エミリア・ロマーニャの週末(2022年11月)、その2
トアーノToanoのサンタ・マリア・イン・カステッロ教会Pieve di Santa Maria in Castello、続き、というより、本編となります。
名前に「In Castallo、城内にある」と付いているのですが、理由は、実際にお城の中に建設された教会だからです。

上の写真で、左端、緑の中にポツンとあるのが教会で、右にあるトアーノの町からは離れているのが分かると思います。当時、起原1000年よりもちょっと前の時期、カノッサ伯であったボニファチオの時代に、ここにお城があり、同時に教会があったということです。
教会に関しては、最も古い文書記録は、起原980年10月14日となるそうです。その内容は、時の神聖ローマ皇帝オットー2世が、この教会を承認したとかいうことだったようですが、当時は、この近隣に散らばる多数の礼拝堂や小規模な教会を管轄する位置に置かれたようです。
このボニファチオの娘が、有名なマチルダとなりますが、信仰心の篤いマチルダによって、この地域には多くの教会が建てられたようで、今でも存続している場所も多数ありますが、往時の面影を残す教会はわずかです。
その一つが、このトアーノの教会となります。

とはいっても、長い歴史の中、お城と隣接していたことも関係すると思いますが、戦いに巻き込まれること多数。直近では大事に世界大戦中に、パルチザンを追い詰めようとするドイツ軍により、木造の一部が破壊されたり、一部火災被害にもあったということで、そういったことがある度に修理修復が行われてきた結果、変容してしまっているようです。しかし、それでも、オリジナルの場所にたたずむとは、まさに石の文化の真髄ですし、また、それを守ろうとする信仰心だったり、これまた石の文化における人々のしつこさっていうと言葉は悪いですが、やはり、木と紙の文化の人々との違いはあるに決まっていると感じます。
現地でいただいた解説を読みながら書いているのですが、「長年、様々な戦争に巻き込まれ、直近では第二次世界大戦の…」と、中世からいきなり近代に飛ぶっていうの?時系列が当たり前のようで当たり前じゃないっていうの?興味深い感覚です。
あ、京都の人が、「先の戦いで…」というのが応仁の乱のことだったりするやつと通じるのかな。いや、あれは、京都人のおごり発言だよね、笑。
今の姿は、大変シンプルなものです。
上のファサード、これ以上シンプルなスタイルはない、という様子ですよね。
土地で産する砂岩の切り石が、ぴっちりと積み上げられている建物は、積み上げに使われているモルタルの様子から、コモやカンピオーネ出身の石工と言われている人たちがかかわったものではないかと言われているようです。

つけ柱推しは、何度か書いてきておりますが、この、ぴっちりの切り石積み、というものも、何か惹かれるものがあるんですよねぇ。ぴっちりきっちりって、自分にはできない仕事だからなのかなぁ。
上のファサード側は、結構傷みが激しいですが、横の壁だと、ぴっちりぶりが分かりやすいかも。

ちょっと話を戻しますと、こういう技術を持った石工さんがかかわっていた様子なので、ロンバルディアテイストが、このアペニン地域と融合しているんじゃないか、という見方があるようです。
ファサード、シンプルですが、よく見ると、つけ柱の痕跡があったりします。分かるでしょうが、扉の両脇、端っことの全体の幅で見ると、3分の1分割した扉寄りのあたりです。

現場で、離れて全体を見て気付きましたが、写真だとかえって分かりにくいですね。上の写真、そのつけ柱の痕跡を左右ギリのところで切ってみました。
このつけ柱、そして、下部の、これは建築用語でなんというのかよくわかりませんけど、これは石ですけど副木的なアイテム。お家でも、床面に着いた壁の最下部に木を張り巡らせるじゃないですか。あれを、イタリア語だとZoccoloというんですけど、あれの石版構造なんですけどね。それとリュネッタ部分。その三つは、11世紀初頭から12世紀の頃の装飾だそうです。ということは、マチルダのかかわった改築なのかもしれません。というのも、マチルダの時代に、かなり大きな工事が行われたらしいのですよ。

南側の扉は、どうやらかなり新しいもののようですね。
上の写真の奥がファサードとなりますが、塔のようなものがあります。
これ、解説読んで、ぷっと笑ってしまいました。
教会には鐘楼がありません。で、トアーノの人たち、鐘楼あるといいよなぁ、ってんでお伺いを立てて、1819年のことですが、無事建設許可が下りたそうです。
ここはお城があった場所で、その崩壊したお城の壁材などを使用して、中世当時の再現的なイメージで工事を始めたそうなんですが、土台を作った時点で、激しい計算間違いに気付くことに。要は、建材がすでに終了しちゃったと…。
仕方なく、上部は木製で作ってお茶を濁し、今ある石造建築は、戦後に行われたそうです。トアーノの人たち、計算苦手…。
ということで、土台部分は、10世紀建造のお城の素材が使われているということ。

おそらく、大きくて正確な切り石がお城出自で、上の、ちょっとセメントでごまかしてる風のが、戦後近代の建材ではないでしょうか。
その塔の前には、考古学的発掘で見つかった、墓地の跡が見られます。9世紀に遡る埋葬物も見つかったそうです。

ということは、お城以前に、礼拝堂とか墓地だった可能性もあるのかもね。村からちょっと離れて、高台で、ネクロポリ的な位置ではあるので、もしかすると古代からそういう土地だったかもね。まぁ、トアーノの定住起源は調べてないので、どこまで古い土地なのか不明ですけれど。

後陣側は、かなり修復の跡も激しい様子で、スタイルは往時のままでしょうけれど、あまり魅力はないですね、残念ながら。
とは言いながら、こういったものを眺めながら、持参のおにぎりを頬張るというのも、なかなかオツなもんです。

次回、内部です。
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- 2022/11/20(日) 12:37:36|
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