ビザンチンと猫にどっぷり、テッサロニキ弾丸ツアー(2019年11月)、その20
さて、ここからは、町の中でも高台になっている地域となります。

港側一帯は、東西にまっすぐの大通りが何本か走っているので、比較的方向が分かりやすいのですが、上の簡略地図でも分かる通り、港から離れた地域はかなりぐじゃぐじゃ。その上、全体が斜面なので、上り下りもありまして、方向音痴には相当むずいウォーキングとなります。
一方で、どこもかしこも、基本住宅地ということもあり、猫遭遇率すごいんです。

飼い猫風も混じっていますが、ほとんどはノラちゃんぽく、住人の人がご飯をあげている様子でした。だからなのか、皆さんくつろいでいて、人なれしています。

カリカリが、実際に猫が食べる分以上って感じの量が豪快に置かれています。どのにゃんこも、しっかりと育っている様子。テッサロニキには猫好きしかいないんかな。
とにかく、迷いながら歩いて、あ、間違えた、となっても、どの小路でもにゃんこが迎えてくれるので、決して間違えを後悔する必要もなく、その点では楽しいウォーキングができる町です。猫が好きな人なら、あ、きっと岩合さんも行ってるだろうねぇ。猫と遊ぶためだけに行っても、楽しいハズ。

そんなお散歩をしながら、丘のかなり上の方の教会にたどり着きました。

預言者エリア教会Church of Profitis Ilias / Prophet Eliasです。
ここもまた、英語名称でも、なんだか複数出てくるからややこしいですが、預言者の名前は、おそらく日本では一般的にエリアだと思うので、そういう表記にしておきます。
プランを見ると、結構シンプルで小さな教会かな、と思ってしまいます。

でも、実際は、全体にごてごて、長年の間にいろんなものが付け足された結果何ですかね、上のプランのような単純なスタイルには見えない様子になっていると思います。

自分では、西側からしか撮影できていないようなので、上の写真は本にあったもの。これは後陣側と思いますが、南側の翼廊みたいな部分が突き出しているのと東の後陣との間に、ミニチュア教会みたいなのがくっついてたり、こういうのがわけわかんなくしてるんだよね、全体像を。
カトリックの教会は、シンプルな四角とか、すごく分かりやすい十字とかが多いし、付け足すにしても、側廊に礼拝堂作るとか、後陣一回り広げて周歩廊とか、元も外枠は割と守る感じがあるけど、ビザンチンの付け足しは、なんか激しいのかなぁ。あ、オスマン・トルコの改変もあったりするから、複雑になるのか。
それはともかく、この教会は、外壁のレンガ装飾が素晴らしいです。

ほれぼれする緻密で独創的な装飾です。
軒送りののこぎり歯、これは、特に私の住まう北イタリアのロマネスク教会でもよく見られるものですが、二段で、執拗なまでのギザギザぶりとか、その下の、ミニチュア円柱が並んでいるみたいな帯とか、なんかすごい職人技です。

小さなドームに開けられたほっそり窓の上の部分、三つそれぞれが違うモチーフっていうのもすごいです。いやもう、職人さんが楽しんで作っているとしか思えないけど、どうなんだろうか。

これは、見ていて飽きないやつですわ。現場だと、目移りしちゃうから、じっとしてられずに次に次に行っちゃうけど、こうやって写真で改めて見ていると、一枚一枚、ずっと見てられるくらい面白いです。消しゴムハンコのモチーフにもなりそうです。
これは解説でも語られていて、実は内部は割と稚拙な建築となっているが、外側に使われた技術は素晴らしい、と書かれていました。
「修復の責任者だった研究者は、教会の基礎も建築も、不器用な技術でなされているが、しかし、陶器の装飾が施された教会の外側は、熟練した技術者の仕事であるとしている。
装飾は、ビザンチン中期の典型。
三つの大きい後陣の開口部やブラインド部分、そしてドームは、一連の装飾的アーチが施されている。すべてのラインが、カーブしているものもまっすぐなものも、その外側が、のこぎり歯状のタイルまたはその他の陶器によって強調される装飾が施されている。
この装飾は、トルコの占領時代、大きなバットレスの下となり、消失してしまった。
バットレスは、ドームの下の構造物を支えるため置かれたもの。」
中の工事やった人、プンプンしちゃいますね、笑。
内部が稚拙かどうかなど、私にはもちろん分かるはずもありません。壁の傷みが激しかったのか、今はかなりの部分、真っ白の漆喰塗で、風情がないのはまちがいなし。

「預言者エリヤは、十字架スタイルで、四つのトンネル・ヴォルトに支えられたドームを中央にしている。これらトンネルヴォルトは、オリジナルでは、四本の円柱の上に建つものであったが、それは、このタイプの教会のための建築規則であった。しかし、後代に、東側の二本の円柱が、建物を支えるために付け足された薄い壁の中に取り込まれて消失、そしてトンネルヴォルトは、あたかも教会の壁から立ち上がっているような状態となってしまったのだ。」
「修復作業により、東側の二本の円柱が見つけられた。
ドームの東のトンネルヴォルトと東側後陣の間に、追加されたトンネルヴォルトがあり、それは、聖所の後陣のある東方向に拡大している。その後陣に加えて、教会は、その北及び南に、同じような後陣を持つ。それによって、プランは、三つ葉、アトス山の教会の形となっているのである。
南と北の後陣は、内陣席の僧のためのもの。」
よく分からないながら、各後陣が聖職者に向けられたものだとすると、一般信者のいる場所はナルテックスになっちゃうのかな。
ここの起源ですが、今の定説は、修道院の教会だったというもののようです。
「預言者エリアは、中世の修道院Nea Moniのメイン教会であったと考えられている。その修道院は14世紀に、当時有名だった僧侶Makarios Humnosと、その弟子である僧ガブリエルによって創建されたとされている。
ガブリエルは、Makariosがテッサロニキを去ったあと、修道院を統率した。
その説を唱えた研究者は、Nea Moni修道院が、古い宮殿のあった場所に建てられたという証拠があることを考察した。宮殿は、ローマ帝国(ガレリウス)のものではなく、ビザンチンの建物であった。
トルコ人が、預言者エリアをモスクに転換した時、それを”古い宮殿のモスク”と呼んだ。」
創建は14世紀とのことです。
高台で、往時は、周りに何もないような、いかにも修道院にお似合いの場所だったのかな。
ちなみに、漆喰塗がない壁には、壁画が結構あるのですが、痛みが激しいのです。

外壁の一部にも。

聖人のお姿が多いようですが…。

本には、こんな立派な写真が掲載されていました。幼児虐殺の場面らしいです。全然分かりませんよ、現場では、涙。
外付けの礼拝堂みたいな場所だったのではなかったかと思うんですが、不思議なものがありました。

お灯明をあげる場所だと思うんだけど、なぜ、外において、こんな御大層な様子になっているのやら。
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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術
- 2023/03/05(日) 18:47:04|
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