ビザンチンと猫にどっぷり、テッサロニキ弾丸ツアー(2019年11月)、その16
次に向かいますが、以前の記事にも書いたように、一度行っても入れなかったりして、結構何度も行ったり来たりしているので、当初は、おおよそ無駄のないルートをたどったものの、結局無駄はないけど、何度も行ったり来たりで、なかなか手ごわいものがありました。
そして、地図を見ると、特に新市街っぽい辺りは、道も単純に見えるのですが、そうでもないんです。

この町って、東西に走る道が、キモで、結構幅広の大通りが並んでいるんですが、それぞれの道の間は、小路で、結構斜めっていたりごちゃごちゃしてて、意外と迷うんです。
そんな感じで訪ねたのですが、いや、びっくりしました。一大観光地状態を呈していたんです。

アギオス・ディミトリオス聖堂Agios Dimitrios/Basilica of St Demetriusです。
上の写真では、そうも見えないと思いますが、実際は教会周辺、内部もすごい数の人がうろうろしてたんです。これまで訪ねた場所が、基本無人状態だったので、衝撃的にびっくりでした。その上、見た感じ、明らかに新しいし、何がこれほど人々を引き付けるのか、わけわからないですよね。
なぜ新しいのか、という歴史を簡単に読んでみると、以下となっています。
「元々ローマ時代の浴場があった場所で、伝説によれば、ローマの役人だったデメトリアスが逮捕されて、迫害時代に牢につながれ、そこで殺され殉教した場所。彼の遺骸は、キリスト教信者によって秘密裏に保管され、その後313年に、浴場跡の一部に、小さな礼拝堂が建てられた。5世紀になって、同じ場所に大きなバジリカが建てられ、そこに聖人の墓が移された。それは、中央身廊のチボリオの場所。オリジナルの銀のチボリオは、後代に大理石のものに代替され、石棺、聖人のレリックが納められた。
5世紀のバジリカは、620年の地震で焼失し、その際、当時のテッサロニキ司教とLeoによって、同じ場所に再建された。」
「テッサロニキが最後にトルコ人によって落とされた1430年、教会は、1493までキリスト教徒の所有だった。時のサルタンは、それを認めたが、多くの装飾品を持ち去った。
その後モスクに転用されたが、1912年キリスト教の教会に戻された。1917年の大火の際、完全に損壊し、その際にクリプタが発見された。再建は1926に始まり、1948年に終了。」
ざっと、こういう歴史。結構損壊と再建を繰り返していて、結果、外観はかなり新しいものとなっているようです。

これは、入手した本に掲載されている写真で、1917年の火災の後の様子のようです。こりゃひどい。よくぞ、一部でも、貴重なものが遺ったものですよね。ただ、この火災の結果、クリプトが発見されたということもあるから、転んでもただでは起きない的なしぶとさのある教会。というか、それもデメトリアスさんの奇跡だったりするのかも…、笑。
ちなみに、前の記事でちょっと触れた守護聖人、テッサロニキの守護聖人は、この教会が捧げられたデメトリアスさんなのですね。デメトリアスさん信仰は、「ビザンチン時代を通じて聖デメトリアス信仰とキリスト教徒は、守護聖人が蛮族から守った街のみならず、ビザンチン帝国そのものの範囲で広がった。毎年10月に聖人を祝って行われる祭りには、ヨーロッパやアジア各地から、デメトリアスを信仰する人々が集まる。」といういことで、ビザンチン世界では、大変重要な聖人なのですね。
私の持っている聖人辞典には記述がないので、ビザンチン世界のローカル聖人ということになるのでしょうかね。
教会は、上の写真で分かるように、相当ズタボロ状態だったわけですが、かなり頑張って修復されており、それもやはりおらが町の偉人デメトリアスのためなら、という自負もあったんでしょうねぇ。お目当てのモザイクなどは、もちろんオリジナルとは違う場所に置かれていたり、ということはあるにしても、たたかれてもたたかれても、それだけ残った、というのは、本当にしぶといし、守った、というのもあるのだと思われます。
構造は、こういった形。

「バジリカは、大きな四角形の建物で、四列の円柱によって五身廊に分割されている。東側、後陣正面に、翼廊が走り、それによって教会はこの部分で横幅が広くなっており、プラン的には十字の形を作っている。
上の図版内の番号のふられた場所にあるものとして、以下。
1.人の血、おそらく殉教者デメトリアスのものと考えられるものが収められたガラスの容器が発見された場所
2.St Euthemiusの礼拝堂。1303年の壁画。その前に、小さな三身廊のバジリカスタイルの礼拝堂が作られたもの」
この小さな礼拝堂の様子は、後陣側から見ると分かりやすいのです。

現地では、分からないままに見学しているので、この後陣の様子が大変不思議だったのですが、三年たって初めて、なるほど、となりました、遅い!!!
この小さなかわいらしい教会が、おそらく最初に建てられたものだと思います。内部からの構造は見てないんですけれど、多分アクセスとかできなかったのじゃないかと思います。
後塵全体はこういった新しい様子ですから、不思議ですよね。よくぞ残った、というところも、またデメトリアス奇跡?

図版に戻ります。
「3.聖デメトリアスが二人の教会創設者と並ぶモザイク
4.ローマで296年に殉死したSt.Sergiusのモザイク
5.司教と並んだ聖デメトリアスのモザイク
6.二人の子供と並んだ聖デメトリアスのモザイク
7.聖人と聖母のモザイク
8.953年に死亡したOsios Lukasの壁画
9.蛮族の侵略の壁画
10.聖デメトリアスが祈っている壁画
11.二人の聖人といるGregorios Palamasの壁画。おそらく、皇帝Ioannis4世をシンボライズしたもの。彼は、僧となり、Ioassafと名乗った。
12.壁画。
13.1474-1493年の、いどう祝祭日の暦
14.大理石の石棺、1481年
15.聖デメトリアスと天使のモザイクの一部
16.聖デメトリアスの墓と呼ばれる礼拝堂
17.聖水
18.チボリオの場所(おそらく聖デメトリアスの石棺があった場所)。今は八角形の基部だけ残っている。」
上のすべてをちゃんと見ているわけでもなく、また解説できないと思いますが、損壊消失を繰り返した割には、ちゃんと歴史を押さえている教会となっていることが分かると思います。
どのようにまとめていくか、悩むところですが、実際の見学に従ってやっていこうと思います。
実は、クリプタの見学時間には制約があるので(3年前の時間は以下となります。月・水・木=8時から14時45分、金=8時から13時15分と19時から22時、土・日=7時半から14時15分、火=お休み)、到着してクリプタに直行しました(イタリア語だとクリプタとなるので、表記に英語イタリア語が混じってしまってすみません)。

すごく広いクリプタで、迷路みたいで面白いのです。自分が訪問したことのあるクリプタで、これに匹敵するのは、ローマのサン・クレメンテくらいでしょうか。
簡素化した本の図版も乗っけます。向きが逆ですけれど、上の図版と…。

図版の番号は、以下となります。あまりよく分からない内容もあるのですけれど。
「クリプタへの入り口は、東側からで、他にも多くのアクセスがあった(図の4)。後陣の下は半円壁(多分1)、それは西側で、クリプタによって形作られた半円の中に向かって開いている小さな後陣の列を含む壁を持つ。この基礎は、南側で、小さな側廊を持つバジリカ様式となっており、それが、殉死したデメトリアスのために作られた最初の教会であると信じられている(図の5)。
クリプタの北側には、四角い部分があり(図の6)、おそらく司教のものと思われる墓がある。」
広いし、いりぐんでるし、本当に何がどうなっているのか分からないんですけど、下は、6の場所になるのかな。立派な、実に立派な背の低いアーチが並んでいて、迫力があります。

現場で見学しているときはもちろん、今写真を見ても、何が何やら状態です。現場にも、ところどころに説明版はあったのですが、それでもあまりよく分からない状態…。

この、かまくらみたいな不思議な構造物は、図版の5,小さな教会の入り口にあたるようなんですが…。
ざっと、現場にあった説明版を読んでみます。
「クリプタは、もともとはローマの浴場の東部分で、地面のレベルにあったもの。中央部には泉があり、それは東側のポルティコからアクセスするようにしつらえられた三つのアーチ構造のポルティコを持つ。
ポルティコの北と南は、今でも二つの長方形の部屋が認められ、それは浴槽の補足的な構造物で、床モザイクも南側に見ることが出来る。
5世紀に大きな教会が建てられた際、浴場の地面レベルは、新しい構造物に、オープン・アトリウム的な形で組み込まれ、街路へのアクセス口となっていた。その際に、泉は再建され、聖水を使う場所として、教会状のスタイルとされた。7世紀の火災後、教会が再建される中で、クリプタは現在の姿となる。ドームは、過去の建物からの再利用健在で強化され、半円の大理石のチボリオは、泉のあるニッチの中央に置かれた。ビザンチン中期、10/11世紀から14世紀にかけて、クリプタは殉教地の中心的存在であったが、その後放置され、1493年にモスクに転用される際、完全に埋め込まれてしまった。そして1917年に発見されるまで、まったく気付かれなかったのだ。」

これが、泉の構造だと思います。ギリシャ十字の浮彫がある障壁のようなもので囲われていますね。こうなると、もう完全に遺跡の中を歩いている状態。そうなんです、かなり多くの場所に足を踏み入れることが出来るのも、このクリプタ、すごいですね。

何がどうなっているのかもよく分からないんだけど、何やらわくわくする場所なんです。ローマの遺跡って乾ききっていて、というのも変な言い方ですが、あまりに遠すぎて、ふーん、べつにぃ…という気になりがちなんだけど、中世のものって、それより若干近かったり、もっと湿度というのか、身近な何かを感じるっていうか。特にここは地下というわくわく感もあって、湿度っていうのか、まだそこまで遠くに行ってない感がありました。

浮彫の様子も、アンティークな様子が感じられ、ビザンチン風と見受けられますよね。
かなり長くなってきたので、続きます。
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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術
- 2023/02/27(月) 18:39:45|
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