恒例、東京の冬休み2
北斎美術館見学の後、両国をちょっと散歩したんだけど、びっくりの出会いがありました。
横網町公園。
東京にお住いの皆さん、ご存知でしたか?わたしは、この場所の存在すら、まったく認識していませんでした。
「被服廠跡」「東京都慰霊堂」「東京都復興記念館」とも呼ばれている場所。被服廠跡って、絶対に聞いたことありますよね。震災関連でも、戦争関連でも。
大正11年(1922年)、東京市が、陸軍被服廠の移転に伴い、その跡地を買収して、公園の造成を進めていた最中、翌1923年9月1日に関東大震災が発生。周辺の人々が、造成中の公園に避難しますが、折からの強風により、運び込まれた家財などが燃え広がり、多数の死者が出た場所(約58000人)。
その後、東京大空襲の犠牲者(10万人以上)も含めて、慰霊するために建てられたのが、上の写真の奥に見える慰霊堂。
今の日本史教育がどうなっているのか知りませんが、私の頃は、近現代史はほとんどやる時間がないといったような塩梅で、さらりとしか勉強しなかったんですよね。考えたら、東京大空襲のことだって、あまり知らない。
小学校や中学校で、社会見学とか言って、高層ビルを訪ねたり、ということがあったと記憶していますが、そんなものより、こういう場所に行くべきですよねぇ。なんだか情けない気分になりました。
同じ公園の一角には、東京都復興記念館があります。
こちらでは、震災と東京大空襲関連の展示が半々くらい。入場は、なんと無料です。
当時の写真を中心に、家財や店の看板など、様々な展示がある中で、びっくりしたのが、災害跡を丹念に歩いた、竹久夢二のスケッチ。
新聞に連載されたものだそうです。当時、夢二は、渋谷に住んでいたそうですが、出身はこの辺りですよね?美術館もあったもんね?
震災の翌日には被服廠跡に入ったそうですから、いてもたってもいられない気持ちで駆け付けたのでしょうか。
これもびっくりしたもの。赤十字のポスターなんですが、HELP JAPAN、つまり、日本への義援金を募るものなんです。
なんと、当時、国内はもとより、世界中から義援金が集まったんだそうですよ。内訳は、国内各地から6000万円、皇室からの恩賜金1000万円、海外からは、4000万円。アメリカからが1500万円強でダントツだったそうなんですが、その他、約30もの国から集まったんだそうです。イタリアからも、結構な寄付があったようで、ちょっと誇らしい気持ちになりました。極東の島国のことであっても、同じ地震国として、他人ごとではない、というようなことがあったのかもしれません。
いや~、勉強になりました。下町は、やはりきちんと歩かないといけないな~。
あ、それにしても、ですが、日本は建築に対して、無関心ですね?
北斎美術館についても、入れ物についての解説は一切どこにもなかったのでびっくりしたのですが、この復興記念館にしても、どこにも建物に関する記述がない。一応パンフレットを購入してきたのですけれど。これはこれで、ちょっとびっくりします。近現代の日本の建築家、結構頑張っている人たくさんいるのにねぇ。
最近はまっている写真サイト。ロマネスク写真を徐々にアップしています。
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- 2017/01/25(水) 06:53:28|
- 日本徒然
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| コメント:2
外国の高名な建築家の建物は、大々的に宣伝して居るようですが・・・・・
確かにこの様な昔の建物は、余り建築家の名前は知られて居ませんね?
無名の建築家とは思えないのですが・・・・・・
- 2017/01/25(水) 01:45:00 |
- URL |
- 古代遺跡めぐり<山下亭> #79D/WHSg
- [ 編集 ]
山下さん
実は、改めて、購入したパンフレットを丹念に読んでいたら、最後の方に、やっと、建築のことに触れてあって、設計者は、伊東忠太さんという建築家でした。現場でも、高名な方だと説明されたのですが、私は知りませんでした。持っているはずの、日本の近代建築家の本を探したのですが、見つからなくて~。
どうして、必要な時に必要なものが出てこないんだか。
いずれにしても、実に立派な、いかにも昭和初期の洋風建築ですよ。
- 2017/01/25(水) 22:34:00 |
- URL |
- corsa #79D/WHSg
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