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イタリア徒然

イタリアに暮らしながら、各地のロマネスクを訪ねた記録

サン・ブノワって、なんでさ。(サン・ブノワ・シュル・ロワール45 その1)

2019年8月夏休み、フランス中部の旅、その91(ロワール)

いよいよ、この地域の真打登場です、笑。とか言って、サン・ブノワがサン・ベネデット(サン・ベネディクト)であることを知ったばかりのわたくしは、苦笑いな気持ちも大いにあるんですけどね。

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サン・ブノワ・シュル・ロワールSaint-Benoit-sur-Loireのフルーリー修道院Abbaye-de-Fleuryです(毎日6時から22時)。

前回のGermignyから小雨が続いていて、確かここに着いた時は、傘をささざるを得ないほどの結構な降りになっていて、夏だというのにブルブル震えるほど寒かった記憶があります。その上、到着したと同時にミサが始まってしまいました…。

余談ですが、ミサが始まった時、中にいたわけですが、すっごくおしゃべりがうるさいおばちゃんがいたんですよ、そういえば。あまりにうるさいので注意しようとしたら、カメラを持っている私に向かって、「ミサなんだから写真撮るな」みたいなことを、そのおばちゃんに先にされちまったです。かなりむっとしつつ、正論ではあったので、きまりが悪くて、とりあえず外に出ましたとさ。あんたのおしゃべりの方が、よほど周りには迷惑だったけどね、と思いながらもね。
毎度驚くけど、そういうどうでもいいことは、結構記憶に残るもんですよねぇ。

外に出たものの、雨が激しくなってきたからナルテックスの柱頭見学も辛く、併設のショップに入り、ミサの時間を尋ねると半時間はかかると。うろうろして20分くらいたった時点で、待ちきれずに本堂をのぞいたら、すでに教会はもぬけの殻でした。ミサ、短かっ!

備忘として書いておくけど、ここは観光地化してます。ショップで本を買ったんですが、20ユーロって安くはない本なのに、袋代50セントしっかり取られて、ちょっとがっかりしたり。
いや、レジ袋有料、いいんですよ。その時に限って、エコバックを持ってなかった自分が悪いし、激しい雨が悪いんだけど、でもなんか接客にも判然とせず、納得しがたい雰囲気っていうか。ま、いつものおフランス全開、ということにすぎないっちゃ過ぎないのですけども。

当時は、宗教的な重要度とか分かってなくて、ただ、美術史的な重要度だけだったから、なんでそれほど観光地化しているのか、まったく分かってなかったんですよねぇ。ベネデットの遺構があれば、そりゃ巡礼地だよねぇ。黙ってても来るし、ショップの売り上げもホクホク状態なんでしょうよね。

とか何とか、どうでもいい前振りが相変わらず長くてすいませんが、こうやって記憶を紐解いていく、みたいな部分もあるし、あくまで備忘だしね、自分ファースト、笑。
それに、そのショップで買った本を読むのに、すごく時間がかかっちゃって、なかなか先に進めないという事情もあります。

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大きな建築です。最も特筆すべきは、トップの写真でも見えますが、西側のファサード前に突き出した、塔と一体化したポーチですよね。すでに、その部分だけで、独立した建物みたいになっていて、本来のロマネスク様式的な美しさとは別物になっています。一段ならともかく、二段構えだもんね、ファサードになっちゃってますね。

上の平面図、色分けがちょっと分かりにくいですが、そのポーチは、左端の黒い部分で、11世紀前半となっています。そして、本堂の大きな部分は12世紀。
ということで、まずは教会の由来や、建築の歴史などを、せっかく読んでみたので、かいつまんでいきます。

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「サント・マリー・ド・フルーリー大聖堂についての最初の言及は、レオデボーデの『遺言』として知られる文書にあります。これらは故人の最終的な処分ではなく、単なる寄付行為です。レオデボーデは 7 世紀の裕福な人物で、サン=テニャン ドルレアンの修道院長であり、その『遺言』には、オルレアンの3 つの大聖堂に寄付したことが明記されています。 うち2 つは Fleury の教会です。」

「サン=テニャン・ドルレアン教会は、オルレアン教会の守護者である聖司教の墓がある教会です。ドムニ・ペトリ大聖堂は、レオデボーデが”聖ペテロに敬意を表してフルーリーに建設することを決めた”修道院の教会です。ドムナエ・マリアエ大聖堂は、現在もフルーリーにある別の大聖堂です。この文書によると、サント・マリー大聖堂は再建されたばかりであるため、私たちが知らない、これより前の時代があったことが注目されますが、洪水の可能性のある谷の真ん中の小さな丘の上に位置していることを考えると、おそらく、それは既存の異教の聖域に取って代わることを目的とした教会であったと思われます。
したがって、サン ピエール大聖堂とサント マリー大聖堂の 2 つの大聖堂は、どちらもフルーリーにあります。ロワール川の洪水の際に沈まなかった塚の南東と北西に 2 つの教会が建てられ、その上に現在の修道院が建てられたとしか考えられないようです。サン・ピエトロ大聖堂の痕跡は今日では残っていませんが、17世紀の古い図面により、現在溝になっている部分に隣接する小さな梅園の敷地に特定できています。サント マリー大聖堂に関しては、現在の大聖堂のトランセプトの位置にあり、1959 年の発掘中に、元の舗装の痕跡が未使用の砂の上に直接発見されました。」

かなり細かい記述も多く、なるべく端折っていますが、これらは7世紀のお話となります。

今回、サン・ブノワ=サン・ベネディクトを認識したこと、今更かよ、と思われそうですけど、私にとっては非常に重要な認識でして、本をきちんと読んでみた甲斐があったというものです。
そういえば、国境を超えることがはばかられたコロナの間、夏休みは南イタリアを攻めており、サン・ベネデットの本拠地の近くを通ったのですが、ロマネスク的に見るべきものはほとんどないということで、立ち寄りはしなかったんですよね。でも、まさかこんなところで、ご本人の一部にお目にかかるってね、びっくり。

「聖ベネディクトの聖遺物の到着-伝説によれば、モンテ・カッシーノの廃墟に遺棄されたいたという聖ベネディクトの遺物を捜索するために、修道士のグループを派遣したのは修道院長マンモルス(632-663)の主導によるものとされています。最も可能性の高い説によれば、移送は 660 年ごろとすることが出来るようです。」

「フルーリーに到着すると、聖ベネディクトの遺物は 2 つの教会のうち、より重要なサン ピエトロ大聖堂に安置されました。『Historia Translationis』によれば、マンモルスは、ある幻に従って彼らを聖マリア大聖堂に移送することを決め、幻に示されたまさにその場所で、できる限り最善を尽くして大聖堂を装飾することに細心の注意を払ったとされています。」

「その際、聖堂は、拡張された様子があります。1958 年から 1959 年の発掘調査により、7 世紀以降、重要人物がサント マリー大聖堂に埋葬されていたことが明らかになりました。現在の聖域の下で 24 個の石棺が発見され、そのうちの 1 個はメロヴィング朝時代のものと考えられます(VI終わりからVIII世紀)。ただし、その正確な場所を特定することはできませんでした。」

「聖遺物の到着から約一世紀後(749-750)、ピピン王の弟カルロマンが修道士となっていたカッシーノの修道士らによる、聖ベネディクトの遺物の返還を求める試みがありました。」ということですが、奇跡が起こって、遺物は聖マリア聖堂に残されたようです。

「9 世紀以降、聖遺物のあるサント マリー大聖堂はサン ピエール大聖堂を上回り、修道院の修道院教会となりました。しかしながら、構造は、サン・ブノワ・シュル・ロワールの田園地帯で今でも見ることができるような、簡素な木骨造りの建物であり、7月11日に起きた火災の記述から判断すると、おそらく茅葺で覆われていると考えられるのです。」

「カロリング時代には、ノルマン人の侵略によって大きな被害を受けました。それは、3回ほど連続し、ノルマン人は修道院を略奪し、火を放ちました。865年の大侵攻の際、修道士たちは遺物を持って逃亡し、田舎をさまよい、その後オルレアンに避難し、数年後まで戻らなかったとか。彼らが帰還すると、唯一残っていたのは寮の建物だけだったようです。しかし、多額の寄付をえるなどして、比較的早くに再建がなされました。」
「9世紀終わりごろに、再びノルマン人に略奪されたものの、その後一年ほどで、聖マリア聖堂は再建され、その工事中、聖ベネディクトの遺体はサンピエール大聖堂に安置され、聖堂が完成次第、聖人の遺体はサント・マリー大聖堂内の彼の霊廟に安置されました。」

「一時オルレアンに保管されていた遺物は、最終的にフルーリーに返還されたのですが、その際、オルレアンの修道士たちは、本心は聖遺物を手放したくなかったはずで、そのため、聖ベネディクト自身の仲裁に頼ることが決定されました。したがって、遺物は結ばれていないボートに乗せられ、どの方向に進むべきかの決定は聖人に委ねられました。船はサン・ブノワ・シュル・ロワールまで遡行し、その途中、聖人が通過するにつれて真冬の果樹が花を咲かせたのです。12月4日、サン・ブノワ・シュル・ロワールに聖遺物が到着した日が、聖ブノワの日として、祝われることとなりました。」

どうやら、田舎の簡易な建造物であったために、10世紀ごろまでには、何度も火災に見舞われていたようです。そして略奪。聖遺物の他に、略奪するだけの資産を持っていたのでしょうかね?修道院として、それなりの豊かさを築いていたんでしょうかね。

現在ある姿のおおもとを作ったのは、1004-1030の修道院長ガウズリンGauzlinさん。1005年に起こった火災で、修道院全体が消失したものの、嵐により鎮火し、聖マリア聖堂は消失を免れました。
そこから、ガウズリンによる再建が精力的に始まったようです。

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「彼は、ニヴェルネから船で運んだ切り石を使って、修道院の西に塔を建てることに決めました...ガリア全土の模範となるような作品でした。この一辺 17 メートルの大きな四角い山塊は、各辺に 3 つの大きな扉があり、教会への入り口としてではなく、修道院自体の輝かしい信号として立つことを意図していました。13 世紀初頭になって初めて、東面を変えるという犠牲を払って、新しい身廊が結合され、その身廊がポーチになりました。ガウズリン自身は、1020 年頃に始まったこの美しい建築を完成させることができませんでした。1026 年にひどい火災によって修道院の囲い全体が焼失し、再建する必要があったからです。

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「彼はイタリアから持ってきた非常に美しい大理石の装飾で修道士の内陣を飾りました。このセクティーレ・オプスの大理石舗装の痕跡は、1957 年の発掘中に 11 世紀の教会の床で発見されました。現在の大聖堂の建設者は、1108 年に奉献された祭壇の周囲に新しい建物を再建し、今日でもその姿を鑑賞することができます。」

その他、内部のアイテムも含めて、装飾的な工事も多く実施して、教会を飾り立てていったようです。でも、火災はやはり度々起こったようで、ガウズリンさんって、焼失、再建の繰り返し人生だった様子です。でも、毎度再建ができるということは、強力なスポンサーなしではありえないし、そこにはベネデットの御威光がやはり大きかったのであろうと想像します。

せっかく読んだから、ちょっと書いておきたかったけれども、ちょっと退屈な記事になっちゃいましたね。
続きます。写真も大量にありますから、お楽しみに。

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テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2023/11/19(日) 12:45:43|
  2. サントル・ロマネスク 18-36-37-41-45
  3. | コメント:2
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コメント

ロマネスク関係のほんでは柱頭写真だけで教会全体についてさほど注意してみたことがなかったせいか、 現地で なんて格好悪い、っておもったことをおぼえています。
ここに あの馬面とか表現していらっしゃるようなっ超有名彫刻の数々があるなんて驚きでした。
でも あの彫刻がこの目でみられてしあわせ。それこそアワアワして 写真を撮りまくりました。
日付からすると 私より二か月前にいらしたようですね。殆ど雨で寒かったのですが、 この教会ではふられませんでしたが。
  1. 2023/11/23(木) 03:10:28 |
  2. URL |
  3. yk #C8Q1CD3g
  4. [ 編集 ]

サン・ブノワ

YKさん
同じような時期の訪問だったのですね。私は真夏でも震えるほどの寒さだったので、秋ではさぞや寒かったことでしょうね。

ここは、ディテールがすごすぎて、なんか許容範囲を超えてしまった気がします。ポーチを堪能したら、おなか一杯、みたいな感じで、本堂の写真はかなりいい加減だったこと、今まとめながらあきれています。

余計な本を読んでしまって、更新が滞っており、コメントの返信も遅れてすみませんでした。
  1. 2023/12/03(日) 12:38:29 |
  2. URL |
  3. Notaromanica #-
  4. [ 編集 ]

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