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イタリア徒然

イタリアに暮らしながら、各地のロマネスクを訪ねた記録

9世紀というだけで萌えます(サン・クレメンテ修道院-カザウリア)

アブルッツォ週末ロマネスク修行(2018年11月)、その1

旅の直後にプロローグを上げて、ほぼきっちり三年たってしまいました。なんと、プロローグの時は、まだヤフーブログだったことを思うと、時の流れを如実に感じますねぇ、笑。

さて、この時の旅は、11月頭の万聖節の連休を利用した三泊四日、実質的な稼働時間は三日という短いものだったうえに、雨にたたられて、結構プランB発動の機会も多く、常に次どうするかを考えながら動くような状況だったのですが、その割には、当初の目的をほぼクリアするという満足度の高い内容となりました。

ミラノ出発時の早朝は豪雨。ぺスカラの空港では辛うじて曇天だったのが、レンタカーの手続きを終えて、出発しようという段階になって、雨が降ってきました。あっという間に豪雨状態になってきたので、いきなりプランB発動しつつ、出発です。

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カスティリオーネ・ア・カザウリアCastiglione a Casauria(トッレ・デ・パッセリTorre de Passeri)のサン・クレメンテ修道院Abbazia di San Clemente(オープン毎日9/13時、目の前に駐車場あり)。

いきなり迷って、見当違いの方向にぐんぐんと行ってしまいました。というのも、ここ、住所だけで見ていると、カスティリオーネ・ア・カザウリアと出てくるので、その村をナビに入力したんです、なんの疑問もなく。そしたら、なんか行けども行けども、くねくね道が続くばかりで、さすがにおかしいと思ったので、カスティリオーネ・ア・カザウリアの村で、道端でおしゃべり中のおやじたちに尋ねて、大失敗に気付きました。

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黄色い高速を、右上の方からやってきて、出口は、サン・クレメンテと記されているあたり。高速を出てすぐに、右がTorre、左がCastiglioneという分かれ道があったのですが、もちろん何の疑問も持たずに左に行ったわけです。ところが、修道院のある場所は、カスティリオーネ・ア・カザウリアでも、そこに属するさらに小さな村で、それは、高速を出たらすぐそこにある村だったということで、いきなりの無駄走りでした、笑。
今後いかれる皆様においては、どうぞ、このような無駄走りをされませんように。

そのような事情により、予定よりかなり遅れての到着になってしまったので、ファサードは置いといて、まずは、慌てて入場します。

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がらーんとした内部。やけに白々と白塗りもまぶしくて、ちょっと気持ちが引ける様子です。とはいえ、ぼんやりしている時間はないので、アワアワしながら、いつものようにメモで、この教会で見るべきものを確認です。
そうだった、そうだったと思い、説教壇や柱頭が気になりますが、後陣に向かって突進です。

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目的の一つは、クリプタでした。

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やられました~!
アブルッツォ、いきなりこれですか!好きすぎてウルウルですよ、すでにして。
それにしても、上物とのイメージの差が激しいですよね。このクリプタは、かなり古い時代のものっぽいです。

ということで、ちょっと歴史を見ます。
教会の創建はとても古くて、871年、修道院教会としてのものだそうです。皇帝の後ろ盾があったことで、修道院は短期間に非常な権威を獲得し、有力修道院となりますが、920年、サラセンの略奪をうけ、繁栄が一時ストップ。その後、徐々に力を回復するも、11世紀後半にはノルマンによる度重なる略奪を受けます。

本来力があったのか、はたまたその時々に、優れた修道院長がいたのか、ちょっと不死鳥のような修道院だな、という歴史ですよ。
だって、何度も何度も、色々な略奪を受けながらも、12世紀に一番輝いたということなんです。
その繁栄の結果、多くの改修や工事が実施され、教会の姿が変容していくこととなったということ、納得です。

現地にあった図面ですが、変な歪みがあったりするのは、そういう長年の改築増築の結果なのだと思います。

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歴史の話を閉じておきますと、そのような繁栄もあったものの、1348年、地震により建物の多くが崩壊したことをきっかけに、急速な衰退が始まります。きっと住むこともままならないとかの理由で、多くの修道士が、離脱せざるを得ないという状況だったのでしょうね。

それにしても、この地域、なんせ訪ねるのが初めてなので、まったく知りませんでしたが、地震がない地域ではなかったようです。と言っても、この修道院の記録に残っているのは、1348年と1915年のようですが、その間にもなかったとは言えないので、周期としては300年とかだったりするのかも。それにしても直近が1915年とすると、最近に起こった地震とは一致しないので、近くが変動しているのか、実際に周期が短くなっているのか、ちょっと怖いな。

その後、15世紀の半ばになって、修道院が繁栄していたころの回廊が、一部修復されるも、全体の修復は、18世紀まで手が付けられることはなかったということです。

で、私が好きすぎるクリプタは。9世紀ということなので、おそらく現在遺されている唯一の創建時の建造物ですね。ひゃぁ、通りで、好きなわけだわ。

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いくつか、立派な柱頭がありますが、これらはどうやらローマの転用のようです。
現地での説明版に加えて、ネット検索もいくつかしたのですが、クリプタに関しての詳しい説明は、まだ見つかっていません。
どう見ても、高さおかしいし、何かしら説明が出てくるものと思ったのですが…。
おそらく、このクリプタ、ほぼ完全に埋まっていたんじゃなかろうか、と考えます。見つかって修復されたけど、下までは掘り下げられず、床面をこの高さにせざるを得なかったとか。
でも、祭壇はまさに床面レベルで置かれているんだよなぁ。
スペインはアラゴンにあるレイレ修道院と同じような高さですよね。

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とにかく雰囲気がよくて、短い滞在時間ではありましたが、どうにも後ろ髪がひかれてしまって、本堂をうろつきながら、ついまた降りてしまう、といったような状態でした。

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そこそこ先を急ぐ旅ではありますので、それを振り切って、本堂へ。
装飾的に、重点的に見るべきアイテムは、下の三点となります。

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右にある説教壇と、左のイースターのろうそく立てという言われるアイテム、そいから、奥に見えるチボリオ。
これらのアイテムは、この旅でたずねた多くの他の教会でも、非常に似通った形で供えられていて、この地域ですごくはやったのか、たまたまそういう専門の職人さんが巡回して、同じようなものを作ったのか、地域の美術史的には、ちょっと面白い点だと思います。
これらは次回として、内部にあるその他の装飾品を。

3世紀の聖遺物入れ。

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創建翌年に持ち込まれたというサン・クレメンテの遺物である骨が収められていたもの、とされています。アラバスター製で、1104年には、サン・パオロとサン・ピエトロの遺物も収められていたと言われているようです。
聖人のことは、あまりよく知りませんが、サン・クレメンテも、あちこちで祭られている有名聖人だし、サン・パオロとかサン・ピエトロさんは言わずもがなで、聖遺物と簡単に言われても、にわかには信じられませんけれども、でも、当時は、人々の世界はもっと狭かったはずだから、あの聖人の遺物ですよっていわれて、それも、骨ちょっぴりとかだったら、すごいなぁって素直に信じることができたんでしょうかね。
あ、でもサン・クレメンテさんみたいに、ローマの人だったりすると、身近な人的な認識で、遺物があることも不思議じゃなかったかもしれないですね。

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クラシカルな植物の中に今年の主役。
テイスト的に、いつのものなのか、分かりにくいです。
下のも、なんか変な味のある彫りです。

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グリーンマンですけど、なんか、ピカピカ度が違和感何ですかね。いずれにしても、私の好みではないです。

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続きます。

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  1. 2021/10/10(日) 15:11:49|
  2. アブルッツォ・ロマネスク
  3. | コメント:0
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