2017年12月の週末旅行、ローマの古代から現代まで、その1
次は何をまとめていこうかと考えましたが、やはり忘却が最大の敵、と思い、古い順番にやっていくことにしまして、久しぶりにイタリアに戻ります。2017年師走に訪ねたローマです。
この時、旅の直後に、プロローグとして、頭出しをしていたようなんですが、まだブログのプラットフォームが今は亡きヤフーだったり、当時はホームページも健在だったりという事実が分かり、なんだか感慨深いというか、デジタルの世の中って、目まぐるしいですよね。
そういうリズムに逆行するようなブログやってますけれど、ま、それはそれ、しょせんアナログ人間ですからね。
当時のブログも、現在の場所にまんま移動していますので、ローマの中世のスレッドで、過去記録も見ることができます。が、当時は、ホームページにまとめる前段階という位置づけだったため、ブログの記事はかなりあっさりしていて、ホームページをキープしなかったことが、今更ながら悔やまれます。
さて、プロローグに記したように、初めてローマを中世という切り口で回ったのが2009年で、この2017年の旅は中世特化としては二度目となります。最初の旅で見ることができなかった場所への再チャレンジや、近郊の村も含めて、結構盛沢山なスケジュールでした。
まずは、始めてしまいましょう。おいおい、おなじみ珍道中ぶりにも触れていくこととしましょう。
この時は、公共の交通機関利用の旅で、早朝のFreccia RossaでローマINです。このイタリア版新幹線なら、在来線で6時間ほどもかかっていたミラノ‐ローマ間が3時間ほど。技術の進歩ってすごいもんですよね。ただし、イタリアあるあるの列車の遅延はなくなることはなく、この時も20分ほど遅れました。
確か遅れが30分を超えると、一部返金があるんですが、その境目になると、なんだか猛烈なラストスパートで遅れを取り戻す、みたいな感じで、大抵返金には至らないことになっているようで…。
しかし、コロナで人の移動が減って、国鉄だって経営は大変なんでしょうね、今や。
しょっぱなから脱線しています。
遅れのために、予約してあった駅前のホテルまで走って、チェックインもせずに荷物だけ放り込んで、向かった最初の目的地がこちらです。

サン・ロレンツォ教会Basilica di San Lorenzo fuori le Mura(7時半-12時/16時-18時半。テルミニ駅近くから、バス71または492)。
ここは、以前の旅では、うまく訪問時間が合わせられず、日暮れに訪ねたところ、大きな目的の一つであった回廊が、「そこの扉からアクセスできますよ」と言われたものの、真っ暗闇で、アクセスどころじゃなかったという経験をしており、再訪を期していた教会なんです。そう、しょっぱなからリベンジですね。
というわけで、まずは回廊に向かいます。結構時間はたっていたわけですが、勝手知ったる感じで、迷いなくアクセス。

はは、意外とさっぱりときれいにお手入れが行き過ぎていて、一見中世的な面影薄いですが、とにかく8年越しのリベンジですから、ここに来られた事実がすごく嬉しかったです。

今では、こんな二階建てで、本来の姿じゃないんですが、この変容こそ、この教会の長い歴史を物語るものかもしれません。
回廊そのものの構造というより、おそらく見所は、回廊部分の壁に所狭しと置かれているやつらかも。

こんな感じで、あらゆる古そうな石片がびっしりなんです。これはたまげました。あらゆる時代のあらゆるタイプのものがあります。

どれも、おそらくこの教会の長い歴史の中で、実際に教会の一部であったものと思われます。そのくらい、この教会って、歴史そのものって感じなんです。こういうの、すごくローマって感じがします。
ローマの中世に関しての研究は、ローマ帝国時代に比すると、ないも同然ではないかと思われるのですが、この町は中世的にもすごく面白いんですよね。なぜなら、ローマの終わりと、初期キリスト教時代と、そして何より、キリスト教の歴史の舞台でもあったわけで、聖人がそこここで足跡を残していたり、どの時代でもこの地域の中心であったための跡というのがすごい。
この教会だって、サン・ロレンツォに捧げられているわけですが、実際にサン・ロレンツォのお墓があったということで、出自も分からないようなしょぼいレリックがあるからとか、有名だから捧げちゃったとか、そんなちょろいもんじゃないんですね、笑。

そのロレンツォご当人は、キリスト教が迫害されていた皇帝バレリアーノ時代に、その命により、多くの司教や聖職者たちとともに、258年8月10日に殉教した聖人。伝説によれば、彼は、大きなグリルで焼き殺されて、その遺体はVia Tiburtina沿いに埋葬されたとされています。
そういえば、グリルで焼かれている図って、ラベンナのモザイクとか、ロマーニャの小さな礼拝堂のタンパンの彫り物とか、なんか記憶にありますが、あれはサン・ロレンツォだったのね。いや、グリル殉教は他にもいるかもしれませんが。
その後、巡礼者の増加に伴って、皇帝コンスタンティヌスが、その墓所を整えたとかで、それが、今の教会の基礎になっているのは、間違いないようです。6世紀に、あまりに巡礼者が多いために、その便宜のためにも、より大きな教会が建てられることになったようです。それが、12世紀にさらに拡張され、今に至っていると。
3世紀に亡くなった方のことが、真実どうかは置いといても、亡くなった日や葬られた場所が正確にわかるって、なんかすごくないですか。ローマって…って思っちゃうわけです。

薄い石碑は、カタコンベ状の墓の蓋に見えるし、上の立派な彫り物は、石棺ですかね。ローマ以降中世にかけては、ローマの遺物の再利用も多いですから、起原がローマのものもたくさんありそうです。

いきなり、こんな場所があり、びっくりしました。
立ち入り禁止の柵が立っており、この時は、工事でもしていたのか知れませんが、この写真を見るまで、すっかり忘れていました。
フランス修行をまとめるにあたって、結構資料を読む癖がついてしまって、今もお手軽にネットで検索しながらやっているんですが、この、サンタ・チリアカS.Cyriacaeのクリプタは、本来、本堂左身廊の突き当りに、入り口がある、と書かれていたんです。それを見て、行ってないどころか、当時、気付きもしなかったと思いました。ただ、その記事で言及されたいたクリプタは、チリアカさんの墓所みたいだったし、13世紀以降に装飾された様子で、特段見なくても問題ないような状態の写真でしたが、こちらは、カタコンベで、どうやらロレンツォさんも埋葬されている場所、ということのようなんです。この写真を見たら、当時は公開していなかったかな、と思いつつも、残念な気持ちがしました。でも、事前に調べたときも、こんな場所、全然出てこなかったと思うんですけどね。
ちなみに、チリアカさんは、この辺りの地所を所有していた金持ちのご婦人みたいです。でも聖人だから、それを寄進したとかそういうことなのかな。
この時の旅は、改めて、という気持ちでアッピア街道にあるカタコンベ訪問もしたので、この情報を事前に入手できなかったのはかなり残念です。

多くの部分が再建されている様子ではありますが、たまに、こういう古そうな、明らかに再利用だよね、というような円柱もありました。いずれにしても、構造的な面白みは薄い回廊でしたね。
次回、本堂も改めてじっくり見ます。
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- 2021/06/26(土) 12:04:00|
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