2017年7月 エトルリアを巡りつつロマネスクもちょっぴり、トスカーナとラツィオの旅 その16
一回、うっかりクローズの日に訪ねてしまいましたが、改めて、訪ねたエトルリア遺跡の中でも、最重要かつ、最も楽しめる遺跡ではないか、と考えられるこちらです。
モンテロッツィ・エトルリア墳墓遺跡(カルヴァリオ部)Necropoli Etrusca dei Monterozzi, Settore del Calvarioです(タルクイニアTarquinia郊外。オープン時間:月曜以外、冬季8時半から日没1時間前まで、夏季8時半から19時半。関連サイトwww.etruriameridionale.beniculturali.it www.tarquinia-cerveteri.it )。
え?これが、楽しめる遺跡?
と思わず気抜けする写真を冒頭に掲げましたが、理由は、発掘前は、おそらくまさにこういった、何もない草原の広がる土地だったと思うからなんです。
ネクロポリ、つまり死者の町=墳墓遺跡なので、遺跡があるのは地下であり、今では地下への入り口となる上物が点々と建てられているわけですが、発掘される前は、ただの平地だったはずなんですよ。
こんな感じで、敷地内にある多くの墳墓が公開されています。地下の石棺が置かれた部屋には、素晴らしいフレスコ画が施されており、多くの墓は、そのフレスコ画の内容を名称にしています。
例えば、「曲芸師の墓Tomba dei Giocolieri」では、曲芸の場面が描かれているといったように。
また、ちょっと真面目なお話です。退屈だったら、飛ばしてくださいね。
墓への絵画装飾は、エトルリアでは多く見られるものですが、これほどの規模また期間で行われたのは、タルクイニアに限られます。紀元前7世紀から3世紀まで、要は、タルクイニアにおけるエトルリア定住の全期間に渡って、行われていたそうです。
なぜタルクイニアでこれほど多く行われていたかという理由は、おそらく、町として豊かであったことに加え、地質的な理由、つまり墳墓内部が、石灰岩であること。絵画をしやすい土台となるそうです。なんとなく分かりますよね。フレスコ画的に、絵の具を吸い込みそうです。
とはいえ、絵画装飾は、現在わかっている内容では、全部で6000にもなるだろう墳墓の3%に過ぎません。このような装飾は、実行するだけの財力や権力のある貴族階層に限られていたのです。それはそうですよね。
墓は、石をくりぬいた埋葬室と、そこに降りる通路からなっています。確か、親族が、お参りに訪れることができるようになっていたはず。もともと地面から埋葬室までは、つながっていたから、おそらく多くの発掘ができたのでしょうし、見学用に整えることも容易にできたのかもしれません。
規模やスタイルは、時期に寄って異なります。
初期は、四角い一室で、天井は、傾斜屋根のスタイル。埋葬されるのは、夫婦の単位であり、それにふさわしい比較的狭いスペース。
上にあげた曲芸師の墓は、まさにそういうタイプ。紀元前510年とされています。
ちなみに、この絵は、葬式の様子を描いたもの。葬式で行われた軽業のショーと、それを画面右側に腰かけて見学者的に見守る判事のような人物。写真に撮り切れていませんが、左右の壁にも、やはり曲芸の様子が描かれています。
お葬式に、こういう催しをしていたということなんですかね。そういえば、ロマネスクでも、軽業師のフィギュアというのは、多くの場面でレリーフになっていますけれど、こういった古代文化を関係があるのでしょうか。今まで、なんかピンと来なかったんですが。
話を戻すと、その後ギリシャに影響を受けるようになり、その時代には、家族親族一同が同じ墓に埋葬されるようになったため、規模が大型化します。そのスペースを支えるため、天井も柱が通されるなどのスタイルとなります。
埋葬スペースが、一室にとどまらず、まるで実際のお家のように巨大化したりしています。ここでは、それほど大きいものはないのですが、この「狩りと魚釣りの墓Tomba della Caccia e Pesca」は、二室あります。
入り口から見ると、奥の方に、区切られた一室があり、そちらが上で、魚とりの場面です。そして、手前の部屋は、狩りをテーマにしています。
この狩りの部屋の天井は、狩りのときのテントを模しているようです。凝っていますよねぇ。この墓に葬られた人は、こういうことがお好きだったということなのでしょう。
これらの墓の発見はルネッサンス時代にまでさかのぼり、当時200もの墳墓が発見されていたらしいが、発掘されても、多くは、保存のために良かれという理由により埋め戻されたり、長い年月の間に、正確な場所がわからなくなったりなどで、現在では、約60の墓にアクセスできるようになっています。
墓に絵画を描くという行為は、エトルリア人の生死への思いを正確に写す鏡の役割を担っており、また死後の世界についての考えをも移すものとなっているため、非常に重要な意味を持ちます。
初期の時代は、部屋の正面部分に描かれるだけだった絵が、時代が進むにつれて、紀元前4世紀半ばほどから、壁の全面が絵画で覆われるようになり、埋葬されている死者の人生や死をほのめかす内容が大場面で描き出されるようになりました。上記のように、狩猟、音楽やダンスを伴う宴会、葬式の様子等々。
初期の絵の様式からは、作者が、アジア地方から移民したギリシャ東部のアーティスト、つまり外国人であったことがうかがえるそうです。
紀元前5世紀後半から、死へ対する新しい考え方、ギリシャの影響がうかがえるようです。死後の世界に、怪物的な悪魔や、ギリシャ神話に登場するフィギュアが出てくるようになるそうです。
こういった墓の様式は、紀元前3世紀末、タルクイニアが、ローマに下った頃から、減少してしまいます。ここでも、「ちっ、ローマ人め」、という気持ちになりますね、笑。
実は、ここ再訪で、前回死ぬほどたくさん写真を撮った記憶があるので、このときは控えめだったんですが、そういう「写真はもういいや」という気持ちがあったからなのか、ピンボケばかりなんですよねぇ。ちょっと残念です。
せっかくなので、マシだったのをずらりと。
小花の墓Tomba dei Fiorellini。
ベッティーニの墓Tomba Bettini(ベッティーニは、これら絵画の保護に尽力した芸術家の名前)。
バルトッチーニの墓Tomba Bartoccini。
ここの図解が分かりやすいので、ちょっと載せてみますね。
もともとこういう感じで、地面からスロープみたいな通路がついていたのだと思います。そして、一室、またはこのバルトッチーニのように、さらに奥や左右に広がっているケースもあります。
今は、このスロープの部分を活用して、もっと急な階段を、地面からおろして、最短で埋葬室にアクセスできるようになっています。そのためかなり急で、この遺跡は、まさに足腰が元気じゃないと見学できないので、興味のある向きは、なるべく元気なうちに訪ねることをお勧めします、笑。
そして、部屋の入り口に、ガラスが張られており、そこからのぞき込むようにして、見学します。
電気は手動で付けるようになっていたと記憶しています。これは、かなり大きな場所なので、スペースにも余裕がありますが、いずれにしてもガラス部分は、せいぜい二人しかアクセスできませんので、団体だと、見学も大変ですね。
前回はイースター休暇、今回は7月でしたが、ガラガラで、団体さんでも入らない限りは、問題ない感じです。
このときの再訪が、前回から5年はたっていないと思いますが、驚いたのは、主要な墓の入り口に、モニターがあり、ビデオで墓の説明や内部の様子を映し出すようになっていたり、また、前回は見学不可だった場所が、新たに可能になっていたり、今でも発掘が続いていることや、技術の進歩も導入していることです。
レオパードの墓Tomba dei Leopardi。
バッケー(酒の神バッカスの巫女)の墓Tomba dei Baccanti。
ふふ、きりがないので止めますが、楽しいでしょう。
これまで多くの遺跡を見てきましたが、ここは、今後も何度でも再訪したいと思う遺跡の一つです。
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2020/06/07(日) 19:50:38 |
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