ビザンチンと猫にどっぷり、テッサロニキ弾丸ツアー(2019年11月)、その17
アギオス・ディミトリオス聖堂Agios Dimitrios/Basilica of St Demetrius、続きです。
全壊、クリプタ・ツアーの半端なところで切ってしまいましたが、泉のある場所。
「教会の中庭にあった泉水のある床面に多く見つけられた装飾物は、おそらく、ビザンチン教会に特有の、祭壇に置かれた四角いチボリオを飾っていたものとされる。」

そのあたり一帯、結構様々な彫り物系の装飾が展示されていたんですが、そういうことだったんだね。
これなど、まさにチボリオの図版と合致する浮彫。

他にも、ビザンチン・テイスト色濃いものが多数。


これなどは、より中世テイストですね。ポカンとした様子のアヒルっぽいの、かわいすぎ…。縁取りは、ロンゴバルドとかケルトっぽい組紐。

11世紀頃とされる装飾もあるようなので、それもあながちはずれってこともないのかもね。とにかく長い時代にわたる多くのものが、長い間、土の下に埋もれて生き延びた場所だから、何があっても不思議じゃないのです。

いきなり、やけにすごくしっかりした装飾があったりね。
こういうのはびっくりしますが、これは、アイテムとしては、結構憶えておくべきアイテムの一部。
すごく地味な図版も下にあげておきますけれど、これ、説教壇だと思います。その、図で示された部分の装飾が上のものとなるわけです。

これ、なんで覚えておいた方がよいかというと、ビザンチン系の教会には、おそらくほぼ確実にあるアイテムだからなんです。
昨年12月にローマを訪ねたとき、ローマも、知らない方も多いかと思うんですけれど、ビザンチンの遺構が結構多いのですよね。遺構というよりも影響があったという感じになるのかもしれないけれど。
そういった教会では、本堂の中央、内陣寄りに、大きな部分をイコノスタシスで囲って、聖職者専用のスペースを作っていたりするんですけれど、その囲い壁の一部を持ち上げて、こういった説教壇を作るのがスタンダードな感じなんですよね。
ローマでは、真実の口で有名なサン・コスメディンとか、クリプタがすごいサン・クレメンテ、高台にあって気持ちの良いサンタ・サビーナなど、多くの教会で、そういった構造を見ることが出来ますけれど、説教壇は、全部にはないかな。
12月に初めて訪ねた、フォロ・ロマーノ内にあるサンタ・マリア・アンティクア教会の遺構で、そこはイコノスタシスすら、跡しか残っていないんですが、この説教壇の説明があったんですよね。それまでも、他で目にしているはずなのに、最初ピンと来なくて、よくよく考えたら、あれか!となったんです。
ビザンチン系なら、こういう構造がある、と覚えておくと、実物がちゃんとなくても、大変想像しやすくなります。
ちなみに、装飾部分は、粉々に散らばっていたものを集めて、丹念に組みなおして再建したもののようです。お疲れ様です~。

見学した順番でしかアップのしようがないので、順不同でごめんなさい。
これは、前回の記事で触れた、古い時代の小さな教会の後陣部分のようです。この奥まった部分の向こう側が、かまくらみたいな、漆喰塗の不思議な構造物になっているようですね。
多分、これ。

見学しているときは、とにかく見残しがあってはならんと、緊張して、あちこちに目を配って闇雲に歩いていて、全体の状況とか位置関係や、あるものの時代だったり詳細が分からないですからねぇ。順不同だし、アワアワしているのが明らかだし、この、内側からと外側からという構造も、現場では全く気付いてなかったと思います。
これは、出口にも近い小さな独立したスペースの壁に掲げられていて、印象的で、よく覚えています。

説明を読むんだけど、どうも内容はよく分からなくて、でも一所懸命読もうとしたからかな、記憶に強いです。
幸い、解説があり、そういうことなんだ、と今更納得できました。
「聖デメトリアスを真ん中にして表された三人のポートレートのモザイクは、この教会の損失と再建に関連していると信じられている。これら三つのフィギュアの下には、モザイクで碑文が記され、教会の損失と再建について書かれている。
1917年の火災の後、その碑文は、壁から外され、今は、考古学コレクションの一つとしてクリプタに展示されている。碑文に示されたLeoは、地域の有力者に間違いなく、教会の再建に尽力したのであろう。」

元々は、本堂の身廊を区切るアーチ壁の上の方に置かれていたモザイク装飾だったとおもいます。
ということで、写真も合わせて、近年まれにみる地味な記事となってしまいましたが、これでクリプタ見学終了です。

ちなみにこれだけ見所あって、広いクリプタ、無料です。太っ腹ですよね。
次回はもうちょっとビザンチン的キラキラで行けるかと思います、笑。
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- 2023/02/28(火) 18:42:35|
- ビザンチン
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ビザンチンと猫にどっぷり、テッサロニキ弾丸ツアー(2019年11月)、その16
次に向かいますが、以前の記事にも書いたように、一度行っても入れなかったりして、結構何度も行ったり来たりしているので、当初は、おおよそ無駄のないルートをたどったものの、結局無駄はないけど、何度も行ったり来たりで、なかなか手ごわいものがありました。
そして、地図を見ると、特に新市街っぽい辺りは、道も単純に見えるのですが、そうでもないんです。

この町って、東西に走る道が、キモで、結構幅広の大通りが並んでいるんですが、それぞれの道の間は、小路で、結構斜めっていたりごちゃごちゃしてて、意外と迷うんです。
そんな感じで訪ねたのですが、いや、びっくりしました。一大観光地状態を呈していたんです。

アギオス・ディミトリオス聖堂Agios Dimitrios/Basilica of St Demetriusです。
上の写真では、そうも見えないと思いますが、実際は教会周辺、内部もすごい数の人がうろうろしてたんです。これまで訪ねた場所が、基本無人状態だったので、衝撃的にびっくりでした。その上、見た感じ、明らかに新しいし、何がこれほど人々を引き付けるのか、わけわからないですよね。
なぜ新しいのか、という歴史を簡単に読んでみると、以下となっています。
「元々ローマ時代の浴場があった場所で、伝説によれば、ローマの役人だったデメトリアスが逮捕されて、迫害時代に牢につながれ、そこで殺され殉教した場所。彼の遺骸は、キリスト教信者によって秘密裏に保管され、その後313年に、浴場跡の一部に、小さな礼拝堂が建てられた。5世紀になって、同じ場所に大きなバジリカが建てられ、そこに聖人の墓が移された。それは、中央身廊のチボリオの場所。オリジナルの銀のチボリオは、後代に大理石のものに代替され、石棺、聖人のレリックが納められた。
5世紀のバジリカは、620年の地震で焼失し、その際、当時のテッサロニキ司教とLeoによって、同じ場所に再建された。」
「テッサロニキが最後にトルコ人によって落とされた1430年、教会は、1493までキリスト教徒の所有だった。時のサルタンは、それを認めたが、多くの装飾品を持ち去った。
その後モスクに転用されたが、1912年キリスト教の教会に戻された。1917年の大火の際、完全に損壊し、その際にクリプタが発見された。再建は1926に始まり、1948年に終了。」
ざっと、こういう歴史。結構損壊と再建を繰り返していて、結果、外観はかなり新しいものとなっているようです。

これは、入手した本に掲載されている写真で、1917年の火災の後の様子のようです。こりゃひどい。よくぞ、一部でも、貴重なものが遺ったものですよね。ただ、この火災の結果、クリプトが発見されたということもあるから、転んでもただでは起きない的なしぶとさのある教会。というか、それもデメトリアスさんの奇跡だったりするのかも…、笑。
ちなみに、前の記事でちょっと触れた守護聖人、テッサロニキの守護聖人は、この教会が捧げられたデメトリアスさんなのですね。デメトリアスさん信仰は、「ビザンチン時代を通じて聖デメトリアス信仰とキリスト教徒は、守護聖人が蛮族から守った街のみならず、ビザンチン帝国そのものの範囲で広がった。毎年10月に聖人を祝って行われる祭りには、ヨーロッパやアジア各地から、デメトリアスを信仰する人々が集まる。」といういことで、ビザンチン世界では、大変重要な聖人なのですね。
私の持っている聖人辞典には記述がないので、ビザンチン世界のローカル聖人ということになるのでしょうかね。
教会は、上の写真で分かるように、相当ズタボロ状態だったわけですが、かなり頑張って修復されており、それもやはりおらが町の偉人デメトリアスのためなら、という自負もあったんでしょうねぇ。お目当てのモザイクなどは、もちろんオリジナルとは違う場所に置かれていたり、ということはあるにしても、たたかれてもたたかれても、それだけ残った、というのは、本当にしぶといし、守った、というのもあるのだと思われます。
構造は、こういった形。

「バジリカは、大きな四角形の建物で、四列の円柱によって五身廊に分割されている。東側、後陣正面に、翼廊が走り、それによって教会はこの部分で横幅が広くなっており、プラン的には十字の形を作っている。
上の図版内の番号のふられた場所にあるものとして、以下。
1.人の血、おそらく殉教者デメトリアスのものと考えられるものが収められたガラスの容器が発見された場所
2.St Euthemiusの礼拝堂。1303年の壁画。その前に、小さな三身廊のバジリカスタイルの礼拝堂が作られたもの」
この小さな礼拝堂の様子は、後陣側から見ると分かりやすいのです。

現地では、分からないままに見学しているので、この後陣の様子が大変不思議だったのですが、三年たって初めて、なるほど、となりました、遅い!!!
この小さなかわいらしい教会が、おそらく最初に建てられたものだと思います。内部からの構造は見てないんですけれど、多分アクセスとかできなかったのじゃないかと思います。
後塵全体はこういった新しい様子ですから、不思議ですよね。よくぞ残った、というところも、またデメトリアス奇跡?

図版に戻ります。
「3.聖デメトリアスが二人の教会創設者と並ぶモザイク
4.ローマで296年に殉死したSt.Sergiusのモザイク
5.司教と並んだ聖デメトリアスのモザイク
6.二人の子供と並んだ聖デメトリアスのモザイク
7.聖人と聖母のモザイク
8.953年に死亡したOsios Lukasの壁画
9.蛮族の侵略の壁画
10.聖デメトリアスが祈っている壁画
11.二人の聖人といるGregorios Palamasの壁画。おそらく、皇帝Ioannis4世をシンボライズしたもの。彼は、僧となり、Ioassafと名乗った。
12.壁画。
13.1474-1493年の、いどう祝祭日の暦
14.大理石の石棺、1481年
15.聖デメトリアスと天使のモザイクの一部
16.聖デメトリアスの墓と呼ばれる礼拝堂
17.聖水
18.チボリオの場所(おそらく聖デメトリアスの石棺があった場所)。今は八角形の基部だけ残っている。」
上のすべてをちゃんと見ているわけでもなく、また解説できないと思いますが、損壊消失を繰り返した割には、ちゃんと歴史を押さえている教会となっていることが分かると思います。
どのようにまとめていくか、悩むところですが、実際の見学に従ってやっていこうと思います。
実は、クリプタの見学時間には制約があるので(3年前の時間は以下となります。月・水・木=8時から14時45分、金=8時から13時15分と19時から22時、土・日=7時半から14時15分、火=お休み)、到着してクリプタに直行しました(イタリア語だとクリプタとなるので、表記に英語イタリア語が混じってしまってすみません)。

すごく広いクリプタで、迷路みたいで面白いのです。自分が訪問したことのあるクリプタで、これに匹敵するのは、ローマのサン・クレメンテくらいでしょうか。
簡素化した本の図版も乗っけます。向きが逆ですけれど、上の図版と…。

図版の番号は、以下となります。あまりよく分からない内容もあるのですけれど。
「クリプタへの入り口は、東側からで、他にも多くのアクセスがあった(図の4)。後陣の下は半円壁(多分1)、それは西側で、クリプタによって形作られた半円の中に向かって開いている小さな後陣の列を含む壁を持つ。この基礎は、南側で、小さな側廊を持つバジリカ様式となっており、それが、殉死したデメトリアスのために作られた最初の教会であると信じられている(図の5)。
クリプタの北側には、四角い部分があり(図の6)、おそらく司教のものと思われる墓がある。」
広いし、いりぐんでるし、本当に何がどうなっているのか分からないんですけど、下は、6の場所になるのかな。立派な、実に立派な背の低いアーチが並んでいて、迫力があります。

現場で見学しているときはもちろん、今写真を見ても、何が何やら状態です。現場にも、ところどころに説明版はあったのですが、それでもあまりよく分からない状態…。

この、かまくらみたいな不思議な構造物は、図版の5,小さな教会の入り口にあたるようなんですが…。
ざっと、現場にあった説明版を読んでみます。
「クリプタは、もともとはローマの浴場の東部分で、地面のレベルにあったもの。中央部には泉があり、それは東側のポルティコからアクセスするようにしつらえられた三つのアーチ構造のポルティコを持つ。
ポルティコの北と南は、今でも二つの長方形の部屋が認められ、それは浴槽の補足的な構造物で、床モザイクも南側に見ることが出来る。
5世紀に大きな教会が建てられた際、浴場の地面レベルは、新しい構造物に、オープン・アトリウム的な形で組み込まれ、街路へのアクセス口となっていた。その際に、泉は再建され、聖水を使う場所として、教会状のスタイルとされた。7世紀の火災後、教会が再建される中で、クリプタは現在の姿となる。ドームは、過去の建物からの再利用健在で強化され、半円の大理石のチボリオは、泉のあるニッチの中央に置かれた。ビザンチン中期、10/11世紀から14世紀にかけて、クリプタは殉教地の中心的存在であったが、その後放置され、1493年にモスクに転用される際、完全に埋め込まれてしまった。そして1917年に発見されるまで、まったく気付かれなかったのだ。」

これが、泉の構造だと思います。ギリシャ十字の浮彫がある障壁のようなもので囲われていますね。こうなると、もう完全に遺跡の中を歩いている状態。そうなんです、かなり多くの場所に足を踏み入れることが出来るのも、このクリプタ、すごいですね。

何がどうなっているのかもよく分からないんだけど、何やらわくわくする場所なんです。ローマの遺跡って乾ききっていて、というのも変な言い方ですが、あまりに遠すぎて、ふーん、べつにぃ…という気になりがちなんだけど、中世のものって、それより若干近かったり、もっと湿度というのか、身近な何かを感じるっていうか。特にここは地下というわくわく感もあって、湿度っていうのか、まだそこまで遠くに行ってない感がありました。

浮彫の様子も、アンティークな様子が感じられ、ビザンチン風と見受けられますよね。
かなり長くなってきたので、続きます。
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- 2023/02/27(月) 18:39:45|
- ビザンチン
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ビザンチンと猫にどっぷり、テッサロニキ弾丸ツアー(2019年11月)、その15
前回のロトンダの項で、やたら言及したと思いますが、ガレリウス。彼は、305年から311年東ローマ帝国皇帝だった人です。つまり、中世には関係ないのだけど、テッサロニキの成り立ちには大きく関与しているので、ちょっとだけ書いてみようと思います。
というのも、凱旋門は、テッサロニキに行ったら、特に興味がなくても、目に入ってしまうブツなんで~、笑。
でも、古代史に興味なければ、この記事はすっ飛ばしてくださいね。

テッサロニキはもともとマケドニアによって作られた都市で、その名前の由来も、当時のマケドニア王の妻の名前だというから、なんというか、昔のそういった私物化というのかなんというのか、すごいですよね。スポンサーが自社の名前を野球場につけるとかそういう感覚を都市や国でやってしまうって…。
その後マケドニアがダメになってローマ帝国に組み込まれていくわけですが、テッサロニキの名前は残されたのですね。
そして、ガレリウスの時代に、彼はテッサロニキを本拠地として、ここは発展したようで、だからガレリウスなしには今のテッサロニキもなかったかもしれない、というような話になるわけです。
「テッサロニキのローマ時代の、行政及び宗教的な中心地であったガレリウスの宮殿は、町の南東部に、紀元300年ごろに建造された。それには、ロトンダ、ガレリウスの凱旋門、宮殿、八角形の建物および競馬場が含まれていた。
この総合施設は、その時々の必要に応じて少しずつ建てられたわけではなく、短期間に、一気に全体が計画されて建造されたという事実に注目することは重要である。」

上が、おそらくその宮殿を含む、ガレリウスの作った本拠地の図です。1がロトンダ、2が凱旋門、3が宮殿、4が八角形の建物、5が競馬場、ということです。
今の地図で言うと、以下の感じかな。

ロトンダと凱旋門のあたりだけに、往時の面影が残っているということになります。
だから何ということもないんですが、この宮殿の建設によって、町を拡張工事したりということになったりもしたようで、その際に新しい壁が作られたり、町のそもそもが結構変わったということなんです。
妻の名前を付けたマケドニアの王様もすごいけど、町のつくりを変えちゃうような宮殿を作るローマ皇帝もたいがいすごいよね。
総面積は18万平米って、言われても全然ピンと来ないけど、今の町の中で見ても、こんだけだと思うと、かなりすごいですな。ちなみに後楽園ドームの大きさは、47000平米弱だそうですよ、笑。

さて、凱旋門ですが、これはガレリウスが、ペルシャ人との戦いの戦勝記念で、305年の少し前、ってことは皇帝になりたての時だったのかしらね、その頃に建てられたそうです。
残念ながら、オリジナルは一部だけ。オリジナルは、二階建ての三連アーチだったようですが、今は下段の真ん中のアーチと片側だけしかありません。
当時は、この門が、ロトンダからの道と、門の下を通る道のクロスする場所となっていて、それぞれの道には、屋根付きの回廊みたいな建物があったという、なんか想像しても豪華そうな、そしておそらく、一般人は足を踏み入れられないような場所だったと考えられますねぇ。

見ての通り、基本レンガ造りで、一部に浮彫が施されています。いつも中世を見ていると、ローマの浮彫ってなんかいろんな意味ですごすぎて、なんでこんなことになっちゃってたんだっけ?と逆に不思議な気持ちになります。
せっかく解説を読みだしちゃったんで、実はほとんどちゃんと勉強したことのないローマの彫り物に関して、まとめてみようかと。

ローマ帝国後期の特徴として、数多くのフィギュアが区切りなしにこれでもか状態で詰め込まれている、っていうのがあるそうです。そして人々、動物のフィギュアそのものや動きが、決して自然ではないこと。例として、上の部分があげられています。馬はスケール的にサイズがちいさすぎるなど。
とはいえ、中世のスタイルからは程遠い、と書かれているのは、中世のデフォルメとかそういうことを言っているんだろうね。
ローマの美術をちゃんと勉強したことのない立場から言うと、でも、これは面白いことだと思いました。ローマ帝国の歴史は長いから、当然初期から後期では、技術も含めてずいぶんと変わるものがあったのだと思いますが、こういった現実に忠実ではない表現というのがあったという事実がね。
ちなみに、この図像の説明は、以下となっています。
「騎乗したガレリウスが敵のトップと戦っている場面で、まさに敵をやりで刺した瞬間。ガレリウスの頭の上に彫られた鷲は、彼の勝利を予言している。戦っている兵士の中に、シーザー、リチナス、コンスタンティヌスを認めることが出来る。地面には、多くの遺骸やけが人が彫られている。右の方に置かれたフィギュアは、アルテミスのようだ。」
シーザーがどこにいるのか、そういうのはちょっと不明。

最も重要なものとして揚げられていたのが、上の場面で、生贄の図像だということです。
「上段は生贄のシーン。下段はガレリウスがオリエントに対して、ローマ帝国の力を誇ることを図像化したもの。ある都市を舞台に、その土地の象やそのほかの動物が表され、また土地の人々が特徴的に表されている。ガレリウスは右側で、将軍の衣装を着ており、左にはディオクレティアヌスが、ガレリウスの戦勝を祝う生贄の儀式を行っている。トロフィーが左右に彫られている。」
上段に関しても、ヘラクレスとゼウスの参加している生贄の様子で、ガレリウスやその周辺にいる女性のフィギュアの意味するところが延々と説明されていましたが、翻訳、無理…。それも、なんか本に掲載されている写真、なぜか裏焼きとかになってて、笑、訳が分かりませんので、割愛します。ペコリ。
そういうわけで、テッサロニキにおけるローマ帝国の遺構は、なかなかの規模であるようで、この時は、ビザンチン特化の弾丸旅だったので、まったく知らなかったのは、ちょっと残念だったかもしれません。
この宮殿の場所では、近年、初期キリスト教時代のフレスコ画なども複数発見されているということで、それらも、おそらく観光地として見学可能になっているのではないかと思うのです。特に墳墓に、素敵なフレスコ画が残されているようです。万が一、というレベルですが、もし次回訪問があれば、そこはしっかりチェックしたいと思います。

実際、町の至る所に、ローマっぽい遺構も、多々見ることが出来、現地ではビザンチンばかりに目を奪われていたけれども、確かにローマ起源ではあるのですね。そして、とにかくレンガ。ローマのレンガ焼成技術って、すごいものがあったのでしょうし、それがビザンチン建築に継承されたということになるのですね。
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- 2023/02/25(土) 19:03:35|
- ビザンチン
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ビザンチンと猫にどっぷり、テッサロニキ弾丸ツアー(2019年11月)、その14
聖ジョージのロトンダRotunda of St.George、しつこく続きです。
内部装飾の残りを見ていきたいと思います。
美しいモザイクは、前回の記事に加えて、まだあります。

ちょっと分かりにくいと思うのですが、真ん中にある小さな円形の部分が、前回記事にした、イケメン天使がいる場所です。その円のかなり外側、ドームの下の方の、円錐部分に近い場所になるんですかね、そこにも、一部よく保存された金色背景のモザイクがあるんです。
ということは、これって、ドームが全部モザイクだったのは明らかですから、想像するだに破壊的な装飾が施されていたってことで、往時の様子を想像することは簡単ではないけれど、くらくらするような…。ドームの直径は24.5メートルとありますからね、すごいでかさです。全体が残されていないことが、心底残念です。

全体に、豪華絢爛とした様子の建物が並んでおり、その前に、祈りのポーズを取っているらしい聖人が並んでいるということ。両手を広げるスタイルですね。聖人は、二人並びとか、まれに三人並びとか。

聖人とわかるのは、それぞれ名前と、その聖人の祝日の日付が、脇に書かれているからということで、確かになんか書かれています。
南イタリアの各地に残されているビザンチンのフレスコ画を、このが数年多く回りましたが、断片的な知識では、ビザンチンは結構こういうキャプション好きみたいですね、笑。聖人の名前や、またその絵を寄進したスポンサーの名前なんかも記されていることが多いと聞いたように思います。
ただ、聖人の祝日というのは、初めて。

一年365日、毎日が誰かしら聖人の日となっています。カトリックとビザンチンで共通するのかどうか、その辺は知らないですけれど。
例えば自分の名前がピエトロだったら、聖ピエトロの祝日が、自分の誕生日と同じくらい重要な日だったりするらしいです。昔は誕生日同様にお祝いしたりという習慣が、イタリアでもあったように聞きますが、今はね。大体、外国風な名前だったり、聖人でもなんでもない宝石の名前だったり、二つの名前をくっつけたり、以前は伝統的な聖人の名前しか存在しなかったイタリアでも、少しずつ由来の分からないような名前も増えてきていたりもしますしね。
ちなみに、聖人の祝日には、地味な恩恵を受けています。
というのも、各都市が守護聖人を持つ国で、その守護聖人の祝日は、ローカル祝日となるわけです。ミラノの守護聖人は、サンタンブロージョさんで、祝日は12月7日。その日はお休みとなりますし、オペラの殿堂スカラ座のシーズン初日でもありますし、ドゥオモ前にクリスマスの点灯式でもあります。
ローマはサン・ピエトロの祝日で6月だったかな。
そういうのとは関係ないけど有名な日では、サンタ・ルチアとか、サン・ビアージョの祝日などがあります。
おっと、また得意の脱線してます、笑。
ちなみに、上の写真の人は、軍人の神様的な聖人でプリスコさん、とありました。
下の人も同じようなタイプで、ヴァシリスコさんとありました。

また下世話発言をしますけれど、どの聖人も、めっちゃ美しいですよねぇ、うっとり。ビザンチンの美の基準というのか、ある種漫画レベルなのがすごいです。つまり現代でも通じるっていうのか、まぁ漫画が西洋的な美に寄っている、ということなんでしょうけれども。

髪型もそれぞれ違ったりするし、衣も人それぞれで、面白いですよね。解説では、「この時代400年ごろのアーティストは、後代のアーティスト同様に、ヘレニズムやローマの伝統的な表現法をもって働きながらも、同時代的な人々の様子を表そうとしていた」とありました。
以前にも、描かれた時代よりは前の時代のこと、聖人などかなり以前の時代の人だったりするわけですよね、そういうものを描きながらも、衣装などはどうしても同時代的なものを着せることになる、というお話を聞いたことがあり、目からうろこというのか、そういう視点で見たことがなかったので、すごく面白く感じたことがあります。
これは初期キリスト教時代だから、結構ローマ辺りはすぐ昨日的な時代でもありながら、すでに正当ビザンチンの宝石じゃらじゃら的な衣も多くて、近現代との違い、近現代は、すでに歴史をある程度俯瞰して、過去の資料もそろっているから、あえてなになに風、ということが出来るけれど、そういう時代じゃなかったというのか、うん、なんか面白いです。

そして、聖人だけではなく、背景の建物もすごいんで、注目したいところ。
様々な建築スタイルの建物が描かれているわけですが、とにかくその装飾性が激しくて、何なんだ?という様子です。オリエント的っていうのか、イスラムの求める理想郷的な非常に具体的な豊かさというのか美しさというのか、直球に表されているのが、これまた面白い。
モザイク、きりがないので、この辺で切り上げて、もう一つ古い装飾へ。

後陣となる場所、上の写真の奥まったところですが、半円後陣部分に、9世紀ごろのフレスコ画があります。
昇天をモチーフにしたものということですが、トルコ人の攻撃によって、激しく損傷を受けてしまって、その状態のまま、残されています。

これまた残念な状態です。すでに下のレンガも見えちゃってますから、剥落もひどいし、残された部分も、結構加筆されて残ったということもありそうだし、全体に昇天の場面というのは分かるけれど…。

この後陣部分は、床の一部が開けられており、おそらくオリジナルのレベルが見えるようになっているんだと思います。
オリジナルと言っても、その時代時代の建物の床面があったはずで、実際、少なくとも四層くらいが目視できますから、如何に長い歴史があって、そしてその中で、形を変えながら生き延びてきた建物か、ということが分かる状態。歴史の可視化ですね。

ということで、入場料安すぎるんでは?と思わされる場所でした。
何度行っても楽しめそうです。
どうぞ、行かれる際は、望遠鏡やオペラグラスを忘れずに…。
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- 2023/02/24(金) 18:31:21|
- ビザンチン
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ビザンチンと猫にどっぷり、テッサロニキ弾丸ツアー(2019年11月)、その13
聖ジョージのロトンダRotunda of St.George、続きです(博物館となっており、有料、3ユーロ。トイレあり。)
入場します。

キタ~!
って感じで、いきなり興奮しました。ちょっと上の写真では、分かりにくいかと思いますが、入場口からモザイクがきらきらとしているんです。

前回の記事にも掲載したプランですが、ここは円形スタイル。このスタイルって、全体の様子を写真に収めるのが、非常に難しいですね。その上、ここではモザイクという大好物なアイテムがあるために、もうただディテールを、落ち着きなく撮影しまくる、という、いつまでたっても浮足立った行動をしてしまう悪い癖、というか、もうこれって性癖だから、どうしようもないですね。興奮して、システマティックな撮影の順番とか考えることもなく、あっちに目を向け興奮、こっちに目を向け興奮…。アホですな、笑。

たまたま、いや、もしかして常設で置かれているものかもしれませんが、ラベンナのモザイクのレプリカの展示コーナーがありました。
ラベンナのもモザイクを考えると、このロトンダも、ほぼ内部前面モザイクがあったのではないかと考えられますね。
ラベンナでも、オリジナル前部が残っている場所は少ないですが、それでも、小型の洗礼堂などはほぼ残っている状態で、実際に全面モザイクですから、ここがそうであっても不思議はなさそうです。
ただ、実際には、残っているのはほんの一部なんですよね、残念ながら。
アーチの間のトンネルヴォルト、そして、ドームの一部。
だから、ここへきて、逆にラベンナのモザイクのすごさへの感動を覚えてしまったというところです。オスマントルコに襲われなかったのは大きいでしょうね。
さて、そのトンネルヴォルト部分ですが、トップの写真のように、大変装飾的なモチーフが使われています。

幾何学的なモチーフの中に、鳥や花、果物かごなどが鮮やかな、そして大変細かいテッセラで表されています。これはいかにもビザンチンのモザイクですよね。キリストや聖母子など、人物を表すモザイクも美しいものですが、こういったモチーフを、まさに装飾的に、まるで絨毯のように壁に飾るというのが、私は大好物なんですよ。

イタリア半島では、シチリアやローマに、多くのモザイクが見られます。それらも、技術レベルは高いもので、実際にビザンチンの職人さんがかかわっているものだと思われますけれど、こういった装飾に特化した部分が限りなく少なくなってしまっているんです。せいぜい、メインの絵、例えばキリストや聖母子などを取り囲む縁取り部分に素敵な帯装飾があったりするくらいになっちゃうんです。
それでも、モザイクの美しさは格別なんですが、やはりこういった装飾に特化してこそ…、という好みがあります。

鳥というのは、よく使われますけれど、花や宝石と同様に美しいもの、というくくりだったんでしょうかね。東方やアフリカから持ってきた極彩色の鳥を愛でる習慣とかあったのかな?ちょっと考えたことなかったですが、ちょっとありそうな気もしますね。南方の鳥の色彩は、確かに花や宝石と通じる感覚がありそうですし。
ちなみに、トンネルヴォルトのモザイクは、こういう感じです。

トンネルヴォルトが、ドームの支え部分となっていて、そこに装飾的なモザイクが、そしてそこから内部につながる壁には、また別のモザイクが、という様子だったと思うんですよね。実際の姿、まぶしくて見られないくらいキラキラと輝く内壁だったのではないでしょうか。
以下、解説を載せておきます。残念ながら、解説で言及しているリュネッタのモザイクは、どれだか不明…。
「南東のヴォルトは、八角形と円形フォームの中に鳥や果物が交互に。そして縁取りは、花の入ったツボや果物かごを並べたパネルからなる。
南側は、まるで絨毯の印象で、銀の背景に中央部に金の布を置いて、花、鳥、星そして果物かご。西側は、幾何学モチーフ。しかしながら、その円形には、鳥や果物かご。リュネッタの上のアーチ部分も同様な内容。ただ、そこではより柔らかい色のテッセラが使われている。無名のローカルモザイク職人の腕と知識が垣間見える。リュネッタには、光が直接当たるだろう、だから、間接的な光しか当たらないヴォルトにはより鮮やかな色を使い、そのバランスを計算したのである。」

前述したように、ドームにも一部残っていますが、残念ながら、一番肝心な中心部が剥落しています。

これ、ほんとに残念と思います。見れば見るほど思います。
というのも、もちろん修復の賜物、ということもあるのでしょうが、残っている部分が、すごくヴィヴィッドで美しいのですよ。

ね、すごいですよね。隙がないっていうのか、なんかパーフェクトに美しい。その上また、天使がさぁ。

美しいのよ!
イケメンとかいう軽い言葉では失礼なほど美しいの…!!!

この、いわゆる憂いを含んだような表情、やられちゃうやつでしょう~!
美しいにもほどがあるって。
これ、全身あったら、どれだけ印象的だったか…。残念でたまらなく、なるでしょう?
ちなみに、中央部には、おそらく天使に支えられた円の中にいるキリスト、という図像があったであろうとされています。近年、モザイクの掃除がされた際に、何でも頭部の一部があったとか。
今は、天使が三人しかいませんが、もう一人の天使部分は剥落してしまったようです。天使は、星、果物のなった木々の枝、多色の虹という三層の天を支えています。
まだまだ美しい人々がいらっしゃるので、続きます。
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- 2023/02/22(水) 12:21:51|
- ビザンチン
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ビザンチンと猫にどっぷり、テッサロニキ弾丸ツアー(2019年11月)、その12
今回は、前回訪ねたパンデレイモン聖堂から至近だけど、成り立ちも歴史もまったく異なる聖堂を訪ねます。
言ってみたら、テッサロニキの古い時代の歴史を体現した建物の一つで、歴史的にも芸術的にも、必ず訪ねるべき建造物の一つだと思います。

聖ジョージのロトンダRotunda of St.Georgeです(博物館となっており、有料、3ユーロ。トイレあり。)
円形の建物で、結構大きいです。ローマの、サント・ステファノとか、サンタ・アニェーゼとか、そういった規模感ですかね。円形のスタイルというのは、ギリシャではここしかないそうです。

テッサロニキの他の聖堂とは全く違うベースで建っているので、地図なども参照します。
場所的には、市街の東側方面にあり、テッサロニキ一番の目抜き通りであるEgnatia通り、これはもちろん古代ローマ時代に作られた道なわけですが、そこに、今も立派な状態で残っているガレリウスの凱旋門があり、その奥まった場所にロトンダがあるというたたずまいになっています。
凱旋門については、別途記事にしますけれど、その名の通り、皇帝ガレリウスの時代、皇帝がペルシャ人に勝利したことを記念して紀元前305年に建造された門です。

上の写真の右端にあるレンガが、凱旋門の端っこになるんですけれど、そこからロトンダまでの道、今は公園のように整備されている様子ですが、凱旋門の時代から、すでにまっすぐ伸びるロトンダへの道という形で整備されていたそうです。
というのも、このロトンダ、凱旋門同様、ガレリウスによって、紀元前300年ごろに建てられた宮殿の一部であったことが、考古学研究で明らかにされているんです。
「ある説では、霊廟に向けられたものとされるが、その目的で使われたことはなかった。他の説では、ゼウスまたはほかの神や、ガレリウスその人に捧げられた神殿であるとしている。後者の理論に、より信頼性があるとされているが、なぜならゼウスは、ディオクレティアヌス及びガレリウスの二人にとって、守護聖人であったため。」と、解説にはありました。
つまり、異教の神殿として、スタートした宗教施設だったということです。
博物館として、建物と、その周囲も鉄柵で囲ってありますが、多くの建造物があったらしい遺構が見られます。

そのそれぞれに関して、何がどうあったかは不明ですが、基部も多く残されているし、一体どうなってたの、という好奇心に取りつかれます。ある意味、フォロみたいな、すごいコンプレックスだったんじゃないか、という様子もあります。だって、レンガの神殿や建物、そしてこういった大理石っぽい柱の並び。遺構は、現在それほど大きな地域に保存されているわけじゃないですが、これだけ見ても、本当はもっと広範囲に遺構があるのでは、と想像に難くないです。

建材の数もすごいです。

もうお手上げ状態で、敷地の片隅に積み上げられていた石材。おそらく掘れば掘るだけ、何らか出て来ちゃうってやつなんでしょうよね。

長い年月にわたって、宗教施設であっただけに、様々な時代の建材が混じっている様子です。
一角に水場のような場所があって、これはイスラム時代、手や足を清める場所ではなかったかと思ったんですが、再利用されている柱と柱頭がありました。

この繊細なレース状の柱頭は、ビザンチンぽいです。イスラムにとって異教だから、さかさまに置いたのかもしれないし、たまたまそこにあったのをそのまま使ったのかもしれないし。
歴史的には、紀元400年ごろ、初期キリスト教教会になり、その後16世紀ごろにモスクに転用されたというものです。
そういった転用の際に、色々と手が入り、オリジナルのスタイルは変容してきているとのこと。
キリスト教教会に転用された際は、主に、以下の変更がなされたそうです。
「1.東側部分が広げられ、後陣スタイルになるように延長された。この変更により、円筒形の壁が壊され、建物の安定したバランスが壊され、その結果、おそらく地震により、東側にあるドームの一部に損壊がもたらされた。内部のモザイクも含めた損壊。おそらく11世紀ごろのことだが、聖所は再建され、外側は、二つの支えで強化された。」

「2.新しい壁が、オリジナルの壁から8メートルの距離で、周囲に建設された。仕切り部分がそれに向かって開放され、オリジナルの円形壁は、中央部の円形身廊をそれを取り巻く天井の低い側廊から区切るものとなった。結果として、建物は、一種の円形に側廊があるバジリカスタイルとなった。」

「3.メインの入り口は、後陣と反対側にある西側の屋根に向かうためのらせん階段近くにあった南側から移された。
4.建物内部は、モザイクによって装飾された。
5.西側に、ナルテックスが付け足された。」
外壁は、レンガだけで、その積み上げは緻密で隙がないですが、時代的にはビザンチンではなくてレンガの装飾性はありませんし、とにかく愛想のないものです。ここは入場してこそ。幸い、博物館になっているので、めったなことがない限り、入場できるのは、有難いことです。
でもね、もしかすると、猫好きだったら、3ユーロ払って、そこここで遊んでいるにゃんずを愛でるだけで、結構満足しちゃうかも、というくらい、たっくさんの猫がいます。

下の子は、門番さんの飼い猫みたいでした。

遺跡ににゃんこってすっごく合うよね。

イタリアは、いつの頃からか、野良猫排除始まって、ほとんどいなくなっちゃったんだよね。昔住んでいたアパートの周囲には何匹もいて、当時は避妊手術を施す政策だったと思うけど、ある時突然、全員いなくなったから、風向きが変わったんだろうと思う。
ノラちゃんとの共生は、難しいところもあると思うし、無責任なことは言えないけれど、でも、テッサロニキのノラにゃんこの存在感は、猫好きからしたら楽しかったのよねぇ。

でも、そうじゃない人もいるし、やはり汚れるし、難しいものはありますよねぇ。
おっと、脱線しました。続きます。
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- 2023/02/20(月) 12:29:01|
- ビザンチン
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ビザンチンと猫にどっぷり、テッサロニキ弾丸ツアー(2019年11月)、その11
パンデレイモン聖堂Agios Panteleimon、続きです。

現在、こういった構造となっています。黒塗りが、今ある壁です。外側を取り巻くようにある白塗りの部分は、かつてあった構造物を示しています。
「四本の柱、交差部が四角く、ナルテックスとギャラリーを持つ建築スタイル。二つの小さなドームがギャラリーに乗っかり、三つ目はナルテックスに。ギャラリーは激しく倒壊しているが、東端の二つの後陣部分の礼拝堂は生き延びた。1261-1453の時代に、当地では典型的だった教会建築のスタイルを踏襲したギャラリースタイルだった。」
「中央部、または教会のメインの部分は、北側及び南側の真ん中あたりに扉があり、それで外側部分とつながる構造となっている。
これら二つのドアが閉められていた時は。本堂は外側構造からは切り離され、パナギア・ハルケオン聖堂同様のスタイルとなる。パナギア・ハルケオン聖堂は、現在は外側構造が動かされてしまったため、独立構造となっている。」

上が、正面向かって右側、つまり南側側面となります。後陣部分だけ、天井が残っていて、小さな鐘が下げられています。
見学の際は、例によって解説をきちんと読んだりしていないのですが、建物の壁に、付け柱が見られ、アーチのもとになっていたような様子があったし、足元も、外側と内側、みたいな区切りがあったので、この部分は本来構造物があったのだろうと想像はできましたが、側廊のようになっていたとまでは思いませんでした。やはり、ビザンチン建築のいろはが分かってないですから、想像にも限界があります。

で、こっちが北側側面で、やはり突き当りは後陣。
こちらには、外にさらされているのに、フレスコ画が残っていて、びっくりしました。

相当痛みは激しいですけれど、一部識別可能な状態です。例によって、暗い色調…。
左側部分のフレスコだと思いますが、本の写真では、こういう様子です。

聖ジェームス。ギリシャ十字の模様のお召し物が、なんか、浴衣に見えちゃって…。聖なる浴衣…、ぷっ。
そして、聖母子。

引っかき傷がありますから、この上に、別のフレスコ画があったのでしょうね。それで、一部でも、僅かでも、保存されたのかもしれませんが、いずれにしても、外に放置ですから、まぁこんなものでしょう。
本来、美術館ピースなんでしょうけれど、これはこれでありかなって思う自分もいます。もちろん美術館博物館に展示して、良い状態を保つ選択肢はあってよいと思いますが、個人的には、中世美術は教会と一体化しているので、朽ちていくなら朽ちていくのは仕方ないのでは、という気持ちもどうしてもあるのですよね。
こうして、朽ちていながらも見ることが出来るなら、なおさら、現地で出会うことに喜びを感じます。
そういう意味で、私は、カタルーニャで一時期実施された、大規模なフレスコ画の博物館移築は、受け入れられない気持ちの方が強いのです。
さて、こちらの壁、手前の方にかわいらしいギャラリーがありました。

管理人さんの遊び心かな。変に精巧なスポーツカーと、かわいいふりして、かなりかわいくないビニールっぽい動物の組み合わせが妙なんですけど、なごみました。
さらに、プランに沿った解説をちょっと載せると。
「教会は、中心部で十字が交わる四角いタイプの構造で、ナルテックスと周歩廊を持つ。周歩廊は、東側で二つの礼拝堂で終わりとなっている。その州歩廊は、今世紀の初めに破壊されたが、本堂は無事だった。しかしながら、周歩廊の外側面が、ブラインド・アーチ構造によって分割されていたこと、そして、北側と南側の真ん中に二つのドームがあったこと、加えて北西及び南西の角に、さらに二つのドームがあったことが分かっている。
ナルテックスの中央部もまた、ドームによっておおわれていた。一方、両脇はヴォルトでおおわれていた。」
となります。
建物の規模は小さいですが、ドームが沢山のっけられていたんですね。

ドームのレベルが重なったりして、なかなか全体像を把握するのが難しいですが、上のは、分かりやすいかな。しかし、これに加えて手前側の角にそれぞれドームがあったとすると、地上のレベルから全体構造を把握するのは不可能になりそうです。

内部の様子は、こうなります。
「身廊の上に置かれた八面のドームは、円柱と柱頭の上にのっけられており、それらの基部は、より古い時代の建物からの再利用。」
「中央のドームは、四つのトンネルヴォルトに支えられ、十字を形作り、内側では、四本の円柱、外側では建物の外壁の上に乗っかる様子となっている。角では、球体のペンデンティブが形作られている。」
この、トンネル・ヴォルトに乗っかるドームという構造、どこでも似たり寄ったりで、そういうことなんですね。サイズは小さいけれど、ドームに高さがあるので、非常に天井高に感じられます。

ここでもまた、執拗にきっちりと積み上げられたレンガの様子が、粘着質な感じで、笑、オリエントっぽいかもねぇ、と思わされます。

柱頭は、立派なアーカンサスモチーフで、四本とも彫り方が異なり、もしかすると再利用かもしれないと思います。
この教会の肝は、やはりレンガですね。とにかくやたら外壁ばかり撮影してしまったんですが、見飽きないです。石とは違う面白さがあります。
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- 2023/02/19(日) 12:26:56|
- ビザンチン
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ビザンチンと猫にどっぷり、テッサロニキ弾丸ツアー(2019年11月)、その10
確か、プロローグにちょっと記したと思うのですが、タイトルにしている「猫にどっぷり」。その割に、猫、出てこないよね?と思われているかもね。
早朝から歩いている場所は、かなり街中なんです。交通量も多いし、店舗も沢山並んでいる、いわゆる新市街っぽい繁華街。

この、水色のあたりですかね。まちなみは、とっても都会な様子なんです。

ただ、ちょっと住宅地比率が増えると、いるんですよ、やつらが!

今度向かった教会は、ちょっとした住宅地の中にあり、緑のスペースもあったりするからか、朝からまったりお休み中の方々に遭遇しまして、自分も同行者も猫好きなんで、とっても嬉しくなってしまいました。
どの猫も、結構リラックスしているというのか、おそらくほとんどは路上生活ののらちゃんなんだけど、どうやら餌を与える住人がいるようで、肥えてるし、のんびり生活している様子なんです。
で、特に上にあげた地図の、北の方、道がかなり入り組んでいる高台の方は、完全な住宅地なんですけれど、どこもかしこも猫で満載です。猫にかまっていると先に進めなくなってしまうので、にゃあにゃあ愛想を振りまきつつ、駆け抜けるように歩いたりしていました。

猫嫌いだったり、アレルギーだったら最悪でしょうけれど、猫好きだったら、それだけでも行く価値のある町、テッサロニキ、笑。ただし、猫と遊ぶ時間も欲しい方は、私のような弾丸は避けた方がよろしいですね。
というわけで、今回向かった教会では、にゃんこにお出迎えを受けて、にっこりでした。

パンデレイモン聖堂Agios Panteleimonです。
ここも、正確な名称は分かりにくいなぁ。
前回紹介した小さな礼拝堂から、すぐ近くなんですが、礼拝堂から、テッサロニキのメイン・ストリートを挟んだ山側で、ここらあたりから、坂が始まる土地となり、僅かな距離だけど、この教会はもう坂の結構上みたいな位置となり、同時に住宅地に組み込まれる感じとなります。

入場の前に、こちら。
敷地の角に建つものは、オスマン支配下時代に、モスクに転用されていたということで、その際建てられていたミナレットのベース部分と思います。イスタンブールのミナレットは、どこもとてもほっそりしたペンシル状態で、優雅この上なく、建築としての美しさを感じてしまうのですが、このミナレットは、結構どっしり系な様子ですね。
私が最初に訪ねたイスラム圏がトルコだったもので、ミナレットのイメージがトルコ系で固定されてしまって、その後マグレブ諸国でびっくりしたと思います。ミナレットは細いのがいいな。
でね、ちょうどよい写真なので、言及しておこうと思うのですが、その元ミナレットの前にある白い祠、笑。いや、祠はないか。
でも、お灯明上がっている様子があるから、やはりほこら的なものなんですかね。
重要な政府機関系の建物の前に、例えば警備員とか軍人とかが詰めてる小屋みたいのがあったりするじゃないですか。ああいう程度の大きさの、こういう小屋みたいのが、教会には必ずあったんですよね。
別に歩哨の人がいるとかじゃないです。お祈りの前室とかお前立的なものなんでしょうか。構造的には、どれも新しいものと思われましたけれども。

さて、脱線が長かったですが、本堂の見学、開始です。
この日、早朝から歩き始めて、この教会が五つ目となりますが、ここにきて初めて、レンガの美しさに気付きました。
というのも、変な言い方ですが、ここに来るまでは、比較的外壁が新しくなっている様子の教会が多かったり、また、まずは何をどう見ればいいのかよく分からないなりに、内部のモザイクやフレスコ画につい注力してしまうというのもあり、若干浮ついていたところもあったんだと思います。
たわむれたにゃんこのおかげ、というわけでもないですが、何浮ついてるんだよ、という気持ちになったり、また、このパンデレイモン聖堂の外壁が、あまり麗しくピカピカに新しいものではなかったのもあるのかな。そして、たまたますぐそこが入り口だったのに、方向音痴の一環で、笑、わざわざ反対周りとして入り口にたどり着くという離れ業をしてのけたことで、最初に外壁の様子を見ることになったということもありそうです。

おそらく、ところどころに、石がはめ込まれている変化球も、味を出しているんですよね。廃材の再利用もありそうです。

この、小円柱など、明らかにそうですよね。かなり大胆な再利用なんですが、それが妙に装飾的になっているのがすごいな、と。
例えば、ローマ時代も、フォロ・ロマーノとか行くとよくわかるんですが、12月に行ったばかりなんで新鮮なんですが、結構レンガ建造物があるんですよ。でも、ローマには再利用のものがないわけで、笑、とにかくきっちりと同サイズのレンガを寸分の狂いもなく積んでいく、ということにあっているわけですが、そういうきっちりスキなし系に比べると、この再利用ありありのアンバランス系の方が、装飾としては圧倒的に面白いと感じます。
この聖堂も、他同様に、1978年の地震でかなりの被害を受けて、修復がなされているようなのですが、どの辺がそうなのかなあ。おそらく上のドームのあたり、妙に麗しくピカピカレンガ積みあたりがそうなのではないかと思うのですけれどもね。

これは、見飽きないです。
ボローニャのサント・ステファノの、中庭に面した色石やレンガを組み合わせたはめ込み細工みたいな壁装飾なら、見飽きないという表現も分かってもらいやすいかもしれませんが、いや、このレンガと石だけの壁も、含蓄深く、その組み合わせの妙というのか、こう見えても計算してるんだろうな、でもそう見えないんだよな、という深さが面白くて、ずっと見ていても飽きないやつです。
でも、これは、病気の人にだけ分かる感覚なので、同行者はやってられん、という顔で先に進んでいきましたっけね…、汗…。
余計な話が多くて長くなってしまったので、一旦切ります。
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- 2023/02/17(金) 13:40:15|
- ビザンチン
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ビザンチンと猫にどっぷり、テッサロニキ弾丸ツアー(2019年11月)、その9
次は、街並みの片隅にポツンと隠れるようにある、とても小さな教会です。大通り沿いではあるんですが、地面のレベルの下がり方と言い、周囲に立ち並ぶアパートビルの中への埋もれ具合と言い、なかなかインパクトのあるたたずまいです。

救世主の変容聖堂Church of the Metamorphosis of the Sotir/ Church of the Transfiguration of the Savior(9-13/15-20時)です。
ここもまた、二つ名?前にも書いたと思うのですが、教会の名前を特定して、訪問すべき教会リストを作るとき、最初に立ちはだかったのが、教会の名称です。
まず、当然のことながら、オリジナルはギリシャ文字表記で、読むことも書き写すことも不可。英語のネット検索でリストアップするものの、どうやら同じ教会でも、いくつかの通り名があったりして、それが同じ教会だと分かるまでも、結構大変だったり。
ここなど、本当に礼拝堂レベルの建物だというのに、何とも立派な名称で、意味は同じなんだから、なぜ統一してくれないんだかまったく謎です。
謎と言えば、ここ入り口に、ご親切にも、ギリシャ語英語併記で、オープン時間やミサの時間が掲げられていたんですよ。最初にアクセスしたのは、オープン時間の9時よりちょっと前だったので、近くにある他の教会に行って、10時ごろ戻ってきたんです、なんせ13時まで開いていると確信が持てましたから。ところが、近付いていくと、教会から出てきた女性が、扉を鍵で閉めているじゃないですか!
慌てて駆け出して、声をかけたところ、面と向かって「ちっ」とは言わないまでも、明らかにそんな様子で、しぶしぶ扉を開けてくれたんです。13時まで開いてるはずなのに…。
ちなみに、見学中のおばさんの「早く帰れ」圧はすさまじく、我々の見学が終了した途端に、鍵は閉められ、おばさんは姿を消しましたとさ…。

外から見ても分かるように、とてもシンプルな建物です。もともとは、上の角丸四角の部分だけで、後代になって、手前部分にナルテックスが付けられ、今あるナルテックスは、さらに新しく、1936年に作られたものということらしいです。
教会も、1345/50年ごろのものということなので、結構新しいビザンチン建築ということになります。1978年に地震に見舞われ、損壊が激しかったそうですが、それによって建築構造的な発見や、ドーム内のフレスコ画の発見などがあったそうです。

今の地面から相当低いレベルになっていますが、これこそが、この教会の建てられた当時のレベルということ。14世紀から600年超の時代に、1メートル以上のチリが積もったということになりますね。
元々は修道院内の礼拝堂だったのではないか、とされているようです。
それにしても、建物全体のプロポーションで、ドームがでかすぎなんですよね。
外から見て、あれ?と思うのは、ベースの方が石積みで、上部がレンガ。もしかすると、もっと古い時代の建物の名残が、石の部分だったりして?と思わないでもないですが、解説にはその記述は見当たらずでした。
教会内部や周辺には墓が発見されているようなので、もしかすると、古い時代の埋葬所のような聖所だった可能性もありますよね。

立派なドームはフレスコ画びっしりなんですが、保存状態は良いとはいえず、また例によって、暗いわけで、現地ではほぼ真っ暗闇で、撮影はしているものの、撮れているのかどうか、確信持てず状態でした。
「ドームの壁画は三つの部分からなり、キリストが天使に支えられて昇天している図。その昇天は、下にいる聖母及び使徒によって見つめられている。そして太陽と月、風の擬人化。8人の預言者が、ドームの窓の間に置かれている。」

どんなに頑張っても、薄ぼんやりとしか見えませんね。
これがモザイクだったら…。たとえ一部しか残されてなかったとしても、はっきりわかる部分があったことでしょう。
フレスコ画となると、なんか、濃い色を背景にしているケースが多いような気がしますね。その上に光がないと、全体が闇に沈み込む感じで。あえてそういう方向性をもって描かれたような気もしますけれども、でもどうせ描くなら、見せてほしいよねぇ!

預言者の列は、ヒトによってちょっと認識できたり。
本に掲載されていた同じ絵。保存状態良いやつは、ちゃんと適切な光で見れば、このくらいには保たれているのね。
誰だか知らないけど、なんとなく裁判とかいう様子なのに、さすがキラキラ命のビザンチンだよね。お召し物のあちこちに光物が…、笑。
こっちは、上の方にいる人みたい。

キラキラで美しいよねぇ。これは、預言はダヴィッドらしいです。

壁画もすごいんだけど、実はレンガ積み上げの装飾的な様子もすごかったです。

小さいだけに、すぐ目の前で、あまりの整然ぶりにちょっとびっくりします。
そして多分、柱なしで、ドームを持ち上げるという建築が、ビザンチン特有なのかと思います。
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- 2023/02/15(水) 13:14:36|
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ビザンチンと猫にどっぷり、テッサロニキ弾丸ツアー(2019年11月)、その8
アギア・ソフィア大聖堂Church of Agia Sophia(7-13/17-18時半)、続きです。

夕方戻った時、絶賛開催中だった結婚式。
この教会で行うのは、規模も含めて、かなり大掛かりなお式だと思われますので、きっとお金持ちの子女に違いない。とにかくこの結婚式のおかげで、多くの装飾を、肉眼で楽しむことが出来たありがたさがありますから、心から祝福を申し上げましたよ。
それにしても、明るくなると、改めてびっくりする、内陣部分のこの金ぴかゴージャスな仕切り。イタリア、例えば、この12月に再訪したローマには、ビザンチン起源のスタイルの教会も沢山あり、それらの教会は、内陣前の部分がイコノスタシスで囲われていて、聖職者と一般信者の区分けがすごいです。
しかし、本場では、それどころじゃないんですね。中も見えないようなこの障壁で、完全に分割。教会によっては、後陣の装飾も見えない、という状況だったりもします。
個人的にあまり好みではない中世アイテムにチボリオがありますが、好きではない理由の一つが、後陣装飾を見えにくくする、というのがあるのですが、ビザンチンはそれどころじゃないですね、笑。
幸い、ここの後陣、上の方に装飾があるので、ばっちり。

美しい聖母子像です。
黄金を背景とした聖母や聖母子というと、真っ先に脳裏によみがえるのは、ベネチアのムラノ島やトルチェッロ等にある、孤高な様子の立ち姿です。
こちらでは腰掛けているスタイル、そして、後陣の半円が、構造上小ぶりなために、孤高な様子はなくどっしりと豊かに構えるマリアの印象ですかね。
「東側のトンネルヴォルトと、メイン後陣の間には、聖母のモザイクがある。
聖母は黄金の背景の上に表されている。玉座に腰掛け、膝の上に幼子キリストを抱いている。キリストはその右手を、祝福のポーズで上にあげている。
このモザイクは、教会と同時期の、より古いモザイクの上に置かれたものと考えられている。古いモザイクは、十字架であった。教会は、聖人や神など人物像を表すことが禁止されていた偶像破壊の時代に建てられたため。この偶像破壊の風潮が弱まった際、十字架は現在のフィギュアに置き換えられた。しかしながら、十字架の水平の腕が、影のようになって見える。ちょうど、聖母の肩のあたり、そして、聖母の頭の上には、水平の腕の部分が。」
とあったので、写真を矯めつ眇めつして観察したのですが横腕の痕跡は分かりませんでした。縦は、もしかすると、上の方に、ちょっと凹っとしたような様子があるのですが、それなのかなぁ。
後代の修復とかで、痕跡分からなくしちゃった疑惑もありますね。

「明らかに、十字架のモザイクの時代に書かれた碑文は、「神よ。我らが父の神よ。この家をあなた、そしてあなたの唯一の息子とその聖霊の栄光の時代の終焉の地としてください」
碑文の一部は、聖母の足を描き出すために壊されてしまった。」

まるでちゃんと残すことを計算したかのように、全体にきれいに残しときながら、いきなりブチっと碑文を壊すとかって、結構あるあるなんですけど、不思議に思わされます。ませんか?
ここだって、何も、聖母の全身を、あと10センチくらい上にすれば、碑文残ったじゃんって程度のことなのにねぇ。緻密に見えて、意外と行き当たりばったりでやっちゃってるのか、疑惑ですねぇ。
それにしても、この後陣モザイクは、本当に美しくて、結婚式に感謝してもしきれないくらいです。

だってね、早朝、こんなですよ。

「聖母のモザイクの手前、トンネル・ヴォルトには、青い円の中に描かれた十字架。その同じヴォルトに、モノグラムや装飾的なモザイク。」

こういった色のバリエを見ると、どうしてもラベンナを彷彿してしまいますね。
ラベンナの強みは、ベネチアが近くて、もしかすると、ガラスの技術があって、より多彩な色彩を出せたとか、そんなことも関係しているのかと思ったり。あ、でも6世紀ごろ、ベネチアはまだベネチアじゃないし、ガラスの技術というのはいつごろからあるんでしょうね。

それにしても、なんという細かいテッセラの組み合わせなんでしょう。どれだけの職人さんの時間を使って作られたものかと思うと、気が遠くなるような作品です。モザイクがいかに高価なものか、想像に難くないですよね。とはいえ、やはりそれだけの手間暇コストをかけたからこそ、現代にまで生き延びたわけで、お金をかけるだけの意味はあったともいえるわけですねぇ。
でも、千年以上昔に、コツコツと働いた職人さんたちは、まさか自分の埋め込んだモザイクが、それだけの時代をヘタもなお燦然と輝き、人々に感銘を与えているなんて、夢にも思わなかったでしょうねぇ。
下は、十字架のあるヴォルトの端っこの方に置かれた装飾的なモザイク。ちょっとタイルっぽい雰囲気のあるモチーフですね。オリエントのタイル職人が図案を描いたとか?可能性はゼロではないよね。

絵画的な装飾としては、実はモザイクに加えて、11世紀の壁画もあるみたいです。11世紀初頭、おそらく1037年以降に、玄関スペースが増築されて、その構造ってテッサロニキでは多くの教会にあるようですが、その部分に壁画が描かれたとありました。
ローカルの人も含めて、聖人がずらずら並ぶ、というのが、そういった玄関スペースに表される典型的な内容ということで、ここでもそうらしいのですが、私は全く気付かず、で写真もありません。
そのスペースは、大抵暗いのですよね。そして、ここは、モザイクばかりに食いついてしまったので、早朝も、特に夕方などはキラキラに目がくらんで、玄関の間は、何一つ撮影していない様子です。
あと一つ、装飾アイテムとして、言及しておきたいのは、柱頭です。

「二段構えの風に吹かれるアーカンサスの葉モチーフで、サンデメトリウスと同様だが、ここでは皆同じ向きに吹かれている。ここの柱頭は、おそらく5世紀ごろに建てられた他の建造物から転用されたもの。」
ちょっと食いついちゃいました。
こういう葉っぱのものは、どこかで見たことあるように思うのですが、風で吹かれている、という説明を読んだことがなかったので、すごく新鮮に感じたのです。

柱頭は、他からの転用とされているけれど、ここでは、皆同じ向きに吹かれている、ということは、向きが違うこともあるわけですよね。そして、向きの違うタイプが組み合わされたりもするのだとしたら、そこに意味がありそうにも感じられます。
正確ではありませんが、自分の撮影した写真の向きから行くと、後陣の方に向かって吹かれている様子がありますので、西からの風を受けている、ということになるのかしら。

ビザンチンの柱頭というと、どうしてもラベンナの印象で、透かし彫りとか技術がすごい繊細な彫りものという印象しかなかったんですが(上のようなタイプ)、発見な感じ。
それにしても、どこでもそうなんですが、色々調べながら見ていくと、その一つとっても研究対象になりそうなポイントが、次々、続々出て来ますね。実際に研究されている方がいるテーマも多いでしょうけれど、地味な分野だし、まだ未踏の世界もきっとあるんでしょうよね。でも、ビザンチン研究だと、やはりギリシャ語とかマケドニア語とか、文献あさるのに、必至なんだろうなぁ、すでに無理って感じ。
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- 2023/02/13(月) 12:25:22|
- ビザンチン
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