fc2ブログ

イタリア徒然

イタリアに暮らしながら、各地のロマネスクを訪ねた記録

ローマ時代のテッサロニキ(ガレリウスの宮殿、凱旋門)

ビザンチンと猫にどっぷり、テッサロニキ弾丸ツアー(2019年11月)、その15

前回のロトンダの項で、やたら言及したと思いますが、ガレリウス。彼は、305年から311年東ローマ帝国皇帝だった人です。つまり、中世には関係ないのだけど、テッサロニキの成り立ちには大きく関与しているので、ちょっとだけ書いてみようと思います。
というのも、凱旋門は、テッサロニキに行ったら、特に興味がなくても、目に入ってしまうブツなんで~、笑。
でも、古代史に興味なければ、この記事はすっ飛ばしてくださいね。

salonicco 154

テッサロニキはもともとマケドニアによって作られた都市で、その名前の由来も、当時のマケドニア王の妻の名前だというから、なんというか、昔のそういった私物化というのかなんというのか、すごいですよね。スポンサーが自社の名前を野球場につけるとかそういう感覚を都市や国でやってしまうって…。
その後マケドニアがダメになってローマ帝国に組み込まれていくわけですが、テッサロニキの名前は残されたのですね。
そして、ガレリウスの時代に、彼はテッサロニキを本拠地として、ここは発展したようで、だからガレリウスなしには今のテッサロニキもなかったかもしれない、というような話になるわけです。

「テッサロニキのローマ時代の、行政及び宗教的な中心地であったガレリウスの宮殿は、町の南東部に、紀元300年ごろに建造された。それには、ロトンダ、ガレリウスの凱旋門、宮殿、八角形の建物および競馬場が含まれていた。
この総合施設は、その時々の必要に応じて少しずつ建てられたわけではなく、短期間に、一気に全体が計画されて建造されたという事実に注目することは重要である。」

salonicco 155

上が、おそらくその宮殿を含む、ガレリウスの作った本拠地の図です。1がロトンダ、2が凱旋門、3が宮殿、4が八角形の建物、5が競馬場、ということです。
今の地図で言うと、以下の感じかな。

salonicco 156

ロトンダと凱旋門のあたりだけに、往時の面影が残っているということになります。
だから何ということもないんですが、この宮殿の建設によって、町を拡張工事したりということになったりもしたようで、その際に新しい壁が作られたり、町のそもそもが結構変わったということなんです。
妻の名前を付けたマケドニアの王様もすごいけど、町のつくりを変えちゃうような宮殿を作るローマ皇帝もたいがいすごいよね。

総面積は18万平米って、言われても全然ピンと来ないけど、今の町の中で見ても、こんだけだと思うと、かなりすごいですな。ちなみに後楽園ドームの大きさは、47000平米弱だそうですよ、笑。

salonicco 157

さて、凱旋門ですが、これはガレリウスが、ペルシャ人との戦いの戦勝記念で、305年の少し前、ってことは皇帝になりたての時だったのかしらね、その頃に建てられたそうです。
残念ながら、オリジナルは一部だけ。オリジナルは、二階建ての三連アーチだったようですが、今は下段の真ん中のアーチと片側だけしかありません。
当時は、この門が、ロトンダからの道と、門の下を通る道のクロスする場所となっていて、それぞれの道には、屋根付きの回廊みたいな建物があったという、なんか想像しても豪華そうな、そしておそらく、一般人は足を踏み入れられないような場所だったと考えられますねぇ。

salonicco 158

見ての通り、基本レンガ造りで、一部に浮彫が施されています。いつも中世を見ていると、ローマの浮彫ってなんかいろんな意味ですごすぎて、なんでこんなことになっちゃってたんだっけ?と逆に不思議な気持ちになります。
せっかく解説を読みだしちゃったんで、実はほとんどちゃんと勉強したことのないローマの彫り物に関して、まとめてみようかと。

salonicco 159

ローマ帝国後期の特徴として、数多くのフィギュアが区切りなしにこれでもか状態で詰め込まれている、っていうのがあるそうです。そして人々、動物のフィギュアそのものや動きが、決して自然ではないこと。例として、上の部分があげられています。馬はスケール的にサイズがちいさすぎるなど。
とはいえ、中世のスタイルからは程遠い、と書かれているのは、中世のデフォルメとかそういうことを言っているんだろうね。
ローマの美術をちゃんと勉強したことのない立場から言うと、でも、これは面白いことだと思いました。ローマ帝国の歴史は長いから、当然初期から後期では、技術も含めてずいぶんと変わるものがあったのだと思いますが、こういった現実に忠実ではない表現というのがあったという事実がね。

ちなみに、この図像の説明は、以下となっています。
「騎乗したガレリウスが敵のトップと戦っている場面で、まさに敵をやりで刺した瞬間。ガレリウスの頭の上に彫られた鷲は、彼の勝利を予言している。戦っている兵士の中に、シーザー、リチナス、コンスタンティヌスを認めることが出来る。地面には、多くの遺骸やけが人が彫られている。右の方に置かれたフィギュアは、アルテミスのようだ。」
シーザーがどこにいるのか、そういうのはちょっと不明。

salonicco 160

最も重要なものとして揚げられていたのが、上の場面で、生贄の図像だということです。

「上段は生贄のシーン。下段はガレリウスがオリエントに対して、ローマ帝国の力を誇ることを図像化したもの。ある都市を舞台に、その土地の象やそのほかの動物が表され、また土地の人々が特徴的に表されている。ガレリウスは右側で、将軍の衣装を着ており、左にはディオクレティアヌスが、ガレリウスの戦勝を祝う生贄の儀式を行っている。トロフィーが左右に彫られている。」

上段に関しても、ヘラクレスとゼウスの参加している生贄の様子で、ガレリウスやその周辺にいる女性のフィギュアの意味するところが延々と説明されていましたが、翻訳、無理…。それも、なんか本に掲載されている写真、なぜか裏焼きとかになってて、笑、訳が分かりませんので、割愛します。ペコリ。

そういうわけで、テッサロニキにおけるローマ帝国の遺構は、なかなかの規模であるようで、この時は、ビザンチン特化の弾丸旅だったので、まったく知らなかったのは、ちょっと残念だったかもしれません。
この宮殿の場所では、近年、初期キリスト教時代のフレスコ画なども複数発見されているということで、それらも、おそらく観光地として見学可能になっているのではないかと思うのです。特に墳墓に、素敵なフレスコ画が残されているようです。万が一、というレベルですが、もし次回訪問があれば、そこはしっかりチェックしたいと思います。

salonicco 161

実際、町の至る所に、ローマっぽい遺構も、多々見ることが出来、現地ではビザンチンばかりに目を奪われていたけれども、確かにローマ起源ではあるのですね。そして、とにかくレンガ。ローマのレンガ焼成技術って、すごいものがあったのでしょうし、それがビザンチン建築に継承されたということになるのですね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日々の生活をつづる別ブログです。最近のミラノの様子などをつづっています。
イタリアぼっち日記

ブログランキングに参加しています。よろしかったら、ポチっとお願いします。
にほんブログ村 美術ブログ 建築鑑賞・評論へ
にほんブログ村

にほんブログ村 海外生活ブログ イタリア情報へ
にほんブログ村

インスタグラムに、これまでのロマネスク写真を徐々にアップしています。
Instagram, Notaromanica
スポンサーサイト



テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2023/02/25(土) 19:03:35|
  2. ビザンチン
  3. | コメント:0
<<デメちゃん信仰、熱し(サン・デメトリアス聖堂 その1) | ホーム | 宝石キラキラの理想郷(ロトンダ その3)>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する