エミリア・ロマーニャの週末(2022年11月)、その9
ポレンタを楽しんだ後、もうお昼の時間ではあったけれども、朝ご飯がたっぷりの上遅かったので、まだ空腹も覚えず、お水だけ飲んで次の目的地に向かいました。
そして、その教会の午後のオープン時間14時の数分前に到着。
ブリジゲッラBrisighellaのサン・ジョバンニ・バッティスタ・イン・オッターヴォ教会Pieve di San Giovanni Battisuta in Ottavo、またの名をトー教会Pieve di Tho’です(日曜午後のみ一般にオープン)。
何度も行くチャンスはあったものの、日曜午後のみ、という変則的な時間しか開いていないため、なかなか実際に訪ねることができなかった教会です。
名前に着いたOttavoは8番目、という意味になりますが、それは古代のローマ街道の、エミリア街道からの分岐点から8マイルの距離に建つことからつけられた名称です。ローマ街道は、ファエンツァからラモーネ谷を通ってトスカーナへと続く古い街道です。上の地図に青で書いた線がその8マイル、約12キロ強という部分となります。
トップの写真のファサードは、正直さほど魅力的ではないのですが、ここ後陣がとても様子がよいです。
レンガだし、装飾的にも、ちょっとロンバルディアの教会に見えたりしますよね。そういうイメージ持っていなかったので、ちょっと驚きました。
この教会は、かなり有名で、多くの研究もなされているためか、現地では数冊の本が売られていました。一応目を通したのですが、どれも”帯に短し…”的な内容で、私の求める情報に合致するものがなく、唯一これはいいと思った本は25ユーロだったかな、高額過ぎると思ったので、結局一番安易なペラ紙のものを1ユーロだったか2ユーロだったか、お布施と思って買ってきました。気の利いた教会なら、無料でいただけるようなものです。
実は25ユーロの本を手に取った時、お値段を聞いたら、みんな10ユーロだよ、と鍵番さんがおっしゃったので、そのまま買うということもできなくはなかったですが、そんなことしたら罰が当たりますよね、笑。ってか、鍵番さんもやる気ないよなぁ。
ペラ紙ではありますが、割とぎっしり、歴史情報が書かれていましたので、今回もその解説に関しては、鍵かっこ内で記していきますね。加えて、現場の説明版も充実していたので、そちらも適宜使います。
教会の創設に関しては、「伝説では、ガッラ・プラチディアと、彼女の福音書家ヨハネSan Giovanni Evangelistaへの強い信仰心に言及されている。
とはいえ、この教会は、創設当時から、福音書家ヨハネではなく、洗礼者ヨハネに捧げられている。中世の教会では、多く、福音書家ヨハネに捧げられることが多いのだが(二人のヨハネの混同は、頻繁に起こっている)」という文がありました。
またまた地図で恐縮ですが、このブリジゲッラ、エミリア側と思っていたら、ロマーニャ側のラベンナ県なのです。
エミリアとロマーニャは、今は一つの州となっていますけれど、おそらくもともとは独立した州だったのだと思います。文化圏的には似通っていますから違和感はないのですが、とはいえ、ラベンナなガチ・ビザンチンの歴史を持っている土地なわけで、その点については、やはり大きな違いがあるはずなんですよね。
そして、創設の話に戻すと、ガラ・プラチディアはラベンナの人なわけです。ラベンナを訪問した人なら、彼女の霊廟とされている小さなお堂に必ず立ち寄ると思います。結構政治的な人生を送った女性らしいですけれど、熱心なキリスト教者で、沢山の寄進をしたようなので、彼女に言及される教会は、この地域には多いようですね。時代は全然違いますが、エミリアの方で有名な、カノッサのマチルダ的な。
で、創建に関しては11世紀から12世紀とされていますが、それは今ある建物に関することで、今の建物の前に、やはり教会やら時代によっては異教の神殿やらがあったということです。
というわけで、まずは歴史を探ってみます。すっごい地味だし、ロマネスクに関しては次回となりますので、興味のない方は、この辺でさようなら、ということで、笑。
本堂に入場すると、すぐ右手に、地下に降りる階段がありましたので、人の来ないうちに、と思って、すぐに降りました。
降りたら、クリプタのイメージは全くなくて、博物館のような展示会場になっていたので、拍子抜け。
左が、現在の上物で、右がクリプタの図となります。
この教会では、近現代にわたり、多くの発掘調査が行われているようで、特に近年行われた発掘で、上図クリプタの大部分が明らかになったようです。
では、教会が今の姿になる前、この辺りがどういう土地だったかというと、まずは上に掲げた地図でも言及したように、ファエンツァからトスカーナに抜ける街道という交通の要衝であったわけですね。そして、豊富な農作物の収穫ができる土地ということで、交易も盛んな土地だったようです。それは、この地域から、農産物を保存するツボなどが発掘されていることで、分かったそうです。
最初のスペースには、いきなりこんな構造物が。なんだか分かりますか?
お釜なんですね。
そういえば、この夏に訪ねたモリーゼの山奥の教会でも、発掘で床下にお釜が見つかった、ということで、床の一部がガラスで、それがちょっと見えるようになっている部分がありました。なんでお釜?教会でパン?みたいにイメージしてしまって、笑、その後別の説明も始まったので確認することもなく、よく分かってなかったんですけど、建材を作ったり、鐘を作ったり、とそういうことを現場でしていたということらしいですね。
ここでは鐘を作るためのお釜だそうです。
鐘に関する蘊蓄が解説版にあったので、以下、記しておきますね。
「鐘の使用はキリスト教で始まったのではなく、古くはギリシャやローマ時代にもあった。鐘を儀式に使うという点で、もっと古い記録は6世紀に遡るが、その鐘は、修道院で、信者を呼び集めるために鳴らす鐘だったので、かなりサイズの小さいものであったろう。その後7世紀から8世紀にかけて、特に北欧から、鐘は教会になくてはならないもの、というアイテムとなっていった。しかし、鐘の製造は大変複雑で、また高度な技術を必要とするものでもあり、時として一年もの歳月をかけて作られるものだった。そして、運送の手間や費用、また破損のリスクも考慮して、最終的に鐘が使われる現場近くで作られるものだった。しかし、作業場の建設は、大変注意深く行われた。それは、神聖な建物の内部でなければならず、まずは祝福される必要があった。鋳造の祝福は、一連の儀式として実施されるものあった。」
いや、面白いですね。やはりちゃんとこういったものを読んでいかないと、知らないまま流してしまいます。この夏の疑問も溶けて、ちょうどよかった!
お釜の先を進みますが、実は明りが来ていて、かなり暗い。ここは進んでもいいものなのかも不明ながら、手持ちのライトを頼りに進みました。
解説、続きます。本当に地味ですね。
「1900年代半ばの発掘で、食品保存用の大きな容器や、輸送用のアンフォラが出てきた。それらは当地の製造物であり、当時の交易、またこの土地の豊かさを物語るものである。」
「サン・ジョバンニ教会ができる前の定住では、ローマ時代の埋葬アイテムが見つかっており、それらは教会建造に再利用されてりもしている。それは、墓碑だったり、墓のモニュメントを飾る石版だったりだ(教会の壁の各所に、はめ込まれた碑文の破片が見られる)。それらが、この場所に定住のあったことを証明するものとなっている。」
「クリプタ近くには、埋葬が見られるが、それは教会につながっているというよりも、単純にこの地の定住者の存在を証明するものである。埋葬のスタイルは、Sepoltura alla cappuccinaというもので、単なる土葬ではなく、遺体の上にレンガの板で三角屋根を作るようなもの。これは、3世紀から中世まで使われたスタイル」
上は、つい先日訪ねたパヴィアにある、ロンゴバルドの一般人のお墓。時代がちょっと下る分、石垣とか結構しっかりしてますけど、スタイルは同じです。私の中では、この形はロンゴバルド、と思い込んでいたところありますので、修正が出来ました。
さて、依然暗闇の中をそろそろと進みます。時々、発掘されたらしいブツが展示されています。これは外壁にはめ込まれた窓の枠のようです。
そして、この先で、やっと本来の建築部分にアクセスすることとなります。暗闇に恐れて引き返さないでよかった!今や手持ちライトは必需品です。
「このクリプタには、多くのアイテムが残されていた。装飾された説教壇の一部や祭壇の一部、また小さな角柱など。残念ながら、11世紀終わりごろの教会のそれらのアイテムの再建は不可能であったが、いくつかの破片については、どのような形であったものかを認識することはできた。」
「石はその多くが砂岩で、装飾モチーフは植物や幾何学。例外は、説教壇の破片で、それは、ブドウつるのモチーフに、光背を持った聖人の頭部が置かれているもの。それぞれの脇に、おそらく聖人の名前が記されているが、損壊がひどく読み取ることはできない。」
こういった浮彫が完璧に残っていたら、感激ものですよね。しかし、こうやってつなぎ合わせるまで発掘するご苦労も大変なことですねぇ。
この教会では、階段数段の高さの、一人が登ればいっぱい、というような小さなサイズの説教壇があったと、装飾の浮彫のサイズから推定されているそうです。
クリプタに関する説明版も、せっかくなので読んでみます。
「クリプタは、西洋では7世紀ごろから普及し始めた。当初は聖遺物を納める目的であったが、その後10世紀ごろからは、特定の時間の儀式(夜明け、正午、日暮れ、就寝前)に使われる礼拝堂としての機能を主に持つようになった。この教会では、後者の目的で使われる場所だった。オリジナルは、それぞれ三本の柱、円か角かは不明、からなる二列で区切られていたもの。天井は交差ヴォルト。三つの小さな開口部から外光が入ってきていた。アクセスは、中央身廊から階段があったはず。」
どうやらこれが、その階段のようですね。
一つだけ蘊蓄が書かれていたので、読んでみますと、階段の、写真で言うと左側の下の方の石だと思うんですけど、ちょっとひっかき傷的なものがあるの、分かるでしょうか。
多分これだと思うんですけどね、これローマ人が遊びに使ったアイテムらしいんですよ。
ピンポンみたいな?いや、ボードゲームなんですかね?
Tabula Lusoriaとありますけれど、ちょっともう調べる元気がないので、どなたかご興味あれば、是非調べてみてくださいね。
さて、最後にですが、クリプタの説明版に、地域の他のクリプタの写真がいくつか掲載されておりまして、うち一つについては全く知らないけれど、とても古い素朴な雰囲気がよさげでした。Faenza地域のCorletoという村の教会のようです。
実は、クルマで走っていてどこかの交差点で、この教会の表示は目にしていました。確か11世紀のクリプタ、とあったので、曲がってみようかとも思ったのですが、急に曲がるなんて高度な運転技術を持ち合わせていないもんで、笑、スーッと進んでしまったんですよね。まぁ、行ったところで開いていない可能性が高いとは思いますが、残念です。次回のお楽しみとしておきましょう。
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2022/12/25(日) 12:12:48 |
エミリア・ロマーニャ・ロマネスク
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