ベネチア島巡り(2018年12月)、その1
またまたずいぶん前の訪問記になります。
ブログを確認したところ、ロマネスク観点でのベネチアはアップしていないようなので、2018年12月に、久しぶりに訪ねたトルチェッロ島、そして、それより以前に訪ねたときのムラノ島の教会を、改めてまとめておきたいと思います。最近ほら、色々調べたい病になってますから、改めて、というのが肝です、笑。
トルチェッロの遠景。うっすらと塔が見えると思いますが、それが目的の教会となります。と言って、この島には、他に見るべきものがあるわけではないんです。
なんというか、「空の青、海の青にも染まず漂う」白鳥の歌がありますが、これはそのグレーバージョンという感じですね。真冬の12月に行っていますから、何やら物悲しい風景です。
物悲しいですが、それがまんま、トルチェッロを物語る風景ともいえるのかと思います。
この島、今では、畑と教会しかないような状態になっていますけど、15世紀も前には、今のベネチアの基礎となる土地だったんですよね。
639年、蛮族、というのも、今では抵抗ある言葉なんですけど、歴史上はそうなっているので使うわけですが、要はロンゴバルドなんですよね、その侵攻から逃れるために、本土の人たちが海に逃げて、それがベネチアの最初であるという由来は有名と思いますけど、それが、7世紀前半、このトルチェッロだったということなんです。
こうやって地図を見ると、今のベネチアに比べると、このトルチェッロのあたりは、本土とも距離が近くて、とぎれとぎれではあるけれど、より地続き的な土地となっていますから、そんなこともあったんでしょうね。埋め立てなどをするというより、とりあえず、島として定住可能な土地だったと。
7世紀から10世紀が、トルチェッロの繁栄期となりますが、最盛期には、2万人もの住人がいたんだそうです。でも、その後はベネチアが繫栄することで、多くの住人が移転し、交易など物流商売もどんどん移ってしまって、しょぼん、となっていくと同時に、どうやら、島として、というのか土地としてもダメになって、湿地沼地が増えてきて、住むに堪えないような自然環境の悪化、ということもあったようですね。
で、結果、住むことを放棄された土地となってしまったということなのでしょう。今では、畑と、教会と、住人は数えるほど、ということらしいです。
上の写真が、結構衝撃的だと思うのは、左の方に、教会Basiliaというのが見えると思いますけれど、そのあたりが当時の中心地だったはずなので、おそらく、赤い屋根の建物が、今のベネチアがそうであるように、びっしり建っていたのでは、と想像できることです。
今は、教会から右の方に伸びている運河沿いの道、そこは整備されていますけれど、道だけです。
ある意味、ポンペイ的な島なんですよね。いや、残っているのが教会だけで、繁栄した街並みがすっかり消えてしまって、もともとそうだったであろう原野のような様子に戻ってしまっているというところで、なんだろう、歴史は繰り返す的な、兵どもが夢の跡的な…。石の文化ですら、それも、古代のものでもない建造物が、きれいさっぱりなくなる、というのは、珍しい歴史ではないかと思います。本土からの避難民が生きた痕跡が、教会だけに残され、そして、その教会が廃墟になっていないにも関わらず、それ以外の建物が一切ないというのは…。
色々話が前後してしまいますが、トルチェッロに避難した人々の多くは、本土のアルティーノという土地の出身者で、当時、アルティーノは、ビザンチンだったのですね。
イタリアも、結構色々錯綜してますから、何度おさらいしても、なかなか覚えられない中世史、涙。
イタリア半島北東部ですが、赤で囲んだあたりが、6世紀から7世紀にかけての、ビザンチンとなります。ラベンナが近いですもんねぇ、このベネチアのあたりは。
5世紀ごろから、青い線でロンゴバルドが入ってきて、薄い緑のシマシマで囲んだあたりから征服して、どんどん半島を下って、北西部一帯から、ビザンチンを間において、南部、ベネベント辺りまで征服するんですよね。ロンゴバルドは、「蛮族の侵略」みたいな一言で簡単に片づけられちゃうし、世界史的に中世全体が、そういう扱いされている傾向が多いので、さらりと流されちゃうんですが、ローマ帝国亡き後、イタリア半島ほぼ全域を征服したというのは、もうちょっとよく認識されるべき歴史だと思うんですけどねぇ。
それにしても、稚拙な地図で、赤面です…、笑。
歴史の勉強をする場でもないんですが、あえて書いているのは、要はビザンチンだったということを納得するためです。トルチェッロに移住した人たちは、反ロンゴバルドだったと。
で、やっと教会の登場となります。
そういうわけで、もともとはビザンチン仕様初期キリスト教様式の教会が建てられていたわけです。
サンタ・マリア・アッスンタ大聖堂Cattedrale di Santa Maria Assunta。
よく見る姿は、正面ファサードからの写真と思いますが、今回は、脇の方の草原に回り込んで、横から撮影することが出来ました。実は、訪ねたとき、あちこちが絶賛修復工事中で、見学にはベストとは言えない状況で、実はファサード側は、外も中も、完全に足場状態、また、この後陣側も、ほぼ同様の状況で、近くにアクセス不可でした。
ちょっと悲しかったのは、その工事の終わりが、ほんの1週間後とかに予定されていて、確かほぼその予定通りに足場が取れたことが、何かのきっかけで、あとから分かったことです。また行けばいいんですけどね、でもくやちいことでした。
全体に、おそらく化粧直しだったり、破損の部分を交換したりとか、そういった修復っぽかったです。現場も、撤収が近い様子で、かなり片付いてはいましたが、あくまで「現場」でした。
ファサードはこんな状態でした。
今思い出しましたが、ファサードの方は、確か水漏れとか、何か水被害を防ぐための工事とかなんとか言っていたような。
話を戻しますと、今あるカテドラルの姿は、11世紀初頭あたり、トルチェッロが最も繁栄していた時期に、再建された姿で、鐘楼も、その際に建てられたものということです。本堂は、側廊が付け足され、中央身廊は高く上に持ち上げられるというバジリカ様式が採用されました。
このファサード、前に、とても原初的な様子のナルテックスがあるんですけど、これ、どういうことになってるんだろう。後付?または、初期キリスト教時代、7世紀ごろにあった教会の名残という様子も見られる構造なんですけど。
というのも、柱頭が素敵で。
波モチーフっぽいやつとか植物モチーフですが、なんとなくビザンチンなラベンナ・テイストを感じます。
しかし、とにかく絶賛工事中が絶賛過ぎて…。
このファサード前って、洗礼堂跡だったと思うのですが、なんだかもう。
歴史をひもとくところから始めたら、改めて面白いと思うのですが、色々な記述が錯綜してしまって、まとめるのが大変になってしまいました。
次回は直球で教会に突き進みます。
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イタリアぼっち日記
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2022/05/25(水) 22:06:09 |
ヴェネト・ロマネスク
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