アブルッツォ週末ロマネスク修行(2018年11月)、その29
マッサ・ダルべMassa d’Albeのサン・ピエトロ・イン・アルベ教会Chiesa di San Pietro in Albe、続きです。
前回書いたように、このファサード部分には鐘楼構造物がくっつけられて、なんだかへんてこりんな入り口となっています。鐘楼部分が、前の方にせり出したようにとなり、扉周りの造作は、ロマネスクよりも下る様子ですね。
この鉄柵から入った鐘楼の基部の部分は、言ってみたらナルテックスというのかポルティコというのか、そういう前室的なスペースとなっています。
元々の本堂入り口は、今はただの板戸って様子の木製扉がついていますが、本来は、素晴らしい木彫りの装飾がある扉で飾られていたようです。
今はCelanoの地域宗教芸術博物館Museo d'Arte Sacra della Marsica 所蔵とのこと。場所的には近い村だし、サイトで見たら、ちょっと面白そうな様子もあるので、当時は、全然チェックできていなかったのが残念です。
下は、お借りした写真となります。
この扉も、前回から言及している1915年の地震で損壊し(バラバラ粉々状態だったようです)、修復も兼ねて博物館ピースになったそうです。
左右二枚同サイズで、全体が28の部分に分割され、植物や動物のモチーフが非常に繊細な浮彫でなされていて、オリジナルは彩色があったと考えられています。
実際にどの程度の状態なのか分かりませんが、ロマネスク時代の木彫りというのは大変珍しいものですし、気付かなかったのは、今更ながら残念です。が、この時のアブルッツォは駆け足旅で、とりあえず行ってみたものなので、再訪はどうせ必至ですから、ま、いっか。
本堂扉の手前両脇、つまりポルティコのようなスペースに、こんなずっしりと柱。これは、おそらくローマ遺跡からの転用と思います。この教会、ま、これほど近くに遺跡があれば当然すぎるほど当然と思いますが、転用再利用品てんこ盛りです。
入場してすぐ、気付きますよ。
ずらりと並んだ壮大な柱は、ローマ時代の円柱の再利用です。いかにもですよね。12世紀の再建工事の際、これら円柱を導入して、三身廊構造が作られました。わたしが見た解説では、他の建造物のアイテムを再利用した、アブルッツォにおける唯一の教会建築とあったのですが、本当でしょうか。柱や柱頭などの再利用は、どこでも普通にありますし、ここだけというのはちょっと違うようにも感じるのですが、ボリューム的にここまで沢山、という意味なのかな。
がらーん、とした印象の全体の中で、この教会でも、左手にある説教壇、そして正面のイコノスタシスに目が吸い寄せられます。どちらも1200年代のもので、赤と緑の蛇紋岩がふんだんに使われたモザイク装飾は、コスマーティの典型。
説教壇。
キラキラで端正で、あまり好みとは思えないタイプのやつですが、よく見ると、あちこちにちょっと前の時代の彫り物などが使われているので、ちゃんと確認しないといけません。
これは、大修理の際に作られたもので、中央部分に、棟梁Giovanni di Guidoそして職人アンドレア、とあり、棟梁の指示で、アンドレアさんが実質作ったものとされています。
中央上部に、楽しい子たちが隠れていますよ。
それにしても、床じゃないアイテムのコスマーティって、構造物も、時代的にすっきりできていることが多いからかと思うんですが、遠目には変に端正で、クールな様子で、ロマネスク的な魅力に薄いところがあると感じるんですけれど、至近距離から見ると、手作りではめ込んだ職人仕事感満載で、見方が変わったりするんですよね。
モザイクに引き付けられてうっかり見逃しそうな場所に、こういう浮彫がはめ込まれています。これは、ローマではないけれど、教会にすでにあった何かからの再利用なのかな。
13世紀だから、もちろんこの説教壇のために彫られたものでも、決しておかしくはないんだけど、なんかコスマーティモザイクとは合わない感じがしてしまうんですよねぇ。
この説教壇、円柱の間、そして身廊の間に置かれていて、裏側もすごいです。
こっち側は、コスマーティだけですっきり。
こういう方が、コスマーティのイメージなので、中央向きの方の浮彫が、ちょっと浮くって感じたんです。
イコノスタシスは、左右同じような意匠で、これはコスマーティっぽい、遠目端正のタイプ。
上部に、アンドレアと書いてあるのが分かるでしょうか。こちらには、アンドレアの名前だけが記されているので、彼単独の仕事と考えられているようです。
イコノスタシスは、こんな様子で、壮大な柱の合間で、かなりこじんまりとした構造物と感じられます。
私が見た解説では、上の小円柱は、もともとクルクル渦巻き装飾の入ったものだったのに、1993年に盗まれ、メタル製の装飾のないものに代替されたとされていました。でも、幸いにも一部が戻ったので、改めて据え付けの工事がされる予定とありましたが、端っこの方は、こんな様子。
これらは、盗まれなかったものなのか、それとも戻ってきたものがここに据え付けられたのかは分かりません。
このらせんの柱は、本当にきれいで、幾何学模様をこんなに正確にモザイクで作るって、数学的な図案作成も、実際にはめ込んでいく技術も、いい加減な私は感心するばかりです。
装飾的アイテムとしては、1200年から1500年代までのフレスコ画が多数あったようですが、これまた、1915年の地震で多くが損壊。一部が救われ、やはり先述のCelanoの博物館に所蔵されている、ということです。
最後に、いかにも解説らしい考察で、しめたいと思います。
「このロマネスク様式の教会の建築に当たっては、モンテカッシーノにおける教えが、地元の職人たちによって見事に再構築されたサン・リベラトーレ教会におけるベネディクト派の技術者がたどり着いた理論に基づく提案があった。カンパニア地方やモンテカッシーノ、またロンバルディア、古典芸術とビザンチン芸術によって導かれたニュアンスなどによる建築的な理解によって影響された文化的背景から始まり、この教会の芸術性は、シンプルで本質的な形を取ることで実現された。それにより、祭具、チボリオ、イコノスタシス、また素晴らしい木製の扉などの装飾がさらに引き立っているのである。」
分かりますか?
ロショーロの解説にも、結構あちこちから伝播したものが混ざっているという考察が多かったように思うのですが、そういう土地だったんですかね。または、ずっと気になっているモンテカッシーノの存在が、そういうことを可能にしたということなんでしょうか。
面倒だけど、調べないといけませんねえ。
最後に、現場に置かれていた地震後の写真をあげておきます。
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イタリアぼっち日記
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2022/03/19(土) 18:49:01 |
アブルッツォ・ロマネスク
| コメント:1
くどくて大変もうしわけないのですが、 ロショーロ・デ・マルシで手に入れられた解説書にはイコノスタシスとかかれていたのでしょうか?私はイコンが掲げられる前のこの仕切りは 内陣障壁とか障柵というのではないかとおもっているのですが。
人類の美術 「ユスティニアヌスの黄金時代」には
ギリシャ教会ではベマの手前にのみ一列の柱が水平に並び、上には アーキトレーブが載り、低部には浮彫装飾のあるパネルがはめ込まれる。この型からやがてイコノスタシスが派生するのである。
またイタリアでは殊にイタリア(南イタリア各地、ローマのサンタ・サビーナ、サン・クレメンテ他に)では 7~8世紀頃までの遺例が多い
とあります。
私はcorsa様のように多くの例をみていないのですがサンタガタ・デ・ゴーティの聖メンナ教会では 内陣障壁だけがのこっていて そこで「こういうのは 15世紀頃までに取り払われたが、ここには残っている」 と言われました。そこで 西方教会ではイコノスタシスはなく内陣障壁だけが しきりとしてもうけられていたのではないかとおもうのですが。
東方でもテンプロンがイコノスタシスに変わるのは 10~11世紀だと習いました。
2022/03/20(日) 12:56:29 |
URL |
yk #C8Q1CD3g
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