アブルッツォ週末ロマネスク修行(2018年11月)、その46
グアルディア・ヴォマーノGuardia Vomanoのサン・クレメンテ・アル・ヴォマーノ教会Chiesa di San Clemente al Vomano、続きです。
後陣からファサード側に戻りましょう。
装飾の少ない外観ですが、扉周りだけは、ちょっと飾られていますよ。
解説では、サン・リベラトーレ・ア・マイエッラ修道院の建築テイストに言及があり、また石工がかぶったりするんでしょうかね。アブルッツォでは、要は、どのアイテムについても、棟梁、工房、石工個人とか、かなりかぶるということが明らかですね。土地として狭いわけではないのですが、山がちで、通り道が限られたり、教会や修道院を建設できる場所が限られているなど、そういう理由もありそうですが、いろんな制約があった結果なのかな、と推察します。
切り石をつないでいる様子の装飾彫り物です。
全体に、多くの建材が再利用のものであると分かるそうです。経済的理由から、修道士たちが、各地から少しずつ集めてきたものが使われているそうです。
上のアーキボルトも、そして、側柱も、とげのある大輪の花、つる草、そして小さな縁取りという古典的なテイストのある、のみで彫られた渦巻き装飾で飾られています。
この、向かって左側の扉脇、上の部分が見えるでしょうか。碑文がはめ込まれています。
「ANNI AB INCARNATIONE DOMINI NOSTRI JESU CHRISTI SVNT ML-C-VIII INDICTIONE XV」とあります。ここで、1108年とわかるのですね。ML-C-VIII に建設されたというような意味になると思います。こんな場所にいきなり碑文って、あまりないと思うのだけど、アブルッツォの人たちは、一般人が読めたのか、または読み書きをとても大切に考えていたのか、逆に読み書きが一般人には手に届かない崇高なものだから、装飾的に使われたのか。ほとんどの人にとっては面白くもない妄想が尽きません。
このアーキボルトの外側アーチ部分にも、文字が彫りこまれているんですよね。見えにくいと思いますけれど。
見えようが見えまいが、読めようが読めまいが、構っちゃいねぇ、という様子の彫りこみ方ですよね。一体どうしてここまでしたのか。石工さんの自慢臭が感じられますけど、さて、どうなんでしょうか。
ちなみにですが、発注者、石工の棟梁の名前が彫られているようです。「IN DEI NOE P. PRVPOS. ET B. FILIO FECIT FARE ORA AITGNISSCARDV ARTIFICE DE ARTE ARHETONICA」。おそらく「神の名のもとに、P.Pruposとその息子Bが、サン・クレメンテ・ダ・ニスカルドの入り口を実現した、建築のマエストロである。」
ちょこっと、動物たちもいたりします。そういえば、サン・リベラトーレにもライオン系がいましたけど、テイストは違いますよね。共通するのは、二頭向かい合っている様子くらいで…。
四角の中の花模様って、すっごく古典的で、なんならローマ臭もするようなモチーフです。
全体に、モチーフも浅浮彫加減も、とても古典的なテイストが感じられます。ヘタウマっていうんでもなく、なんだろう、ロンゴバルドを継承しつつ、ロマネスク時代ものですよ、みたいな様子っていうのかな。
うまくはないと思うし、モチーフのオリジナリティもないけど、思想が感じられる何かはちょっとある、みたいな感じっていうのかな。アブルッツォって、そういう感じがある。
内部の前に、歴史のおさらいをしておきましょう。
ってか、ちょっと調べたら、例によって余計なことまで見ちゃって、自分の記憶の書き換えっていうか。
この時期、この辺一帯、特に、ヴォマーノ川の谷において、ベネディクト派の修道に関する諸機関の発達が著しく、ベネディクト派の僧たちは、地元の人々の助けも得ながら、このサン・クレメンテはじめ、他にも多くの僧院を建設しました。
歴史的な確証はないものの、ルドヴィコ2世の家族がGuardia Vomanoの城に滞在していたという伝説があります。それは、duca Adelchi di Benevento およびロンゴバルド族の王子たちによって仕組まれた謀反から逃れるための、逃亡の時期だったとされています。
やはり伝説だが、その家族の中に、Ermengarda王女が含まれていました。ルドヴィコ2世唯一の娘であり、のちのLudovico3世の母となる彼女は、この土地の美しさを称賛し、ここに、サン・クレメンテに捧げる教会と修道院を立てることを望んだのでした。一部の研究者は、このルドヴィコ3世の母が、ベネディクト派に対して教会の建設を許可し、そして、カザウリアの修道院に寄贈したのではないか、としているとのこと。
なるほど、と言いつつ、えーっと、ルドヴィコって誰なんだっけ?と言ってくださる方、強く強く共感いたします、笑。中世の歴史って、複雑っていうほどのこともないけれど、ローマ帝国ほど単純じゃなくて、いろんな勢力が複雑に交わるので、覚えても覚えても(実は覚えちゃいないんですが…)、どうしても忘れちゃうのですよね。
というわけで、改めて、中世辞典や中世地図帳を引っ張り出しまして、また余計な時間を、というか、楽しい時間を過ごす機会を得ましたです。中世地図帳は、何年か前にフランスで求めたものですが、図解がなかなか楽しくて、その上具体的な蛮族の侵入経路など分かりやすくて、一度広げると、ついつい見入ってしまうんですよね。
今回は、ちょっとびっくりする発見がありました。
何度も見ていても、気付かないことってありますよね。そして気付かなければないも同然で、これまで全く認識してなかったです。10世紀頃、いわゆるヨーロッパの東端に、キエフKiev王国(今はキーウって呼ぶんですよね)ってのがあるのに気付いたんです。王国は、キエフが南端って様子で、今のエストニアとかのあたり一帯までに広がっていたようです。キエフって、長い歴史ある土地だったんですね。そして、アジアとヨーロッパをつなぐ、東西の交わる場所って様子にも見えます。
こんなご時世だからこそ気付いたわけなんですが、なんだかさらに現状が悲しくなってきました。
脱線終わり。
話を戻しますと、ルドヴィコは、フランス語だとLouis、つまりルイで、カロリング朝の皇帝一族。フランク族起源、つまりカール大帝(747-814)起原で、カロリング朝はご承知の通り、現在のフランスおよびドイツとその周辺地域を支配していたもの。カール大帝が、広大な地域を、息子たちで分割統治するように仕向けたと記憶してます。Ludovico2世(825-875)は、カール大帝から見るとひ孫の世代となり、西ローマ帝国皇帝。
そもそもカール大帝が、774年にロンゴバルドが隆盛を誇っていたイタリア半島に侵攻したものの、北部制圧のみで南部までには到達せずに引き上げ。半島中部は、その後ローマ教会へ寄進されて教皇領となりました。南部では、ローマ帝国勢力とロンゴバルド王国を前身とするベネヴェント公国が争っており、その混乱に乗じるようにしてイスラム帝国がシチリアに上陸。失敗もあったものの、その後952年、イスラムはシチリアを占領。
ここヴォマーノに出てくるルドヴィコ2世は、イタリア南部におけるローマ帝国とベネヴェント公国の争いの中に巻き込まれた、ということ。
彼は、その皇帝在位中、ほとんどをサラセン人、ロンゴバルド、ビザンチンとの戦いに費やしたが、871年敗北し、ベネヴェントのアデルキ王子によって獄につながれる、というところで、上の伝説につながるわけです。
ルドヴィコはフランク族だったけれど、娘の名前はエルメンガルダなんて、ちょっとエキゾチックなロンゴバルド風ですね。そういえば、カール大帝は、ロンゴバルドのお嫁さんをもらったりしたんじゃなかったっけな。
ヨーロッパって、地続きだから、そんなことが沢山あって、民族も融合したりしてるわけなんですよねぇ。それなのに、土地には固執してたりするし、なかなか島国の人間には分かりにくいものが沢山ありますねぇ。
美術から離れた話ばかりになってしまいましたが、カロリング朝は、もう少し資料を読みたいものと改めて思いました。ロンゴバルドよりは、色々ありそうですよね。
続きます。
いや、脱線が、でなく、本道が、笑。
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イタリアぼっち日記
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2022/04/29(金) 21:57:58 |
アブルッツォ・ロマネスク
| コメント:2
文字があるというのは、元修道院教会だったからということはないでしょうか?
キエフ大公国と言うのがありましたよね。ものすごく大きかったのに、リトアニアに飲み込まれポーランドに飲み込まれてしまったりした。でもそもそもはキエフ・ルーシ国というモスクワ公国などより古いというかもとになる国だったのに。
王の系図なども見るのがすきなのですが、フランスのカペー朝アンリ1世(1031~60)のお妃アンヌはなんとキエフ大公ヤロスラフ賢公の娘なのです。まあ母親スエーデン王女でしたし、国際結婚は当たり前だったのでしょうね。日本人からするとなんかスゴイなあとおもいますけれど。 (このお妃、夫亡き後幼い子のかわりにしっかり国政を見て立派な方だったそうです)
カール大帝も弟のカールマンもお妃はランゴバルト王デシデリウスの娘なのですね。カールは離縁して別の人と結婚しますが。記憶があやふやなので古い本や年表をひっぱりだして読みふけりました。歴史は面白いです。
2022/04/30(土) 15:32:36 |
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yk #i3bnT8TU
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YKさん
文字の件、確かにおっしゃる通りかも。アブルッツォは、土地柄なのか、修道院だった教会が多いのですよね。
キエフのこと、よくご存じで、さすがです。
西洋史は、実際ちゃんと勉強してないので、中世を追っかけだしてから、現場主義的に知ったことをつなぎ合わせてる状態で、情けない限りです。それにしても、地続きということもあり、政略結婚の激しさはすごいものがありますよね。国レベルというか民族レベルで交錯するから、政略結婚の結果も、なんだかすごいっていうか。
それにしても、キエフが反映していたころのロシアなどは、おそらく、原野というか、結局ロシアって、アメリカみたいな感じで国が成り立ったということなんですかね。周辺民族を取り込んでいった、みたいな。なんか考えたこともなかったので、大変興味が湧いてきています。
脱線ばかりで、時間がいくらあっても…、涙。
2022/05/01(日) 12:24:49 |
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