最初で最後のアルザス中世、多分…(2019年4月)、その4
このところ、暑さ半端なくて、やっと今日は雨かとほっとすると雷雨だったりして、いずれにしても、パソコン開けて、ブログとか、およそ現実離れした作業としか思えず…。
なんせ、我が家はいまだクーラーないし、現在建物の外壁工事で、居間側も寝室側も、ばっつりと足場でおおわれているので、文字通り蒸し風呂なんで、常に増して、暑さが堪える状態なんです。ま、いいわけですけども。
こんなじゃ、この夏休みで、また写真が溜まる一方ですねぇ、グスン。
さて、今回は、またゲルマンっぽい様子の教会となります。

ゲブヴィレールGuebwillerのサン・レジェ教会Eglise Saint-Legerです(住所Place Saint-Leger、教会周囲が駐車場)。
前回のミュルバック同様、赤っぽい石で、二本鐘楼付きファサードの、立派な姿ですが、お分かりと思いますが、好物とは言い難いタイプです…。
ミュルバックのように、ちょん切れていないし、お姿は完璧な様子ですが、見るからに再建らしい部分は多いし、街中にある分、緑を背景にしたドラマチックなロケーションのミュルバックとは比べるまでもなく、すでに、身も心も引いてしまったりします。
研究者でもなく、好きで回っているだけなんで、好き嫌いを隠すこともなく発言できて、笑、こういうアプローチは、気楽でいいなって思います。まぁ研究者になるくらいだと、好き嫌いを超えて、どこでも何かしら発見してしまったりっていうことなどはあるのかと思いますけれど。で、なんだかんだ言っても、やっぱりロマネスクはいいなぁ、みたいなことに落ち着くのかも。
最近、さかなクンの動画をやたら見ていて、すごい、いや、すぎょい人だなぁとただただ感心していて、さかなクン的なロマネスク研究者の視点を想定してしまいました、ハハ。
さて、この教会は、ロマネスク後期様式、1182年から1235年にかけて建設されました、とありましたが、正確な工事開始時期は不明で、1142年から1182年ごろ、とする解説もありました。同じ場所にあった小さな礼拝堂の上に建てられたようです。
建設には、ミュルバックの修道院長の後押しが強くあったとか。
こういう町中の教会の運命でもありますが、ここも、竣工以降、時代時代で多くの手が入って、お姿も変容していきます。
例えば、ロマネスクの後陣は、14世紀に、ゴチックのスタイルに変えられてしまったそうです。

ここに、本来なら円筒形の後陣があったということなんでしょうね。
残念だとは思いますけど、全体像的には今の姿、特段違和感がないのも確か。
身廊なんかも16世紀に付け足されて幅広になっているようだし、屋根は19世紀の再建だそうです。その際、ファサードが、オリジナルの姿に戻されたとか、珍しい修復が実施されたそうな。フランスでは、オリジナルに戻すって、あまり聞かない気がするんですけど、どうでしょうか?
イタリアの場合は、バロックがはやり過ぎてキラキラにされちゃった教会が多くて、ロマネスクとのあまりの落差ということなのか、割とオリジナルに戻された例は多いんですけれど、ロマネスクとゴシックだと、なかなかねぇ。

実際、どうなっていたのがこうなったのか、分からないので、何とも言えないな。
18世紀の終わりごろには放棄されたり、世界大戦では爆撃を受けたり、まぁ結構受難な教会だったらしく、せめても、ちゃんと使えるように、常に修復再建されて今に至るというのは、なかなか信仰篤いということだったのかな。
ちなみに、サン・レジェって、フランスでは捧げられた教会も多いし、かなり馴染みな聖人のように思うのですが、イタリアでは聞いたことないんですよね。サント・ステファノがサンテティエンヌみたいな、フランス特有の名前読み替え?とも思いましたが、そういうこともなく、フランス土着?というのも変ですが、フランス限定聖人的な様子。そんなのあるんか。
そういう周辺事情って、結構好きなもんで、軽く検索してみたところ、この方、10世紀終わりごろ、フランス語による最古の聖人伝があるんだそうです。オータンの司教で、7世紀に殉教したとか。比較的新しい聖人ですね。
もしかして、ヴォラギネの聖人伝説に出ているかと期待して目次を確認してみましたが、取り上げられていないようです。やはりフランス土着なんですかねぇ。
寄り道が長くなりました。
教会を見ていきましょう。
まずは入り口ですが、遠目にも、ちょっと期待させるタンパンが見えます。

中央のキリストは玉座に座り、祝福をしている姿。脇にいるのは、サン・レジェと聖母。聖母は、天の女王として、王冠を冠った姿。もう片側にいるサン・レジェは、手に巻物を持っているが、オリジナルでは、彩色があったと考えられているようです。

シンプルさがすごいですね、ある種ミニマリズム的な。装飾的なアイテムが置かれていないことに加えて、三人のフィギュアが皆同じフォルム?言ってみたら、デザイン的な様子って感じ。こういうのって、なじみのフランスでも見ないように思うんですけど、どうなんでしょうか。
彩色があったら、もうちょっと泥臭いような感じだったりしたのかなぁ。

線のすっきり簡略化も、なんかすごくないですか。
ってか、祝福する右手の位置、普通の人には無理…、笑。
教会に入る人を見守る位置には、左右ともに、おっさんが。

これは、割とふつーな感じの彫りですね。

こっちの人は、仮面っぽい。デフォルメあり、ですよね。
タンパンのデザイン性とか、ここのおっさんとか、結構後の時代のものなのかな、という印象です。ロマネスクの装飾だけど、内容はもう先の時代のものになってるみたいな。

扉脇の隅切り部分の装飾、なかなかに凝っているのですが、なぜかあまり好みではなく。自分にとって響くもの、響かないものの差が、時々理解できません、笑。
行ったり来たりしちゃいますけれど、外観ではもう一つ。解説に、うずくまった男性像についての説明があったので、そこも触れておきます。実はどこにあったか記憶になくて、写真を見返して探しました。

多分、この人のことだと思うんですけど、四体あるみたいなんです。わたしは、おそらくこの人しか出会えなかった。というのも、ちょっとね、見えにくい場所なんですよ。

後陣に建つ八角形の塔なんですけど、多分各四面に置かれているのではないでしょうか。それほど多くの撮影をしていなかったので、手持ちの写真では確認できず、でした。
この男性像、もともとは塔のてっぺんに取り付けられていたとか。満月の夜に鐘楼をぐるぐる回っていたとか、夜な夜な土地の人の胸に乗っかって悪夢を見させていたとか、そういう変な伝説があるそうなんですが、その意味とかは不明なんだそうです。実際、鐘楼の周りをぐるぐるって、なんだよ?って感じですよね。それに、姿勢も変だし、なんだろうね。
さて、内部です。

もう全然ね、ふーん、で終わっちゃいますよね。
いっちゃん奥まったところに、僅か。

てな様子で、もうさらりとね。
最後に一つだけ気になった解説がありました。
トップの写真でも分かるように、私にはドイツ的な印象がある、ファサード側にポルティコがあって、鐘楼と一体化したスタイル。そのね、多分ポルティコの上部分らしいんだけど、そこって礼拝堂になっていると。

多分、この部分だと思うんだけども。
これがね、カロリング様式の伝統を彷彿とさせる、とありまして。
このタイプのカロリング・ルネッサンス的様式は、神聖ローマ帝国時代によく使われたもので、カール大帝の伝統を引き継ぐものとしたい気持ちの表れであると説明できる、とあったんです。
この手の礼拝堂は、セレブ訪問者のための貴賓室や、地元の名士向けの特別室などの用途が考えられるけれども、まぁ実際には、正確なことは不明らしいわけです。
で、何が気になったかというとね、つい先日、おフランス行ってて、待望のサン・シェフを訪れた、という簡単報告をしましたけどね、フランスって、結構上に、装飾されたお部屋が多いなって感じたばかりだったからなんです。
サン・シェフもそうですし、オーヴェルニュではこういう位置に、素晴らしいフレスコ画が残っているケースっていくつかあって、そういうのってイタリアにはないよね?って思っていたんですよね。
それで、これは興味深いやん、調べるぞ、と思っていたわけなんです。
もしかしたら、調べるまでもなく、カロリングだったのか、とすでに疑問解明されたのかも?
別にカール大帝を偲んだわけではなかろうが、なんとなく様式として残った、というのはありそうじゃないですか。
やっぱりさ、現場主義も捨てたもんじゃないよね。数行いきゃ、こういう偶然的な出会いもある、ということで、アルザスのまとめを、3年もたってからやる意味も、ないわけではなかったかも、と自己正当化しています、笑。
ってか、思い付きに過ぎないけど、多分もう調べることはないと思います。誰か、教えて…。
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- 2022/07/31(日) 11:05:08|
- アルザス・ロマネスク 67-68
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3年ぶりの(プチ)修行旅イン・フランス(2022年7月)、プロローグ
夏休み第一弾で、フランスに行ってきました。

今回は、事故による怪我からの復帰以降、初めての長距離旅ともなりますし、このところ再び感染激増コロナの状況もかんがみて、イタリアとの国境から近い地域に絞った4泊5日のショート修行としました。具体的には、ローヌ・アルプという大きなくくりの中の、サヴォワ(73)、イセール(38)あたりとなります。

ロマネスク的には、どなたもおっしゃるように、大変地味な地域となり、それでいて、狭い地域に密集しているのではなく、比較的広がりがあるので、数はないけれど、結構攻略しにくい土地です。それが逆に、今回、時間の制約があるという条件にはまったんですよね。

それにしても、この熱波、フランスでもすごかったです。朝晩でも涼しくならないフランスって、やばいです。もちろん、クーラー付きの宿を選択しましたので、おかげさまで布団で安眠でき、そこはミラノの、クーラーのない自宅より、よほど快適でした。とはいえ、日中、いやもう早朝から、車はクーラーなしでは過ごせない状態で、これは初めての体験かもね、フランスでは。大抵朝は涼しくて、長袖着たり、窓開ければすんでましたからね。

最終日は午前中で切り上げて帰宅したにも関わらず、22町村を回り、事前にピックアップした教会の、ほぼすべて訪ねることが出来ました。確かに地味なんですが、ところどころで楽しいアイテムがあったり、鍵を求める冒険もあったりで、思ったよりはずっと楽しめましたし、何より、こうやって、一人で計画してひたすら駆けずり回る修行旅は、2019年の夏以来のことだったんですよね。修行再開の喜びというか、忘れていた感覚というか、そういうのが、何より嬉しかったかもね。

3年ぶり、ということで、出会いの喜びが強くて、期待値も普段より低かったとすると、ある意味、この地域の地味な教会に対峙する絶好のチャンスだったのかもしれません。それはちょっと失礼か、笑。
でもさ、地味な中の面白さだったり、地域の歴史だったり文化だったり、町村の成り立ちとか、建物の変遷とか、やっぱり私はそういう色々を含めて、好きなんだろうなって思いました。今、そこにある教会の背負っているものだったり、そういうこと。純粋、芸術だけではなくて。
アルプス超えてすぐの地域なわけだし、当然人々の行き交いが、ずっとずっと激しい土地なわけで、なんか、今ざっと写真を見直してても、色々混ざってる感があるんです。勝手な印象かもしれないんだけどね。
また、先になってしまうとは思うけれど、しっかりと勉強して、まとめていきたいと思います。しかし、この暑さでパソコン開けるのも怖いくらいなんで、いつになることやら…。
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- 2022/07/24(日) 10:48:29|
- ローヌ・アルプ 1-74-73-69-38-42-7-26
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最初で最後のアルザス中世、多分…(2019年4月)、その3

ミュルバックMurbachの、サン・レジェ修道院教会Ancienne Eglise Abbatiale Saint Legerです。
ここで、一番印象的だったのは、お花でした。
イースター休暇で訪問したのですが、この年は、4月半ば。一気に春が訪れた北国のような様子で、あらゆる種類のお花が咲き乱れている上に、新緑の緑がまぶしくて、まさに眼福。
この修道院教会は、見ての通り、緑のただなかにあるので、排気ガスで空気の濁ったバーゼル駅前経由で、やってきた身には、印象が強烈でした。

アルザスは、情報収集にうってつけのサイトがあって、非常にコンパクトにロマネスクを網羅してくれているので、そこに掲載されている教会をピックアップして、フランス・ロマネスクに詳しい友人お勧めの場所中心に回った感じで、実は、事前の勉強にあまり時間がかけられませんでした。その割に、幅広く網羅だけできたのは、そのサイトに負うところが大きいと思います。
検索すれば、必ず出てくるので、ご存じの方も多いと思いますが、一応貼っておきますね。
L'art roman en Asace
L'art roman en Asaceそんなわけで、実はこの教会についても、こんな、途中で断ち切られたような、変な状態になっていることを知りませんでしたので、全体像が分かった時は、純粋にびっくりしました。

ファサード、立派だわぁ、と回り込むと、その続きがないんですもんね。一瞬だまされたっていうか、目的地、本当にここなんだっけ?と思いました、笑。
というわけで、ちょっとだけ歴史を紐解きます。
「伝説によれば、727年、西ゴート出身のサン・ピルミンが、最初にこの地に定住していたアイルランド出身の修道士たちに、ベネディクト派を持ち込んだのが始まりとなっている。アルザス公アルデリコAldericoの甥または孫のEberardoが、その人生の最後を過ごしたことにより、多くの資産を、修道院に寄贈した。」
この辺り、ちょっと国際的じゃないですか。西ゴートの聖人、手持ちの中世辞典には出てこないし、どういう人かまったく分からないのですが、西ゴートのイメージって、スペインなので、この辺りにも定住地があったのか、というのが、新鮮というか。中世地図で確かめて、確かに東の方から侵攻してきた通り道上にアルザスがあるのかな、という感じではありますけれどもねぇ。
しかし、そこにアイルランド出身の修道士がいたと?
北から聖地方面の途中で、定住しちゃったとかそういうことなのかな。
当時のフランスは、メロビングからカロリングに代わるあたりということになりそうなので、蛮族の侵攻とともに、不安定な時代となるのでしょうか。
アルザス公は、すでにカロリングみたいだから、すでに落ち着いた頃となるのかな。
「その後12世紀の間に、ロマネスク様式で再建されている。その後、一時的な繁栄などはあったものの、宗教的求心力を徐々に失っていく。」
「1738年、修道士たちは、修道院の再建を決心し、本堂の古い身廊部分を壊し始めた。1759年、彼らは、Guebwillerへの移転の権利を獲得した。1765年、翼廊及び合唱席部分が、ミュルバックの教区教会となった。」
驚いたのですが、なんと18世紀になって、本堂の身廊部分が壊されたのですね。12世紀から綿々と守ってきたものを、なぜ?
バロック様式で再建する、という意図があったとされているので、「こんな古臭い建物だから駄目なんだ!はやりのバロックで一発かまそうぜ!」みたいな、形から入るタイプの修道士が、たまたま多数派でいたんですかねぇ。
それにしても、実際に、既存の建物を壊すところまでやったわけですから、資金があったかまたは入手できる目途が立ったということで、政治力もある修道士だったのですかねぇ。または、だまされたとかそういう可能性もありますね。壊した後、他にうつっていっちゃうとこ見ると…。
形から入るのはダメってことですよ、多分、笑。ってか、ファサードそのままに、身廊部分だけ変えてもどうなの?ですよね。
こんな変な様子になっているのは、そのためだったわけですね。ただ残念です。そのまま残っていれば、相当規模のでかい後陣だったようですね。ただ、土地的には、修道院のあった時代とは様変わりで、ただの田舎になっていますから、もし、そのまま残っていたとしても、無用の長物になっていた可能性もゼロではないですかね。

これは、1745年に描かれたもののようです。すでに屋根が落ちていますね。

ファサードに、面白い彫り物が散らばっていますけれど、なんせ、遠い…。唯一、至近で楽しめるのが、翼廊の南側にある「ライオンの扉」と呼ばれる扉のタンパンなんですが、実は、思いっきり見逃しました、涙。
一応、メモに、タンパン、と記しておいたのに、見当たらず不思議だなぁ、と思っていたんですが、普通にアクセスする反対側にあったらしいです。あほです。

肉眼では、とても見ることのできないディテールを、望遠で撮影はしましたけれど、こうしてみると、12世紀の再建以前の建物に使われていただろう古い装飾彫り物も、多く残っているような様子ですね。ドローン飛ばして、正面から見てみたいやつ。

19世紀及び20世紀に、かなり修復されているようなので、新しい部分もあると思いますが、装飾的には、結構手が込んだものだったように思われます。ロマネスク様式で再建された時代、修道院はかなりブイブイ言わせていたようなので、至近も豊富にあったのでしょうね。
内部にも、凝った柱頭など多数あったようで、18世紀の蛮行が残念でなりません。でも、修道士が行ったのだから、仕方ないですね。

でも、ここの美しさは、やはり、今ある、このたたずまいでしょうか。緑の中、この赤の入った石色が、独特の映えです。
ドイツっぽいこの二本の塔、全体に背が高くて小さい開口部。
前回の教会は、イタリアにもありがちなスタイルで、ここにきて、アルザスのイメージらしい教会に会った、と思いました。
この、全体像を見たくて、丘の上に上る方に夢中になり、タンパンなどのディテール見学が疎かになった、というのも、確かにあります。
中も、もちろん入りましたけれど、なんか、これはいいやってなっちゃったしね。
よくぞ、ここだけ残した、ということで、蛮行も許されるのかな。
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- 2022/07/10(日) 16:44:24|
- アルザス・ロマネスク 67-68
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最初で最後のアルザス中世、多分…(2019年4月)、その2
フランスだし、資料も読めないし、さらりとやるつもりでいたんですが、フランス語とイタリア語だと、ネットの翻訳でも全然自然なんですよねぇ。
だから、最近の傾向で、ちょっと読んでみようかな、みたいな…。
というわけで、サラリの予定が、また時間がかかってしまうかも?という危惧もありますが、意外と情報出てこないので、さらりといけるのかもしれません。どうせ、ネットの情報程度、読んだところでたかが知れていますしね。でもアルザス現地では、本など紙もの資料は、ほとんどゲットできなかったしね。
とはいえ、イタリアのことだって、一度読んでも歴史は忘れちゃうし、これだけ繰り返し同じことを学習しても覚えない最低の記憶力ですから、簡単な歴史を読んでも、なんだか新鮮だったりして、そして自分がせっかく読んだなら、ちゃんと書いとこうか、という気持ちになっちゃうわけで、読んだことだけ、書いていきますね。
国境って、概念に過ぎないけれど、大陸の歴史は領土分捕りあいの歴史でもあるわけで、常に分捕りあいの最前線の土地って、何か綿々とした文化だったり考え方だったり、他とは違うものがあるはず。
イタリアだと、主に北東部がそういう土地で、州で言えばアルト・アディジェという自治権。いわゆる南チロルで、国語は南チロル語(ほとんどドイツ語)ですし、お住まいの方々は、自分たちをイタリア人とは思っていません。初めて訪問した時は、そのイタリア語の普及率の低さに愕然としたもんです。いや、皆さん一応バイリンガルですけど、第一言語はイタリア語じゃないし、他の地域に行く必要のない人は、イタリア語不要だったりします。そのあたり出身だと、例えばフィギュアスケートのカロリーナ・コストナーがいますけれど、彼女国際大会に出場始めた頃は、イタリア語すっごくヘタでした。今、テニスで活躍しているヤニック・シナーもそうですね。
だから、ピッツェリアとか見かけると、あ、ピッツェリアなんかもあるんだね、と本来イタリアなんだから当たり前なのに、そういう感覚になってしまうくらい、お店のたたずまいすら、ドイツ系。
アルザスが、実際にどういう場所なのか、過去に行ったことがなく、自分の中のイメージは先述した「最後の授業」。そして、イタリアのアルトアディジェのイメージもあるし、アルザスという語感からも、フランスというよりはドイツ寄り。
実際、町の名前からして、表記は完全にドイツ語ですもんね。で、プロローグに書いたと思うのですが、今回は列車でスイス側バーゼルまで行き、そこからフランス側に移動したのですが、バーゼルは、ドイツ圏のスイスの町でした。
歴史的な話は、何も私が書かなくても、あちこちでよりよく学ぶことが出来ると思うので、美術観点だけ見たいと思います。読んだのは、アルザス・ロマネスクのサイトです。
最初に記されているのは、やはり、「ラテンとゲルマンの交錯する場所にあったことで、それぞれの影響を受けている」ということ。そして、これは土地の発展性の問題なのか、ロマネスクの発達は、1000年以降であり、それ以前には一切ないと。千年代半ばに、最初のロマネスク様式が採用され、そこから遅れを取り戻すように一気に普及したらしいです。初期のものは、集中型の伝統的カロリング様式建築が採用されているとか。その例として、Ottmarsheim、Epfig、Saint-Ulric d'Avolsheimなどが挙げられています。どれも行ったと思います。
同時に、三身廊を持つバジリカ様式も採用されており、こちらの例としては、 Dompeter、Altenstadt、Hohatzenheimが挙げられていますが、こちらの方は、どうも記憶にないので、行ってないみたいです。
ロマネスクの黄金期は、12世紀及び13世紀の初めということなので、一般的なロマネスクの普及時期よりはちょっと遅くに花開いた、ということになるのでしょうか。イタリアの先述したアルトアディジェでも、ロマネスクの到達は遅くて、確か13世紀でもバリやってたと記憶します。あのあたりは貧しさもあり、ゴシックが採用できる状況になかったことから遅くまでロマネスク様式が使われていたように思いますが、アルザスはどうなんだろう。その辺のことは、分かりませんので、もうちょっと深い説明が欲しいところです。
一部、例えばストラスブールでは、13世紀半ばには、ゴシックのカテドラルの建築も始まっていたようなので、地域差も結構ありそうですから、やはり土地の特徴、山間部だったり、通過する人が少ないなど、による物理的な理由でしょうか。
「その黄金時期に最も普及したのは、十字型バジリカ様式で、鐘楼付き。
ファサードは、内部に対応した三身廊を反映したスタイル、いわゆるイタリア風。または、ポルティコと二つの塔をファサードに持つ西構えスタイル。
交差ヴォルトの多用や、浮き出し飾りのある切り石積み(Bugnato)のファサード壁面は、この黄金期の建物を、それ以前の建物と区別する特徴。しかしながら、より明確で革命的なものは、彫刻的な装飾のレパートリー。
扉口の装飾の豊かさ、ビザンチンの絹織物からもたらされた組紐や唐草模様、象牙装飾や金銀細工の装飾など、それぞれが入り乱れつつ美しい装飾となっている。」
というようなことが分かりました。
というわけで、最初に訪ねたのは、こちらです。

フェルドバックFeldbachのサン・ジャック教会Eglise Saint-Jacques(Rue de l’Eglise, Feldbach、毎日8時半-19時)です。
ちなみに、今回、ドイツ語読みとフランス語読みが、いい加減に混じりそうですが、分かりにくかったらごめんなさい。毎回必ずアルファベット表記も入れるようにします。
ご覧のように、絶賛工事中でした。足場が全体についていて、後ろの方には近寄れもできず、本堂はクローズで、初っ端これでは、と気持ちが下がりました、涙。

全体に、かなりきれいになっている様子なので、すでに終わりが近い状態だったのではないかと思います。おそらく、今ではピカピカの状態なんでしょうね。

墓地にある教会です。
こんな状態で、何一つまともに見られなかったので、せめて説明版でも読んでおきましょう。
「フェルドバックのサン・ジャック教会は、Ferette伯爵であるフレデリック1世によって、1145年、サンチャゴへの巡礼のあとに創設されたクリュニー派の修道院の存在を証明する宝石である。
聖母マリア及びサン・ジャックに会捧げられた教会は、創設者及びその一族のための埋葬地としての役割も担った。この修道院は、クリュニー修道院の管理下に置かれた。
サン・ジャック教会は、三身廊バジリカ様式となっており、主後陣が東向きで終わっている。脇の後陣は損壊。中央身廊は、西側で4本の円柱、東側では6本の角柱によって支えられるアーチ構造によって支えられている。」
「装飾は、アルザスにおける12世紀の建造物とは区別される。そのコリント様式に影響された植物の柱頭のために。ここには、フランス中央部やブルゴーニュ地域との共通性が感じられるのである。」
「鐘楼は、後代の付け足し建築で、20世紀初頭にネオ・ロマネスク様式で建てられたもの。本堂も、後代に変更された多くの部分があったが、1977年になって、創設時の姿に戻す工事が行われた。」
というようなことを読みました。
構造は、イタリアなどで見られる小ぶりな田舎のロマネスク風で、ゲルマン系の様子は全くありませんね。たたずまいだけを見れば、この辺りあの他のロマネスクとはずいぶん違うのかもしれません。最初にここを見たので、ある意味、拍子抜けみたいなところもありました。イタリアとは全然違うものを創造していたからだと思います。
しかし、とにかく何一つ見られなかったので、これ以上は。
実は最近、バーゼル・アートでしたっけ、ビエンナーレのような大きな現代アート展ですね、あれ、行ってみたいな、と思ったんです。考えたら、列車で簡単に行けるし。とすると、このフェルドバックは、バーゼルの空港から半時間程度だったので、再訪も可能かもしれません。
なんせね、この村のレストラン、アルザスで唯一おいしいと思ったので、そこも気になります、笑。
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- 2022/07/04(月) 15:28:26|
- アルザス・ロマネスク 67-68
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