2019年8月夏休み、フランス中部の旅、その2
というわけで、飛び込んだ教会は、こちらです。

サン・マルタン・デネ教会Eglise Saint Martin d’Ainay。
訪問したのはコロナ前ですが、今でもオープン時間はその当時に戻っているようです。
とにかく駆け込んで、柱頭彫刻目指して突進して、目に付くものを撮影しまくっている数分でした。バターン!と大きな音がしてハッと我に返りまして、それが正面の扉をしめた音だと気付いて大慌て…。
しかし、病気ですからね、それしきでひるんではいられないのです。拍車がかかったアワアワ状態で撮影を続けていたのですが、ミサの跡片付け中の方も、特に慌てる様子もなかったのはありがたかったです。
でも明りを落とされたら、もう出るしかないので、通用門の方にいざなわれながら、一応午後の時間を尋ねると、日曜日は、午後クローズです、ということで、速やかに追い出されました。
人々の安息である日曜日、教会は開いてなくてよいのか?!平日はクローズでも、週末は開いている、というケースがほとんどの中で、まさかの現実で、本当にびっくりでした。
昼休みが1時間程度なら、ランチを取ってから戻ってもよいな、と軽く考えていたので、ショックもありましたが、ほんの5分でも入れたのは幸いでした。
そういう事情なので、いつに増して、手あたり次第の撮影となっております。

内陣に良い柱頭がある、という漠とした情報を得ていたので、そればかり目指していたんですが、他にも見るべきものはあったようです。と言って、私に与えられたのは5分程度の時間でしたので、何でもかんでもは無理だったので、漠とした情報しかもってなくて、かえって良かったような気がします。
一見してかなり新しい様子に見えます。それもそのはずで、この教会、起源はとても古いけれど、繁栄も斜陽も味わいながら結構長生きしたせいで、時代時代に手が入り、近代になって、いっそ壊してしまうか、大修理をするか、という選択を迫られるまでになったらしいです。
結果、有難くも修復が選択され、その上、ここが最も繁栄した時代の様式であるロマネスクを最大限に再建修復するという素晴らしい決断がなされたことで、今の姿があるということなんです。
建築的には、そういうわけで再建部分が多いのですが、有難いことに、古い時代の彫り物装飾が生き延びているのですね。
というわけで、後陣部分から。

開口部の間に、彫り物が施されたつけ柱状のものが三本置かれているんですが、それぞれモチーフが異なる装飾性の高い内容となっています。

これは追っかけ動物系ですね。トスカーナのどこだったかな、海沿いの土地の教会に、こういう追っかけ系のモザイク帯があったなぁ、とか、ルッカの教会だったかに、これ系の副柱頭があったかもなぁ、とか、彷彿としましたが、ここの動物は、デッサンがとても優れていて、デザイン的ながら写実性もある感じで、素晴らしい。そして、お尻尾の先が、茶葉の紅茶入れみたいな、または魚とりのびくのような…。これまた独創的です。

普通なら、とにかく撮影しまくるところですが、やはりこの時は枚数も少なくて…。つる草模様の中に、こんなおちゃめなリーゼント野郎。
全体をお見せできないのに、あまり解説的なことを書くのもどうかと思いますが、こんな愛らしいような彫り物だったりするんですが、黙示録とか新旧訳聖書とかを織り込んでいるとかの説明もありまして、どひゃぁ、です。上の方に、神の子羊ちゃんなんかもいるようです。
この縦長彫り物、こんなに素晴らしいのに、ついおざなりになった理由は、お足元にありました。

こういう、彫りもしっかりした何かしら興味深い感じの人のフィギュ
アがありまして、保存もよくて、ついそちらに注目しちゃったんですよねぇ。
上の人は巡礼者らしいです。神に選ばれた印の王冠を持ってるとか。テニスのラケット的なもの、またはぺろぺろキャンディー的なものにしか…、笑。

何かドラマを感じさせるたたずまいじゃないですか。
上の人は、なぜか錨を持ってるわけですが、希望のシンボライズではないかとあります。顔つきが、これから大海原に冒険の旅に出る人、ですよね。かっけー!

ハープを抱えて神を讃える歌を歌っている人。まさに。何かが入っちゃってる怖い目をしていますよね。トランス状態っていうか。
一方この方は本を持っていて、キリストのメッセージを伝える人だって。

この人は、トランス足りない様子かな、笑。やはり音楽と書籍では、音楽の方が入り込みやすいからな。
とまぁ、こういう方たちに、ちょっと惹かれてしまって、全体とらえるのが疎かになっちゃったんです。しかしディテールにこだわったハイテクニックな装飾ですよね。
でね、これ後陣なわけですが、思いっきり見逃ししました。基本上ばっかり見てたからさ。

これさ、まったく見てなかったんだけど、何さってことなんです。このキラキラぶりはどゆこと?当時こうだったからこうだと再現?
祭壇のことは、解説にちょっと出てたんです。
(解説、信頼できそうなサイトで二つばかり引っ張ってきたんだけど、なんからちの開かない内容で、どう使ってよいのやら、なんです。)
「当時1100年のこと、カンタベリー大司教は、英国王から逃れて、エネAinayに滞在していた。その影響のもと、エネの修道僧は、マリアに祭壇を捧げることとなる。これが、リヨンにおける無原罪の宿り信仰の最初となるのである。それは、当時の法王パスクワーレ2世によって祝福された。その、1107年1月29日に行われた奉納だが、その祭壇は、ロマネスク時代の教会では数少ないものとなり、この教会の地域における権威を明確にするものである。」
その前段階の歴史は、以下となってます。
「(古い教会があったのだが、多く手が入っており、当時におけるもっとも重大な)大工事は、11世紀の終わり。当時の修道院長Gaucerandがバジリカ様式での修道院教会の建設のために実施。当時リヨンの司教だったAurelienは、修道院を創建することを決心。Bonnevalからやってきたベネディクト派修道僧を送り込むことを決心。彼らは、サン・マルタン信仰をもってリヨンに、そのレリックとその習慣をもってやってきた。その際、教会に名前が与えられた。その結果、10世紀に、修道院には21人の僧がいた。」
そんな流れの中カンタベリー司教まで滞在しちゃうし、その後はさらに、繁栄したみたい。
「13世紀にインノケンティウス4世が、リヨンで初めての公会議を招集。目的は皇帝フェデリコ2世の破門。その頃、エネの修道院は、169もの教会や修道院を傘下にもつフランスでも最も権威のある場所の一つとなっていたのである。」
色々前後しましたけれど、まぁまぁ繁栄してたようだから、職人さんなどにもお金をかけて頼めたのだろうなと。
祭壇の他にも、床モザイクというのも思いっきり見逃してて、おそらく、今ある教会の中では最も古いとされるサンタ・ブランティン礼拝堂la chapelle Sainte-Blandineの床にあるらしく、それが、先に出てきたパスクワーレ2世の姿とかそういうことらしいです。
今、現場の説明版とか見て、チクショーとか思っているわけです。
おっと、こんなに写真も少ないのになんですが、長々余計な脱線ばかりしてるので、もう一回続きます。
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- 2023/04/15(土) 12:05:24|
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