アブルッツォ週末ロマネスク修行(2018年11月)、その46
グアルディア・ヴォマーノGuardia Vomanoのサン・クレメンテ・アル・ヴォマーノ教会Chiesa di San Clemente al Vomano、続きです。
後陣からファサード側に戻りましょう。
装飾の少ない外観ですが、扉周りだけは、ちょっと飾られていますよ。
解説では、サン・リベラトーレ・ア・マイエッラ修道院の建築テイストに言及があり、また石工がかぶったりするんでしょうかね。アブルッツォでは、要は、どのアイテムについても、棟梁、工房、石工個人とか、かなりかぶるということが明らかですね。土地として狭いわけではないのですが、山がちで、通り道が限られたり、教会や修道院を建設できる場所が限られているなど、そういう理由もありそうですが、いろんな制約があった結果なのかな、と推察します。
切り石をつないでいる様子の装飾彫り物です。
全体に、多くの建材が再利用のものであると分かるそうです。経済的理由から、修道士たちが、各地から少しずつ集めてきたものが使われているそうです。
上のアーキボルトも、そして、側柱も、とげのある大輪の花、つる草、そして小さな縁取りという古典的なテイストのある、のみで彫られた渦巻き装飾で飾られています。
この、向かって左側の扉脇、上の部分が見えるでしょうか。碑文がはめ込まれています。
「ANNI AB INCARNATIONE DOMINI NOSTRI JESU CHRISTI SVNT ML-C-VIII INDICTIONE XV」とあります。ここで、1108年とわかるのですね。ML-C-VIII に建設されたというような意味になると思います。こんな場所にいきなり碑文って、あまりないと思うのだけど、アブルッツォの人たちは、一般人が読めたのか、または読み書きをとても大切に考えていたのか、逆に読み書きが一般人には手に届かない崇高なものだから、装飾的に使われたのか。ほとんどの人にとっては面白くもない妄想が尽きません。
このアーキボルトの外側アーチ部分にも、文字が彫りこまれているんですよね。見えにくいと思いますけれど。
見えようが見えまいが、読めようが読めまいが、構っちゃいねぇ、という様子の彫りこみ方ですよね。一体どうしてここまでしたのか。石工さんの自慢臭が感じられますけど、さて、どうなんでしょうか。
ちなみにですが、発注者、石工の棟梁の名前が彫られているようです。「IN DEI NOE P. PRVPOS. ET B. FILIO FECIT FARE ORA AITGNISSCARDV ARTIFICE DE ARTE ARHETONICA」。おそらく「神の名のもとに、P.Pruposとその息子Bが、サン・クレメンテ・ダ・ニスカルドの入り口を実現した、建築のマエストロである。」
ちょこっと、動物たちもいたりします。そういえば、サン・リベラトーレにもライオン系がいましたけど、テイストは違いますよね。共通するのは、二頭向かい合っている様子くらいで…。
四角の中の花模様って、すっごく古典的で、なんならローマ臭もするようなモチーフです。
全体に、モチーフも浅浮彫加減も、とても古典的なテイストが感じられます。ヘタウマっていうんでもなく、なんだろう、ロンゴバルドを継承しつつ、ロマネスク時代ものですよ、みたいな様子っていうのかな。
うまくはないと思うし、モチーフのオリジナリティもないけど、思想が感じられる何かはちょっとある、みたいな感じっていうのかな。アブルッツォって、そういう感じがある。
内部の前に、歴史のおさらいをしておきましょう。
ってか、ちょっと調べたら、例によって余計なことまで見ちゃって、自分の記憶の書き換えっていうか。
この時期、この辺一帯、特に、ヴォマーノ川の谷において、ベネディクト派の修道に関する諸機関の発達が著しく、ベネディクト派の僧たちは、地元の人々の助けも得ながら、このサン・クレメンテはじめ、他にも多くの僧院を建設しました。
歴史的な確証はないものの、ルドヴィコ2世の家族がGuardia Vomanoの城に滞在していたという伝説があります。それは、duca Adelchi di Benevento およびロンゴバルド族の王子たちによって仕組まれた謀反から逃れるための、逃亡の時期だったとされています。
やはり伝説だが、その家族の中に、Ermengarda王女が含まれていました。ルドヴィコ2世唯一の娘であり、のちのLudovico3世の母となる彼女は、この土地の美しさを称賛し、ここに、サン・クレメンテに捧げる教会と修道院を立てることを望んだのでした。一部の研究者は、このルドヴィコ3世の母が、ベネディクト派に対して教会の建設を許可し、そして、カザウリアの修道院に寄贈したのではないか、としているとのこと。
なるほど、と言いつつ、えーっと、ルドヴィコって誰なんだっけ?と言ってくださる方、強く強く共感いたします、笑。中世の歴史って、複雑っていうほどのこともないけれど、ローマ帝国ほど単純じゃなくて、いろんな勢力が複雑に交わるので、覚えても覚えても(実は覚えちゃいないんですが…)、どうしても忘れちゃうのですよね。
というわけで、改めて、中世辞典や中世地図帳を引っ張り出しまして、また余計な時間を、というか、楽しい時間を過ごす機会を得ましたです。中世地図帳は、何年か前にフランスで求めたものですが、図解がなかなか楽しくて、その上具体的な蛮族の侵入経路など分かりやすくて、一度広げると、ついつい見入ってしまうんですよね。
今回は、ちょっとびっくりする発見がありました。
何度も見ていても、気付かないことってありますよね。そして気付かなければないも同然で、これまで全く認識してなかったです。10世紀頃、いわゆるヨーロッパの東端に、キエフKiev王国(今はキーウって呼ぶんですよね)ってのがあるのに気付いたんです。王国は、キエフが南端って様子で、今のエストニアとかのあたり一帯までに広がっていたようです。キエフって、長い歴史ある土地だったんですね。そして、アジアとヨーロッパをつなぐ、東西の交わる場所って様子にも見えます。
こんなご時世だからこそ気付いたわけなんですが、なんだかさらに現状が悲しくなってきました。
脱線終わり。
話を戻しますと、ルドヴィコは、フランス語だとLouis、つまりルイで、カロリング朝の皇帝一族。フランク族起源、つまりカール大帝(747-814)起原で、カロリング朝はご承知の通り、現在のフランスおよびドイツとその周辺地域を支配していたもの。カール大帝が、広大な地域を、息子たちで分割統治するように仕向けたと記憶してます。Ludovico2世(825-875)は、カール大帝から見るとひ孫の世代となり、西ローマ帝国皇帝。
そもそもカール大帝が、774年にロンゴバルドが隆盛を誇っていたイタリア半島に侵攻したものの、北部制圧のみで南部までには到達せずに引き上げ。半島中部は、その後ローマ教会へ寄進されて教皇領となりました。南部では、ローマ帝国勢力とロンゴバルド王国を前身とするベネヴェント公国が争っており、その混乱に乗じるようにしてイスラム帝国がシチリアに上陸。失敗もあったものの、その後952年、イスラムはシチリアを占領。
ここヴォマーノに出てくるルドヴィコ2世は、イタリア南部におけるローマ帝国とベネヴェント公国の争いの中に巻き込まれた、ということ。
彼は、その皇帝在位中、ほとんどをサラセン人、ロンゴバルド、ビザンチンとの戦いに費やしたが、871年敗北し、ベネヴェントのアデルキ王子によって獄につながれる、というところで、上の伝説につながるわけです。
ルドヴィコはフランク族だったけれど、娘の名前はエルメンガルダなんて、ちょっとエキゾチックなロンゴバルド風ですね。そういえば、カール大帝は、ロンゴバルドのお嫁さんをもらったりしたんじゃなかったっけな。
ヨーロッパって、地続きだから、そんなことが沢山あって、民族も融合したりしてるわけなんですよねぇ。それなのに、土地には固執してたりするし、なかなか島国の人間には分かりにくいものが沢山ありますねぇ。
美術から離れた話ばかりになってしまいましたが、カロリング朝は、もう少し資料を読みたいものと改めて思いました。ロンゴバルドよりは、色々ありそうですよね。
続きます。
いや、脱線が、でなく、本道が、笑。
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イタリアぼっち日記
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2022/04/29(金) 21:57:58 |
アブルッツォ・ロマネスク
| コメント:2
アブルッツォ週末ロマネスク修行(2018年11月)、その45
次に目指す教会は、11時半に行われるミサの時間のみのオープンという情報を得ていたので、若干焦っていました。知らない土地って、時間を読みにくいし、とにかく方向音痴ですからナビがあっても、あえて間違った方に行っちゃう人だしね、笑。
事前に地図で、漠然と頭に入れていたロケーションを、ナビでたどったのですが、自分で考えていたとは違う場所で、教会の看板が目に留まったので、半信半疑ながら素直にそこをたどったら、ちゃんとあったんです。ナビには、目的地を正確にはいれてなかったと思うので、道端の表示に気付いてラッキーでした。
今は、スマホを使うこともありますが、この頃はまだナビ中心だったし、アブルッツォは山がちの土地で、ネット接続状況が悪いことも多かったので、やはりそういう時は車のナビや地図、そして道端の表示が最強ですね。
ネット世代、いやそうでなくともネット依存になっているドライバーだと、接続がないとパニクることもあると思われ、古いジェネレーションでよかった数少ない点ですね~。
そんなわけで、意外と順調で、なんと11前には着いてしまったんです。
その上、ミサの時間は全然先なのに、扉開いてるし!
グアルディア・ヴォマーノGuardia Vomanoのサン・クレメンテ・アル・ヴォマーノ教会Chiesa di San Clemente al Vomano(市の電話番号085-895021、多分教会のサイトSanclementealvomano.itで、教会への連絡先info@sanclementealvomano.itで予約とあったので、よく覚えてませんが、コンタクトしたけど返信がなかったように思います。いずれにしてもミサの時間があったので、その時間に行くしかないと考えた次第。鍵番さんの連絡先は見つけられませんでした)。
この時の私の様子、長く読んでくださっている方には想像つくと思いますが、ご主人が帰宅するのに気づいて、まだ姿が見えないのに、はぁはぁしだすワンコのような落ち着きゼロ状態、居ても立っても居られない状態で、アワアワしながら荷物をまとめて車を降り、よろよろ教会に突進、というよだれタラさんばかりの例のやつです、笑。
入場すると、他の訪問者がおり、どうやら鍵番さんのようなおじさんが案内されているようでしたので、要は、この前の教会とは立場逆転で、すでに鍵を開けてもらった人の恩恵を、今度は私が思いっきり受けることとなったわけです。やはり人生は山あり谷あり、情けは人の為ならず…、とかどうでもいいこと、走馬灯のように…。大げさですね。
ふふ、ここの鍵番さんもまた人物でした。カペストラーノの移民経験者といい勝負っていうか、笑。こちらの方は、教会への思い入れがしっかりある信者さんで、とても熱心にガイドもしてくださったのですが、大抵の「噺」のマクラが、「妻が遠方の親戚のとこに行っていて、色々不便で困っている」「ベルギーに出稼ぎに行っていて、戻ってきたんだけど…」という二つの愚痴の繰り返しなんです。ガイドしてくださる内容は面白いんですが、マクラが~…。
一人旅で車旅だと、結構教会を点で結ぶ黙々状態になることも多いんですが、アブルッツォでは鍵番さんが活躍されている教会ばかりだったので、しゃべる機会も多くて、健全な楽しい旅ができたと思います。
さて、教会に戻ります。
まずは外観から。
創建の正確な日付が分かる資料はありませんが、修道院の創建は、9世紀後半、871年頃と推定され、890年以降であることはないことが分かっているそうです。
今ある教会は、1108年に再建改築工事がされた、その結果、ということで、ロマネスク様式となっています。
この写真で分かる通り、ファサードは、シンプルで装飾なし。真ん中に扉が開けられており、また、その上部に仕切りのないシンプルな開口部。傾斜屋根のトップの部分に装飾的アイテムが置かれているだけです。
ちなみに、二人のうちのどちらかが、鍵番の愚痴おじさんのはずです。
ファサードに向かって右手に、入り口っぽいものが見えますでしょうか。これ、墓地への入り口となっています。後陣にアクセスするには、墓地に入るしかなくて、本堂の後に行ってみましたが、ここではさっそく行ってみましょう。
本来は、教会に沿って、後陣側にアクセスすることが出来るはずと思うんですが、墓地側からは、近くには行けないんです。鍵番さんも、本堂の鍵以外はお持ちじゃないということで、団地式の墓地に入って、しばらくうろうろしていたんですが…。
気付いたのが、これ。テニスの審判椅子みたいなやつで、要は、高い位置にある墓に参拝する用の梯子段です。
参拝でもないのに、これを引っ張ってきて、なんとか後陣を拝むことが出来たんですよ。
シンプルながら素敵な後陣です。ブラインド・アーチにつけ柱と、私の好きなアイテム満載。色目の異なる石やレンガのはめ込みも好ましいです。
奥の方ににょっきりしているのは、アーチ式鐘楼で、これも、おそらく12世紀につけられたくさいです。教会と修道院の間にあった大きな壁を活用して作られたものとされているので、修道院設備は、今の墓地とは反対側、つまり本堂北側にあったということになります。
グーグルさんで見るとこういう様子です。本堂の右側にみっちりと建物があり、今は何に使われているか不明ですが、それがもともと修道院だったということになるようですね。
国道から緩やかな登りで、この修道院の先がグアルディア・ヴォマーノの村のなるんですが、おそらくこの教会が建ったころは、周囲は緑に埋もれているだけの土地だったのじゃないか、ということが容易に想像できる土地です。後陣側は谷となっているので、かなり孤立したロケーションです。
続きます。
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イタリアぼっち日記
2022/04/25(月) 12:05:11 |
アブルッツォ・ロマネスク
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アブルッツォ週末ロマネスク修行(2018年11月)、その44
モスクーフォMoscufoのサンタ・マリア・デル・ラーゴ教会Chiesa di Santa Maria del Lago、続きです。
13世紀後半とされているフレスコ画があるのですが、劣化や剥落が多く、また、後代の上描きも結構見られて、若干残念なことになっています。
上は中央後陣で、テーマは最後の審判。玉座に座った巨大キリストですよねぇ。でも、足先だけしか残ってないのは、かなり寂しいですね。
絵のタッチとか、人物の表情とか、ビザンチン風となるのかな。13世紀後半とされているものの、テイストはかなり12世紀に近いというか、とても魅力的で、だからこそ、キリストの肝心のお姿がないのは、残念です。
上は、キリストの右わきの方の絵なんですが、長いラッパを持つ天使が、死者に復活を呼びかけているそうです。
ビザンチンっぽいのもそうなんですけど、あれ?なんかに似てるって思いませんか?
復活を待つ死者の方も…。
ね、棟方志功ですよね。
彼の絵って、輪郭がはっきりしてて、色が明確で、なんか好きなんですけど、ビザンチン、つまりイコンと共通する何かがあるのかも、っていうのは初めて感じたわ。考えたら、宗教芸術って、西と東でつながっていたりするから、何かどこかで影響を受けたりということはあり得るわけだ。そして、芸術史は宗教芸術抜きには語れないわけだし。
西洋の近代芸術家がアフリカのプリミティブアートとかに走ったのは、そういうしがらみっていうか、どうしても抜け出せない何かがうっとうしかったりとかいうこともあったかもしれないし、日本の芸術家が逆にそこに面白みを見出したとかもあったかもしれない。
ちゃんと勉強してない強みで、また妄想が膨らむ~、笑。
キリストのお足元にも多数の死者がお祈りしてる様子。
それにしても、みんな、いい身体してるな。腹筋割れてる的な様子なんですけど~。またはお人形できな。
この当時の人たち、裸を描くモデルって、やはり遺骸かな。絵描きも聖職者だったりするから、死者の清拭とか裸を見るチャンスってあったのかな。いや、それよりもまずは自分の身体か?!だとしたら、このフレスコ画の作者は、筋トレ系…、笑。
下の段には、12使徒が6人ずつ並んでいます。
うりざね顔で、眉毛がスーッとしていて、ビザンチンというよりもっと東方な雰囲気もありますね。
基本、皆さん美しい。ビザンチンの特色ですね。モザイクなどで表される聖人は、大抵すっごく美しいですよね。まぁ、今の基準における美しさなわけですが、宗教的なものですから、やはり豪華さとかこの世のものではない的な表現をしたいわけで、とすると、往時の美の基準が、こういうことだったんだ、となるわけですよね、多分。
日本だと鎌倉から室町とかそういう時代、引き目鉤鼻よりはもうちょっと濃い感じになってるのかな。日本は、絵画がデフォルメ系で、実際のところどうだったのか分かりにくいよね。ってか、イケメン美女の基準が、現代とは相当違う感じするから、このビザンチン系の現代との共通性って、すごくびっくりする。
日本人は、すごく変わったってことなのかな?
妄想にレヴィ・ストロースまで入ってきたぞ…、笑。
この後陣以外の場所にも、残されたフレスコ画はいくつかあります。
でも、テイストが、13世紀とか14世紀とかそれ以降とかで、私の好みではないものばかり。
でもね、後陣それぞれのみならず、壁とか、円柱とかにもフレスコ画があった様子なので、オリジナルは、本当に豪華絢爛な教会だったと想像できます。
当時は日中でも薄暗かったし、信者は後陣には近づけなかったはずなので、よくは見えなかったと思うけど、あ、だから巨大キリストだったのかな。うっすらと最後の審判の図が見えるっていうのも、なんかインパクトが逆にあったかもしれない。
ということで、また長々となってしまった上に、最後のしめは妄想全開となりました。次に移動します。
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イタリアぼっち日記
2022/04/23(土) 11:41:15 |
アブルッツォ・ロマネスク
| コメント:4
アブルッツォ週末ロマネスク修行(2018年11月)、その43
モスクーフォMoscufoのサンタ・マリア・デル・ラーゴ教会Chiesa di Santa Maria del Lago、続きです。
今回は、この教会で最も注目すべきアイテム、説教壇です。
まず、あれ?と思うのは、彩色ではないでしょうか。そもそも、説教壇というアイテムへの彩色は、説教壇目白押しの、このアブルッツォにおいてのみならず、イタリア全体でもめったに見られないため、このようにオリジナルの色が残っているケースは、大変貴重だということです。
実際、彩色が全くないわけではないようであり、この地域には数多くの説教壇が存在することから、ここだけに彩色されていたという方が不思議なことにもなるかもしれないので、もしかすると他でも彩色があった可能性はありそうなんですが、ただ、アブルッツォに限らず、どうしても時間とともに退色するものなので、残っているケースがまれ、ということらしいです。
柱頭と同様ということですよね。
フランスには、彩色柱頭が非常に多いわけですが、すべてにオリジナルがそのまま残されているわけではないと思います。「ペンキ塗り立て」みたいのもありますし、明らかに定期的に上塗りしているだろうケースも散見されます。イタリアでは、彩色柱頭は、フランスに比較すれば、数的には圧倒的に少ないと思うのですが、時々かすかに色が認められたりすることはあるし、彩色してなかったわけではないんだと思うんです。ただ、時代とともに退色していく色を上塗りする習慣が薄いとかそういうことはあったのかと思ったり。それは、その時々の美的感覚とか習慣とかそんなところによるのかと思ったり。
彩色に関しては、おそらくまだ絶対的にこうだった、という証拠みたいなものはないと思うので、想像妄想の余地が沢山あり、研究者じゃない好き者が勝手なことを言える楽しい領域です、笑。
さて、ここの説教壇のスタイルは、サンタ・マリア・イン・ヴァッレ・ポルクラネータ教会にあるものと似通っています。
覚えているでしょうか、これです。
壇上へと昇るための階段の手すりの外側には、旧約聖書のストーリー(クマに対峙するダヴィデ、魚に飲まれたヨナ、そして吐き出されたヨナ)、聖人のストーリー(ドラゴンを殺すサン・ジョルジョ)、寓意的なフィギュア、想像上の動物、男像柱のようなデフォルメされた人のフィギュアなどがみられます。
ヨナが魚に飲み込まれているところ。
全体が色づいていたら、なんかすっごく派手な様子だったかもね。
そして吐き出されてから。
うっすら思い出すでしょうか、サンタ・マリア・イン・ヴァッレ・ポルクラネータ教会にあったやつ。図像的には、まったく同じですよね。そちらの記事で、かなり詳しく解説をしたので、良ければ、改めて参照ください。
怪魚のおなかに、丸いのがあるけど、こちらでは神の手が見えません。くっついてたのが取れちゃったのか、単に光背だけシンボル的に置いたのかどうか、こちらの説教壇については、あまり詳しい解説が見つからないので、不明です、あしからず。
ドラゴンをいじめるサン・ジョルジョ。これは向こうにはなかったかな。
これはあったよね、同じような感じで。あ、でも確か、動物と戦うやつは一枚で、サムソンかダビデかどっちかとなっていたのを、イケメン度が低いのでダビデ、と勝手に決めました。こっちでは、きっちり、対ライオン及び対クマがあるので、図像的に、上がサムソン、下がダビデとしておきたいと思います。が!どちらも、イケメンとはいいがたいのが、残念です。
サムソンも、ライオンと戦っているという迫真さよりも、ライオンっぽいワンコをからかっているような…。ふくらはぎだけは、やけに迫真の筋肉隆々な様子なのが、何とも…。
この教会で、主に活躍したのが、サンタ・マリア・イン・ヴァッレ・ポルクラネータ教会の解説でも言及された棟梁ニコデモNicodemo da Guardiagrele(正確には、グアルディアグレレ出身のニコデモ)さんということなんです。
Guardiagreleは、キエーティにも近い村ですが、でも、今の研究では、そこの出身ということはあり得ないということになっているようなので、なぜ、そこ出身ということになっているのか不明です。
言い忘れましたが、これらは、漆喰に施されたもので、つまりこの方、石工というより漆喰専門の職人さんとなるようですね。サンタ・マリア・イン・ヴァッレ・ポルクラネータ教会で、ルッジェーロの息子である彫刻家ロベルトと一緒にデビューした、ということが、1150年に文書で記されているそうです。
ニコデモさんの出身地は、今でも特定されていないようですが、少なくとも、この地域でしか明確な作品は残していないようです。結構狭い地域にある、あちこちの教会で作品を残していることから、それがグアルディアグレレ地域であることから、そこ出身とされたのでしょうかね。
残念ながら、いくつかの教会は消失しています。また、おそらく彼が残した最後の作品は、クニョーリCugnoliという村にあるサント・ステファノ教会chiesa di Santo Stefano a Cugnoliの説教壇で、1166年のものとされており、それは、このモスクーフォの教会のものと大変似ているようです。
このクニョーリという村は、この旅の際ノーチェックだったのですが、検索したところ、しっかり存在していました。教会外側は全く新しい様子ながら、説教壇はしっかりと残っているようです。大失敗です。もちろん、このモスクーフォからも遠くない場所です。
それだけ、多くの仕事をしているということは、それなりに人気の職人さんだったということですよね。でも、分かりますよね、言いたいこと…。
かわいくないよね…? そして、うまいのもあるけど、なんか彩色も変な作用しているっていうか、ちょっと、なんていうのかなぁ、素人っぽいっていうか、なんか魅力がはかれないっていうか。
柱頭にも、彼の作品があるはず、となっているんですが、そしてそれを否定するものではないけれど、ニコデモ、それほどもてはやされる何を持っていたのか?みたいな疑問が…。
ああ、でも引いて全体を見ると、これだけ飾り立てといてもなお、構成力とか、バランスみたいなものは非常に感じるので、棟梁的な力がある人だったということなのかな。
解説に、「ニコデモは、様式的には、遅れた人と言えるのかもしれないが、地域文化に合わせて、ロマネスクのアイテムを適合させる表現力にたけていた人だろう。彼のもたらしたものからは、アラブの影響が感じられる、抽象的な装飾の、細かく非装飾的な彫りの技術、装飾についても、三つ葉状アーチの採用についても。影響は、プーリア、シチリア、スペイン、アフリカ北部などを通じたものがあり、それらが肯定的に融合したことで、成功していると言え、それはまた、起原が異なるモチーフをつなぎ合わせる自発的なエネルギーのためとも言えよう。」とありました。
旅をしたのか、巡礼をしたのか、ドサ回り的に各地で仕事を重ねたのか、はたまた研究熱心で、各種知識のある人を通じて技術を仕入れたのか、いずれにしても、持っている技術や装飾アイテムを惜しみなくつかいこなし組み合わせる技術は、確かに感じられます。
細かい個別の彫り、特に人のフィギュアとかは、工房の若手の作品とかそういうことかもね。
でも、全体よくても、ディテールにかわいさとか愛嬌がないとねぇ、ダメよね。ミラノが誇るサンタンブロージョの説教壇を見てほしいくらいだわ(先日、久しぶりに訪ねたもんだから…)。
それにしても、これだけの装飾的な状態で、さらに彩色って、あまりに神々しくて、なんだか目がくらみそうな代物だったかもしれませんわねぇ、当時は。
この後に訪ねるヴォマノの教会にも関わっているそうですから、それもお楽しみに。
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イタリアぼっち日記
2022/04/19(火) 21:40:05 |
アブルッツォ・ロマネスク
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アブルッツォ週末ロマネスク修行(2018年11月)、その42
モスクーフォMoscufoのサンタ・マリア・デル・ラーゴ教会Chiesa di Santa Maria del Lago、続きです。
建築様式的には、アブルッツォの教会って、どこもとても似通っていて、短時間であれこれ見ると、記憶がかなり交錯します。
ここは、さらに、この前に訪ねたカペストラーノとレンガという共通項もあったりして、記憶力の弱い私には、結構厳しいロマネスク世界かも。
同じレンガでも、こちらの方が修復の度合いが少ない様子で、古び感が強く、好感度は高いです。
三身廊それぞれが後陣で終わるスタイルで、ここでは、角柱の代わりに、レンガの四本の円柱で、身廊が区切られています。
身廊を縦に見たときの中央の位置、ちょうど説教壇があるところに、半円柱が張り付いた二本の角柱が間に置かれており、それらが、内陣スペース、つまり聖職者向けスペースと、一般信者のスペースを明確に区切るものとなっていたようですが、前に見た教会のような障壁は置かれておりませんね。
ただ、これもこの地域の多くの教会に見られると思うのですが、床にとても低い段差があるんですよね。これについては、もしかするとこの先の教会で、言及があるかもしれません。この教会については、見当たりませんでした。
柱は、それぞれ特徴的な彫りものが施された柱頭を抱いています。
シンプルながら、非常にきっぱりとした線が印象的な植物モチーフと、一団の人物フィギュア。
この人々のフィギュアは面白いです。現場では、薄暗いし、細かいところまでの観察はできないため、「なんかかわいい~」くらいのイメージだったのですが、こうしてアップしてみると、かなりエニグマティックな様子です。
衣の様子から、聖職者の一団と思われますよね。こういう衣って、巡礼を表すというようなことをうろ覚えしていますが、どうなんでしょうか。巡礼のグループっていうのも、違うような気がしますし。
別角度から。
全身が表されている人が5名、顔だけの人が4名。
顔だけの人は、うしろにいるっていうのを、なんとなく全身彫るのはややこしいし、こういう表現にしたのか、と思ったりしたんですが、全身の人たちと、からんでるんですよねぇ、不思議な様子で。
明らかに首の部分に触っています。
それも、身体がない前提での触り方ですよねぇ。
意味や意図を探してみましたが、唯一見つかった説明では、私も一見して感じた、「二列目の人を表すのに、顔だけを彫った」というものでした。それでは納得できんなぁ。
この柱頭以外は、比較的ロマネスクに典型的な様子で、変にヘタっぽかったり、逆にとてもきっぱりしていたり、の違いはあれど、このグループほどの不思議はないものです。
あ、でも、この、縮尺的には小人の人たちも、ちょっと怪しいですね。
間に置かれた能面のような顔の下には、鳩らしき鳥がいます。
顔とか、両脇の動物の頭部などは、かなりロマネスク・テイスト満載ですが、小人二人は、プレ臭も感じられますよね。昔のものと、12世紀ごろの彫りとの合体、みたいな可能性もあるのでしょうか。
つい、そんなことも考えちゃうのは、起原が古いだろうことが分かっていることと、それを物語るようなものが置かれているからです。
今が今、見比べたわけではないですが、イメージとして、下の彫り物から、キンタニージャQuintanillaを思い起こさないわけにはいかないじゃないですか。
これは、上に置かれた彫り物同様、以前の教会にあったもの、ということだと思いますので、おそらくロンゴバルド系ですよね。
この手に影響を受けた石工さんが、ちょっと真似したりして彫った12世紀の彫りってことなのかなぁ。
それにしても、この、シマシマへのこだわり、すごいですよね。
確かに、下の奴なんか見ると、テイストやモチーフは12世紀だけど、アイテムが古典的なものからインスピレーション得た風です。
実はこの教会、名前の残る石工さんがおりまして、これまで見学してきた他の教会で働いた石工さんとも絡みがあるらしい、当時それなりの人だったようで、柱頭にも、彼または彼の工房がかかわっているのでは、とあったんですが、それはまた次回。
資料がないと、稚拙な説明というか、ただの素人の感想になっちゃって、ちょっと馬鹿っぽいですよね、笑。
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イタリアぼっち日記
2022/04/18(月) 15:44:24 |
アブルッツォ・ロマネスク
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アブルッツォ週末ロマネスク修行(2018年11月)、その41
フルで職場復帰したら、やっぱり忙しくて、いや想像以上に忙しくて、一応、今月は在宅勤務にしてもらっているものの、仕事終わると、なんだかもう…みたいな感じになっちゃって、なかなか更新が厳しいです。日々のどうでもいいことなんかは、時々別ブログ(下の方にリンク貼ってるんで、良かったら…)にあげているんですが、こっちは一応調べたりとかしないと書けないんで、どうしても時間の問題で、進みません…。
と、言い訳からスタートです、笑。
モスクーフォMoscufoのサンタ・マリア・デル・ラーゴ教会Chiesa di Santa Maria del Lago、続きです。
ここも、建材としてはレンガが多用されていて、この前に見学したピアネッラの教会と、比較されることが多いようです。場所的にも非常に近いので、同じ職人さんが多数かかわっていた可能性は高いですしね。
ただ、現在の様子は、相当修復されてしまっていて、レンガならではの経年劣化的な渋さとは無縁な感じで、若干風情に欠けますかね。
元々は、12世紀半ばの創建とされており、おそらく、それ以前にあった建物の上に建てられたもの。
ちなみに、現在の名称、サンタ・マリア・デル・ラーゴ教会Chiesa di Santa Maria del Lagoなんですけれど、この最後のLagoっていうのは、イタリア語だと湖という意味なんですよね。それで、はて?と思ったんですけど、実はこれ、Locusという、多分ラテン語ですかね?それがなんか伝言ゲームみたいに、ゆがんで伝わっちゃった結果の名前ということらしいです。
Locusは森という意味らしく、要は、森の中にあるサンタ・マリアが、湖のサンタ・マリアって、かなり違う状況になってしまったらしいんです。
森の中っていうのは、今でもうなずけるロケーションです。
前回も触れましたが、周囲は激しくオリーブ畑で、これが、往時はうっそうとした森だった、ということなんだと思います。
最寄りの村には比較的近いけれど、森の中、ということで、修道院にはうってつけの土地だったんではないでしょうか。側壁には、回廊へと続くとんがりアーチ様式の、側壁扉跡も見られます。
外側は、本当にきれいに修復されていて、地面もね、整備されまくりで、風情に欠けますけれど、それは贅沢な感覚ですよね。荒れ果てているよりありがたいはずなんで…。
このまま、後陣側へ。
シンプルですが、ブラインドアーチの後陣で、すごくロンバルディアっぽいですよね。親近感感じます、笑。
開口部周囲は、しっかりと古い様式での彫り物がありまして、これまたとてもコモの石工さん的な彫りです。
それこそ、コモのサンタッボンディオとか彷彿としちゃいますし、内側のらせん装飾は、古い時代の雰囲気を醸し出していますね。
こういうレンガの角を使ったギザギザ装飾、結構好き。その上に石の彫りが入っているのも好みですねぇ。修復が激しいですが、きっちりと残されているものもありますね。レンガの、微妙にバラエティに富んだ色も、それだけで装飾的ですよね。
脇後陣の開口部周りは、チャーミングな動物モチーフ。
逃げる草食動物系のお尻ガジガジの肉食動物という絵図でしょうか。控えめお尻ガジガジがたまらなくかわいいですね。いやらしく楽しそうな肉食動物が憎し、と思っても憎めない、みたいな、笑。
後陣側の方が、今なお緑の中にたたずむ雰囲気なので、往時のイメージがつかみやすく、また、残されているものもそのたたずまいにマッチして、雰囲気がありますね。
ただ、一見のっぺらぼうみたいな、若干修復しすぎたんでね?的な様子のファサードも、実はちゃんと往時の名残はありまして。
扉周囲の彫り物は、かなり古いものです。
モチーフのスタイルは、プレロマネスク的だと思います。上のディテールなど、スペインのプレロマネスクとか彷彿としませんか?ロンゴバルド、もしかすると、12世紀の教会以前の教会にあったものかもしれないですね。この辺りの解説は、見つけられてないんですけど…。
イタリアの中世においては、やはりロンゴバルド抜きには語れないよな、とこういう浮彫見ると思います。個人的に好きなのはもちろんとして、ロンゴバルドという文化がなかったら、イタリアのロマネスクにおける装飾性は、ずいぶんと違うものになっていたように思います。
特に自分がロンゴバルドテイストが大好きなので、そういうところからのアプローチを、もうちょっと深めたいと思うのですが、とにかくロンゴバルドという時代や文化は、研究も少なく、普通にアクセスできる資料も少ないというのがね。
まずは、「ロンゴバルドの歴史」を、もう少し丹念に再読しますか、という気持ちになっています。
ちょっと脱線ですね、真面目路線だけど、笑。
次回内部です。
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イタリアぼっち日記
2022/04/14(木) 21:43:01 |
アブルッツォ・ロマネスク
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アブルッツォ週末ロマネスク修行(2018年11月)、その40
最終日、早朝から行動開始です。
と言っても、教会の開いている時間は決まっているので、いくら気持ちはやる気満々でも、自分の思い通りにはいかないのが、悩ましいところです。
この日向かったのは、宿泊していたキエーティからも近めのモスクーフォという村のはずれです。事前に、9時からで、直前に改めて電話してください、ということだったのですが、早めについてしまいました。
それにしても、教会に向かう道の美しいこと。
県道の両側は、ずっとオリーブの畑で、うっとりしながらのドライブでした。この辺り、かなりのオリーブ産地だったのですね。
教会の前も、ずっとこんな感じの畑。
オリーブって、葉裏が銀色で、本当に美しいんですよね。木は、ごつごつとネジくれて、ちょっと不気味なくらいの様子だったりするけれど、葉があんまり優しいから気にならないっていうか。
訪問先は、こちらとなります。
モスクーフォMoscufoのサンタ・マリア・デル・ラーゴ教会Chiesa di Santa Maria del Lagoです。
ここも、他の教会同様、鍵を頼まなければいけません。9時からということなので、9時を待って電話しました。数分早かったと思うけど、女性が答えてくれて、若干いやいや感を感じさせるもの言いではあったものの、「すぐ行きます」ということだったので、楽しみに待ちます。
しかし!
その電話から、待てど暮らせど、誰も来ない…。
教会の脇には墓地があり、その前にスタンドが建てられて、数人の人がうろうろしていました。万聖節の連休でもあったので、おそらく何かイベント的なものがあったのだと思いますが、一人開かずの教会の入り口でたたずむ東洋人女子を、ちらちらする不審な目線が厳しくなってきます…。
教会の周囲をうろうろしながら、丁寧に撮影をして、「私は見学に来てるだけなの」的なアピールをしましたが、なんか、微妙な空気っていうか。
9時20分に、さすがにこれは、と思い、また電話したところ、今度は男性が出てきて、「え?誰も行ってないって?おかしいな。(向こうにいる人に向かって)おいおい、誰が電話受けたの?9時から待ってるけど、鍵が来ないって言ってるけど(ちょっと怒り基調、笑)。(再び私に対して)ちょっと混乱があったようなんで、すぐ誰か送ります。」ということになりました。
そしたら、ものの5分もしないうちに、本当に、来てくれて、つまりすごく近くにいる人たちらしいですね。宗教関係の何か施設みたいなところだと思うんですけど。
びっくりなのは、来てくださった男性、鍵を開けてくれて、明りをつけてくれて、そこまでは普通だったんですが、いきなり「見学したら、明りを消して、扉をしめてってくれ」と言って、そそくさと帰っていってしまったんです。
で、お礼も渡せずでしたし、え~、と唖然としてしまいました。
扉は、多分、閉めれば鍵が閉まるようなことになってたんだと思います。カギを預けられたわけではないので。
困ったのは、外の明かりが欲しいから、扉を半開きにしていたら、それなりに見学者が来ちゃうんですよ。
墓地に来た様子の地元の人なんかも、いつも開いてるわけじゃないからなのか、ちょっと覗きに来る感じで、結構な人が出入り始めました。
なんか、私、そんなのが気になっちゃって、困りました。
自分の見学はそれなりにしたんだけど、他の人がいて、切り上げ時が難しい。カギをお借りして見学するときなどに、えてしてこういう状況になりますよね。
いつまでもいられるなら、のんびり人が切れるのを待ってもよかったんだけど、あとの予定が詰まっているのでそういうわけにもいかず、とうとう、その時その場にいた中で、一番信頼できそうな中年のご夫婦に、事情を説明して、明りを消して扉をしめて出て行ってください、とお願いして、教会を後にしました。
ある意味、寛大よのぉ。
同伴じゃないと鍵を貸してくれない、でも同伴できないから貸してくれないとか、そういうケースも増えている中で、これはびっくりでした。前にも書きましたけれど、近所に鍵番がいるケースが、どんどん減っていて、これはイタリアのみならず、フランスやスペインでも同様で、特に町村を離れた教会だと、中に入ることがどんどん難しくなっているんですよね。
そういう世の中の趨勢に逆行する、というか、耐えているアブルッツォ、どこでも鍵番さんがいて、電話一つで駆け付けてくれるっていうのはすごいことだし、有難いことだと、改めて思いました。
教会の前には、何も書かれていないんだけど、近くに立った説明版の端っこに、私は事前にネットで探しあてた電話番号がありました。
なんかほとんど消えかかってるし、笑。今もあるんだろうか?
余計な思い出が長くなっちゃったんで、見学は次回。
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イタリアぼっち日記
2022/04/09(土) 15:55:48 |
アブルッツォ・ロマネスク
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アブルッツォ週末ロマネスク修行(2018年11月)、その39
ピアネッラPianellaのサンタンジェロ教会またはサンタ・マリア・マッジョーレ教会Chiesa di Sant’Angelo or Chiesa di Santa Maria Maggioreです。
前回、ファサードの紹介の中で、一つだけ言及できなかったアイテム、バラ窓からです。
ファサードの全体から見ると、バランスの悪い大きさになっています。それで変に目立っていますが、内部への光の取り込みが目的だったとされているようです。
これも、扉上のアーキトレーブなどを作った棟梁Acutoさんによるもので、内部にある装飾アイテム同様のモチーフを使った、豪華なものとなっています。
確かに、車輪みたいな部分、凝っていますね。円柱に柱頭にアーチみたいになっていて、それぞれ異なる細かい彫りが施されているのが分かります。実際に、ファサードを見上げる形で肉眼で見ても、こんな細かいところまでは見えるわけもなく、そういうのが、こういった宗教建築装飾のすごいところだと思います。認識されるものではなくても、細部に手を抜かない。だからこそ、全体の美しさが高まる、みたいな。
千年後にこうやって、拡大されまくりで、ここまで細部を見られちゃうとは思いもしなかったことでしょうね。あ~、そんなことなら、やっぱりあそこ、もうちょっとやっとくんだったよ~とか思ってたりしてね、笑。
バラの周囲は、凸型っぽい葉っぱです。扉周り同様、ここも、AcutoさんとVincavaleさんのコラボということになるのかな。または、Acutoさんが、流れ者の職人からすら新しい技術を取り入れて、しっかり自分のものとしたという証の作品になるのかもしれないです。
そういうのも、考えると面白いところ。
地場の職人さんがいる中で、ロマネスク時代辺りは、流しの職人さんが結構うろうろしていたわけですよね。職人さんといっても、聖職者だったりするわけで、巡礼と同義で、建築現場を渡り歩くみたいな人達。
地場の職人と流しの職人さんの関係とか、それを統率する棟梁とか、ドラマがありそうです。流れ流れて、まさかこんなところで終わるなんてなぁ、なんて人生もあったんでしょうし。
現代でも、工事現場って、結構外国人が沢山いる職場と思うんですけど、理由は違えど、国際的っていうのは、なんか面白い。ラテン語出来ないと仕事もらえない、とかあっただろうよね。
さて、そうこうするうちに、だいぶ日暮れが近づいて、やっと鍵番さんが来てくれて、中に入れることとなりました。
中も、しっかりとレンガ造作で、細かめのレンガが作り出す色の遊び的なものが、美しいものです。煌々とした明りで、ちょっと明るすぎるくらい、風情に欠けますけど、有難いことです。
12世紀ごろの構造が基礎としては残っているようですが、やはり天井は、15世紀に持ち上げられたようです。前回の記事で、ファサードのアーチが気になりましたが、やはり、あれがオリジナルの屋根の高さだったということですね。
全体にがらんとしているのですが、オリジナルでも、割とこういう感じだったのかな。
ここで見るべき装飾は、やはり説教壇。
左身廊に、一面を壁にくっつける感じで置かれています。これは、ちょっと珍しい置き位置のようにも思えます。だってね、下の写真、明りをつけてもらう前で、暗いんですけども、後陣向いた一枚。
左身廊の壁付けって、信者席と離れちゃって、説教壇としての役割が果たせないと思うんですけど…。そもそも存在が薄いし。上の写真だとよくわかると思うんですが、扉口付近からは、目につかないんですよ。
反対側の身廊から見ても、奥まり感が明らかです。
どう考えても、ここにあったとは信じがたいですけれど、と言って、自分で探した範囲では、どこにもその辺への言及はなしです。研究者よ、素直に自分の目で見たものを語ろうぜ!疑惑を解明しようぜ!と思っちゃう。だって、疑惑じゃないですか?装飾の説明もいいけど、ここは、置き場所の方が、謎だし興味ある。
装飾は、二面がそれぞれに分割されて、それぞれに福音書家のシンボルが彫りこまれているというもので、特に解説の説明もないような図像となっています。
マッテオとルカを表す天使と牛。周囲の装飾的な帯がすごいな。自分の腕を見せつけたかったかのような。
でも、ここでも、カペストラーノで出てきたと同じドラゴンがいますよ。わかりますか?
カペストラーノの方が、解説は沢山読んだんですが、Acutoさんの名前は出てこなかったと思います。でも、もしかして、売り込みかけてたのは、Acutoさんだったのか?あまりに同じ過ぎるから、どう考えても、もとは同じなはずで、単にこの地域ではやって、当時は著作権もないから、マネし放題、というだけのことかなぁ。
この説教台、なぜAcutoさん作か分かるかというと、名前が彫られているからということなんで、まさか自分の自信作に、真似モチーフは彫らないだろうから、とすると、Acutoさんのレパートリーだった、ということになるのだろうか。
というところでちょっと検索したら、カザウリアでも働いていたらしい、というのが出ていました。ということは、「Acuto™」ということになるのかもね。
アップで見たら、周囲の帯も同じ装飾だもんね。すべてきっちりコピーそのものですよね。
中央身廊向きになっている面には、ヨハネとマルコを表す鷲とライオン。
それにしても、ファサードにあるアーキトレーブの彫りに比べると、やけに緻密で、粘着質的な彫りじゃないですか。それも、台がマットで、この、すでに彫りというよりは彫刻になっているものたちが置かれている様子なんで、くっきり感がすごい。
いかにも、しっかりした技術を持った人が、ちゃんとした道具を使って彫った芸術品、というレベルで、なんか違う…。
同じ、「人」ということで、天使をアップしますけれど。
素材とか保存状態の違いとか、色々あるとはいっても、これは違い過ぎじゃないですか?
どっちかは、工房の他の手。Acutoさんの工房には、すでに師匠の上を行く技術者がいたのか。
その人が、実はドラゴン・モチーフを、師匠に黙って、売り込んでいたのかもしれないし、笑。
ちょっと長くなってしまいますが、一緒にフレスコ画も見ていきましょう。
フレスコ画は、全体に時代が下るので、私には訴えるものが、ほとんどありませんでした。写真で見ると、悪くはないんですけどね。
この、メインの後陣のが、おそらく一番古い時代ので、それでも12世紀終わりから13世紀にかけてというところらしいです。剥落も激しいですが、一部残っている人物を見ると、ビザンチン入ってるかなっていう様子があります。
目力がすごかったり、お口の表現がビザンチンぽいんじゃないか、と感じられます。
後は、14世紀から16世紀くらいになってしまうので、割愛します。
最後に、こういうレンガ造りですが、地味な様子で柱頭があり、素朴で好ましいものでした。
多分、夕食の支度とかある忙しい時間だったにも関わらず、来てくださった鍵番さんに大感謝して、もちろんいくばくかの心づけをお渡しして、辞去したら、もうすっかり日が暮れていました。
宿までは大した距離ではなかったのですが、田舎道だから怖かったですし、外食は面倒なので、食料品を仕入れて帰るつもりでしたが、食料を買えるお店を見つけるのに、また相当うろうろして、それも基本、街灯が少なくてすっごく暗い道が多くて、苦労しました。やっぱり、冬の旅は厳しいです。
でも、そういうオフ・シーズンなのに、こうやってお願いしたら開けてくれる鍵番さんシステム、実にありがたいことです。今や、そういうことができる場所は減るばかりですからねぇ。
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イタリアぼっち日記
2022/04/06(水) 20:59:13 |
アブルッツォ・ロマネスク
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アブルッツォ週末ロマネスク修行(2018年11月)、その38
カペストラーノ、かなりゆっくり書いたのですが、実際の見学時間は半時間強です。それでも、若干押せ押せになっていて、冬でしたから、そろそろ日暮れが近づいてきて、辛かったのを記憶しています。
グーグルで見ると、高速か国道か選択肢が出て来ますけれど、確か、どんどん暗くなっていく中、やばいやばいとつぶやきながら山道を走った記憶があるので、国道を選んだのかなぁ。または、高速を出た場所がちがったのか。
ピアネッラPianellaのサンタンジェロ教会またはサンタ・マリア・マッジョーレ教会Chiesa di Sant’Angelo or Chiesa di Santa Maria Maggioreです。
(事前に調べていたのは、市の観光局の番号でしたが、そこで鍵番さんの番号を教えてくれました。当時の鍵番さんは、ご近所にお住いのPucaご夫妻で、その電話番号は、現地にも記してありました。)
確か、カペストラーノで観光局に電話して、そしたらPucaさんの電話を教えてくれて、近所に来たら改めて連絡ください、ということだったので、村の駐車場から電話をしました。
到着は17時ごろで、辛うじて日が残っている状態でしたけど、ファサード前で、待てど暮らせど、鍵が来ません。すわ!と思うと、ただの旅行者だったりして…。いつ来るか分からないので、後陣の方に回るのもはばかられ、非常にストレスフルな待ち時間となりました。
それでも、写真の撮影記録を見ると、待っていたのは20分強というところみたいで、正直大したことないですよね。でも日暮れが迫っていたので、宿へ戻る道も考えて、焦っていたので、長く感じられたんでしょう。催促の電話までしちゃったのを覚えています。
わたしの後から来た旅行者ご夫婦はすっごくラッキーだったと思います。なんとなく来て、なんとなくぶらぶらしてたら鍵が来ましたって感じですもんね。でも、逆のこともあり得るから、逆恨みはしない、笑。
でも、ここはファサード部分の装飾が一番重要だと思うので、待ってることで、そこは堪能できました。
日が暮れちゃったらダメなんで、後陣の方も行っときました。
レンガ積みで、ちょっとロンバルディアとか北部の教会みたいです。レンガの色目が色々で、とてもきれい。修復もかなり入っているようです。
レンガ積みについては、この後で訪ねる、場所的にはかなりご近所のこの教会、サンタ・マリア・デル・ラーゴ・ディ・モスクーフォとの比較や共通性が語られることが多いということですが、そちらの教会は、外側の装飾的アイテムがほとんど失われてしまっていて、それはやはりレンガという素材の弱さによるものとされているようです。そういう意味で、このピアネッラは、保存状態がかなり良いと言えるようです。
教会の創建は、アブルッツォ地域におけるベネディクト派修道院が普及した時代、紀元千年直後の世紀。ベネディクト派は、8-9世紀にこの地域にやってきて、12世紀になって本格的に普及したそうです。その頃、中世期初期に生まれた町村の周りに、大規模修道院の建設や再建を多数行い、ここピアネッラの教会も、その時代のものとなるようです。
今残されている建物は、12世紀終わりごろに作られたものですが、オリジナルはもっとずっと古いもの。
教会だけを見ていると分かりにくいですが、現地に行くとね、村の中にある丘上に建っているんですよ。
坂道の下が、村のメインストリートなんですが、結構な傾斜の坂だとわかるでしょうか。そして、周りはちょっとこんもりしていて、往時の雰囲気そのまま、というか、ここだけポコっと丘になっているので、教会周りはどうにもできず、村が大きくなっても、ここだけ残ったみたいな様子なんだと思います。つまり、場所として、おそらく神聖な場所だった可能性が高く、居住が始まった頃から、神殿などが建てられていたのかな、と想像します。
今ある建物は、そういうわけで、アブルッツォ地域における、最も古いロマネスク建築の例となっています。アブルッツォ地域ロマネスクに典型的な三身廊のバジリカ様式で、地域の他の教会(Santa Maria del Lago a Moscufo, San Pietro ad Oratorium a Capestrano, Santa Maria delle Grazie a Civitaquana, San Clemente al Vomanoなど)と共通するものです。
ファサードを見ていきます。ちょっとトップの全体写真に戻ってください。
唐突な様子で鐘楼がありますが、こちらは12世紀に建てられたようですが、本堂よりちょっと後の時代で、その際に本堂に手が加えられたとあります。最終的な完成は、15世紀から18世紀とされています。
ちょっと不思議に感じたのは、側廊に当たる部分というのかな。脇の部分に、斜めにブラインド・アーチがありますよね。これは通常、トップの屋根の傾斜に伴っておかれる装飾だと思うので、当初は、スタンダードな形、つまり、真ん中部分が高くて、脇の側廊に当たる部分は屋根も低いスタイルだったのを、鐘楼をファサードに組み込むために、持ち上げちゃったのかな、と想像します。オリジナルのスタイルだったら、今よりずいぶんロマネスク的で、かわいらしいファサードだったのではないかなぁ。
とんがりアーチの扉装飾は、おそらく棟梁Acutoという職人さんの作。
アーキトレーブには、8名の人物が置かれており、それぞれ碑文のおかげで、誰だか分かるようになっている。中央には、手に本を持った聖母が腰かけており、その左には洗礼者ヨハネ、そして右には福音書家ヨハネ。
両ヨハネさんが、スペースに合わせて、飛んでいるような不思議なポーズしているのがとてもロマネスク的で、かわいらしいです。洗礼者ヨハネさんの方は、なぜかマスクをしているように見えちゃって…。
四角い二つのバラ模様に分割されて、って、バラらしいし、実際そういう図像ですが、四角ってちょっと不思議。この棟梁、なんか不思議な表現力ですね。
向かって左にいる二人は、サン・ピエトロとサン・パオロということですが、ピエトロさんはおなじみの鍵ではなくて法王杖を持っているのですね。そして、彼もまたマスク派、笑。
向かって右側には三名。
ヨハネさんすぐお隣の人は見分けできず、それに続いてサン・ニコラとダヴィデ王。
より、真ん中に近い場所に置かれているのですから、重要人物のはずなのに、なぜ見分けができないのか。名前を刻んだ部分が消えちゃっているようですね。誰でしょうか。金持ちの発注者?その後何らかのことで非難があったりして、名前が消されたとか、毀誉褒貶的な歴史があったのかな。
すごく技術力が高くは見えないのですが、一人一人の人物が、違うポーズを取っていたりするところに、この職人さんの思想っていうか、そういうものはあるのかな、と思ったり。
そういえば、カザウリアでもカペストラーノでも、そしてここでもしっかりと文字を刻み付けるのって、そうそうどこでもあるものではないから、アブルッツォの特徴とは言えるのかな。時代的には、ビザンチンの影響ということはあり得るのかしら。確かあの人たちは、フレスコ画に必ず奉納者を記したりする習慣がありましたよね。聖人の名前を書くのは、また別だけど、なんかさ、趣味の妄想中…、笑。
アーキトレーブを支える側柱の彫り物は、古い時代の伝統的な図像な様子です。
さらにその右わきにも、これは12世紀よりも古い時代の教会にあったものでは。
めっちゃチャーミング!
アーカンサスの葉っぱモチーフ、すごくうまいし、縁取りの装飾的な帯は、ロンゴバルド風で、カペストラーノのものと似ていますよね。絶対古い。
絶対に、Acuto棟梁よりも、技術力あるよね?
っていうのも失礼だけどさ。
って思ったら、なんかね、アーカンサスのめっちゃうまいやつは、Vincavaleという名の石工の作品となってるんだそうだ。
この石工さんは、旅する職人さんだったらしく、自身がエルサレムから輸入した“tralcio bombato”(凸型、中央が膨れたつる枝文様)という革命的なモチーフを、この地域のあっちこっちで彫ってるらしい(サン・クレメンテ・ディ・カザウリアや、ペンネPenne、コルヴァラCorvaraなど)。
この人がアブルッツォ出身でないことは確からしく、その名前から、出身はフランク族系と考えられてるそうです。ってことで、当時、この地域と、遠方の他の国や地域との間に、芸術的文化的な交流が盛んだったことの証拠にもなる、ってことで、興奮してる研究者もいるらしい。
「エルサレムから直輸入の凸型つる草文様」。わたしはこっちに興奮した!これは受けます!まさにブック抱えて、売り込みかけてる様子じゃないですか。
ここの多くの装飾を手掛けたとされるAcuto棟梁とコラボしたらしいんだけど、どういう関係だったんだろうね。Acutoさんは、内部の装飾もやってるし、ここのまとめ役的な立場にいた中で、この凸型が殴りこんできて、発注者とかが、「もう是非ここでも採用しましょうよ~、棟梁~、なんとかそこをご理解いただいて、ねね、他はもうどうぞ自由にやっていただいて結構ですし~」みたいな説得があったんでしょうか。
Acutoさんのアーキトレーブとの整合性はあんまりないし、なんか葛藤みたいなものを感じないでもないです。妄想とまらん。
というわけで、続きます。
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イタリアぼっち日記
2022/04/03(日) 16:28:03 |
アブルッツォ・ロマネスク
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