対応って無理。
見学の時は、道を挟んだ反対側にある村でランチを取ったので、そっち側に車を置いて、歩いてアクセスできました。
ブッシ・スル・ティリーノBussi sul Tirinoのサンタ・マリア・ディ・カルティニャーノ教会Santa Maria di Cartignanoです。
立地は、こういう様子なんです。
国道SS153を挟んで、右の方が村で、左はほぼ何もなし。道を走っていると、この教会には絶対気付くんですけど、教会に目が行っちゃうので、右に村があることに気付かず、そして、特に南の方から来ると、気付いたからとて、村に簡単に入れる作りになってないんですよ。
それも、国道は、交通量はすごく多くはないですが、どの車も結構スピード出しています。
今だったら、村から教会側に渡るのが怖くて、いつまでもたたずんでしまいそうです。事故の後、どうもトラウマがすごくて、横断恐怖症になっています。
村側からは、こういう状態で、教会にアクセスできるような横断歩道もありません。
ま、それはともかくとして、トップの写真で分かるように、ここは完全に廃墟となっています。わたしが訪ねたのは2018年11月でしたが、工事の柵が張り巡らされていました。
掲げられていた工事の看板では、修復工事は、2018年4月に開始されて、120日後の同年8月に終了と、明確に記されていましたけどねぇ。
さすがに今は、もう工事中ではないでしょうね。
とても古い教会で、創建は11世紀とされています。当初は小さな礼拝堂だったようですが、同世紀後半には、修道院となったようです。しかしながら、16世紀にはその機能もなくなり、ほぼ使われなくなっていったようなんです。
18世紀後半に、教会は「三身廊、三つ後陣、祭具室、北部に大きな扉、そして東方向に他の小さな扉、これらは1200年代のもの」という記録があり、つまり教会としての建物の状態は、当時も、比較的保たれていたようなんですが、1800年代以降完全に放棄され、荒れるにまかされてしまったということのようです。その上に、度重なる地震のため倒壊が進み、とうとう屋根も落ちてしまった、という寂しい歴史の教会です。
そのような状態の中、よくぞ、と感心するのですが、前世紀になって、発掘や修復が実施され、建物の一部が再建築され、それが今存在する姿となっています。廃墟であることに変わりはないのですが、もとはこうだったのかな、という様子を想像できるような形にはなっています。
一応、周囲をぐるりと歩けるようにはされていて、後陣側。
とてもシンプルな構造で、この辺りの教会の雰囲気満載。地味なんですよね、基本。
内部は、三つの後陣がある三身廊様式となっていますが、外側は、中央部の後陣だけが突き出しています。ブラインドアーチで、わずかに装飾的なものがありますね。
浮彫というより、記号の線彫り的な…。
何か装飾したいという気持ちは伝わってきますが、適切な職人さんを使うことができなかったということなんでしょうか。ロショーロも近いんですが、あそこで12世紀に働いていた職人さんたちにも、頼めないレベルだったんでしょうか。でも、小さな礼拝堂のままだったらともかく、修道院になっていたということだし、ちょっと不思議です。
最寄りの村ブッシは、今でも小さい村ですが、おそらく当時は修道院の門前町があったかなかったかという規模だったと想像しますが、それにしても、ロショーロよりは平地だし、今は国道になっている道も、古くからあると思えるんですよねぇ。
まぁ、北上しても山間に入るロケーションだから、当時は交易的な人の行き来が少ないなどの理由もあったのかな。
ファサード側も、まったく地味です。
扉周り、アーキトレーブもリュネッタもほぼ無装飾で、ただ一枚の葉が置かれただけ、とあるのですが、この距離でしかアクセスできず、葉っぱの彫り物は分かりませんでした。
ファサードの中央に、バラ窓がありますが、ファサードのサイズ感からすると、小さいものですね。
放射状に並べられた小円柱で形作られています。この支えというか、装飾的な部分は、彫りが入ったりして、一所懸命作っている感は感じます。
でね、ここを拡大したら、バラ窓の右情報の方に、線彫り系の何かがありました。
何かって、まぁどう見てもお花ですね。
小さめの切り石一つに彫られているので、積まれる予定の石に、誰かが彫っちゃって、とか?すごく唐突。でも、他からの転用とは考えにくい、後陣側の線彫りにも共通するものです。
でも、こんな地味な様子ですけれど、実は後陣にフレスコ画があったんですね。残念ながら、というより廃墟なんだから当たり前で、よくぞ救済されたと思うんですが、現在ラクイラの国立博物館に所蔵されているということです。
これは、事前に分かっていれば、見たかったやつです。
お借りした写真ですが、ビザンチン系の洞窟教会にありそうじゃないですか。何で、事前にチェック入れてなかったのかなぁ。調査が半端でしたわ。
その他、彫り物もあったようで、それはブッシの村の教区教会に保管されているともありました。もう全然ノーチェックで、がっかりよ、自分に。
どこでもかしこでも、再訪むべなるかな、という結論になりますねぇ。
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イタリアぼっち日記
2022/03/20(日) 17:18:01 |
アブルッツォ・ロマネスク
| コメント:2
アブルッツォ週末ロマネスク修行(2018年11月)、その29
マッサ・ダルべMassa d’Albeのサン・ピエトロ・イン・アルベ教会Chiesa di San Pietro in Albe、続きです。
前回書いたように、このファサード部分には鐘楼構造物がくっつけられて、なんだかへんてこりんな入り口となっています。鐘楼部分が、前の方にせり出したようにとなり、扉周りの造作は、ロマネスクよりも下る様子ですね。
この鉄柵から入った鐘楼の基部の部分は、言ってみたらナルテックスというのかポルティコというのか、そういう前室的なスペースとなっています。
元々の本堂入り口は、今はただの板戸って様子の木製扉がついていますが、本来は、素晴らしい木彫りの装飾がある扉で飾られていたようです。
今はCelanoの地域宗教芸術博物館Museo d'Arte Sacra della Marsica 所蔵とのこと。場所的には近い村だし、サイトで見たら、ちょっと面白そうな様子もあるので、当時は、全然チェックできていなかったのが残念です。
下は、お借りした写真となります。
この扉も、前回から言及している1915年の地震で損壊し(バラバラ粉々状態だったようです)、修復も兼ねて博物館ピースになったそうです。
左右二枚同サイズで、全体が28の部分に分割され、植物や動物のモチーフが非常に繊細な浮彫でなされていて、オリジナルは彩色があったと考えられています。
実際にどの程度の状態なのか分かりませんが、ロマネスク時代の木彫りというのは大変珍しいものですし、気付かなかったのは、今更ながら残念です。が、この時のアブルッツォは駆け足旅で、とりあえず行ってみたものなので、再訪はどうせ必至ですから、ま、いっか。
本堂扉の手前両脇、つまりポルティコのようなスペースに、こんなずっしりと柱。これは、おそらくローマ遺跡からの転用と思います。この教会、ま、これほど近くに遺跡があれば当然すぎるほど当然と思いますが、転用再利用品てんこ盛りです。
入場してすぐ、気付きますよ。
ずらりと並んだ壮大な柱は、ローマ時代の円柱の再利用です。いかにもですよね。12世紀の再建工事の際、これら円柱を導入して、三身廊構造が作られました。わたしが見た解説では、他の建造物のアイテムを再利用した、アブルッツォにおける唯一の教会建築とあったのですが、本当でしょうか。柱や柱頭などの再利用は、どこでも普通にありますし、ここだけというのはちょっと違うようにも感じるのですが、ボリューム的にここまで沢山、という意味なのかな。
がらーん、とした印象の全体の中で、この教会でも、左手にある説教壇、そして正面のイコノスタシスに目が吸い寄せられます。どちらも1200年代のもので、赤と緑の蛇紋岩がふんだんに使われたモザイク装飾は、コスマーティの典型。
説教壇。
キラキラで端正で、あまり好みとは思えないタイプのやつですが、よく見ると、あちこちにちょっと前の時代の彫り物などが使われているので、ちゃんと確認しないといけません。
これは、大修理の際に作られたもので、中央部分に、棟梁Giovanni di Guidoそして職人アンドレア、とあり、棟梁の指示で、アンドレアさんが実質作ったものとされています。
中央上部に、楽しい子たちが隠れていますよ。
それにしても、床じゃないアイテムのコスマーティって、構造物も、時代的にすっきりできていることが多いからかと思うんですが、遠目には変に端正で、クールな様子で、ロマネスク的な魅力に薄いところがあると感じるんですけれど、至近距離から見ると、手作りではめ込んだ職人仕事感満載で、見方が変わったりするんですよね。
モザイクに引き付けられてうっかり見逃しそうな場所に、こういう浮彫がはめ込まれています。これは、ローマではないけれど、教会にすでにあった何かからの再利用なのかな。
13世紀だから、もちろんこの説教壇のために彫られたものでも、決しておかしくはないんだけど、なんかコスマーティモザイクとは合わない感じがしてしまうんですよねぇ。
この説教壇、円柱の間、そして身廊の間に置かれていて、裏側もすごいです。
こっち側は、コスマーティだけですっきり。
こういう方が、コスマーティのイメージなので、中央向きの方の浮彫が、ちょっと浮くって感じたんです。
イコノスタシスは、左右同じような意匠で、これはコスマーティっぽい、遠目端正のタイプ。
上部に、アンドレアと書いてあるのが分かるでしょうか。こちらには、アンドレアの名前だけが記されているので、彼単独の仕事と考えられているようです。
イコノスタシスは、こんな様子で、壮大な柱の合間で、かなりこじんまりとした構造物と感じられます。
私が見た解説では、上の小円柱は、もともとクルクル渦巻き装飾の入ったものだったのに、1993年に盗まれ、メタル製の装飾のないものに代替されたとされていました。でも、幸いにも一部が戻ったので、改めて据え付けの工事がされる予定とありましたが、端っこの方は、こんな様子。
これらは、盗まれなかったものなのか、それとも戻ってきたものがここに据え付けられたのかは分かりません。
このらせんの柱は、本当にきれいで、幾何学模様をこんなに正確にモザイクで作るって、数学的な図案作成も、実際にはめ込んでいく技術も、いい加減な私は感心するばかりです。
装飾的アイテムとしては、1200年から1500年代までのフレスコ画が多数あったようですが、これまた、1915年の地震で多くが損壊。一部が救われ、やはり先述のCelanoの博物館に所蔵されている、ということです。
最後に、いかにも解説らしい考察で、しめたいと思います。
「このロマネスク様式の教会の建築に当たっては、モンテカッシーノにおける教えが、地元の職人たちによって見事に再構築されたサン・リベラトーレ教会におけるベネディクト派の技術者がたどり着いた理論に基づく提案があった。カンパニア地方やモンテカッシーノ、またロンバルディア、古典芸術とビザンチン芸術によって導かれたニュアンスなどによる建築的な理解によって影響された文化的背景から始まり、この教会の芸術性は、シンプルで本質的な形を取ることで実現された。それにより、祭具、チボリオ、イコノスタシス、また素晴らしい木製の扉などの装飾がさらに引き立っているのである。」
分かりますか?
ロショーロの解説にも、結構あちこちから伝播したものが混ざっているという考察が多かったように思うのですが、そういう土地だったんですかね。または、ずっと気になっているモンテカッシーノの存在が、そういうことを可能にしたということなんでしょうか。
面倒だけど、調べないといけませんねえ。
最後に、現場に置かれていた地震後の写真をあげておきます。
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イタリアぼっち日記
2022/03/19(土) 18:49:01 |
アブルッツォ・ロマネスク
| コメント:1
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