最初で最後のアルザス中世、多分…(2019年4月)、その19
考えたらアルザスは、結構ロマネスク密集地ではあります。ただ、後代に手が入って、ロマネスクの残り具合は一部だったりする場所も多いようなので、何でもかんでも行く必要はないっていうか、しっかり取捨選択した方がよさそうです。
この辺りは、短時間で相当回ったな、という地域だったんで、改めて地図を見直したり、自分の事前メモを見たりして、今更びっくりするくらい、印がついていたんで、あ、そうだったな、と思った次第。
最初の頃は、何でもかんでも見るべき的な思いがあったりして、重要な場所に時間をさけなかったり何なら見逃したり、ということもあったんですが、見ていくうちに、やはり、まずは著名な教会優先で、時として、まさに目の前を通過しても、マイナー教会は無視するくらいで行く必要もあるということを学びました。私の場合は、幸いにもイタリア在住なので、ミラノ近郊であれば、また、フランスのようにマイカーで行ける場所なら、再訪もかなう可能性もありますけれど、日本から来るとかなれば、事前の決めって、ほんと、大変だろうなぁ、としみじみ。
それでも、今はネット情報がかなり充実してきたから、取捨選択もやりやすくはなったでしょうね。同時に、発見の楽しみは減るのでしょうけれども。
おっと、余計なことを。
ということで、前回のRosheimから至近のこちらです。

ドルリスハイムまたはドーリザイムDorlisheimまたは、いや、よく分からないけど、そこの、サン・ローラン・プロテスタント教会Eglise Protestante Saint-Laurentです。
何度も同じこと言及して悪いけど、でもさ、この地域、地名のスペルはドイツ語起源のまま、というのが、厄介のもとなんですよね。つまり歴史的にはそれだけドイツ寄りなのに、フランス領である、ということになりますよね。
イタリア北東部のアルト・アディジェ地域の多くの部分は南チロルという、もともとドイツ文化圏で、今はイタリア領ですけれど、そこでは、町の名前は、ドイツ語系とイタリア語系、ちゃんとスペルも違うんですよ。イタリア語名Bolzanoはドイツ語名だとBozenだし、AppianoはEppanだし、BressanoneはBrixenといったように。私はイタリア語圏の住人ですから、やはりイタリア語の地名を当たり前のように使いますが、おそらく地元住民は、ドイツ語地名で生活しているものと思います。
イタリア領であることを意識して、後付で無理やりイタリア名をつけたということなんでしょうかね。
そういう、国境の土地の歴史というのは複雑なんだろうから、そこをテーマにした研究はありそう。言葉は文化なので、面白そうです。あ、すみません、得意の脱線。
さてこの教会、見た目がちょっとかわいくて、そしてディテールに面白さがありますね。と言っても、ちょっとしたもんでよいので解説が欲しいところ。で、例によって探したけれども、公式サイトなどでは本当にちょびっとしか書かれていなくて、ちょっと引っかかったブログみたいなところから拾ってみました。
ウィキもあまり信用していませんが、個人サイトの情報は、やはりあまり信用できないと思っているので、ネットでの情報は、基本、教会とか教会がある町村のサイトなどから得るのですが、アルザスについては本当に見つからないから仕方ないですね。ちなみに、つまり、この私のサイトも、そういう位置付けですので、ご了解くださいね。信用しない方がいいです、という意味でね、笑。
まずは、入場してみます。

外もかなり小ぎれいにされちゃっているように、中も、全体に新しくて、古色蒼然のはずのロマネスクの雰囲気は、その構造くらいしか感じられないものとなっています。
先のサイト(一応地元の愛好家が2001年に編纂したガイド本を参照しているようです)などを参照した簡単な歴史は、以下となります。
1150年 創建(この点は、他の資料では、1165年から1180年の間とあるので、正確には分かっていないようです)
1200年 内陣の建設
1300年 鐘楼の建設(つまりゴチック様式)
今でも、三身廊後陣とか、身廊のヴォルトなど、再建も含むながら、創建当時のスタイルが保たれているものの、ゴチック時代以降、かなり手が入っているようです。
この町の位置するのが、Bruche谷の入り口、つまり、山間部を超える街道ということで、人々の行き来が激しかったようで、おそらくそういうことが、度重なるスタイルの変容などをもたらしたのではないかと想像します。
そういうの考えると、考え深いですよね。
人々の行き来の中には、当然侵略にかかわる動きというのもあるわけで、あっちに引っ張られ、こっちに戻され、という国境地域においてさらに引っ張られやすいような土地だったりするわけで、そういう色々を、この建物はずっと見てきたというわけです。
そういうことまで思いが及ぶと、たとえ今面白くもない形になっていても、軽く、つまんね!わざわざ来る価値ないんじゃね!?とか簡単に言ってはいけない気持ちにもなるんですが…、でも、つまらないと言っちゃいますね、笑。
地味な内部ですが、必ず見るべきが二つあります。うちの一つが、こちら。

向こうの壁の、ヴォルトからのリブ構造が集中している場所に、ポチポチポチっと、何かが三つあるのが分かるでしょうか。拡大すると。

三人の人物がいます。左側、ちょっとかけちゃっているし、オリジナルは他の場所にあった可能性がありますね。あちこち再建されているところに、ロマネスク時代の彫り物を、結構適当に置いたような様子があるんですよ。
で、これですが、諸説あるようですが、左側のおひとり様に対して、右側はお二人様、という様子であり、かつ、うち一人がゴブレットをかかげていることから、これは創世記に出てくるアブラムのエピソードとされているそうです。
なかなかそこまで覚えられないので、毎回確認することになりますが、お話としては、以下となるようです。
「ケダラオメルとその一味が一帯を荒らしまくり、アブラムの甥ロトとその財産さえも奪った。身内が捕虜になったのを聞いたアブラムは、318人の訓練したしもべを引き連れて、連合軍を追い、打ち破り、すべての財産及び女たちと民とを取り返した。その勝利からの帰路、シャベの谷で、ソドムの王ベラが迎え出てくるのを見ると、どこからともなくもう一人の王が迎え出てきた。それはサレムの王であり祭司であるメルキゼデクで、アブラムにパンと葡萄酒を持ってきた。」
つまり、ゴブレットを持っているのが、そのメルキゼデクという人になるようで、左側のおひとり様がアブラムなんですね。
ちなみに、サレムは、のちにエルサレム(平和、救いという意味)と呼ばれるようになり、メルキセデクは、正義の王という意味を持つ名前だそうで、なんかこの人たち全体を正当化するようなエピソードなわけです。
三人とも、ずんぐりむっくりの二頭身であるだけに、於かれた場所が、やはり間違ってます。二頭身だけが強調されるし、せっかくの細かい表現も、全然見えないからねぇ。メルキセデクは、なんかラクダの皮のヨハネみたいな衣ですしねぇ。
脱線ばかりで長くなってしまったので、一旦切りますね。
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- 2022/09/18(日) 16:20:01|
- アルザス・ロマネスク 67-68
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