2019年8月夏休み、フランス中部の旅、その68(アンドル・エ・シェール)
次々訪ねる教会がフレスコで飾られていて、そして、詳細な解説が入手出来て…。ありがたいし楽しいんですが、詳細になると、翻訳しながら読んでまとめるの、結構大変…、涙。でも、手元に解説があったりしたら、やはり読みたくなるのが人情ってもんで、今月は、すごい時間をロマネスクに、というかフランス語翻訳に捧げています。で、月初は快調に飛ばしたんですが、ここへきて更新が停滞しているのは、貯金がなくなったうえに、翻訳量が激増していたからです。
昔、本業の傍ら、いわゆる副業的にイタリア語翻訳をやってたことがあります。当時、本業のお給料が安かったこともあり、その副業収入はかなりありがたかったのですけど、それにしても、本来苦手な作業だから、楽しいことはほとんどなかったのです。そういえば、本業でもちょっとやらされていたな。もちろん本業でやらされるやつは、収入にも結びつかない上に、責任も負わされる感が強くて、さらに苦痛だったな~。
という経験を持ちながらの今、私にとってはイタリア語よりも段違いに面倒なフランス語翻訳なんだけど、すごいよねぇ、好きなことだと、面倒だけど苦痛はないわけで。
どんな分野でも人でも、推しは持つべし、だとしみじみ思います。生活が潤うし、努力とか苦労が喜びに変わるし、素晴らしいことですよね~。
前置き長いですが、というわけで、今回もフレスコ満載解説満載の、苦痛が喜びへ系教会です、笑。

リニエール・ド・トゥレーヌLignieres-de-Touraineのサン・マルタン教会Eglise Saint-Martinです(毎日8時から19時)。
この教会は、外観とか建築は、潔いほど触れることなしなので、入場できないなら行く価値はない、と言ってよいと思います。

入場しても、信者席部分は、見るものなしで、前回訪ねた教会と様相が似ていますよね。ここリニエールは、見所が内陣集中です。
考えたら、基本構造のせいもあるけれど、フランスの教会は往々にして内陣部分のスペースが大きく、装飾もそちらに集中しているケースが大きいのかな?イタリアは、バジリカ様式をもとにしたスタイルが多いからかな、信者席と内陣の区切りが薄いというか、翼廊との交差部みたいなワンクッションないですよね。
まずは、起源などを解説から。
「サン マルタン教会はロマネスク様式の教会です。 この建物の歴史は 11 世紀にまで遡る可能性があります。その世紀のスタイルを思い起こさせるデザインの開口部は、身廊の北壁の外に今も見えます。
最初に証明された建物は 12 世紀に建てられました。大きな身廊、内陣、鐘楼の基部の一部がこの時代から残っています。
16世紀以降。大きな手が入り、18世紀まで、断続的に回収や変更が実施されてきた。」
で、フレスコ画ですが、大きくわけて、二つあります。
一つは、内陣手前、いわゆる勝利のアーチの内側に描かれた、月々の仕事をテーマにした連作。これは、イタリアだったら中部地域に多いなど、モチーフとしては地域の好みであるなしが決まるっていうか、農民の多い地域に多くある、ということになるのかな。
そしてもう一つは、天井のトンネルヴォルトみたいな場所に、左右二分割された横長のフレスコ画となります。
全般的な解説、行っときます。
「フレスコ画と壁画
ロマネスク様式のフレスコ画は 19 世紀に再発見されました。その当時、壁画は、18世紀に上塗りで描かれた絵の下にありました。内陣には紺碧の空と星が、後陣には天使の冠が表現されています。この装飾の劣化により、ロマネスク様式のフレスコ画がのぞくようになり、当時のブリサシエ修道院長が取り除いて修復することを決めたのです。
修道院長は、発見して再解釈した一連の図像に基づいてフレスコ画を描き直します。絵画は後陣を除いて内陣の天井に油絵の具で描かれています。
凹凸のある表面のため、修道院長はキャンバスに絵画をものし、後陣の半円ドームに取り付けました。これらの絵画は、マンドルラの中の荘厳のキリストを表しており、その周囲には 4 人の福音記者のシンボルが描かれています。全体の構成はネオゴシック様式に従い、中世の理想的なビジョンを与えています。」
正直、解説多すぎて、どうまとめたものか、と困っています、笑。
現場でも、例によって、システマティックな撮影をしていませんし全体撮影もないし、難しい…。訥々と、アバウトに行きたいと思います。解説も、おそらく色々前後しちゃいそうで、ややこしいですが、ご寛恕くださいね。
まず、月々の仕事の部分から。

手前のアーチの部分となります。
絵画として、優れているかというとそういうことはないと思われますし、後代の加筆や修正などが明らかなようで、歴史的にはそういう部分の方がちょっと面白いのかな、というところもあり。ということで、退屈でしょうから、ご興味ない方は飛ばしていただくということで、以下、あまり手を入れていないので、分かりにくい翻訳で申し訳ないのですが、解説を載せておきます。

「1162 年の憲章に引用されているリニエールの教区女子修道院の教会は、拡張のために連続して設立された 3 つの部分で構成されています。半円ドームのヴォルトを持つ後陣、トンネル・ヴォルトの内陣、高い中央身廊、鐘楼の基部は 12 世紀後半のものです。低い身廊と鐘楼は 13 世紀のものと思われます。
15 世紀から 16 世紀にかけて、側廊が高くなり、鐘楼の東と西には 2 つの側廊がその下に建てられたスパンで接続されました。2 つの切妻のある西側のファサードも 16 世紀のものです。
リニエール教区教会の内陣を飾るロマネスク絵画の近代初の分析は、画家であり、かつてトゥーレーヌ考古学協会の副会長を務めたガランベール伯爵(1813-1891)によるものである。ロマネスク芸術に関するいくつかの研究の著者である彼は、田舎の教会を装飾するための新しい芸術であるフレスコ画を支持する運動を積極的に行い、そのために”壁画による田舎の教会の装飾について” (1860 年) を出版しました。
彼はこの理想に動かされて同胞団を設立し、1864 年から 1872 年にかけてサン グレゴワール協会の歴史通知に記載されている数多くの勲章を執行しました。
1857 年、ド ガランベール氏は、身廊と内陣を隔てる二重アーチに 3 つの「月の作品」があり、数字の欄に 12 世紀の文字で名前が書かれていることに気づきました。3月(MARCIVS、ブドウ畑の剪定をするフード付きスモックを着たワイン生産者)、4月(APRILIS、両手に花を運ぶ若い女の子)、8月(AVGVSTVS、フレイルで小麦を脱穀する男、裸の胴体、脇が開いたパンツ)。
彼は記録をトゥーレーヌ考古学協会の回想録に 2 枚の版で出版しました。
4 月 (現在のシリーズでは、右側の下から三番目) と 8 月 (7 番目、左側の上から7番目) という点のリズミカルな枠組みを正確に復元しながら、人為的な方法で結びつけています。もう 1 つは、見開きページで 3 月を 3 分の 1 のサイズに縮小して表示します (下から 2 番目のシーン、右側)。
私たちが今日目にしているものは、リニエール出身の修道院長アッベ・ブリザシエ(1831-1923)による急進的な「修復」の結果です。司祭であり芸術家でもある彼は、建物の改修の建築家でもありました(1874~1877年)。彼のフレスコ画の作品は、その後、教区での奉仕活動 (1883 ~ 1907 年) に遡ります。
E・クインカレは、1898年4月に大司教のリニエール訪問について報告し、次のように書いている。「1857年、これらの絵画のうち、修復しなければならないことを恐れて、モルタルで半分覆われた断片が数枚だけ残っていた。ド・ガランベール氏は、その報告の中で、残りを知りたいという正しい欲求を刺激するいくつかのスケッチを提供しました。しかし、それは優れた芸術家の指導と監督の下でのみ実行できる困難な作業でした。しかし、ブリザシエ神父が治療法を手に入れるとすぐに、これが誘惑されたのです。彼が取り組んでいる仕事について説明するために、彼が私に送った手紙からの抜粋で彼自身の言葉を引用することを許可します。
”内陣のこれらの絵は、皆さんが賞賛することができるこれらの素朴で繊細な場面のために本当に注目に値します。そして、エチケットを忠実に尊重しながら、この厚い漆喰の下にそれらを発見し、釉薬で忠実に蘇らせるのに何ヶ月もかかりました。
それらが何を表すかの詳細は次のとおりです
最初に勝利のアーチがあり、そこには 1 年の 10 か月に相当する畑の仕事が 10 個のメダリオンで再現されています。
実際、右から左に向かって、以下がある。

2月奇妙な肘掛け椅子に座り、左足と手を火で乾かしている男性

3月ブドウを刈り取る髭面の男

4月枝を振り回す若い娘

5月ハヤブサ狩りに行く騎馬の人

6月大鎌で干し草を切っている男性

7月鎌で収穫する男性

8月殻竿で小麦を脱穀する男性

9月ブドウを砕く男

10月リンゴを摘む女性
11月イノシシに弓を向けている男性
ロマネスク美術において、装飾される空間の寸法に応じて順序付けられた、さまざまな数の少数の作品を見ることは珍しいことではありません。 したがって、失われたシーンを後悔すべきかどうかは定かではありません。これが事実であれば、おそらく 2 月に芝の束を作る人物が登場し、火のそばのシーンは 1 月に登場することが多かったでしょう。
どのような場合でも構成は一貫していなければなりません。
弧状に配置された月は 2 つのグループに分けられ、1 つは昇順で、もう 1 つは降順です。キリストに面した内陣の軸の天頂、「征服されざる太陽」は、一年で最も日が長い夏至である。ガランベール伯爵は、プリッツ (マイエンヌ) の礼拝堂の「月々の仕事」との類似点を確立しています。別の類似点は、リニエールの 3 月のブドウの剪定作業員と、サン・サヴァンの同じ活動に従事するノアの姿との比較に現れます。」
「1857 年の記録と今日見られる様子を比較すると、2 つの疑問が生じます。
最初のものは速すぎませんでしたか?ブリサシエ修道院長は自分が発掘したものを自分なりに解釈したのではないか?
ここでの答えは肯定的です。碑文は移動され(APRILIS は少女の腰ではなく髪を囲んでいます)、再構成され(AVGVSTVS が人物の右側に完全に復元されています)、さらには修正されています(MARTIVS があまり古典的ではない MARCiVS に置き換わります)。ヘアスタイルと衣服は明らかに変更され、装飾は完了し(より厚い小麦、追加の低木)、道具と「アクセサリー」は位置が変更され、意味を変えるリスクを冒してさえも変更されています(花束またはAPRILISの挿し木用の小枝)。」
とりあえず、機械的に訳して読んだんですが、この部分のみならず、多くの絵が、後代の加筆や修正をされている、ということが、キモかと。
古い時代のフレスコ画が見つかり、それを何とかしたい、という強い気持ちのあまりに手を加えてしまった、みたいな、ことがあったみたいで、そういうのって、現代でもありましたよね。世界各地で、素人が手を加えて変になっちゃった過去の作品、みたいのって。そういうことが、ここでもひっそりと、いや、ひっそりかどうかは分からないけれど、ちょっとあったようです。
割と近代の話だけに、驚く部分もありますけれど、そんなことってきっと普通にあったんだろうなぁ。修復という名の再建、みたいなね。
そういう現実を思うと、傷んでいてもオリジナルのままだったり、たまたま土地や気候やすべてのファクターのおかげでオリジナルのままだったりするものが、千年からの長きにわたって残されていることは、やはり奇跡といってよいのだろうなぁ、としみじみ思いますねぇ。
続きます。退屈でしょうけど、笑。
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テーマ:art・芸術・美術 - ジャンル:学問・文化・芸術
- 2023/09/22(金) 21:18:34|
- サントル・ロマネスク 18-36-37-41-45
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