2020.08 コロナ禍中、炊飯器持参の夏休み(エトルリアとロマネスク)13
バラッティ・エ・ポプロニア考古学公園Parco Archeologico di Baratti e Populoniaの続きです。
なんと、あきれることに、ネクロポリでの見学記事について、重大な忘れ物が…。ネクロポリでは、ガイド・ツアー、二か所で参加したのに、二番目の場所をすっぽりと忘れていました、あきれます。
前回の記事に、その部分、加筆修正していますので、よろしかったら見てくださいね。正直、そっちのツアーの方が面白かったんですよ。
なんか、自分で撮った写真がないと、どうもしっくりとしないし、こういう抜けが激しい気がします。見学した場所は、教会でも遺跡でも、やたらめったら撮影しますから、撮り過ぎじゃないかと反省することもあるんですが、撮りすぎなりに、撮影の度に、残るものがあるのかの知れません。本当は、自分の目でしっかり見て、それでちゃんと残ればいいのですけれど、そこまでの視覚と記憶力直結能力がないので、写真で補っている感じっていうんでしょうか。
さて、そういうわけで、前回は、ネクロポリの見学でしたが、今回はアクロポリ、つまりネクロポリと同時期にあった生きている人たちの町の跡の方です。
前回地図をアップしましたが、こちらは、今も存続するポプロニアの村に隣接する場所にあります。現在のポプロニアの町は、中世時期からのもので、お城があって面影もありますが、ほぼお城のみ、という小さな村。夏以外は、人もほとんどいないのではないかと想像します。
でも、遺跡は、今の村よりはずっと広大な土地を占めています。といっても、今見られる遺跡は、エトルリアの跡を活用した、紀元前2世紀ごろの、ローマの遺跡なんです。

夢の跡的な、遺跡特有の空間です。
神殿跡が三つあるんですが、これはもう本職の考古学者レベルの想像力がないと、感動するのは難しいものでした。
幸いこちらも、考古学者のガイド付きツアーとなりますが、ネクロポリ同様、面白い内容でした。残っているものはほとんどないし、いまだ発掘中の遺跡もあるような半端な状態ですが、遺跡の中でうかがう歴史絵巻的なお話というのは、本で読む話よりもずっと楽しく受け取れる気がします。
エトルリアは、中世の都市国家のように、各町が主張に率いられる独立国家のような仕組みになっていたようです。で、ローマが台頭してきた際も、町それぞれが対ローマ政策を独自路線で進め、戦争で滅ぼされた町もあれば、相互条約を結んで、ある程度生き延びた町もあったということなんです。
そういうこと考えると、限りなく中央集権的だったローマ帝国というのが、ある意味歴史の中では異端的だったような気もしますね。
で、このポプロニアは、当初は条約を結んで親和路線を取ったのですが、ローマが激しい税金をかけてくるなどの政策を取ることにより、衰退が進む中、ローマ内での政争で、最終的に負けてしまう側についてしまったがために、勝ち組に徹底的に滅ぼされるという結果に終わったのだそうです。
時代の最後というのは寂しいものに決まっていますが、帝国主義的なローマが相手だけに、どうしようもない流れでしょうし、なんかむかつくな、笑。
そういうわけで、遺跡の上の方は、当然すべてローマの遺跡となるわけなんですが、エトルリアのものも、掘れば多少は出てくるのでしょうが、建物などの大物は、なかなか難しいのでしょう。

これも、紀元前2世紀だから、時代はもうローマ、という頃のもの。
でも、まだエトルリアの人たちがいたんですよね、おそらく。
見学した際には、ローマの浴場跡が発掘中でした。
素敵なモザイクがいくつか出てきたようです。規模は小さいけれど、高台にあって、気持ちのよさそうなお風呂でした。

あと数年したら、結構美しい建物となって、遺跡の目玉となっているかもしれません。でも、ローマだからな。
いずれにしても、まさに夢の跡。最近は、ローマの遺跡に行くこともなくなってしまいましたが、遺跡って、やはりロマンがあります。そして石の文化って、2千年でも、とにかく何等か形が残っているから、想像しやすいものというのはあって、たまには行くもんだと思います。
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- 2020/09/23(水) 05:16:58|
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