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イタリア徒然

イタリアに暮らしながら、各地のロマネスクを訪ねた記録

軒持ち送りにバズ発見!(エスタブル12 その1)

2017.08.ミディピレネー及びオーベルニュはカンタルの旅、その23

前夜、へとへとでたどり着いたボズールBozoulsという町のホテルで、できればゆっくりと朝を過ごしたいところですが、修行旅ではそういうことは許されず、普段の生活と同じように、7時には起床です。
普段の生活では、前夜どんなに早く寝ても、起床が辛いタイプですが、旅先では、たとえ修行が入っているとしても、やはり好きでやっていることだけに、身体がきつくても、メンタルはルンルンしているので、普段の生活より密度が濃いし、体力的には相当厳しい毎日でも、基本元気に過ごせるようです。
しかしこの朝は、まさに「普段の生活」を再現するかのような事態で、目を疑いました。

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窓を開けたら、なんと真っ白…。
冬のミラノでは、窓を開けたら真っ白、というのはよくあることで、このところ、そういう日も増えてきていますが、まさか、8月のど真ん中、真夏のフランスで霧に遭遇するとは…。

霧が出る日は、その後はほとんど晴天になることを、経験上知っていますが、同時に、霧の中のドライブの怖さも知っています。そして、いつ晴れてくれるかは、神のみぞ知る…。
仕方ないので、これならもう少し寝坊した方がよかったなぁ、と思いながら、ゆっくりと朝食を取り、ゆっくりと地図を眺めました。

この日の予定は、Lot川に沿って、点々と並ぶ教会の見学です。結構時間との闘いになるかも、という気がしていました。

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そのため、教会の開く前の早朝を活用して、最遠のエスタブルへ移動し、各村各教会に立ち寄りながら、ボズールに戻ってくるという計画です。

幸い、9時前には出発可能となりましたので、意気揚々、出発進行です。
道は、快適に整備はされていますが、山間という雰囲気で、ドキドキしながら走ります。ほぼ一本道で、間違いようはないと思いますが、どこから村でどこで村が終わるのかわからないような道を延々と進み、不安になってきたころ、Estableという表示がありました。

とりあえず、停車可能な路肩に駐車して、建物工事のお兄ちゃんに尋ねたところ、すぐそこだと分かったので、車は放置して、徒歩で、目的の教会に向かいました。約5分。村は、街道の、進行方向右側の斜面に張り付くようなロケーションで、その真っただ中に教会があるようです。

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こんな小さな村なのに、生来の方向音痴で勘が働かず、しないでもいい遠回りをして、やっと教会の塔を見つけました。

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エスタブルEstableのノートルダム教会Eglise Notre-Dameです。
高台になった村の墓地教会のようです。

余談ですが、この教会の説明版が、プラスティックのような素材で立っていたんですが、そこに、撮影する自分の姿が、結構くっきりと写っていて、変な話ですが、懐かしい気持ちになりました。
この当時は、まだコンタクトレンズだったんだ、とか、この夏に盗まれたカメラを、もうこの時には使っていたんだ、とか、右手に腱鞘炎対策のサポーターがついてるな、とか、そういうどうでもいいことですが、一人で歩いていると、自分の写真を撮影することはまずないので、よい記録になったものです。

その説明によれば、ロマネスク時代は一身廊で、その後ゴシック時代に、南側に礼拝堂が付け足されたとか、特にロマネスクに関する記述はなし。

遠目にも、軒持ち送りがすごいことになっている様子なので、わくわくしながら近づきます。

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二段にわたって、びっしりです。
でも、上の説明によれば、張り出している部分は、ロマネスク時代以降のものということになるのかしら。現場では、そんな説明読んじゃいませんから、自分なりに面白いやつを撮影しまくっています。
でも、純粋に面白いのは、やはり上の段のやつらだったかもしれません。

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これは、もう可愛すぎて、泣きそうになっちゃうやつ、笑。

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これは踏ん張り感が愛らしいです。誰かに似てるなぁ、と思ったら、トイ・ストーリーのバズ!気付いてしまったら、もうそれ以外には見えないくらい似ていませんか?

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体育すわり系で、変な緊張感のある子。運動会の徒競走の順番を待つ様子に、見えないこともない。このたとえ、日本人にしか分からないな~。あ、今どきの若者にはわからなかったりするのかなぁ。
右側の蛇も、すっごくかわいいですよね。ラブリーって形容がぴったりの蛇。これなら爬虫類苦手のあなたにも、受け入れられそうです、笑。

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これがまた~!
もみ手で金の話をしている、小役人とか、政治家の秘書とか、やばい金融業者とか、そういううさん臭い人にしか見えません~!にやり笑いと首すくめ、腰落とし、なんというか、もうすごいわ~。
教会的本望からいっても、多分欲への戒めとかじゃないかと想像するのですが、だとすると、千年前も今も、こういうイメージってこういうイメージなんだ、と、それこそにやりとしちゃいますね。

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一方でこちらは、現代アートとして完成しています、笑。
迷いのない彫り、フォルム、これは、現代の作家の作品としても、完璧に通用しますね。シンプルなのに表情がある、というのが魅力です。

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これも同じ並びにありますが、
上に並べたやつらとは、手が違いそうです。若干線に迷いがあるというか、やりすぎ感があり、ディテールにこだわった人って様子がします。

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体育座りでも全然かわいくなかったり、びっくりするくらいに不細工なフクロウがいたり。この辺はちょっとテンション低め。

何人の石工さんがかかわっていたのかなぁ。どうやってモチーフを決めて、どうやって並び方を決めたのかなぁ。こういうの見ると、どうしてもその辺が知りたくなりますが、そういうことを教えてくれる研究は、今のところ見たことがありません。

それにしても、楽しい彫り物の数々に、すっかり興奮してしまいました。
実は教会は、閉まっていたし、どこにも鍵のことは書いてなかったんですが、軒持ち送りがこれほどすごいなら、中もすごいんじゃないか、と思ったら、いてもたってもいられなくなり、鍵を探すことを決心しました。

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しかし、どうやって?

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  1. 2020/11/28(土) 20:33:13|
  2. ミディ・ピレネー・ロマネスク 31-81-82-46-12-48
  3. | コメント:1
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ウクライナ

11月第4土曜日、ウクライナはホロドモール犠牲者追悼の日
28.11.2020
https://www.ukrinform.jp/rubric-polytics/3144937-ben-riukurainahahorodomoru-xi-sheng-zhe-zhui-daono-ri.html
本日、11月第4土曜日は、ウクライナではホロドモール犠牲者追悼の日と定められている。
ウクルインフォルムが伝える。

ホロドモールとは、人為的大規模飢餓を意味する。20世紀、ウクライナは、大規模飢餓を1921〜23年、1932〜33年、1946〜47年の3回経験している。その中で最も大規模なものは、1932〜33年のものであり、その飢餓は現在、スターリン体制によるウクライナ人に対するジェノサイド(大虐殺)と呼ばれている。当時のソ連の共産党全体主義体制は、これに先立ちウクライナの知識人・宗教関係者に対して大規模な弾圧を行なってきており、それに続けて次はウクライナの農民を犠牲にしたのだ。

大規模飢餓が生じるまでには、複数の出来事が起きている。まず、1932年11月18日、ウクライナ共産党中央委員会の「パン準備強化方策」決議が出された。この決議は、穀物準備計画を履行しなかった者に懲罰を下すことを定めており、農業従事者は「自然財産刑」、つまり、15か月分の食肉ノルマの接収という手段で罰せられることになった。その後、接収される食料のリストはじゃがいも、サロへと拡大され、年末までには長期保存食も対象とされた。これに加えて、同日出された「反革命集団の解体及びクラーク集団の討伐」決議により、農民からのパンの徴集は、「反革命的犯罪」条項を根拠にも行われるようになっていた。

その数日後、11月26日、ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国人民司法委員会と検事総長による命令が出されるのだが、同命令には「弾圧は、パン準備への階級的抵抗を克服するための強力な手段の一つである」と記述されていた。このように、人為的飢餓は、細かく準備された上で、実態を懲罰作戦によりていねいに覆い隠されたものであった。

ウクライナの農民からは、彼らの育ててきた穀物が徴集された後、更に多くの「自然財産」が奪われ、家宅捜索により最後の食料備蓄まで取り上げられることとなった。1932年12月、ウクライナの82の地区にて、食料品の売買が禁止され、産業製品の供給が停止された。1933年初頭には、ウクライナの飢餓発生地域からの移動も禁止された。これにより農民は、逃亡という最後の望みまで絶たれたのである。パンを失い、植える農民家族たちは、代わりとなる物を食べていた。「代わりの物」とは、トウモロコシの身と芯、野菜の皮、乾燥した藁(ワラ)、腐ったスイカやビーツ、ジャガイモの皮、アカシアの皮、樹皮や木の葉を粉砕した粉といったものである。

ウクライナにおける飢餓による粛清は、22か月間にわたり続き、約400万の人々の命を奪った。

何十年にもわたり、ホロドモールのテーマは、タブーとされていた。共産主義体制が存在した時は、当時の飢餓について話すことは厳禁とされていた。ホロドモール研究がようやく始まったのは、1980年代も終わりに差し掛かってからである。現在、ウクライナでは、1932〜33年のホロドモールは、ウクライナ民族へのジェノサイドとみなされており、ホロドモールを公的な場で否定することは、ホロドモールの何百万の犠牲者に対する愚弄、ウクライナの人々の尊厳に対する侮蔑、不法な行為とみなされている。

2010年1月13日、キーウ(キエフ)市控訴裁判所は、ソ連の指導者、ヨシフ・スターリン、ヴャチェスラフ・モロトフ、ラーザリ・カガノーヴィチ、パヴェル・ポスティシェフ、スタニスラフ・コシオール、ヴラス・チュバーリ、メンデリ・ハタエヴィチをウクライナにおけるホロドモール組織を行なった犯罪者に認定している。

2016年12月7日、ウクライナの最高会議議員は、諸外国に対して、ホロドモールをウクライナ人に対するジェノサイドだと認めるよう呼びかけを行なっている。現在、そのような承認を行なった国は17か国。その他、10か国が公式な呼びかけにおいて、ホロドモールをスターリン全体主義政権の行なった人道に対する罪として非難する、あるいはその犠牲者を追悼している。また、1932〜33年のホロドモールは、8か国の宗教界でジェノサイド行為として承認されている。

ウクライナ国家記憶研究所は、毎年、ホロドモールの悲劇の様々な側面をクローズアップする特集企画を発表している。今年、同研究所は、ホロドモールの記憶保存は一人一人ができることであるとし、このジェノサイドを目撃した生存者の思い出話を撮影するか、それまでに家族の間で記録されているものを、博物館へ送ることを呼びかけている。このキャンペーンのスローガンは、「記憶を残せ、真実を残せ」である。

ホロドモール犠牲者追悼の日の行事は、ウクライナ全土で開催される。本日、追悼行事の他、テーマ別学術・情報行事、文化・芸術行事、展覧会、文書のプレゼンテーション、写真・動画公開が行われる。ウクライナ領では、国旗が半旗で掲げられる。

本日午後4時には、ウクライナの各家庭で、ろうそくに火が灯され、1分間の黙祷が捧げられる。
  1. 2020/11/29(日) 00:55:13 |
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